奴隷貿易を「人道に対する最も重い罪」とした国連決議

 3月25日の国連総会において、奴隷貿易を「人道に対する最も重い罪」と宣言する、ガーナ提出の決議が123か国の賛成多数で採決された、今後、その賠償や謝罪を求める論議が起こるだろうというが、正直いって「今頃?」という感じがした。それは、「今に至るまで、そういうことが論議されなかったの?」ということであり、決して「そんなことはアナクロだ」ということではない。

 奴隷貿易について、すでに謝罪している当事国はオランダだけだとのこと。その他の欧米当事国は道義的責任については、これまであいまいにしても許されてきた、ということになる。それに甘えているイギリスを筆頭とする当事国は決議に際し棄権し、その状態を続けようとしているのは明らかだ。棄権したのは、日本を含め52か国にのぼるという。

 そして、決議の際、反対したのは例によって、イスラエルと米国の横暴コンビと、トランプにそっくりな大統領のアルゼンチンだそうだ。イスラエルは当事国ではないが、破廉恥さは同等なので抵抗なく同調したのだろう。

  しかし、欧米の罪は奴隷貿易だけではない。大航海時代から地球上を荒らしまくり、アフリカ、南北アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイ、アジアなどにおける、原住民の虐殺や居留地への閉じ込め、植民地化、不平等な貿易による搾取、人種差別、民族差別など様々な「人道に対する重い罪」を犯してきている。 

ここまで広げると、そのような欧米をまね、東アジアや東南アジアに植民地を築いた日本のような国も当事国となるが、この際、国連を含め世界中で奴隷貿易だけではなく、上記の植民地政策なども「罪」の対象にして論議するべきではないだろうか。それらの加害国がその論議を受けて真摯に反省し、その罪を認め、その被害を受けた国々に謝罪をしなければなければならないのではないだろうか。

そのような過程を踏まないと、被害者意識がいつまでも残り、いまや全人類の問題となっている地球環境の危機を招いていることを、全人類の課題として自覚できないだろう。産業革命が戦争を大規模化・残忍化し、公害をもたらしたことを再認識し、近代という時代はそのような時代であり、それにも関わらず、「近代化」ということが人間に幸福をもたらし明るい未来を築くということを無自覚に信じてきたことについて考え直すことができないだろう。さらに、資本主義がその近代化を加速させ、極大化させていることにも気づかないだろう。

  

クラブのホステスどころか、SNSでは「安物のスナックのママ」の高市首相

 326日のこのブログに私は、高市首相の日米会談における振る舞いが、「まるでクラブのホステスのように」と記したが、同日の集英社オンラインによると、先日の日米首脳会談の高市首相の振る舞いがX(旧Twitter)で、「スナックママ外交」という厳しい批判にさらされているが、経済専門家は、「とはいえ、他にやりようがないというのが現実」と首相を弁護しているとのこと。

集英社オンラインは続けて、

しかし、これらの「スナックママ」といった批判は、匿名個人の感想や一部メディアの表現を集めたものに過ぎない。外交の成果や戦略を専門的に分析したものではなく、見た目の印象に頼った信頼性の低い感情論である。こうした根拠のない批判をそのまま鵜呑みにすることは避けるべきだ。では、高市首相のこの外交は間違っているのだろうか。結論から言えば、彼女を特別に褒めるというよりも、日本の置かれた状況を考えれば「他にやりようがない」というのが現実ではないか。」と、その評論家に同調しながら、

「日本の政治家は、岸田文雄元首相しかり高市首相しかり、相手の顔色を窺って態度をコロコロと変えるのが大変お得意なようである。

強い相手には徹底的にすり寄るし、相手によって見せる顔を全く違うものにするのだ。もし国内政治で総理大臣がこのような八方美人の態度をとり、言うことをコロコロ変えていたら、私は強く批判する。信念を持たずに周囲の顔色ばかりを窺う政治家は信用できないからだ。」

と言いながら、

「しかし外交においては話が全く別である。態度をコロコロ変えていることが相手国に知られない限りにおいてだが、そもそも外国は日本の首相がおべっかを使っていることにさほど関心がない。振り返れば、私たち日本人も外国の首脳が他国で何を発言しているかなど気にしていないだろう。

日本が相手の顔色を窺って態度を変えることは、いい悪いではなく、「これ以上どうしろというのだ」というのが実状ではないか。日本には自国を守る圧倒的な軍事力も、国を動かす資源もない。そのような国が、理想やプライドだけを振りかざして生きていけるほど世界は甘くない。

このような「相手によって態度を変え、保険をかける」日本のやり方を、専門的な言葉で「ヘッジング戦略」と呼ぶ。

日本外交は、大きく分けて「アメリカへの同盟強化」「中国との経済的な関与」「その他の国との実利外交」という三つの要素から成る。外務省が公式に出している『外交青書』を読み解くと、いかに相手に合わせて言葉を使い分けているかがわかる。」、「第一に安全保障を依存しているアメリカに対してだ。自分たちの力だけでは国を守れないため「価値観が完全に一致する親友です」と熱烈にアピールし頼らなければならない。」と、もっともらしい口調で、訳の分からない論理を展開しながら、「『外交青書』(2025年版)には、「第一に、日米同盟の充実・強化です。日米同盟は、日本の外交・安全保障の基軸であり、トランプ政権との間でも、強固な信頼関係を構築し、日米同盟を更なる高みに引き上げていきます」と書かれているとし、

