書評 すごい古典入門・アーレント『人間の条件』 著/戸谷洋志

 アーレントからは「卒業」したつもりだったが、『人間の条件』が研究者にどのように評価をされているのかを知りたくて購入してみたが、結論から言うと、アーレントのマルクス批判についてのこの著者の評価は、百木漠氏の『アーレントのマルクス』と同じであることが分かりがっかりした(百木氏の同書についての感想はこち)。

そもそも、私にはアーレントがこの著書を書いた意図がわからなかった(私の『人間の条件』評は)。その後、解説本などを読んで出した結論は、暴論と言われるかもしれないが、『人間の条件』は、ギリシャ時代が好きなアーレントが、現代世界に幻滅し、ペシミスティックになった原因をマルクスのせいだとするための理論ではないかということだ。おそらく、彼女は生活には全く心配のない著名人なので、いわば古代ギリシャの市民のような立場であるため、その「公的領域」で私的な利害に関わらない議論をする生活への憧れる、という倒錯した意識があったのではないだろうか。その意識に無自覚だったのだろう。ともかく、読者に訴えるものがない著書なのは確かだと思う。

戸谷氏は、『人間の条件』でアーレントが3区分した人間の活動や、古代ギリシャにおいて明確だった公的領域の消滅の経過などについて解説するが、なぜそうしたのかについては考えなかったようだ。哲学者とは、そういうことを考えない人たちなのかと思ってしまう。

戸谷氏は(百木氏も同様だが)、アーレントが蔑視する「労働」の優位を、マルクスが現代社会で決定的にしたと批判していることを紹介し、そのため、「労働」以上に価値のある、「それ以外の営為、活動と仕事など、かすんで消えてしまったかのようです。」と自論を述べながら、マルクスは、「紛れもなく、人間を労働へと駆り立てる資本主義社会に対する最大の批判者です。」と述べ、「アーレントのマルクス解釈は、かなり一面的であることがわかってい」る、彼女の労働概念とマルクスのそれは異なり、彼女の言う活動や仕事を含んでいる、「アーレントはマルクスを誤読している」と批判するなど、ちぐはぐな論理に陥っている。

現代の人々が消費や娯楽のために奴隷のように労働している情況に愁いを抱くのはもっともだ。しかし、それをマルクスのせいにするのはお門違いだ。人間が資本に支配されているからこのような情況になったのであり、マルクスはその資本と戦うべきだとしていたのではないか。そもそも、哲学的な概念規定が社会を動かすなどということはあり得ない。

そして、「しかしその誤読は、少なくとも現代社会の一つの特徴を浮かびあがらせるものであるという点では、役に立つものであります。研究者のなかには、これは生産的な誤読であるとして、積極的に評価する人(森中注・百木氏のことであろう)もいます。僕も基本的にはそう思います。」と、苦し紛れのわからない結論を述べる。このような結論は、アーレントに伝わらないからといって、彼女にとっては屈辱的なものであり、けっして述べてはならないことだ。「誤読」しているとするのなら、なぜ、そのような誤読がされたのか、について徹底的に考察し、批判するべきではないだろうか。

アーレントにしても、マルクスにしても偶像化していては理解も批判もできない。対等な人間として、その言説を正面から受け取り、疑問があれば、それを自分の能力が足りないせいなどと逃げずにこだわり続けるべきだと思う。

書評 アーレントのマルクス: 労働と全体主義 著/百木 漠

 ハンナ・アーレントの『革命論』や『人間の条件』におけるマルクス批判の論拠を知りたいと思っていたらこのような書籍があることを知り読みたくなった。しかし高価なので即購入をせず、図書館から借りて読んだ。結果的にはこれが正解だった。  百木は、「アーレントのマルクス研究は当初「マルクス主義の全体主義的要素」を明らかにするためにはじめられた。」とこの著書で解説している。これでは、アーレントのマルクス研究は予断をもって始まったことになると思いながら読み始めた。

まず、この著者を含め、アーレントがマルクスをかなり誤読していたということを指摘している人が多かったことを知ることができたのは収穫だったと言っておこう。しかし、著者が、「(ときには意図的ではないかと思われるほどの)「あからさまな誤読」と言いながら、表紙に記されている「アーレントはなぜこれほどまでにマルクスを「誤読」したのか?」とした、肝心の、なぜ誤読したのか、その結果の彼女の言説の誤りなどについての追及はなく、「彼女のマルクス批判が意味を持つのは、マルクスへの批判としてではなく、近代社会=労働中心社会への批判としてであり、その先に予感される全体主義への批判としてではないか」などとしてしまうことは、思考を放棄しているのではないだろうか。

 『人間の条件』を読んでいて、私が感じたことは、全体主義がさも哲学的な誤りから生まれたように記述されていることだった。私は、いわゆる全体主義は資本主義的な経済発展において、英仏に後れを取り、その専横ぶりに国民的プライドまで失いそうになった独伊の、精神的な立ち直りを鼓舞する運動だと思っているので、この著書の論理には違和感を禁じえなかった(日本は少し事情が異なるが)。

さらに、アーレントがマルクスが高めた労働についての評価が全体主義に利用されたと主張する論理が誤読に基づくものだとすれば、『人間の条件』の論理そのものが破産している、ということにならざるを得ないのではないだろうか。  

後半に至り、百木は、「アーレントのマルクスに対する評価は両義的である。」としてマルクスを偉大な思想家であると評価する一方で、「マルクスは、「労働」こそが人間にとって本質的な近代社会の状況を肯定し、「労働を賛美」する思想を創り上げた点では、根本的な誤りを犯していた思想家である。」としたアーレントの言説を、前半で「マルクスは近代資本主義のもとにおける労働のあり方に対して一貫して批判的であった。それゆえにマルクスを近代的労働の賛美者として批判しようとするアーレントの姿勢には、基本的な前提で大きな誤りがあったと言わねばならない。」と述べたことを忘れたかのように、批判なしに取り上げている。こんな支離滅裂なことを長々と書いた著書が発行されていることには呆れてしまう。 結局、この著書は私のアーレント評価の参考にはならなかった。

