信彦自戒録6

 とっさに出た行為こそ自分だ

 不意にしてしまった行為に、「あれは本心ではない」とか「ついやってしまったことで自分らしくない行為だった」などと言い訳をすることがよく見られる。

 政治家の失言報道などでよく見聞きする現象だ。この場合は「つい報道されることに不注意に本音を言ってしまった」という失敗を反省しているだけで、その行為について反省をしていないことがほとんどだ。

 それとは別に、上記のようなことをしてしまう自己を本気で反省している場合もあるかもしれない。しかし反省していてもその行為をしないとは限らない。その行為を悔いているのだから、もうしないはずだと思っても、その行為をした時の自分の心理的な癖を冷静に振り返ることから逃げていると、いくら悔いていても繰り返すことになる。その行為を反射的にしてしまう癖が自分にあるのだということを受け入れ、そのうえでどういう行為をとるべきだったのかを具体的にきちんと考え、その実践を繰り返すことにこそ、自分を変える糸口がある。

このブログを始めた理由

 私がこのブログを始めたのは、この世界があまりにも理不尽な状況になりつつあると感じたからです。

 私は、人間は他者を自己と同じ存在であると感じられるからこそ人間なのだと思っています。人間が動物と異なるといえるのは、そのことにこそあるのだと思います。

 言葉を持ち、知能を持ち、自然をコントロールするだけだったら「高等な生物」であるにすぎません。現在の人間世界はこのようなものでしかありません。

 利己的でないと生きにくく、殺人、窃盗などの行為こそ近代国家内では規制されているものの、国家間はいまだに無法状態に近いのではないでしょうか。国連などの国際組織は大国の妥協の産物でしかないため、大国間の利害が一致しないと機能しません。諸国民がナショナリズムに無自覚である現状は目を覆いたくなります。

 スポーツ、芸術、文学、学問という人間が生み出した人間らしい分野もでさえ、ナショナリズム、商業主義、名誉欲、偽善が幅を利かせ、文化、文明は魅力を失ってきています。

 地球環境の危機がせまり、 AIはより資本に寄与するようになり、労働者は働く場を失い貧富の差がさらに広がることは目に見えています。

 地球上の全生物まで巻き込んだ危機が迫っているのに、「これではいけない」という声が常にかき消されてしまう現在の世界には絶望しそうになります。人間は「ソドムとゴモラ」で語られたような懲らしめを受けないと反省をしないのだと思いたくなりますが、その時ではもう遅いのかもしれません。

 わたしはそのようなことになる前に、少しでも早く人間がこのような状況を反省し、本当に人間らしい世界を創る方向に向かうことを願ってこのブログをはじめました。

 まず、最初に述べた、「人間は他者を自己と同じ存在であると感じられるからこそ人間なのだ」ということを確認することから始めたいと思っています。

 多くの人は、映画、小説などで人間の心のつながりに涙したり、感動したりすることでしょう。人間には他者と喜びや悲しみを共感すること、困っている他人を思いやることができます。そのことは日本でも「情けは人のためならず」、「人のふり見て我がふりなおせ」、「明日は我が身」、「他人事ではない」等と昔から格言として言い伝えられていました。このような格言は、他者も同じ人間だという認識があるから生まれた言葉だと思います。

 しかし、現実には上記のような格言やモラルを守っているようなふりをしながら、他者を利用して得をしようとする人が蔓延っていて、そうされまいという警戒をしていないと、だまされたり、損害を被ったりしてしまいます。そのような場合、それが違法行為でない限りはどうにもなりません。さらに騙された人たちは「お人好し」と馬鹿にされるような社会に私たちは生きています。美しい物語に感動しても、ほとんどの人は、あれは「創作だから」として、一時の感傷を味わえればそれで満足し、また現実の生活に戻ってしまいます。差別的な言動をする人を描いたドラマを見て、その登場人物を非難しても、自分が当事者になると登場人物と同じことをする人がほとんどかもしれません。

 ここでモラルの向上を訴えることは、この社会のゆがんだ構造等を隠蔽することになりかねません。そして、モラルを守らない、大切にしない人を非難しても不毛な結果しか期待できません。

 なぜこうなるのでしょう。なぜ、人間として生きるということが、他者と自分を同じように扱うことだということを認識できないのでしょう。これでは人間世界は人間らしい世界にはなりません。

 主な原因は、多くの人が競争社会を受け入れざるを得ず、貧乏くじを引かないように損得にこだわり、人よりいい生活を得ることにばかり心を奪われ、成功者はその立場が失われることを恐れ、負け組になりつつある人たちは成功者に憧れることにより現実から逃れようと、ほとんどの人がかなえられない幻想にしがみついています。

 そして、そのどちらの立場の親たちも、自分の子どもを成功者にするため、当然のように学業の成績競争を強いています。何の疑問もなくそれを受け入れた子供たちは、挫折しなければ、自分たちもそのような大人、親になることは必然です。ですから、これは永続する風潮になることでしょう。

 競争が生活に直結するような社会はこのような社会になってしまうのです。この社会構造が変わっても、上記のようなエゴや猜疑心が消えるわけではありませんが、そのような人間の弱さをむき出しにさせるのが競争社会なのだと思います。ですから、社会構造を分析しながら、現在の私たちの現実生活上の心理や行動を振り返って客観化し、人間という存在を皆さんと共に考えていきたいと思っています。

 疑問に感じる記述の指摘、反論等をお寄せください。気軽に互いに認識を高め合う議論をしましょう。