「高市首相がトランプ大統領の前で媚びているように振る舞ったのは、この「基軸」を守るために相手の顔色を最高レベルで窺った結果である。見栄えは悪いかもしれないが、国の安全のためにはひたすらヨイショするしか方法がない。」と、評価する。

 情けなくて、絶句してしまうような言説だ。私はSNSの動向にはあまりなじみがなく、通常、SNS上の毀誉褒貶についても注目していない。しかし、今回は、SNS上の批判や炎上を支持する。理念のかけらもない経済評論家と同調するマスコミなら、直感的な反応のほうがまともだろう。

外交が国内政治と別物である訳がないではないか。「態度をコロコロ変えていることが相手国に知られない限りにおいてだが」というが、知られないと思っているのは認識不足で、米国はとっくにそんなことは見抜いている。そのうえで知らないふりをしていることを見抜けない自らの甘さ、劣等性を知るべきだ。

「そもそも外国は日本の首相がおべっかを使っていることにさほど関心がない。振り返れば、私たち日本人も外国の首脳が他国で何を発言しているかなど気にしていないだろう。」というのは、全くの認識不足だ。「私」(オンライン筆者)は、外国の首脳が他国で何を発言しているかなど気にしていないかもしれないが、それは「私」だけなのではないだろうか。そして外国人も日本の首相のトランプ大統領へのごますりや媚をみて、米国の「永久敗戦国」のような日本の従属性を再確認し、内心では軽蔑していることを想像できない人がSNSの批判をしていることは滑稽でさえある。

そして、「日本には自国を守る圧倒的な軍事力も、国を動かす資源もない。そのような国が、理想やプライドだけを振りかざして生きていけるほど世界は甘くない。」というが、日本政府を含め、そのように他国(米国)に依存する国が、強国に従っていれば、その国が守ってくれると、思っていることは、「甘くない」と言えるだろうか。

何事にも損得を重視する米国が日本を守るとなぜ言えるのだろう。現にトランプ大統領は日米安保条約が片務的で不公平だと不平を何度も言っている。彼らは中国やロシアなどの軍事大国から危険を冒してまで、日本を守ろうなどとするはずがないではないか。米国は日本を守ろうとするはず、などというのは、蝶々夫人の例を挙げるまでもなく、空しい願望にすぎないのではないだろうか。

イラン攻撃以前から、ガザでホロコーストを進めるイスラエルに軍事援助をし、ベネズエラ大統領を誘拐し、これからキューバを攻撃すると脅すトランプ大統領をノーベル平和賞候補に推薦し、先の日米会談、「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけ」、彼の息子が「イケメンでご両親に似ている」というような、できているかどうかは別にして、女を武器に、あからさまな媚を売ることは、まさに「安物のスナックのママ」そのものではないか。「ドナルドだけ」は、米国に主体的に事態を鎮静化させる狙いがあるという言説もみられるが、トランプ大統領はそんな自覚をするどころか、幼稚な「アダルトチルドレン」だから、ますますつけあがるだけだろう。

ところで、実際の「スナックのママ」は、そのようにして実利をしっかり稼いでいる。これに対し、高市首相を代表にした日本は、米国に基地を提供し、駐留経費を援助し、米国企業が生産する武器を大量購入し、貿易黒字が多くなれば輸出を自主規制するなど、米国に多大な貢物を送っているにもかかわらず、何の見返りもないかもしれないではないか。こんなばかばかしい対米関係を続けている日本が、イランに対し、「直接のパイプを生かし、あらゆる外交努力をする」というが、イランは、このような日米関係を知らないはずはなく、そんなアリバイ的言辞は「聞き置く」とされるのがせいぜいだろう。

 集英社オンラインは続けて、

しかし、私はここで一つの思いをどうしても捨てきれない。いくら外交が実利優先のヘッジング戦略で基本いいのだとしても、それに甘んじるのは、ただの「思考停止」である。

協力と競争を両立させるために曖昧な態度を取り、相手によって言うことを変える二枚舌を使っていれば、本来、馬鹿にされても仕方がないのだ。また、戦略が本質的に「曖昧」であるため、相手国や第三国が日本の意図を誤読しやすいという大きな危険もある。

例えば、「日本は中立を保っているのではなく、裏で敵対の準備を進めているのではないか」と疑われるリスクだ。

だからこそ、「スナックママ」のやりすぎは良くない。理不尽で横暴な客に対しては、笑顔の中にも毅然とした態度でピシャリと対応するものである。繁盛する一流店とはそういうものだ。