しかし、著者が述べた、アーレントが意図的ではないかと思われるほどのマルクスの誤読について、最近こんな仮説が頭に浮かんでいる。それは「近親憎悪」のような心理がアーレントに働いているのではないか、ということだ。どういうことかと言うと、マルクスとアーレントはともにユダヤ人であり、マルクスは『ユダヤ人問題に寄せて』という著書において徹底的にユダヤ教に取りつかれたユダヤ人を批判している。それは彼がユダヤ人ゆえにこそ指摘できるユダヤ人の習性の批判だと思う。

一方のアーレントもユダヤ人という立場に客観的だと言えるだろう。しかし、マルクスほどには至っていない。『イェルサレムのアイヒマン』において、ユダヤ人的な立場ではない言説を述べて、彼らから猛批判を浴びたことは評価できるが、結局アイヒマン裁判を肯定したことにそれは現れている。要するにアーレントはマルクスほどユダヤ人性から自由ではないのだと思う。その桎梏に対する無意識のコンプレックスがマルクスに対する「近親憎悪」を生んだのではないだろうか。もしかすると、彼女はマルクスに自虐性を感じたのかもしれない。

書評 『人間の条件』 著/ハンナ・アレント 訳/牧野雅彦

 訳者解題には、『人間の条件』がアレントの主著とされているとして、『全体主義の起源』後、彼女が展開することになる主要な論点のほぼすべてが掲示されていて、古代ギリシャに始まる西洋哲学の諸潮流の展開の中にみずからの思想を位置づけた、哲学上の主著というべき書物だと説明されている。 私は彼女の『革命論』を読んで、彼女のマルクス批判をもっと知りたくなり、この本に取り組んだ。しかし、ギリシャ哲学の素養がないため、理解できない文章が多く、放棄したくなったが何とかひととおり読み通すことができた。

 第1章は、「私は、「活動的生活」という言葉で、労働、仕事、行為という三つの基本的活動を示すことにしたい。これらの活動が基本的なのは。地球上の生命が人間に与えた基礎的な諸条件にそれぞれ対応しているからである。」という文章から始まる。 私は、いきなり戸惑わされてしまった。それらについての説明がされていっても、その理由が見えてこないので引き込まれることがないまま読んでいったわけだが、「活動的生活」とは、ギリシャの哲人たちが重んじていた「観照」に対応する言葉であるという説明を読んでから、興味が湧いてきた。

以下、ギリシャ時代に明確だった公的領域と私的領域が、社会という領域の出現により霞んでしまい、私的領域だった家族のような政治的共同体が国民国家となったという第Ⅱ章のあと、「活動的生活」のなかの、「労働」、「仕事」、「行為」について述べられている。そして最後の第Ⅳ章で近代の「活動的生活」についての彼女の考えがまとめられる。彼女によれば、ガリレオの望遠鏡の発明や宇宙から地球の自然を見る新しい科学の発展等により「観照的生活」と「活動的生活」の序列が逆転したことが、近代の最も重大な精神的結果だとのこと。正直に言って、私には彼女がこのような見解を述べ、主にマルクスを批判している意図が分からない。しかし、「言論と行為によって、人間の世界に参入する第二の誕生で、われわれは、自分の顔つきや体つきをした生身の肉体をもってこの世に生まれたというありがままの事実を確認し、わが身に引き受ける」、「行為の不可逆性に対する救済策としての許し」、「行為の予測不可能性の困難を軽減する約束」、「尊敬は資質や業績からは独立しているが、近代になって尊敬は賞賛や評価から生まれると信じられるようになった」(以上一部要約)等の言説には深い共感を覚える。こうしたギャップは私の理解不足が主な原因ということは認めざるを得ない。 それにしても、アレントは読者に何を伝えたいのだろうか。『革命論』で感じた人間世界への悲観的な考え方を、より深く感じてしまうのは私だけだろうか。 この疑問への答えを『精読 アレント『人間の条件』』に求めてみたい。

書評 『革命論』 著/ハンナ・アーレント 訳/森一郎

 この本は高価(7150円)なため、いきなり購入する気になれず図書館から借りて読みだしたが、書き抜く文章が膨大(最終的にレポート用紙14枚になった)になるので結局購入した。英語版は1963年、ドイツ語版は1965年に書かれている。私は昨年発行された後者の日本語訳を読んだ訳だが、米ロ冷戦時代のこの著作が、決して過去の時代を語っているのに過ぎないどころか、現代の民主主義の限界を指摘している彼女の鋭さに驚嘆している。内容は主に独立戦争を含むアメリカ革命とフランス革命についての分析で具体的には今後にしたい。

アーレントは日本では一般的にアメリカ独立戦争としてしかとらえられていないアメリカ独立運動全体を「アメリカ革命」としている。最初は違和感があったが、読み進むうちに、イギリスという立憲君主国に支配された植民地を独立した共和制の国家としたのだから、なるほど革命なのだと思えるようになった。 また、アーレントが前半でアメリカ革命を非常に高く評価している事にも違和感があったが、独立後のアメリカ革命の停滞や、アメリカ特有の風潮の原因を指摘し、今日のアメリカの惨憺たる情況も予言しているような記述に触れ納得した。

