ラベル 民主主義 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 民主主義 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

書評 アーレントと革命の哲学 『革命論』を読む 著/森一郎

 アーレントの『革命論』の翻訳者の解説本なので読んでみた。 『革命論』を引用しながらその個所の解説が殆どだが、「左翼陣営からすれば『革命論』は反革命の書なのである。」という言及や、『活動的生』における「相互約束」の引用などは参考になった。 しかし、その解説は読者が疑問をもつことを予測して、わかりやすく解説するというものではなく、ただアーレントの言説をなぞっているだけだった。

一方、この著書には、『革命論』からの引用個所に関連する日本の状況についての論評が目立った。それは、あまり評価できる内容ではないと思う。むしろ、ない方がいいのではないかと感じている。

具体的には、森氏は、加藤典洋の『アメリカの影』、『9条入門』などを参考にしながら、「敗戦後の日本にとって脱出不可能なアメリカとの関係を、今後いかに再構築していくか、そこに新しい始まりは可能か。」として、「この課題に取り組むには、アメリカが革命精神の発祥の地であったことを改めて認識し、その忘れられた事実をアメリカに対して発信するといった地道な努力が重要となろう。そのための最善の道案内となりうるのが、アーレントの『革命論』なのである。」と述べているが、アメリカに発信する前に、日本国民の対米従属さえ自ら認識できないという情況を考えれば、こじつけの全く滑稽な言辞としか受け取れない。

砂川事件などをめぐって、「アメリカ憲法の精神を裏切る干渉行為を当のアメリカ合衆国が行なったことを、その通り指摘することは「反米」ではない。まさに「親米」というべきであろう。」などという言説は、「米国コンプレックス」でしかない。明治維新や「敗戦後の再出発」が、「革命」とみなせるかというような言説があるが、これも不要なものでしかない。

アーレントは革命や民主主義に絶望しながら一生を終えたのだろうか。」とは、私が革命論』について最後に述べた疑問だったが、森氏の『アーレントと革命の哲学』に参考になることはなかった。

 

書評 すごい古典入門・ルソー『社会契約論』 著/宇野重規

 私は、数多くの著書でルソーの評価について読んでいたが、ルソーの著作そのものを読む機会がなかったので、この本で「入門」しようと思った。

 この本は、ルソーの人柄の意外性から語られ始める。これはその後のルソーの言動にも関係することになるので、導入部として興味深く読んだ。そして、ヒュームが、ルソーがこの著書で展開した「社会契約説」に、「あなたはいつ社会契約をしましたか?」「人類の歴史において、契約によって国家が作られた実例なんてありましたか?」という「非常に鋭い批判」をしたというエピソードが語られている。これは、私が以前から抱いていた疑問と同じなので、この後の著述が楽しみになった。

 宇野氏は、有名な「社会契約説」が当時、あまり評価されていなかったが、敗戦後の日本で、「近代そのものだ!」と評価されたが、「それは、世界的に見てもかなり特殊で興味深い現象でした。」という。

 その後、『社会契約説』そのものの解説がされているが、有名な「一般意思」の解説を含め、宇野氏は、ルソーは人間の理想を提唱していながら、実際には実現不可能と自ら述べているとし、要するにルソーは批判精神には優れているが、夢想家にすぎないと言っているようである。しかし、宇野氏は最後に、リベラリズムが見放されそうな現在こそ、ルソーのラディカルな思想が求められているとし、「ルソーを読んで、この時代と闘いましょう。」と呼びかけている。

 

書評 精読 アレント『人間の条件』 著/牧野雅彦

 (アレントはアーレントとされている著書が多いが、ここではこの著者の表記を使用します)

この著書は、アレントの『人間の条件』の訳者による解説本だ。

まず、著者は『人間の条件』について、「近代に始まる自然科学と技術の発展は、ついにそうした自然的条件をも克服するかに見えるところまで来ている。それをもたらした人間の能力とは、いったいどのようなものなのか。それが人間と、そして人間をとり巻く自然にもたらすものは何なのか。これらの問題にマルクスとは違った展望を見出そうとすることーこれが『人間の条件』を貫く主題である。」と述べている。 果たして、アレントはどんな展望を見出したのだろうと期待しながら読み進めてみた。