そして、この曖昧で誤解されやすい二枚舌外交の限界を補うために、日本はこれからの方向性を明確に示す必要がある。例えば、対象を「東アジア」に限定し、この地域の経済的・軍事的な安定に対して積極的に関与していくと堂々と掲げてはどうだろうか。

外交の舞台で相手の顔色を窺い、泥臭く実利を追い求めること自体は、資源も力もない日本が生き残るための厳然たる事実であり、私はその経済合理性を支持する。だが、その根底にあるべき「国家としての誇り」まで売り渡してしまえば、単なる卑屈な迎合に成り下がる。

四方に媚を売りつつも、最後の一線では毅然と振る舞い、東アジアの安定という明確な軸を持つしたたかさこそが、国益を守る道ではないか。」

と、先の情けない評価を修正しながら結論しているが、この部分が本音だとすれば、先のような評価をするべきではなく、この筆者は何を考えているのかわからなくなる。しかし、この部分の論理を分析すれば、この筆者は、表面上の振る舞いをどうすればいいかと考えているだけで、単なる技術論でしか政治を語ることしかできないことが見えてくる。

やはり、このようなマスコミの劣化が、SNS隆盛の原因の一因であることは確かなようだ。

NATO各国のお陰で窮地から救われた、高市首相

 319日の日米首脳会談前に、トランプ米大統領は日本をはじめとする友好国への、ホルムズ海峡への艦船派遣を撤回した。この豹変は、NATO各国がきっぱりとこの要請に応じない姿勢を打ち出したため、ごり押しが困難であることが明確になり、恥をかきたくなかったからだろう。相も変わらぬ、幼稚な態度にはあきれるばかりだ。

しかし、このお陰で、救われたのが高市首相だ。おそらく首相は、「派遣に応じたいという思いはやまやまだが、法的制約などから困難」というようなことを言ったのだろう。これは、イラン攻撃を批判したNATO各国と比較すれば、トランプ大統領にとって慰めとなったことだろう。ホルムズ海峡の安全保持に協力すべきだという「原則論」を述べただけで、「日本はNATOとは違う」というような「おほめ」までいただくことになった。

この会談を大成功などという評価も耳に入ってくるが、まるでクラブのホステスのように、「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけ」などとトランプをおだてる態度は目に余る。イラン攻撃に法的評価はできないというという言明は、逃げ、ごまかしであることは明白だ。NATO各国の米国批判でさえ生ぬるいのに、日本の首相のそのような態度は情けない限りだ。

米国が滅びつつある国であることは確かであり、この国とは距離を取り、滅亡に巻き込まれないようにすることが長期的な外交方針であるべきだろう。このような認識のない高市首相は後に、「幼稚で横暴なトランプ米大統領に追随してばかりいた日本の首相」として、歴史に名を遺すことは間違いないだろう。今回の日米首脳会談で窮地に陥ることは免れたが、こんな首相であることは確かであり、今後どんなにおかしな対米追随外交をするか油断できない。日本を米国滅亡の巻き添え国にしてはならない。

案の定、米国が要請してきたペルシャ湾への艦船派遣

   米トランプ大統領は、日本時間の本日(3月16日)、ホルムズ海峡への艦船派遣を日本などにも要請してきた。彼でなくても、こうすることは目に見えていた。というのは、湾岸戦争後の1991年(平成3年)にペルシャ湾に海上自衛隊の掃海部隊(ペルシャ湾掃海派遣部隊)が派遣されてから、米国が中東地域を危機に陥れる行為をするごとに、繰り返されてきたことだったからだ。

それでも、当時は、国連も絡んでいたが、イラク戦争などからは、米国の独断で起こした紛争の後始末を要請されるようになっている。今回のイラン攻撃は、ホロコーストをされた民族は他民族にホロコーストを加えても許される、と信じ込んでいるイスラエルにそそのかされた米国が起こした横暴極まりないものであり、ドイツを除く、ヨーロッパの友好国さえ異論がある愚挙だ。両国が核兵器を所持し、それで威嚇行為をしているにもかかわらず、イランに核兵器を持たせてはならないとし、親米国家に体制を変えさせようなどという意図を、支持できるわけがないではないか。

このような中で、日本の高市首相は、イラン攻撃に対し、「日本は(攻撃に関する)詳細な事実関係を十分把握する立場にない」と評価しない理由を挙げ、とぼけているが、「私は、米国に対し、異論は告げず、ただ追随することしか考えていません」と、いうスタンスであることは明らかだ。だから、今回のような紛争が収まっていない状況でも、予定されているトランプ大統領との会談で、ペルシャ湾への自衛隊艦船の派遣要請を受け入れてくることは目に見えている。このような要請に対して日本がとるべき対応は、「そんな要請より米国は攻撃をやめ、停戦しろ」という要求をするということではないだろうか。

日本国民の大半は、この自国と関係ない紛争で、石油価格の急激な値上がりを被り、「迷惑千万」だと思っていることだろう。イスラエルと米国にこの損害賠償を要求してもいいところだ。それを、「マッチポンプ」にさえせず(「マッチポンプ」は犯人が自分で後始末をする)、始末を他国にもやらせるという破廉恥極まりない行為ではないか。これを許し、自衛隊員に命をかけさせ、福祉や医療予算を削ってまで国費をあててもいいのだろうか。先の選挙で高市自民党に投票した国民は、そうさせようとしているのだということを、この際、はっきりと認識するべきだ。