 アーレントは、革命はそれに先行する支配体制が無法的であればあるほど、絶対主義的にふるまうことになり、絶対君主制は革命による専制独裁に引き継がれるといういわば運命を負っており、それがフランス革命の帰着で、アメリカ革命との大きな違いだという。 アメリカの場合、支配していたイギリスは絶対君主制ではなく、「制限」君主制であり、独立宣言後に問題となったのは権力をいかにして制限しうるかではなく、いかにして確立するかであったという。そして、フランスにあった貧窮という社会問題がアメリカになかった違いも挙げている。

そのような背景と、アメリカ革命の人びとが相互信頼という考え方を組織的行為の原理として革命を進めたことが「自由の創設」成功の要因として挙げられている。 これに対し、フランス革命は同じように「自由の確立」を目指したが、貧困等の社会問題があったため、目標から外れざるを得ず、貧困にあえぐ人民への「同情」により「多数者の幸福}を目指したためにそれも失敗したという。 そして、「同情」は、暴力的行動へと人民を赴かせるため、政治的には「永続的な制度」を打ち立てることができないというメルヴィルの説を紹介している。

アーレントは、フランス革命はとルソーの、アメリカ革命はモンテスキューの思想に影響されていると言う。 前者については、ルソーが「一般意思」という概念で、国家をたった一つの身体としてイメージしたことが指導者には好都合で、ロベスピエールがたえず「世論」を引き合いに出すときに考えていたことであると言う。そして、この「一般意思」は外の敵の存在を暗黙裡に前提し、それに対抗して国民が一致団結するため、ナショナリズムを産む思想となったとも言っている。

アーレントが、「政治的手段によって人間を貧困から解放しようとする試み以上に、古臭く余計なことはないように思われる。」、「革命が残虐に鎮圧された国のほうが、見た目には革命が勝利した国(中略)、よりも市民の権利自体は大事にされているのが実情」などと述べていることも、先の理論に増して重い歴史の現実なのだろう。 さて、アメリカ革命にはそのような問題はなかったが、彼女はアメリカ独立宣言の幸福の追求に公共性の理念が欠けていたために国民が私利私欲を好き放題に追求する権利があると確信する原因になったと指摘する。

そして、「理論的明晰さが欠如していたことが主たる原因の一つとなって、アメリカ革命は国際政治上、不毛にとどまった」、「そしてついに二十世紀には、アメリカほど、どんなイカサマ的思想にひっかかりやすい国はないことが明らかになった。」と手厳しい。 結局、アーレントはこれまでの革命による民主制の実現には失望しているようだ。それでは我々に明るい未来はないのだろうか。 最終盤に、代表制の問題点に触れ、ジェファソンが「初等国家群」と呼んだ小共同体、パリのコミューンのセクションや人民協会などに期待を述べている。

それは、このような革命が進行する中で存在した共同体に「われわれが思っているところの新しい革命的国家形態の微弱な萌芽以上のもの」が実現したかもしれないという期待だ。ただ、これを結論として述べたわけではない。アーレントは革命や民主主義に絶望しながら一生を終えたのだろうか。

日米同盟は日本側の片思い?

  1月26日のテレビ朝日の報道ステーションで、共産党の田村委員長に、問題となっている昨年11月の「存立危機事態」発言の撤回を求められた際、(台湾で)「大変なことが起きた時」、つまりいわゆる「台湾有事」をぼかしながら、「私たちは台湾にいらっしゃる日本人やアメリカ人を救いに行かなきゃならないわけです。そこで共同行動をとる場合もあるわけです。そこで共同行動を取っているアメリカ軍が攻撃を受けた時に、日本が何もせず逃げ帰ると日米同盟が潰れますから、あくまで法律の範囲で、現在の法律の範囲内で、そこで起きている事象を総合的に判断しながら対応するということです。」と答えた。

台湾に中国が軍事侵攻した場合、日本政府が日本人救出をしようとすることは当然だ。余裕があればその際、アメリカ人に限らず、他の国民も救出するべきだろう。共同行動をとることも必要かもしれない。しかし、高市首相はここで、この救出の際、自衛隊がその任務に当たることを当然のように言っていることになる。それは、「共同行動をとっている」のは「アメリカ軍」だからだ。

救出をするのは自衛隊でなくてもよく、過去にそのような事態になったときには民間航空機を派遣することが通例であった。だから高市首相は国民救出を理由にしながら、「逃げ」ないで、「対応する」ということは、軍事介入を示唆していることになる。

こんな発言が伝われば中国政府が怒るのは当然で、案の定、これに対し中国外務省は翌日、当然、非難声明を出した。日中関係の修復はさらに遠くなった。

なぜ、高市首相はこんな発言をするのだろう。まさか、中国と事を構えることを望んでいるわけではないだろう。米国に次ぐような軍事力を保持し、核兵器を保持する中国と戦えば日本は壊滅的な敗北を免れない。安全保障条約を結んでいる米国と同盟関係があり、そんな恐れはないと思っているから、虎の威を借りる狐よろしく、勇ましそうなポーズをとるのだろう。トランプ大統領にこの件でたしなめられたことは漫画的だった。80年前にGHQのマッカーサーが「日本人は12歳以下」と言ったが、米国人の大半が幼稚園以下であることが明らかになった現在、トランプと高市の言動は幼稚園の学芸会でしかない。強がることにとらわれている高市首相の振る舞いの見苦しさは、ピエロを演じていると思わなければ耐えられない。