この著者は、マルクスの著書等を独自に引用しながら、『人間の条件』を解説している。しかし、アレントの言説の解説の範囲内の著述を出ていない。解説しながら疑問になったり、批判したくなったりしなかったのだろうかという思いを抱きながら読んだが、著者が述べた展望をどこに見出せばいいのかわからなかった。

 あまり意味のない購読だったが、あとがきに、『人間の条件』ではニーチェ批判が完結していないこと、それはアレントがニーチェに親近感をもっていたこと、師であったハイデガーのニーチェ評価にも原因があったことが述べられていたことは参考になりそうだ

書評 すごい古典入門・アーレント『人間の条件』 著/戸谷洋志

 アーレントからは「卒業」したつもりだったが、『人間の条件』が研究者にどのように評価をされているのかを知りたくて購入してみたが、結論から言うと、アーレントのマルクス批判についてのこの著者の評価は、百木漠氏の『アーレントのマルクス』と同じであることが分かりがっかりした(百木氏の同書についての感想はこち)。

そもそも、私にはアーレントがこの著書を書いた意図がわからなかった(私の『人間の条件』評は)。その後、解説本などを読んで出した結論は、暴論と言われるかもしれないが、『人間の条件』は、ギリシャ時代が好きなアーレントが、現代世界に幻滅し、ペシミスティックになった原因をマルクスのせいだとするための理論ではないかということだ。おそらく、彼女は生活には全く心配のない著名人なので、いわば古代ギリシャの市民のような立場であるため、その「公的領域」で私的な利害に関わらない議論をする生活への憧れる、という倒錯した意識があったのではないだろうか。その意識に無自覚だったのだろう。ともかく、読者に訴えるものがない著書なのは確かだと思う。

戸谷氏は、『人間の条件』でアーレントが3区分した人間の活動や、古代ギリシャにおいて明確だった公的領域の消滅の経過などについて解説するが、なぜそうしたのかについては考えなかったようだ。哲学者とは、そういうことを考えない人たちなのかと思ってしまう。

戸谷氏は(百木氏も同様だが)、アーレントが蔑視する「労働」の優位を、マルクスが現代社会で決定的にしたと批判していることを紹介し、そのため、「労働」以上に価値のある、「それ以外の営為、活動と仕事など、かすんで消えてしまったかのようです。」と自論を述べながら、マルクスは、「紛れもなく、人間を労働へと駆り立てる資本主義社会に対する最大の批判者です。」と述べ、「アーレントのマルクス解釈は、かなり一面的であることがわかってい」る、彼女の労働概念とマルクスのそれは異なり、彼女の言う活動や仕事を含んでいる、「アーレントはマルクスを誤読している」と批判するなど、ちぐはぐな論理に陥っている。

現代の人々が消費や娯楽のために奴隷のように労働している情況に愁いを抱くのはもっともだ。しかし、それをマルクスのせいにするのはお門違いだ。人間が資本に支配されているからこのような情況になったのであり、マルクスはその資本と戦うべきだとしていたのではないか。そもそも、哲学的な概念規定が社会を動かすなどということはあり得ない。

そして、「しかしその誤読は、少なくとも現代社会の一つの特徴を浮かびあがらせるものであるという点では、役に立つものであります。研究者のなかには、これは生産的な誤読であるとして、積極的に評価する人(森中注・百木氏のことであろう)もいます。僕も基本的にはそう思います。」と、苦し紛れのわからない結論を述べる。このような結論は、アーレントに伝わらないからといって、彼女にとっては屈辱的なものであり、けっして述べてはならないことだ。「誤読」しているとするのなら、なぜ、そのような誤読がされたのか、について徹底的に考察し、批判するべきではないだろうか。

アーレントにしても、マルクスにしても偶像化していては理解も批判もできない。対等な人間として、その言説を正面から受け取り、疑問があれば、それを自分の能力が足りないせいなどと逃げずにこだわり続けるべきだと思う。