書評 アーレントと革命の哲学 『革命論』を読む 著/森一郎

 アーレントの『革命論』の翻訳者の解説本なので読んでみた。 『革命論』を引用しながらその個所の解説が殆どだが、「左翼陣営からすれば『革命論』は反革命の書なのである。」という言及や、『活動的生』における「相互約束」の引用などは参考になった。 しかし、その解説は読者が疑問をもつことを予測して、わかりやすく解説するというものではなく、ただアーレントの言説をなぞっているだけだった。

一方、この著書には、『革命論』からの引用個所に関連する日本の状況についての論評が目立った。それは、あまり評価できる内容ではないと思う。むしろ、ない方がいいのではないかと感じている。

具体的には、森氏は、加藤典洋の『アメリカの影』、『9条入門』などを参考にしながら、「敗戦後の日本にとって脱出不可能なアメリカとの関係を、今後いかに再構築していくか、そこに新しい始まりは可能か。」として、「この課題に取り組むには、アメリカが革命精神の発祥の地であったことを改めて認識し、その忘れられた事実をアメリカに対して発信するといった地道な努力が重要となろう。そのための最善の道案内となりうるのが、アーレントの『革命論』なのである。」と述べているが、アメリカに発信する前に、日本国民の対米従属さえ自ら認識できないという情況を考えれば、こじつけの全く滑稽な言辞としか受け取れない。

砂川事件などをめぐって、「アメリカ憲法の精神を裏切る干渉行為を当のアメリカ合衆国が行なったことを、その通り指摘することは「反米」ではない。まさに「親米」というべきであろう。」などという言説は、「米国コンプレックス」でしかない。明治維新や「敗戦後の再出発」が、「革命」とみなせるかというような言説があるが、これも不要なものでしかない。

アーレントは革命や民主主義に絶望しながら一生を終えたのだろうか。」とは、私が革命論』について最後に述べた疑問だったが、森氏の『アーレントと革命の哲学』に参考になることはなかった。

 

書評 すごい古典入門・ルソー『社会契約論』 著/宇野重規

 私は、数多くの著書でルソーの評価について読んでいたが、ルソーの著作そのものを読む機会がなかったので、この本で「入門」しようと思った。

 この本は、ルソーの人柄の意外性から語られ始める。これはその後のルソーの言動にも関係することになるので、導入部として興味深く読んだ。そして、ヒュームが、ルソーがこの著書で展開した「社会契約説」に、「あなたはいつ社会契約をしましたか?」「人類の歴史において、契約によって国家が作られた実例なんてありましたか?」という「非常に鋭い批判」をしたというエピソードが語られている。これは、私が以前から抱いていた疑問と同じなので、この後の著述が楽しみになった。

 宇野氏は、有名な「社会契約説」が当時、あまり評価されていなかったが、敗戦後の日本で、「近代そのものだ!」と評価されたが、「それは、世界的に見てもかなり特殊で興味深い現象でした。」という。

 その後、『社会契約説』そのものの解説がされているが、有名な「一般意思」の解説を含め、宇野氏は、ルソーは人間の理想を提唱していながら、実際には実現不可能と自ら述べているとし、要するにルソーは批判精神には優れているが、夢想家にすぎないと言っているようである。しかし、宇野氏は最後に、リベラリズムが見放されそうな現在こそ、ルソーのラディカルな思想が求められているとし、「ルソーを読んで、この時代と闘いましょう。」と呼びかけている。

 

書評 精読 アレント『人間の条件』 著/牧野雅彦

 (アレントはアーレントとされている著書が多いが、ここではこの著者の表記を使用します)

この著書は、アレントの『人間の条件』の訳者による解説本だ。

まず、著者は『人間の条件』について、「近代に始まる自然科学と技術の発展は、ついにそうした自然的条件をも克服するかに見えるところまで来ている。それをもたらした人間の能力とは、いったいどのようなものなのか。それが人間と、そして人間をとり巻く自然にもたらすものは何なのか。これらの問題にマルクスとは違った展望を見出そうとすることーこれが『人間の条件』を貫く主題である。」と述べている。 果たして、アレントはどんな展望を見出したのだろうと期待しながら読み進めてみた。

この著者は、マルクスの著書等を独自に引用しながら、『人間の条件』を解説している。しかし、アレントの言説の解説の範囲内の著述を出ていない。解説しながら疑問になったり、批判したくなったりしなかったのだろうかという思いを抱きながら読んだが、著者が述べた展望をどこに見出せばいいのかわからなかった。

 あまり意味のない購読だったが、あとがきに、『人間の条件』ではニーチェ批判が完結していないこと、それはアレントがニーチェに親近感をもっていたこと、師であったハイデガーのニーチェ評価にも原因があったことが述べられていたことは参考になりそうだ