そんな茶番劇の相手で、自民党政府が同盟関係にあると思っている米国は、打算的な国であることを直視することが必要だ。これはトランプ大統領でなくても同じだろう。中国が覇権を争うライバルだとして敵視しながら、中国は米国がこれまで軍事侵攻等をしたような小国ではないので、米国は軍事衝突を避けたいはずである。たとえ、中国がこれまで援助してきた台湾を併合しようとしても、黙認するほうが損失が少ないと判断するだろう。特にトランプ大統領は南北アメリカ大陸などの西半球の支配を優先し、ロシアや中国以外の地域は、「同盟」国に米国に利があるように支配させたいという意図が鮮明にしている。背景には米国は第2次大戦後、着実に衰退しつつあり、世界中を統制できなくなってきていることがある。「MAGA」はその危機感から生じたスローガンだ。

この流れで、トランプ大統領は、日米安全保障条約を米国の役割が重い不公平な条約だと、盛んに日本政府を責めている。その不平を理由に、たとえ中国と日本が軍事衝突しても、台湾と同様に黙認する可能性のほうが現実的だろう。米国は、信頼関係などを守ろうとする国ではないということをこの際はっきり認識するべきだ。

「日米同盟」というものは、ほとんど日本人の片思いで信じられている幻想にすぎないのでは?ということを考えるべきなのだ。そして、世界で一番危険な国であることが明らかになった米国の軍事基地が日本中に置かれていることが招くかもしれない「存立危機事態」についても考えるべきだ。そんな危機を顧みない政党に政権を持たせていることの愚かさから、もう脱するべき時なのだ。

書評 コンビニ人間 著 村田沙耶香

 読んでみたいと思いながら、芥川賞受賞から約10年後になってしまった。とても奇妙な作品というのが第一印象だ。

 最初は、コンビニで働く主人公の日常の仕事場の描写で始まる。そこから、主人公が「コンビニ店員として生まれる前」の描写に移る。ここで描かれている主人公の少女時代のエピソードは奇妙奇天烈で笑いをこらえきれなくなる。しかし、大人がおかしいと受けとった、公園で死んでいた小鳥をなぜ食べないかのという少女の疑問は合理性があるかもしれないが、そのごのエピソードについては、そうも言ってはいられない。これは実際起こりうることだろうかと考えてしまう。起きているとすれば情緒障害のような発達障害の問題になるが、この小説は、そのようには展開しない。この子はそういった行為を正そうとする大人の論理を理解できないが、父母を悲しませないために、「家の外では極力口を利かないことにして、周囲の真似をするか、誰かの指示に従うだけで、自分で判断して行動しなくなる。

 そんな少女が大学生になってから、なんとなく始めたコンビニのアルバイトは、いわば一挙手一投足に至るまでマニュアル化されているため、すぐに適合でき、役に立つ店員として、大学を卒業してもそのまま36歳に至るまで続いているというのは、この子(人)ならでは、という感想になりがちだが、考えてみると現在の社会の超現実的な描写にも思えてくる。

 周囲の空気を読み、普通を演じながら、奴隷や家畜のようになってしまっている人間の危機状態を告発しているのかもしれないというのは深読みのし過ぎだろうか。

書評 江藤淳と加藤典洋 著/與那覇 潤

  久しぶりに読み応えのある著書に巡り会った。この本については、「エアレボリューション」のユーチューブ番組(https://www.youtube.com/watch?v=einza3fpe9A)で知り、最近評論界では話題にならない表題の2人の評論家を取り上げた理由に興味がわいた。

 表題はこうだが、実際には前半には、戦後の日本を反映した太宰治、椎名鱗造、柴田翔、庄司薫、村上龍、大佛次郎、村上春樹など作品が文芸評論的に紹介され、後半に三島由紀夫をからめた江藤淳と加藤典洋の論争やそれぞれの著作について論じられている。

  なんといっても、この本のポイントはこの後半だろう。後半は、江藤の『閉ざされた言語空間』をめぐる論争を中心に、主としてアメリカの占領政策の影響、この過程で制定された憲法9条の受け止め方、改憲論について論じられる。

  中でも、江藤が発見した、GHQ作成の「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」という計画が、「(日本)国民は軍国主義者にすべての罪を負わせることを受け入れ、・・・国民の「だまされていた」、「責任はない」という実感にお墨付きを与え」たため、戦後当初は、「「憎しみ」を感じるべき相手は、日本政府や日本軍」ではなく、米国だと思っていた日本人の「順当」な考えが懐柔されてしまったという江藤の言説をめぐっての評価等が主に紹介されている。この評価の微妙なニュアンスの相違はわかりにくい。

WGIPなどという計画をたてた、実質は米国単独の占領機関であるGHQの巧妙な占領政策の許すべからざる一面が発見したことは江藤の功績であることは確かだろう。しかし、WGIPの発見を含む『閉ざされた言語空間』が発表されなくても、欺瞞的で巧妙なGHQの占領政策は周知のことで、ことさらにこれを言挙げした江藤の言説はネット右翼や「ビジネス保守」の「WGIP史観」という主張を生んでしまったとのこと。

一方で、加藤については、『敗戦後論』の「戦後後論」において、「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の哀悼、死者への謝罪に至る道は可能か」と表現したことが、加害者である日本軍兵士の追悼を、アジアの犠牲者への謝罪より優先するものとして非難の対象になった。」ことを取り上げて、「あたかも戦前の日本人と自分たちが切れているかのような態度に立って、まるで第三者がするのと同様な視点で過去の批判をしてはいけない。」と批判し、加藤を擁護している。

加藤典洋は2019年に逝去しているが、この本によると、與那覇は加藤の『太宰と井伏』の文庫版が同年に刊行される際、加藤とは面識がなかったが、この本の解説を執筆したとのこと。そのことが縁で彼が書いた加藤への追悼文が最後に掲載されている。