書評 アーレントのマルクス: 労働と全体主義 著/百木 漠

 ハンナ・アーレントの『革命論』や『人間の条件』におけるマルクス批判の論拠を知りたいと思っていたらこのような書籍があることを知り読みたくなった。しかし高価なので即購入をせず、図書館から借りて読んだ。結果的にはこれが正解だった。  百木は、「アーレントのマルクス研究は当初「マルクス主義の全体主義的要素」を明らかにするためにはじめられた。」とこの著書で解説している。これでは、アーレントのマルクス研究は予断をもって始まったことになると思いながら読み始めた。

まず、この著者を含め、アーレントがマルクスをかなり誤読していたということを指摘している人が多かったことを知ることができたのは収穫だったと言っておこう。しかし、著者が、「(ときには意図的ではないかと思われるほどの)「あからさまな誤読」と言いながら、表紙に記されている「アーレントはなぜこれほどまでにマルクスを「誤読」したのか?」とした、肝心の、なぜ誤読したのか、その結果の彼女の言説の誤りなどについての追及はなく、「彼女のマルクス批判が意味を持つのは、マルクスへの批判としてではなく、近代社会=労働中心社会への批判としてであり、その先に予感される全体主義への批判としてではないか」などとしてしまうことは、思考を放棄しているのではないだろうか。

 『人間の条件』を読んでいて、私が感じたことは、全体主義が、さも哲学的な誤りから生まれたように記述されていることだった。私は、いわゆる全体主義は資本主義的な経済発展において、英仏に後れを取り、その専横ぶりに国民的プライドまで失いそうになった独伊の、精神的な立ち直りを鼓舞する運動だと思っているので、この著書の論理には違和感を禁じえなかった(日本は少し事情が異なるが)。

さらに、アーレントがマルクスが高めた労働についての評価が全体主義に利用されたと主張する論理が誤読に基づくものだとすれば、『人間の条件』の論理そのものが破産している、ということにならざるを得ないのではないだろうか。  

後半に至り、百木は、「アーレントのマルクスに対する評価は両義的である。」としてマルクスを偉大な思想家であると評価する一方で、「マルクスは、「労働」こそが人間にとって本質的な近代社会の状況を肯定し、「労働を賛美」する思想を創り上げた点では、根本的な誤りを犯していた思想家である。」としたアーレントの言説を、前半で「マルクスは近代資本主義のもとにおける労働のあり方に対して一貫して批判的であった。それゆえにマルクスを近代的労働の賛美者として批判しようとするアーレントの姿勢には、基本的な前提で大きな誤りがあったと言わねばならない。」と述べたことを忘れたかのように、批判なしに取り上げている。こんな支離滅裂なことを長々と書いた著書が発行されていることには呆れてしまう。 結局、この著書は私のアーレント評価の参考にはならなかった。

しかし、著者が述べた、アーレントが意図的ではないかと思われるほどのマルクスの誤読について、最近こんな仮説が頭に浮かんでいる。それは「近親憎悪」のような心理がアーレントに働いているのではないか、ということだ。どういうことかと言うと、マルクスとアーレントはともにユダヤ人であり、マルクスは『ユダヤ人問題に寄せて』という著書において徹底的にユダヤ教に取りつかれたユダヤ人を批判している。それは彼がユダヤ人ゆえにこそ指摘できるユダヤ人の習性の批判だと思う。

一方のアーレントもユダヤ人という立場に客観的だと言えるだろう。しかし、マルクスほどには至っていない。『イェルサレムのアイヒマン』において、ユダヤ人的な立場ではない言説を述べて、彼らから猛批判を浴びたことは評価できるが、結局アイヒマン裁判を肯定したことにそれは現れている。要するにアーレントはマルクスほどユダヤ人性から自由ではないのだと思う。その桎梏に対する無意識のコンプレックスがマルクスに対する「近親憎悪」を生んだのではないだろうか。もしかすると、彼女はマルクスに自虐性を感じたのかもしれない。

書評 『人間の条件』 著/ハンナ・アレント 訳/牧野雅彦

 (アレントはアーレントとされている著書が多いが、この著書の訳者の表記を使用します)