書評 すごい古典入門・アーレント『人間の条件』 著/戸谷洋志

 アーレントからは「卒業」したつもりだったが、『人間の条件』が研究者にどのように評価をされているのかを知りたくて購入してみたが、結論から言うと、アーレントのマルクス批判についてのこの著者の評価は、百木漠氏の『アーレントのマルクス』と同じであることが分かりがっかりした(百木氏の同書についての感想はこち)。

そもそも、私にはアーレントがこの著書を書いた意図がわからなかった(私の『人間の条件』評は)。その後、解説本などを読んで出した結論は、暴論と言われるかもしれないが、『人間の条件』は、ギリシャ時代が好きなアーレントが、現代世界に幻滅し、ペシミスティックになった原因をマルクスのせいだとするための理論ではないかということだ。おそらく、彼女は生活には全く心配のない著名人なので、いわば古代ギリシャの市民のような立場であるため、その「公的領域」で私的な利害に関わらない議論をする生活への憧れる、という倒錯した意識があったのではないだろうか。その意識に無自覚だったのだろう。ともかく、読者に訴えるものがない著書なのは確かだと思う。

戸谷氏は、『人間の条件』でアーレントが3区分した人間の活動や、古代ギリシャにおいて明確だった公的領域の消滅の経過などについて解説するが、なぜそうしたのかについては考えなかったようだ。哲学者とは、そういうことを考えない人たちなのかと思ってしまう。

戸谷氏は(百木氏も同様だが)、アーレントが蔑視する「労働」の優位を、マルクスが現代社会で決定的にしたと批判していることを紹介し、そのため、「労働」以上に価値のある、「それ以外の営為、活動と仕事など、かすんで消えてしまったかのようです。」と自論を述べながら、マルクスは、「紛れもなく、人間を労働へと駆り立てる資本主義社会に対する最大の批判者です。」と述べ、「アーレントのマルクス解釈は、かなり一面的であることがわかってい」る、彼女の労働概念とマルクスのそれは異なり、彼女の言う活動や仕事を含んでいる、「アーレントはマルクスを誤読している」と批判するなど、ちぐはぐな論理に陥っている。

現代の人々が消費や娯楽のために奴隷のように労働している情況に愁いを抱くのはもっともだ。しかし、それをマルクスのせいにするのはお門違いだ。人間が資本に支配されているからこのような情況になったのであり、マルクスはその資本と戦うべきだとしていたのではないか。そもそも、哲学的な概念規定が社会を動かすなどということはあり得ない。

そして、「しかしその誤読は、少なくとも現代社会の一つの特徴を浮かびあがらせるものであるという点では、役に立つものであります。研究者のなかには、これは生産的な誤読であるとして、積極的に評価する人(森中注・百木氏のことであろう)もいます。僕も基本的にはそう思います。」と、苦し紛れのわからない結論を述べる。このような結論は、アーレントに伝わらないからといって、彼女にとっては屈辱的なものであり、けっして述べてはならないことだ。「誤読」しているとするのなら、なぜ、そのような誤読がされたのか、について徹底的に考察し、批判するべきではないだろうか。

アーレントにしても、マルクスにしても偶像化していては理解も批判もできない。対等な人間として、その言説を正面から受け取り、疑問があれば、それを自分の能力が足りないせいなどと逃げずにこだわり続けるべきだと思う。

書評 アーレントのマルクス: 労働と全体主義 著/百木 漠

 ハンナ・アーレントの『革命論』や『人間の条件』におけるマルクス批判の論拠を知りたいと思っていたらこのような書籍があることを知り読みたくなった。しかし高価なので即購入をせず、図書館から借りて読んだ。結果的にはこれが正解だった。  百木は、「アーレントのマルクス研究は当初「マルクス主義の全体主義的要素」を明らかにするためにはじめられた。」とこの著書で解説している。これでは、アーレントのマルクス研究は予断をもって始まったことになると思いながら読み始めた。

まず、この著者を含め、アーレントがマルクスをかなり誤読していたということを指摘している人が多かったことを知ることができたのは収穫だったと言っておこう。しかし、著者が、「(ときには意図的ではないかと思われるほどの)「あからさまな誤読」と言いながら、表紙に記されている「アーレントはなぜこれほどまでにマルクスを「誤読」したのか?」とした、肝心の、なぜ誤読したのか、その結果の彼女の言説の誤りなどについての追及はなく、「彼女のマルクス批判が意味を持つのは、マルクスへの批判としてではなく、近代社会=労働中心社会への批判としてであり、その先に予感される全体主義への批判としてではないか」などとしてしまうことは、思考を放棄しているのではないだろうか。

 『人間の条件』を読んでいて、私が感じたことは、全体主義が、さも哲学的な誤りから生まれたように記述されていることだった。私は、いわゆる全体主義は資本主義的な経済発展において、英仏に後れを取り、その専横ぶりに国民的プライドまで失いそうになった独伊の、精神的な立ち直りを鼓舞する運動だと思っているので、この著書の論理には違和感を禁じえなかった(日本は少し事情が異なるが)。