 そこには、加藤の『敗戦後論』の「敗戦後論」が、「「押しつけ憲法」を攻撃する改憲論の亜種」だと誤解されが、加藤は、「戦争を反省し、平和を願う言葉。それを私たちは、ほんらい自分の手でつくるべきだった。しかし、GHQ案に基づく9条の出来栄えがあまりによかったので、どの日本人作家の小説よりも強力な「戦後の再出発」を象徴する文章になったしまった。」と考えていたのだという弁護が述べられている。そして、加藤は、「「あれは他者の言葉だ」という保守派の指弾にも、「内容さえよければいい」という護憲派の居直りにも同ぜず、「他者の言葉を自己のものにする」作法にこだわりつづけた」のだと続けている。

矮小化された社会的影響、無とされた落ち度~安倍元首相銃撃事件の地裁判決

   この事件から主に自民党の政治家の旧統一教会(世界平和統一家庭連合、以下教団)との癒着関係が明らかになり、献金被害者への損害賠償が始まり、同教団の解散命令が東京地裁で決定されるなど、大きな社会問題となったにもかかわらず、2026年1月21日、奈良地裁は、単なる殺人事件のように矮小化した判決理由で、山上被告に無期懲役判決を言い渡した。

結果的にかもしれないが、安倍氏の殺害は、教団幹部を殺害するより、この問題を社会に問うという意味で効果は比較しようもなく大きかった。判決理由のように、「殺害を正当化できるような落ち度が安倍氏には見当たらな」ければ、こんな現象は起きなかったことだろう。安倍氏には落ち度どころか、責任があったのではないだろうか。

安倍氏が教団の友好団体にビデオメッセージを寄せたことを、山上被告が、安倍氏を教団と政治の関係の中心ととらえたと述べているのに、これを自己都合で教団幹部の代わりに安倍氏を襲撃したとし、安倍氏は不運な罪のない被害者であるかのようにしてしまった。また、自民党と教団の相互関係がこの事件後次々に明らかになったことをなかったことのようにしてしまった。

私は、殺人が許されない行為であることを否定しているわけではない。しかし、殺人者を一律に非難することはできない。その殺人にどのような背景があったかについて、他人事とせず、そのような状況、境遇に自分が置かれたらどのようにするだろうと、すべての人が考えるべきだ。判決にかかわる人たちはこのことを改めて認識するべきなのに、裁判官や裁判員の他者認識の甘さ、モラルの希薄さにはあきれる。全国霊感商法対策弁護士連絡会の弁護士が出廷し教団による献金被害の実態が述べられたが、裁判員たちからはほとんど質問がなかったようだ。

少年時代からのつらい経験が成人となっても影響している被告に対し、「長年ため込んだ負の感情を内心で健全に解消したり、合法的な手段での解決を模索したりせず殺人を選んで実行した」、「既に40代を迎えた自立した社会人」なのだから、人を殺してはならないという社会規範を身に付けていて当然、というような見解はあまりにも冷酷で安易なものだ。

被告に厳しい見解を持つことは簡単だ。このような判決を言い渡す裁判官は無難な法曹として評価され、上級庁への出世コースから外れることはないだろう。自分の良心を殺して行動することが成功の常識となっているこの社会、人間が家畜化されていると評されるこの世界では常に起こる現象だ。

一方で、教団は損害賠償請求に応じなければならなくなっているようだ。金銭的な解決だけでは済まない問題もあるが、被害者たちは絶望的な状況から救われた思いを抱いていることだろう。被告自身は意識していなくても、被害者たちを代表して被害者救済への道、教団の活動を止める道を開いたことは確かなのだ。被告は深く反省しているようなので控訴しないかもしれない。控訴せず、この不当な判決が確定された場合は、被害者たちを筆頭に、減刑嘆願などを広範に繰り広げよう。

書評 「進歩」を疑う 著/スラヴォイ・ジジェク 訳/早川健治

 スラヴォイ・ジジェクについては、名前を記憶していた程度の知識しかなく、それは私が哲学そのものにはあまり興味がないせいだが,この著書の表題に興味を惹かれて購読した。従って、ここに記した私の見解は、あくまでこの著書についてである。読んでみて正直言ってがっかりした。そもそも、この著書は著者が書き下ろそうとしたものではなさそうだ。12章に亘って述べられていることは相互に関連がない表面的な評論でしかなく、いわば「随筆」のような印象を受けるのは私だけだろうか。個々の章の中にも、私たちが進歩という神話を相対化するために必要とされる問題点などを、この著書は語っていないのではないだろうか。そもそも新書版で表題のような重いテーマを十全に著述することは不可能であり、表題につられて購読することが間違いだったのかもしれない。「入門書」としても適切な構成とは思えない。おそらく、出版社がなんでもいいからジジェクに書いてもらえば売れるだろうというような発想で企画したのではないだろうか。

 物足りなさは、斎藤幸平の主張を論評している第2章に特に現れている。ジジェクは、マルクスが、「資本主義による自然界の無慈悲な搾取が人類の存続すら脅かしているという点へ注目するようになった」と、斎藤が解釈していることを評価するが、「最近の動向をみると、世界資本主義は基本的な構造のレベルで変わってきているため、そもそも引き続きこれを資本主義と呼ぶべきかどうかも疑わしい。斎藤はこれを無視しているように思える。」と批判し、ギリシャの政治家、ヤニス・パルファキスが、資本主義は死に、「テクノ封建制」となったとしていることを挙げながら、「斎藤の批評が前提としている資本主義の概念は引き続き有効なのだろうか。」と、疑念を述べている。