訳者解題には、『人間の条件』がアレントの主著とされているとして、『全体主義の起源』後、彼女が展開することになる主要な論点のほぼすべてが掲示されていて、古代ギリシャに始まる西洋哲学の諸潮流の展開の中にみずからの思想を位置づけた、哲学上の主著というべき書物だと説明されている。 私は彼女の『革命論』を読んで、彼女のマルクス批判をもっと知りたくなり、この本に取り組んだ。しかし、ギリシャ哲学の素養がないため、理解できない文章が多く、放棄したくなったが何とかひととおり読み通すことができた。

1は、「私は、「活動的生活」という言葉で、労働、仕事、行為という三つの基本的活動を示すことにしたい。これらの活動が基本的なのは。地球上の生命が人間に与えた基礎的な諸条件にそれぞれ対応しているからである。」という文章から始まる。 私は、いきなり戸惑わされてしまった。それらについての説明がされていっても、その理由が見えてこないので引き込まれることがないまま読んでいったわけだが、「活動的生活」とは、ギリシャの哲人たちが重んじていた「観照」に対応する言葉であるという説明を読んでから、興味が湧いてきた。

以下、ギリシャ時代に明確だった公的領域と私的領域が、社会という領域の出現により霞んでしまい、私的領域だった家族のような政治的共同体が国民国家となったという第Ⅱ章のあと、「活動的生活」のなかの、「労働」、「仕事」、「行為」について述べられている。そして最後の第Ⅳ章で近代の「活動的生活」についての彼女の考えがまとめられる。彼女によれば、ガリレオの望遠鏡の発明や宇宙から地球の自然を見る新しい科学の発展等により「観照的生活」と「活動的生活」の序列が逆転したことが、近代の最も重大な精神的結果だとのこと。正直に言って、私には彼女がこのような見解を述べ、主にマルクスを批判している意図が分からない。しかし、「言論と行為によって、人間の世界に参入する第二の誕生で、われわれは、自分の顔つきや体つきをした生身の肉体をもってこの世に生まれたというありがままの事実を確認し、わが身に引き受ける」、「行為の不可逆性に対する救済策としての許し」、「行為の予測不可能性の困難を軽減する約束」、「尊敬は資質や業績からは独立しているが、近代になって尊敬は賞賛や評価から生まれると信じられるようになった」(以上一部要約)等の言説には深い共感を覚える。こうしたギャップは私の理解不足が主な原因ということは認めざるを得ない。 それにしても、アレントは読者に何を伝えたいのだろうか。『革命論』で感じた人間世界への悲観的な考え方を、より深く感じてしまうのは私だけだろうか。 この疑問への答えを『精読 アレント『人間の条件』』に求めてみたい。

書評 『革命論』 著/ハンナ・アーレント 訳/森一郎

 この本は高価(7150円)なため、いきなり購入する気になれず図書館から借りて読みだしたが、書き抜く文章が膨大(最終的にレポート用紙14枚になった)になるので結局購入した。英語版は1963年、ドイツ語版は1965年に書かれている。私は昨年発行された後者の日本語訳を読んだ訳だが、米ロ冷戦時代のこの著作が、決して過去の時代を語っているのに過ぎないどころか、現代の民主主義の限界を指摘している彼女の鋭さに驚嘆している。内容は主に独立戦争を含むアメリカ革命とフランス革命についての分析で具体的には今後にしたい。

アーレントは日本では一般的にアメリカ独立戦争としてしかとらえられていないアメリカ独立運動全体を「アメリカ革命」としている。最初は違和感があったが、読み進むうちに、イギリスという立憲君主国に支配された植民地を独立した共和制の国家としたのだから、なるほど革命なのだと思えるようになった。 また、アーレントが前半でアメリカ革命を非常に高く評価している事にも違和感があったが、独立後のアメリカ革命の停滞や、アメリカ特有の風潮の原因を指摘し、今日のアメリカの惨憺たる情況も予言しているような記述に触れ納得した。