さらに、アーレントがマルクスが高めた労働についての評価が全体主義に利用されたと主張する論理が誤読に基づくものだとすれば、『人間の条件』の論理そのものが破産している、ということにならざるを得ないのではないだろうか。  

後半に至り、百木は、「アーレントのマルクスに対する評価は両義的である。」としてマルクスを偉大な思想家であると評価する一方で、「マルクスは、「労働」こそが人間にとって本質的な近代社会の状況を肯定し、「労働を賛美」する思想を創り上げた点では、根本的な誤りを犯していた思想家である。」としたアーレントの言説を、前半で「マルクスは近代資本主義のもとにおける労働のあり方に対して一貫して批判的であった。それゆえにマルクスを近代的労働の賛美者として批判しようとするアーレントの姿勢には、基本的な前提で大きな誤りがあったと言わねばならない。」と述べたことを忘れたかのように、批判なしに取り上げている。こんな支離滅裂なことを長々と書いた著書が発行されていることには呆れてしまう。 結局、この著書は私のアーレント評価の参考にはならなかった。

しかし、著者が述べた、アーレントが意図的ではないかと思われるほどのマルクスの誤読について、最近こんな仮説が頭に浮かんでいる。それは「近親憎悪」のような心理がアーレントに働いているのではないか、ということだ。どういうことかと言うと、マルクスとアーレントはともにユダヤ人であり、マルクスは『ユダヤ人問題に寄せて』という著書において徹底的にユダヤ教に取りつかれたユダヤ人を批判している。それは彼がユダヤ人ゆえにこそ指摘できるユダヤ人の習性の批判だと思う。

一方のアーレントもユダヤ人という立場に客観的だと言えるだろう。しかし、マルクスほどには至っていない。『イェルサレムのアイヒマン』において、ユダヤ人的な立場ではない言説を述べて、彼らから猛批判を浴びたことは評価できるが、結局アイヒマン裁判を肯定したことにそれは現れている。要するにアーレントはマルクスほどユダヤ人性から自由ではないのだと思う。その桎梏に対する無意識のコンプレックスがマルクスに対する「近親憎悪」を生んだのではないだろうか。もしかすると、彼女はマルクスに自虐性を感じたのかもしれない。

書評 『人間の条件』 著/ハンナ・アレント 訳/牧野雅彦

 (アレントはアーレントとされている著書が多いが、この著書の訳者の表記を使用します)

訳者解題には、『人間の条件』がアレントの主著とされているとして、『全体主義の起源』後、彼女が展開することになる主要な論点のほぼすべてが掲示されていて、古代ギリシャに始まる西洋哲学の諸潮流の展開の中にみずからの思想を位置づけた、哲学上の主著というべき書物だと説明されている。 私は彼女の『革命論』を読んで、彼女のマルクス批判をもっと知りたくなり、この本に取り組んだ。しかし、ギリシャ哲学の素養がないため、理解できない文章が多く、放棄したくなったが何とかひととおり読み通すことができた。

1は、「私は、「活動的生活」という言葉で、労働、仕事、行為という三つの基本的活動を示すことにしたい。これらの活動が基本的なのは。地球上の生命が人間に与えた基礎的な諸条件にそれぞれ対応しているからである。」という文章から始まる。 私は、いきなり戸惑わされてしまった。それらについての説明がされていっても、その理由が見えてこないので引き込まれることがないまま読んでいったわけだが、「活動的生活」とは、ギリシャの哲人たちが重んじていた「観照」に対応する言葉であるという説明を読んでから、興味が湧いてきた。

以下、ギリシャ時代に明確だった公的領域と私的領域が、社会という領域の出現により霞んでしまい、私的領域だった家族のような政治的共同体が国民国家となったという第Ⅱ章のあと、「活動的生活」のなかの、「労働」、「仕事」、「行為」について述べられている。そして最後の第Ⅳ章で近代の「活動的生活」についての彼女の考えがまとめられる。彼女によれば、ガリレオの望遠鏡の発明や宇宙から地球の自然を見る新しい科学の発展等により「観照的生活」と「活動的生活」の序列が逆転したことが、近代の最も重大な精神的結果だとのこと。正直に言って、私には彼女がこのような見解を述べ、主にマルクスを批判している意図が分からない。しかし、「言論と行為によって、人間の世界に参入する第二の誕生で、われわれは、自分の顔つきや体つきをした生身の肉体をもってこの世に生まれたというありがままの事実を確認し、わが身に引き受ける」、「行為の不可逆性に対する救済策としての許し」、「行為の予測不可能性の困難を軽減する約束」、「尊敬は資質や業績からは独立しているが、近代になって尊敬は賞賛や評価から生まれると信じられるようになった」(以上一部要約)等の言説には深い共感を覚える。こうしたギャップは私の理解不足が主な原因ということは認めざるを得ない。 それにしても、アレントは読者に何を伝えたいのだろうか。『革命論』で感じた人間世界への悲観的な考え方を、より深く感じてしまうのは私だけだろうか。 この疑問への答えを『精読 アレント『人間の条件』』に求めてみたい。