 これに続けて、ジジェクは、資本主義は「人間の本性」に合致していて、機敏で変幻自在であり、「人間の欲望の基本的な逆説を取り入れて機能する、初めてにして唯一の社会秩序」なので、斎藤の「脱成長」モデルの欲望を抑えることで成立する論理では「ダメだ」と言い切る。しかし、そのような資本主義の特性は周知のことではないだろうか。それを根拠に、「斎藤が思い描くような未来社会は望ましいものだろうか。つまり、それは過半数の人びとが満足するかどうかという、単純な意味において望ましいものだろうか。」と述べ、斎藤の言説が近いという「仏教経済学」の批判に移り、仏教経済学の目標とする「中庸」を実践に移すと、必ずではないがとしながら、「しばしばソフトファシズムに陥ってしまう。」という。

 この章のまとめに、ジジェクは、「現代の諸問題の本当の原因は、結局のところ何なのか。」として述べていることに注目すると、「生活世界への没入を支える座標系を解除するという、困難な作業がここにある。世界の背景をなす座標系への基本的な信頼、すなわち大文字の「知恵」を頼ろうとしても、それはもはや生命の危機を引き起こすものでしかない。」、「ここでは、資本の自律的な回路と伝統的な知恵の両方から切り離された化学が求められている。科学が自立するときがようやく来たのだ。」という、あいまいな結論しか示されていない。「大文字の「知恵」」という言葉の意味が不明だが、斎藤の批判をするのなら、それで終わらせるのは無責任ではないだろうか。

 物足りなさは他の章にも続く。「加速主義は・・・プロセスにかんする認識が甘い」、「リベラルな多文化主義(新右派とムスリム原理主義の共通の標的)」の偽善は、「超自我」が働いているからだなどという言説はもっとていねいな説明が必要だと思う。

それから、「本来の欧州中心主義者は、2022年にイランを震撼させた、マフサ・アミニの死を受けて勃発した女性の抗議運動の波に合流すべきであり、「本来の「欧州中心主義者」は、こうした運動こそを欧州そのものより欧州的なものとして完全に支持すべき」という主張がされているが、「本来の欧州中心主義者」とはどのような人たちなのだろう。ジジェク自身が現在批判されている欧州中心主義から脱していないことになるのではないだろうか。

読者に対して呼びかけもしている。「地球規模の惨事の到来は必然だ。・・・惨事の到来を阻止するための行動を起こす必然もある。・・・行動を起こさせなくさせるような怠慢は許されないからだ。」、「「(破局まで)まだ時間はある。・・・」などと言うのではなく、破局を不可避のものとして受け入れ、星に刻まれた運命を解呪するための行動を起こすべきだ。」と述べているが、説得力を感じない。

冒頭に出版社の批判をしたが、いかにも資本主義的な企画に乗って、このような中途半端な著作をしてしまったジジェクも批判されるべきではないだろうか。訳者の早川も斎藤幸平に関する言及や、第11章に述べられている、役所広司が主演した『PERFECT DAYS』論に、「疑問なしとは言えない。」と異例な論評をしている。

高市首相の「台湾有事」の際の日本の「存立危機」発言問題・論考         この問題を国際情勢について国民全体で考える糸口にしよう!

  高市首相の、「台湾有事」が日本の「存立危機」事態になりうるという発言に対し、中国の報復措置が続々と発表されているが、なぜ中国がこのように反省を迫るのかを、自民党政府は理解できていないのではないだろうか。その一因は、短絡的に結論した中途半端な国会での質疑にある。それには、立憲民主党の岡田議員の責任もある。

2026年1月4日の信濃毎日新聞に、その質疑の際、暗黙のうちに想定されていたと思われる「台湾有事」の際のシミュレーションが掲載されたので、その内容を見ながら具体的に考えてみよう。

ポイントは、中国による台湾の「海上封鎖を国際法違反とみなした米軍は横須賀基地(神奈川県横須賀市)を拠点とする第7艦隊を周辺海域に派遣。海上封鎖を解く活動をはじめたところ中国艦隊と軍事衝突が発生した。米中の外交当局間では収束せず、交戦状態に陥った。」というシミュレーションがまず前提になっていることだ。この記事のタイトルが、「「存立危機」米軍事介入が鍵」とされているように、日本が単独で軍事介入するつもりがないのなら、その想定を前提にしなければ、日本の「存立危機」、つまり中国との戦争にはならないことになるので順当な言説だろう。

岡田氏は質疑の中で、まずこの点を明確に確認するべきだった。存立危機事態になりうるのは、日本の単独軍事介入が前提かどうかと。首相はこれには、さすがにNOと答えるだろう。そうすると、米軍の軍事介入を前提にしているのかという問いを岡田氏は続ければいい。これに高市氏はYESと言えるだろうか。おそらくそうは答えられないだろうし、最近の米国の「世界の警察ではない」と言明する態度を見ていると、口先介入はしてもこの問題に軍事介入するとは思えないというのが一般的な認識だと思うからだ。

まず、第2次世界大戦後の米国の台湾政策がご都合主義的でしかないことを認識してほしい。中華民国政府が台湾に避難した際、当時のトルーマン大統領は軍事援助をしないとしたが、翌年、朝鮮戦争が勃発すると共産主義の拡大を防止するため軍事援助を再開し、相互防衛条約を結んだ。しかし、ソ連との対抗のため1979年には中国(中華人民共和国)と国交を回復する方針に転換をしたため、台湾との関係は弱体化した。それでも、米国は*「台湾関係法」を制定し、武器売却をしながらあいまいな関係を続けて、現在に至っている。この経過を追えば、米国は両地域と現在の関係を続けたいのだが、台湾への中国の軍事攻撃があった場合、台湾側について軍事介入することにより失うメリットのほうが大きいという判断をするだろう。その際、あわよくば、日本や韓国が代役を務めてくれることを期待しているため、しきりに両国に危機を煽り、軍備を増強するように圧力をかけている。