 アーレントは、革命はそれに先行する支配体制が無法的であればあるほど、絶対主義的にふるまうことになり、絶対君主制は革命による専制独裁に引き継がれるといういわば運命を負っており、それがフランス革命の帰着で、アメリカ革命との大きな違いだという。 アメリカの場合、支配していたイギリスは絶対君主制ではなく、「制限」君主制であり、独立宣言後に問題となったのは権力をいかにして制限しうるかではなく、いかにして確立するかであったという。そして、フランスにあった貧窮という社会問題がアメリカになかった違いも挙げている。

そのような背景と、アメリカ革命の人びとが相互信頼という考え方を組織的行為の原理として革命を進めたことが「自由の創設」成功の要因として挙げられている。 これに対し、フランス革命は同じように「自由の確立」を目指したが、貧困等の社会問題があったため、目標から外れざるを得ず、貧困にあえぐ人民への「同情」により「多数者の幸福}を目指したためにそれも失敗したという。 そして、「同情」は、暴力的行動へと人民を赴かせるため、政治的には「永続的な制度」を打ち立てることができないというメルヴィルの説を紹介している。

アーレントは、フランス革命はとルソーの、アメリカ革命はモンテスキューの思想に影響されていると言う。 前者については、ルソーが「一般意思」という概念で、国家をたった一つの身体としてイメージしたことが指導者には好都合で、ロベスピエールがたえず「世論」を引き合いに出すときに考えていたことであると言う。そして、この「一般意思」は外の敵の存在を暗黙裡に前提し、それに対抗して国民が一致団結するため、ナショナリズムを産む思想となったとも言っている。

アーレントが、「政治的手段によって人間を貧困から解放しようとする試み以上に、古臭く余計なことはないように思われる。」、「革命が残虐に鎮圧された国のほうが、見た目には革命が勝利した国(中略)、よりも市民の権利自体は大事にされているのが実情」などと述べていることも、先の理論に増して重い歴史の現実なのだろう。 さて、アメリカ革命にはそのような問題はなかったが、彼女はアメリカ独立宣言の幸福の追求に公共性の理念が欠けていたために国民が私利私欲を好き放題に追求する権利があると確信する原因になったと指摘する。

そして、「理論的明晰さが欠如していたことが主たる原因の一つとなって、アメリカ革命は国際政治上、不毛にとどまった」、「そしてついに二十世紀には、アメリカほど、どんなイカサマ的思想にひっかかりやすい国はないことが明らかになった。」と手厳しい。 結局、アーレントはこれまでの革命による民主制の実現には失望しているようだ。それでは我々に明るい未来はないのだろうか。 最終盤に、代表制の問題点に触れ、ジェファソンが「初等国家群」と呼んだ小共同体、パリのコミューンのセクションや人民協会などに期待を述べている。

それは、このような革命が進行する中で存在した共同体に「われわれが思っているところの新しい革命的国家形態の微弱な萌芽以上のもの」が実現したかもしれないという期待だ。ただ、これを結論として述べたわけではない。アーレントは革命や民主主義に絶望しながら一生を終えたのだろうか。

書評 誰が世界を支配しているのか? 著 ノーム・チョムスキー 訳 大地 舜・榊原美奈子

 この本は、2018年に刊行された単行本の文庫版で、原著作は2016年。2017年版に向けたあとがきがある。いずれにしても8年以上経過しているが、「2025年の世界になっても基本がまったく変わっていない。ノーム・チョムスキーの慧眼は、2025年の世界を見通していたことがわかる。」という訳者あとがきに、同感だ。

 現在進行中の、ロシアのウクライナ侵攻の原因となった経緯が述べられ、「まやかしの」オスロ合意を起因としてガザでの残虐な行為が頻発していたこと、「EIプロジェクト」などヨルダン川西岸地区の今後問題になることなどを指摘している。また2017年はトランプ米大統領の1期目にあったので、トランプ現象やヨーロッパの右傾化にも触れている。

 さらに、この本には、主に米国が第2次世界大戦後に行った数々の戦争、侵略、世界各地で民主的に成立した政府を転覆するなどの陰謀について丹念に述べられていて、歴史書としても貴重な著作だと思う。