書評 『革命論』 著/ハンナ・アーレント 訳/森一郎

 この本は高価(7150円)なため、いきなり購入する気になれず図書館から借りて読みだしたが、書き抜く文章が膨大(最終的にレポート用紙14枚になった)になるので結局購入した。英語版は1963年、ドイツ語版は1965年に書かれている。私は昨年発行された後者の日本語訳を読んだ訳だが、米ロ冷戦時代のこの著作が、決して過去の時代を語っているのに過ぎないどころか、現代の民主主義の限界を指摘している彼女の鋭さに驚嘆している。内容は主に独立戦争を含むアメリカ革命とフランス革命についての分析で具体的には今後にしたい。

アーレントは日本では一般的にアメリカ独立戦争としてしかとらえられていないアメリカ独立運動全体を「アメリカ革命」としている。最初は違和感があったが、読み進むうちに、イギリスという立憲君主国に支配された植民地を独立した共和制の国家としたのだから、なるほど革命なのだと思えるようになった。 また、アーレントが前半でアメリカ革命を非常に高く評価している事にも違和感があったが、独立後のアメリカ革命の停滞や、アメリカ特有の風潮の原因を指摘し、今日のアメリカの惨憺たる情況も予言しているような記述に触れ納得した。

 アーレントは、革命はそれに先行する支配体制が無法的であればあるほど、絶対主義的にふるまうことになり、絶対君主制は革命による専制独裁に引き継がれるといういわば運命を負っており、それがフランス革命の帰着で、アメリカ革命との大きな違いだという。 アメリカの場合、支配していたイギリスは絶対君主制ではなく、「制限」君主制であり、独立宣言後に問題となったのは権力をいかにして制限しうるかではなく、いかにして確立するかであったという。そして、フランスにあった貧窮という社会問題がアメリカになかった違いも挙げている。

そのような背景と、アメリカ革命の人びとが相互信頼という考え方を組織的行為の原理として革命を進めたことが「自由の創設」成功の要因として挙げられている。 これに対し、フランス革命は同じように「自由の確立」を目指したが、貧困等の社会問題があったため、目標から外れざるを得ず、貧困にあえぐ人民への「同情」により「多数者の幸福}を目指したためにそれも失敗したという。 そして、「同情」は、暴力的行動へと人民を赴かせるため、政治的には「永続的な制度」を打ち立てることができないというメルヴィルの説を紹介している。

アーレントは、フランス革命はとルソーの、アメリカ革命はモンテスキューの思想に影響されていると言う。 前者については、ルソーが「一般意思」という概念で、国家をたった一つの身体としてイメージしたことが指導者には好都合で、ロベスピエールがたえず「世論」を引き合いに出すときに考えていたことであると言う。そして、この「一般意思」は外の敵の存在を暗黙裡に前提し、それに対抗して国民が一致団結するため、ナショナリズムを産む思想となったとも言っている。

アーレントが、「政治的手段によって人間を貧困から解放しようとする試み以上に、古臭く余計なことはないように思われる。」、「革命が残虐に鎮圧された国のほうが、見た目には革命が勝利した国(中略)、よりも市民の権利自体は大事にされているのが実情」などと述べていることも、先の理論に増して重い歴史の現実なのだろう。 さて、アメリカ革命にはそのような問題はなかったが、彼女はアメリカ独立宣言の幸福の追求に公共性の理念が欠けていたために国民が私利私欲を好き放題に追求する権利があると確信する原因になったと指摘する。

そして、「理論的明晰さが欠如していたことが主たる原因の一つとなって、アメリカ革命は国際政治上、不毛にとどまった」、「そしてついに二十世紀には、アメリカほど、どんなイカサマ的思想にひっかかりやすい国はないことが明らかになった。」と手厳しい。 結局、アーレントはこれまでの革命による民主制の実現には失望しているようだ。それでは我々に明るい未来はないのだろうか。 最終盤に、代表制の問題点に触れ、ジェファソンが「初等国家群」と呼んだ小共同体、パリのコミューンのセクションや人民協会などに期待を述べている。

それは、このような革命が進行する中で存在した共同体に「われわれが思っているところの新しい革命的国家形態の微弱な萌芽以上のもの」が実現したかもしれないという期待だ。ただ、これを結論として述べたわけではない。アーレントは革命や民主主義に絶望しながら一生を終えたのだろうか。

日米同盟は日本側の片思い?