トランプにたしなめられるという漫画

高市首相はその米国(トランプ大統領)のその欺瞞的なスタンスを考慮せず、本音を忖度して、うっかりあの発言をしてしまったというのがこの件の有様だ。中国の怒りをかった態度をトランプ大統領にたしなめられるという出来事は、日本人にとって屈辱的な漫画でしかない。こんな人が首相になってしまう日本の民度が嘆かわしい(もっとも、米国をはじめとする世界各国も同様な状況だが)。高市内閣の支持率が依然高いということは、このような体たらくを理解できないのだろうか。この問題は単なる国会質疑の失言では済まなくなっている。 

それはともかく発言問題に戻ると、「存立危機事態」は起こりえないことになる。国会での質疑は表面上、無事終了してしまう。しかし、それでは自民党政府が「台湾有事の際の沖縄先島諸島民の避難計画、シェルター整備、自衛隊基地の配備などについて、計画を進めている理由がなくなってしまうので、立憲民主党はそこでその矛盾を追求すれば、現在の危機的な国際情勢を国民全体で考える糸口が開ける。日本は米国からどのような働きかけがあっても台湾有事に介入しなければ、上記の計画等を止めることができる。

もし米国が台湾有事に参戦するということがあったとしても、日本に米軍基地がなく、日米安全保障条約があっても日本に参戦義務がなければ米中間の問題だ。この際これらも問題を根底的に検討するべきだろう。現在、米国は世界中で最も横暴で危険な国家である。その米国との「安全保障条約」を結び、相互性を強くすることは、「安全」よりも「危機」を選んでいることになるのではないだろうか。

*台湾関係法(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E9%96%A2%E4%BF%82%E6%B3%95

書評 福音派 著・加藤善之

 ノーム・チョムスキーが『誰が世界を支配しているのか?』(https://morinaka2013.blogspot.com/2025/10/blog-post_18.html)という著書で、「米国民の地球温暖化に対する意識が高まらない理由は、「イエス・キリストの再臨を信じる人が多いからだ。米国人の約四〇パーセントが、イエスは二〇五〇年までに地上に戻ってくると信じている。だから今後数十年間に深刻な気候災害の脅威があっても、それは問題とは思わないのだ。」と述べているが、にわかには信じられないでいた。

しかし、福音派についてその成り立ちから言説まで詳細に解説されたこの本を読んで、それが本当に米国において起きている危機的現象なのだということを認識した。

この著書によると、終末論を信じている40%は米国人全体の割合だが、米国人の25%近くを占める「福音派」では、その60%を超えているという。

この団体は、進化論などを否定する原理主義者たちによって起こり、「ディスぺンセーション主義」という、旧約聖書の予言などは、イエスの到来などにより成就はされてはおらず、これからキリスト教徒とユダヤ民族に訪れるとする特殊な終末論を教義としている、現在は米国のキリスト教の諸宗派の壁を越えた宗教集団で、1970年代から強力な政治勢力として台頭したとのこと。          

このような教義が、イスラエル建国につながるバルフォア宣言に影響していたということだから、いやでも注目せざるを得ない。そのイスラエル建国が「ディスぺンセーション主義者の確信を深めたというのだから、私としては嘆息を禁じ得ない。

日本でも、時折、何千人もの教徒が集まる米国のメガチャーチの情景がテレビ放映され、違和感をもちながら視聴していたが、おそらくこのような福音派の集会だったのではないかと思う。

このような教義は、ビリー・グラハムなどの伝道者のラジオを使った伝道活動によって広がり、保守的な思想で共産主義を敵視する主張が、アイゼンハワー、ニクソン、レーガン、ブッシュ、トランプなど共和党の大統領との親密な関係を作っていったようだ。

ブッシュ(子)大統領がイラク戦争を始める理由としてあげた、イラクの大量破壊兵器保有は福音派の正戦論にあったというのも驚きだ。また、「法を通して地上に楽園を構築することで、最終的にイエスが帰還すると説」く、終末論が最近有力になりつつあるそうで、これはキリスト教国家を創るということで、時代錯誤的な恐ろしい傾向も表れている。

それにしても、唯物的な資本主義が最高に発達した米国において、このような宗教が力を持っていることに納得がいかないのは私だけだろうか。やはり、人間は経済的充足(国民すべてが充足しているわけではないが)だけでは飽き足らず、何らかの尊い価値を求める存在なのに、宗教(キリスト教)批判から始まった西洋哲学を回避し、人間の良心を信頼することかできなかった米国文化は、精神の空洞化に耐えられず、宗教的な言辞に依存し、集団での熱狂を求めてしまうのだろう。これは決して人間同士の信頼にはつながらない。

最近は、ガザでパレスチナ人のホロコーストをするイスラエルを支持し続け、独立国であるベネズエラの大統領を米国で裁判にかけるために暴力的に拉致する行為に及ぶトランプ大統領の暴走、これを止められない世界に絶望さえ感じる。

それでも、米国では、近年、「非宗教者」が28%を占めてきて、約5年前の5倍以上になっているそうだ。これが50%を超え、米国の政治を着実に制御するようになるのがいつかは見通せないが、我々はその日が来ることを待つしかないのだろうか。その日までに世界が「現実の終末」に至らなければいいのだが。

書評 隠された奴隷制 著/植村邦彦

 

 奴隷制というと、まずアメリカ合衆国のかつての黒人奴隷制が思い浮かぶが、現代の賃金労働者も奴隷であるという論旨の著書だ。しかもこのような言説は、ルソーやマルクスも唱えていて、決して最近生まれたものではないということが、述べられている。ただ、ルソーの場合は、政治的隷属に主眼があったそうだが・・・

 そして、このアメリカでの奴隷制がイギリス(イングランド)の産業革命の資本蓄積を生み、アメリカでの黒人奴隷制度がなければヨーロッパにおける資本主義は生まれなかった、という言説が、マルクスなどを引用しながら述べられている。浅学のため、この関連については全く考慮外だった。