 この中で、公開された米国政府の機密情報を追って、公表された偽善的なスローガンと全く異なる政府要人の本音を暴露している。著者は米国の衰退が「第二次世界大戦の終わりから始まっている。」と述べているが、それにもかかわらず、米国はその現実を認めることができず、「世界を支配」しているという幻想が保たれるように体面を繕い続けてきたことを解説していて、その幻想が、現在さすがに怪しくなってきたため、トランプが米国を再び「偉大な国」にすると叫んでいることにつながることがよくわかる。

著者の透徹した観察は、米国の良心を象徴するようなケネディやオバマの裏面にも触れ、米国の悪徳さは指導者の個性ではなく、米国全体の問題であることを明確にしている。

それでは、「世界を支配している」のは米国だという主張かと思いそうになったが、著者はアダム・スミスの、「新らしい時代の精神:富を得よ。己以外のことは忘れろ」という言が「支配者たちの邪悪な処世訓」で、現代の支配者は「多国籍企業や巨大な金融機関、超巨大小売業者などだ。」としていて、国家、政府ではないという。このため米国では二大政党のどちらも企業や超富裕層の資本家の意向に左右されているため、国民の不満が充満するようになったと分析している。著者はマルクスのように資本主義を明確に批判していないが、マルクスと同様な認識なのだと思う。

最後に、著者は、「一つだけ(非常に残念な)実例」といいながら、米国民の地球温暖化に対する意識が高まらない理由は、「イエス・キリストの再臨を信じる人が多いからだ。米国人の約四〇パーセントが、イエスは二〇五〇年までに地上に戻ってくると信じている。だから今後数十年間に深刻な気候災害の脅威があっても、それは問題とは思わないのだ。」と述べている。この言説は浅学なため初耳だが、ありうる話だと思う。キリスト教福音派の信者がキリストの二〇五〇年再臨について信じていることは確かなようだ。

民主主義と専制主義 3

   民主主義が中産階級あってのものにすぎないのだったとすれば、「余裕があれば良識もある」ということを語っただけで、「理想を実現した」ことにはほど遠いことになります。要するに民主主義とは形式上の政治形態であり、ポピュリズムも民主主義がもたらした現象なのではないでしょうか。

 現在の世界情況を見ていると、民主主義国よりも、善政をしている名君がいる国の方がましかもしれないなどと思いたくなりますが、それも危険です。

 イギリスの首相だったウィンストン・チャーチルは、「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」と語ったという。現在の世界はその状況から一歩も前進していない。

 だからといって、最近、市民に平等な選挙権を与えることを改める必要があるなどと言う学者(ジェイソン・ブレナン等)がいますが、それにも疑問があります。合理的であっても差別をすることは許されません。

 今言えることは、すべての市民の意見が(多数決により)反映されることがよい政治に繋がると考えて来たことが間違いではないかということです。そのために政治に関心のない人まで血縁・縁・利権・利害・買収などのために投票に動員され、利己的な欲求を惹きつける巧妙な演説をする立候補者が当選してしまうのです。ですから投票率を上げることに意味はありません。政府や自治体は選挙の啓発活動をやめるべきです。

 そのために、選挙運動は選挙公報、立候補者が参加する公開討論会などに限り、前記のようなことをさせようとするその他の個別の選挙運動は禁止するべきでしょう。そうすれば選挙資金もあまり必要ありません。志を持った人がそれを気にせずに立候補できます。そして政治に関心のある人だけが投票すればいいのです。

  しかし、このような改革に支持が広がっても、上記のような選挙活動で政権を握っている政府等に制度を変えさせることはかなり困難です。上記のような選挙活動を却って強化し、改革を防ごうとすることでしょう。これをどのようにして克服するか。それがかなりの難問となります。

 

民主主義と専制主義 2

 