  1月26日のテレビ朝日の報道ステーションで、共産党の田村委員長に、問題となっている昨年11月の「存立危機事態」発言の撤回を求められた際、(台湾で)「大変なことが起きた時」、つまりいわゆる「台湾有事」をぼかしながら、「私たちは台湾にいらっしゃる日本人やアメリカ人を救いに行かなきゃならないわけです。そこで共同行動をとる場合もあるわけです。そこで共同行動を取っているアメリカ軍が攻撃を受けた時に、日本が何もせず逃げ帰ると日米同盟が潰れますから、あくまで法律の範囲で、現在の法律の範囲内で、そこで起きている事象を総合的に判断しながら対応するということです。」と答えた。

台湾に中国が軍事侵攻した場合、日本政府が日本人救出をしようとすることは当然だ。余裕があればその際、アメリカ人に限らず、他の国民も救出するべきだろう。共同行動をとることも必要かもしれない。しかし、高市首相はここで、この救出の際、自衛隊がその任務に当たることを当然のように言っていることになる。それは、「共同行動をとっている」のは「アメリカ軍」だからだ。

救出をするのは自衛隊でなくてもよく、過去にそのような事態になったときには民間航空機を派遣することが通例であった。だから高市首相は国民救出を理由にしながら、「逃げ」ないで、「対応する」ということは、軍事介入を示唆していることになる。

こんな発言が伝われば中国政府が怒るのは当然で、案の定、これに対し中国外務省は翌日、当然、非難声明を出した。日中関係の修復はさらに遠くなった。

なぜ、高市首相はこんな発言をするのだろう。まさか、中国と事を構えることを望んでいるわけではないだろう。米国に次ぐような軍事力を保持し、核兵器を保持する中国と戦えば日本は壊滅的な敗北を免れない。安全保障条約を結んでいる米国と同盟関係があり、そんな恐れはないと思っているから、虎の威を借りる狐よろしく、勇ましそうなポーズをとるのだろう。トランプ大統領にこの件でたしなめられたことは漫画的だった。80年前にGHQのマッカーサーが「日本人は12歳以下」と言ったが、米国人の大半が幼稚園以下であることが明らかになった現在、トランプと高市の言動は幼稚園の学芸会でしかない。強がることにとらわれている高市首相の振る舞いの見苦しさは、ピエロを演じていると思わなければ耐えられない。

そんな茶番劇の相手で、自民党政府が同盟関係にあると思っている米国は、打算的な国であることを直視することが必要だ。これはトランプ大統領でなくても同じだろう。中国が覇権を争うライバルだとして敵視しながら、中国は米国がこれまで軍事侵攻等をしたような小国ではないので、米国は軍事衝突を避けたいはずである。たとえ、中国がこれまで援助してきた台湾を併合しようとしても、黙認するほうが損失が少ないと判断するだろう。特にトランプ大統領は南北アメリカ大陸などの西半球の支配を優先し、ロシアや中国以外の地域は、「同盟」国に米国に利があるように支配させたいという意図が鮮明にしている。背景には米国は第2次大戦後、着実に衰退しつつあり、世界中を統制できなくなってきていることがある。「MAGA」はその危機感から生じたスローガンだ。

この流れで、トランプ大統領は、日米安全保障条約を米国の役割が重い不公平な条約だと、盛んに日本政府を責めている。その不平を理由に、たとえ中国と日本が軍事衝突しても、台湾と同様に黙認する可能性のほうが現実的だろう。米国は、信頼関係などを守ろうとする国ではないということをこの際はっきり認識するべきだ。

「日米同盟」というものは、ほとんど日本人の片思いで信じられている幻想にすぎないのでは?ということを考えるべきなのだ。そして、世界で一番危険な国であることが明らかになった米国の軍事基地が日本中に置かれていることが招くかもしれない「存立危機事態」についても考えるべきだ。そんな危機を顧みない政党に政権を持たせていることの愚かさから、もう脱するべき時なのだ。

書評 コンビニ人間 著 村田沙耶香

 読んでみたいと思いながら、芥川賞受賞から約10年後になってしまった。とても奇妙な作品というのが第一印象だ。

 最初は、コンビニで働く主人公の日常の仕事場の描写で始まる。そこから、主人公が「コンビニ店員として生まれる前」の描写に移る。ここで描かれている主人公の少女時代のエピソードは奇妙奇天烈で笑いをこらえきれなくなる。しかし、大人がおかしいと受けとった、公園で死んでいた小鳥をなぜ食べないかのという少女の疑問は合理性があるかもしれないが、そのごのエピソードについては、そうも言ってはいられない。これは実際起こりうることだろうかと考えてしまう。起きているとすれば情緒障害のような発達障害の問題になるが、この小説は、そのようには展開しない。この子はそういった行為を正そうとする大人の論理を理解できないが、父母を悲しませないために、「家の外では極力口を利かないことにして、周囲の真似をするか、誰かの指示に従うだけで、自分で判断して行動しなくなる。

 そんな少女が大学生になってから、なんとなく始めたコンビニのアルバイトは、いわば一挙手一投足に至るまでマニュアル化されているため、すぐに適合でき、役に立つ店員として、大学を卒業してもそのまま36歳に至るまで続いているというのは、この子(人)ならでは、という感想になりがちだが、考えてみると現在の社会の超現実的な描写にも思えてくる。

 周囲の空気を読み、普通を演じながら、奴隷や家畜のようになってしまっている人間の危機状態を告発しているのかもしれないというのは深読みのし過ぎだろうか。