 論旨に戻ると、賃金労働者は制度的には自由に職業を選択し、生活の糧を得ているように思えるが、経営者に操られ、職を失わないために隷属せざるを得ないので、やはり奴隷なのだということだ。

 アダム・スミスやヘーゲルは自由な賃金労働者を賛美しただけだったが、ジョン・フランシス・ブレイやマルクスがこれを批判したことが述べられた後、20世紀後半に起きた社会主義国の自壊による冷戦の終結後に盛んになった「新自由主義的反革命」により、特に日本で、「個人の自助努力」、「自己責任」、「自己啓発」などといった「強制された自発性」により労働者の奴隷化が進み、その結果が「過労死」の激増となったという。

 私は、過労自殺のニュースに触れるたびに、なぜその人はその職場をから離脱するのでなく、自殺に至ったのかという疑問が頭から離れなかったが、納得のいく論旨だった。なるほど、彼ら、彼女らは、自分の能力が足りないせいと思い込まされていたから、不当な労働時間を拒否できなかったのだ。

最近、人間が家畜化していくという危機が少なからず叫ばれているが、これは上記のような「隠された奴隷制」による結果であるように思えてくる。

 著者は、このような状況下の賃金労働者に、熊沢誠の表現を借り、「「会社のため」ではなく、「自分の生活のため」に働くのだという確固とした意志」を持ち、定時に帰るために上司の指示を断る行動を呼びかけている。そして、「「自己責任」という呪文」の正体を見抜くべきことを呼びかけている。

書評 イスラエル=アメリカの新植民地主義 著/ハミッド・ダバシ 訳/早尾貴紀

 

この著者は、「イランのサイード」と称されている在米イラン人の中東・イスラーム研究者で批評家でもあるとのこと。訳者によれば、本書はロンドン拠点の中東ニュースサイト「ミドルイースト・アイ」に連載している記事の、2023年10月7日のガザ一斉蜂起の後に発表したものの集成版だそうだ。

 「新植民地主義」とは耳慣れない言葉だが、植民地にされた国等の現地人が奴隷のように働かされる旧来の典型的な「植民地」に対して、「入植者植民地」と著者が呼んでいる、植民地にした国の国民等が先住民を排除して自ら入植する植民地のことを意味しているようだ。

そして、著者はイスラエルという国自体が「入植者植民地」であるとしている。訳者・早尾の解説にはアメリカ合衆国、南アフリカ共和国、アルゼンチン日本の北海道などもその例だとしているが、その意味ではアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、かつて日本が中国を侵略してつくった満州なども「入植者植民地」だといえそうだが、著者はイスラエルと、イスラエルと一体のようになっているアメリカを名指しして批判の的にしている。

連載記事であるため、ガザ一斉蜂起以来の出来事について詳細に述べている一方で、著者は、イスラエルの大統領が、「この戦争はイスラエルとハマースの間の戦争だけではない。この戦争は、真に、本当に、西洋文明を救うための、西洋文明の価値観を守るための戦争なのだ」と述べていたことを取り上げ、「大統領は全く正しい。・・・この作戦は現在大量虐殺として広く認識されているこれはまさに、最も野蛮な「西洋文明」の表れである」という根本的な批判をしている。

この著者は冒頭に「日本の読者へ」として、長崎市長が2024年の平和祈念式典にイスラエルの代表を招待しなかったことに抗議して米英をはじめにG7各国が参加しなかったことを取り上げていて、ここに欧米がイスラエルに寄り添った姿勢であることが明確に表れている。確かに、このような惨劇を止めようとするどころか、アメリカが莫大な援助を惜しまないことや、イスラエルの報復行為を支持してきたヨーロッパ諸国の対応をみれば、世界中に植民地主義を広めた西欧文明の「野蛮さ」に改めて気づかされる。(これは敗戦までの日本にも伝染したことを忘れてはならない。)

そして、「今や全世界が「西洋文明」の野蛮さに直面させられている。それは政治的な側面においてだけでない。私たちは西洋の神学や哲学のDNAに組み込まれた不道徳と残虐さの腐った根を暴き出さなければならない。」と主張している。これに関連しては、別に「ヘーゲルの人種差別的哲学がヨーロッパのシオニズムに与えた影響」という言説が掲載されている。早尾も、訳者あとがきにおいて、「カントやヘーゲルの名前で知られるヨーロッパ近代の「理性」の哲学は、「普遍」を装いながら、実のところ、理性をヨーロッパ人に特権的なものとみなし、ヨーロッパの非ヨーロッパに対する優越を前提にし、かつその優越意識を強化・正当化するものであった。」とし、現代まで継承されていると述べている。

さらに、著者は、「シオニズムはユダヤ教よりもはるかにキリスト教による植民地プロジェクト」である、キリスト教は入植者植民主義的であるとも述べている。確かに、宣教師が植民に果たした役割を考えればうなずける言説だと思う。もちろん、アメリカ国民の4分の1とも3分の1ともいわれているキリスト教福音派についても触れられている。

この著書全般に、イスラエルの批判は勿論だが、アメリカへの批判も激しく述べられていて、それはトランプ、共和党ばかりでなく、バイデン、ハリス、H・クリントン、オバマなどの民主党にも及んでいて、アメリカの中東に対する政策は党を問わないとしている。

イスラエルによるガザ地区の虐殺行為があまりにも執拗なため、フランスなどのヨーロッパ諸国やイスラエル建国の張本人であるイギリスまでもがこの秋に相次いでパレスチナを国家として承認しても、アメリカは姿勢を改めようとしない。いや、アメリカは改められないのだということがこの著書で納得がいく。