的場昭弘が「「19世紀」でわかる世界史講義」において、説明している民主主義について以下に引用します。

「近代国民国家は、民主主義の条件はそろえたが、それを守る基礎を欠いています。政治に参加できるのは、結局、経済的に豊かな者だけなのです。だから近代国家は、宿命として常に経済成長し、豊かな人々、中産階級を維持することが重要です。中産階級が崩壊すると、民主主義は機能しなくなります。すなわち、資本主義は常に綱渡り的に民主主義を実現するしかないということになります、カネの切れ目が縁の切れ目、民主社会は専制へと容易に変貌するのです。この資本主義と民主主義はヨーロッパが世界に流布させた文明ですが、それは極めて脆い条件の上にできているのです。」

「にわか勉強でルソーやロック思想を理解することはできるとしても、それをそれぞれの国の中に具体的に浸透させていくなど考えられません。そこに至るには、西欧的な市民社会が形成されなければならないし、資本主義が発展しなければならないからです。そうした物的条件がそろわない限り、民主主義思想を実現することはないのです。」

「そうした国民国家の論理は資本主義の性格にもぴったり合っています。持てる者と持たざる者の明確な差異が現れる。近代民主主義と資本主義は、排除と選別の論理によって発展しています。この論理をつくり上げたのは西欧の国々であり、彼らはアジアやアフリカに対してこの価値観を当然のように押し付けてきます。」

「日本の明治150年の近代化が果たして正しかったのかという問題が、突きつけられています。アジアを棄てた日本(「脱亜論」などで)が、いまだに欧米に向いていて、疑似ヨーロッパを体現している。しかし、実際には欧米から相手にされていない。そう考えれば、福沢諭吉の考えは早計だったと言わざるを得ません。」

イギリス、フランス、アメリカなどの一部の国でしか民主主義思想を実現できず、その国々でさえ中間階級が崩壊して民主主義が機能しなくなっているのですから、民主主義などどこにもないということになりそうです。現在のそれらの国の政治状況は明らかにこのことを表しています。

「グローバル化が中間層を分解させ、ポピュリズム社会になる」ということは、宮台真司が各所で語っている持論で、民主主義の危機だと説いています。

これまでアメリカが世界のリーダーでいられたのは豊富な援助資金をばらまいてきたからであり、バイデン米大統領のいう「民主主義」が理解されたわけではないのです。まさに「カネの切れ目が縁の切れ目」なのに、それを自覚できないのは滑稽でしかありません。


民主主義と専制主義 1

最近のアメリカとロシア、中国の対立は見苦しいほどに感じる。アメリカのバイデン大統領はアメリカ側の諸国は民主主義国で正義、ロシアや中国は専制主義で悪だと盛んに主張するが、そんな幼稚な論理で国際的なリーダーを演じても虚しさを感じさせる。これに同調するのはこれまで親米的だった日本やヨーロッパ諸国だけで広がる展望はない。

というのは、ロシアは制度上は国民が平等の投票権を持つ民主主義国家であるし、中国も民主主義を否定していないからだ。ロシアの選挙では権力による不正が行われているという疑いがあるというのなら、その根拠を明らかにし、その不正を非難すればいいわけだ。

中国の政治体制はその意味で民主主義ではないが、中国は自国こそ民主主義だと主張する。多数決ならそれが正義だということなら、それはたやすくポピュリズムに陥り、その結果、最近ではトランプ大統領が、かつてはヒトラー首相が誕生したこと、日本では殆どの期間、経済的利権最優先の政治しか存在しないことを考えると、全国民に平等な選挙権を与えた多数決による国家体制が、中国の国家体制よりも優れていると言えるのかどうか疑問になる。

中国の膨張主義的な面は抑制させなければならないが、これは一面ではこれまでのアメリカの帝国主義と似ており、そのような振舞に対する抵抗かもしれない。アメリカは第2次大戦後特に、共産圏以外の世界中を自国の好きなままにコントロールしてきた。最近のアメリカのなりふり構わない中国に対する攻撃的な言動は、経済的な行き詰まりから、それが叶わなくなってきたための焦りを強く感じる。

中国に方針転換をさせるためには、中南米諸国への露骨な干渉、ハワイ併合、フィリピン植民地化、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガン戦争、勝敗が明確になってから日本に核兵器でダメ押しをした行為等を含む上記の態度を反省することが前提になることをアメリカは知らなければならない。


安倍元総理国葬についての大澤真幸氏の寄稿

 2022年9月30日の信濃毎日新聞に社会学者の大澤真幸氏が寄稿している。

まず、「この国葬は、日本人の国民の記憶に明確な痕跡を残すことなく、忘れられていく予感がする」と述べていることには同感だ。

しかし、その根拠の「国葬の是非をめぐる世論の極端な分断にある」、「単一の主体を立ち上げるのに失敗した」という理由付けには納得がいかない。分断された状況があれば、それは忘れがたい記憶になるのではないだろうか。

さらに「今回の国葬をめぐる世論の分裂に、通常の政治的意見の対立とは異なる深刻なものを感じている。」、「普通は意見が対立していても、人は互いに反対派の気持ちや論拠に対しても一定の共感や理解をもっている。」が、今回は「このような反対派への共感が極端に薄かった」という感覚には大きな違和感がある。少なくとも日本の政治関しては、ずっと今回のような状況であったと私は思っている。彼のいう「普通」の状態とは、いつどのような状況において存在したのだろうか。それが存在したとすれば、なぜ無くなったのかを分析しなければないのではないだろうか。具体的な説明ができないのならただのノスタルジーかと思わざるを得ない。

そして、安倍晋三という政治家がなぜ憲政史上最長になりえたかという自ら設定した疑問に対し、また「わが国の議会制民主主義の中にほとんど反映されていない不可視の分裂が国民の中にあった」という結論のようなことを述べているが、「不可視」で済ませていてはならないのではないだろうか。

「最長」の疑問に関しては、私が先にこのブログで述べたように、自民党の中の最大派閥を巧妙に取り仕切っていたこと、党内にそんな安倍晋三より有力な人材がいなかったというレベルの低い結論をくださなくてはならないだけだ。わが国の議会制民主主義とは、理念などそっちのけの自民党を地縁や利権等のために支持してしまう日本国民の民度の低さで説明するしかないのではないだろうか。



安倍元総理国葬について

 2022年9月27日、国葬に多くの抗議が上がったのにもかかわらず、2022年9月27日、安倍元総理の国葬が予定通り実施された。実施を発表した以上、やめるわけにはいかないことは誰にでもわかることだろう。しかし、大事なことは、このようなことを空しい気持ちで忘れるという、これまでの繰り返しをいつまでもしていてはならないということだ。それこそ現在の為政者が認識している国民の姿そのものなのだから。

まず、岸田首相が述べた国葬実施の理由とその背景はしっかり記憶しなければならない。

もっとも重要な理由は、「憲政史上最長の在任期間」ということだったが、これは国民が直接そうしたわけではなく、自民党に、代わりになる人材がいなかったということを表しているに過ぎない。事件後も安倍派は党内最大派閥を保っており、このことが国葬とせざるを得ない大きな理由でもあるわけだ。いわば、自民党内の内部事情で国民の税金を使ったということであり、国葬に対する世論調査にもそんな国民の実感が現れていた。

森友学園、加計学園、桜を見る会など疑惑は数知れず、とぼけて否定すればいいという姿勢を貫き、自殺者まで出ているのに何の責任もとらず、むしろ部下に責任を押し付け、「忖度」という言葉をはやらせたようなあからさまな官僚支配をしてきた偽善的で傲慢な人間に日本の方向を決めさせてきたことは、そんな自民党に投票してきた国民自身の問題でもある。

国葬実施の他の理由は、「内政、外交で大きな実績」、「国際社会から大きな評価」、「蛮行による死去に国内外から哀悼の意」ということで具体性がない。

最後の理由について言えば、「蛮行」により殺されるような「愚行」をしていたことを考えると笑止千万としか言いようがない。事件以来、旧統一教会による被害が次々と明らかにされ、全国的な問題となったため、狙撃犯が旧統一教会の信者二世から密かに英雄視されているのではないかと思われる中、そのことに一定の責任がありそうな安倍元総理の国葬が行われるといういびつな状況になったことを私たちは今後もずっと忘れてはならない。