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原爆被害は米国に賠償させるべき

 日本政府に戦争被害を保障させるべきだという論理は、半ば定説化されている。その理由は、「日本政府にはこのような悲惨な結果を招いた責任がある」ということなのだろうが、これは、連合国側の責任回避のために日本に押し付けられた論理そのものではないだろうか。それは、広島の原爆慰霊碑に記された「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という文章にも表れている。

2024年のノーベル平和賞を日本被団協が受賞したことは素晴らしいことだったが、「今頃やっと?」というのが私のその時の正直な感想だった。

1210日、日本被団協の代表委員の一人の田中熙巳さんは、授賞式の挨拶において、「生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害を再び繰り返すことのないようにと、2つの基本要求を掲げて運動を展開してきました。1つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張にあらがい、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという運動。2つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、速やかに廃絶しなければならない、という運動です。」、「199412月、2法を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(被爆者援護法)」が制定されましたが、何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきています。もう一度繰り返します。原爆で亡くなった死者に対する償いは日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたい。」と訴えていた。TBSが作成した、『受忍の国 報道1930劇場版』がBSTBSで8月13日に放送されていたが、その冒頭に、このことが紹介されていた。

この映画において、受忍論とは、最高裁が1968年の判決で示した、戦争の被害は国民が等しく耐え忍ぶべきだという考え方で、東京大空襲の被災者や、広島、長崎の被爆者を含む民間人被災者は国に補償を求めてきたが、国はこの判決を根拠に拒否し、一方では、旧軍人・軍属や遺族には恩給など総額約60兆円を支払ってきたことの不当性をとりあげている。

さて、田中さんのこの訴えは、他の国の人たちにどのように受け取られただろうか。彼の訴えは「もっともであり、日本政府は不当な政府だ」と思われただろうか。米国が「歴史上未曽有の非人道的な被害」を生じさせたのに、なぜ日本政府にこの被害の補償を求めるのかとは思われなかっただろうか。

国内では、このスピーチに「なぜ自分の国の恥をさらすのか」と抗議が殺到したという。自国批判をすべて非難するような輩は別としても、国内では、田中氏の日本政府批判は定説となっているからといって、このような異論をすべて排除していてはならないのではないだろうか。

現にユーチューブに@速鴨下さんから提出されている、「私は何故賠償をアメリカに求めないのか不思議でならない、と言うのはこれはあきらかに国際法違反だからです、アメリカの責任を問わないのはおかしいです」という意見に被団協では、どう対応しているのだろうか。回答をしたのであれば、それを公表するべきではないだろうか。

これは、原爆被害についての意見だが、日本各所への絨毯爆撃などの空襲にも同じことが言えそうだ。これはウクライナへのロシアの空襲など比較にならないほどの規模で行われていた大量殺戮だった。(米国など西側諸国はロシアの攻撃を「国際法違反」だと非難するが、それらの国がかつて行ったことを棚に上げた欺瞞的な態度だが。)だからこの補償も米国に求めるべきかもしれないが、我が国も中国に同様な攻撃をしているにもかかわらず、中国はその賠償を我が国に求めないとしていることを考えると困難だろう。

この映画では、ドイツが戦争被害者への補償をしているのに、空襲で被害を受けた85歳の女性をいまだ毎週国会の前に立たせる日本の「戦後」とは一体何だろうかとも問うている。確かにその点で日本政府は冷酷かもしれない。そうすると、この被害についてはドイツと同等の補償を日本政府に求めることは、当を得たことかとは思う。

しかし、「原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならない」という論理で、他の被害と同様に日本政府に損害賠償を求めるとすると、「歴史上未曽有の非人道的な被害」を生じさせた特別な責任は、他の戦争被害の中に埋もれてしまう恐れがある。また、原爆投下攻撃は当然の結果のようにさえ受け取られる恐れさえある。原爆被害については「歴史上未曽有」で予測不可能だったのであるから、米国に損害賠償を求めることについては正当性を主張できるし、他の西側諸国さえ賛成を得られるかもしれない。しかして私は、広島、長崎の原爆被害の損害賠償については米国に求めるべきであると思う。

上記のような私の意見はともかく、このようなことを広く活発に論議できないだろうか。米国による損害賠償の実現性は困難であろう。しかし、被爆者はますます減少しているのに、主たる被爆者団体の被団協がこれまでの主張に対する反論に耳を貸さずに、被爆生存者が存在しなくなる時期が来れば、その活動が弱体化し、近い将来、消滅してしまうことは目に見えている。

私は、被団協のような活動は、被爆者がいなくなっても核廃絶のためには必要だと思う。そのような活動が存続し、広がりを持つためには、これまでの定説化している主張について、国民的に、いや国際的に、オープンに論議し、見直していくことが必要なのではないだろうか。

書評 ものぐさ精神分析[増補新版] 著/岸田秀

 元のこの本は1977年に発行され、ベストセラーになってから増補された古い本だが、この著者が今年5月に亡くなり話題になっていたので読んでみた。読み始めてからすぐに、発行当時に読まなかったことを悔やんだくらい現在でも刺激的な本だ。

岸田は、巻末の「わたしの原点」で自分自身が精神的な問題を抱えて育ち、フロイド(フロイト)の精神分析を学びながら自身を分析して、強迫神経症、幻覚症状、鬱病などを克服してきたことを語っている。強迫症状のなかで、強迫的な禁止という症状が母に植えつけられたことに気がついてから個人的な問題を解決し、鬱病は日本人の精神構造などの社会的な問題は解決に取り組むために、日本近代の歴史、アメリカの歴史、人類の歴史へと向かったとのこと。なるほど、この本が歴史から性に関する分析まで、広範にわたった言説が述べられている理由、また理論が極めて実践的な理由がこれで納得できた。

独特のユニークな文体で述べる注目すべき言説の中で、最初の「日本近代を精神分析する」が秀逸だ。そこで彼は、ペリーの来航以来、日本の対応について開国論と尊王攘夷論が対立したまま、結局、開港派が権力を握り、攘夷派が阻害されて開港派の外的自己が公認となり、攘夷派の内的自己が抑制されたため、日本は精神分裂症質者にされ、やがてこの構造が壊れて内的自己が暴発して発病し、英に宣戦布告してしまったと言う。敗戦すると、外的自己が内的自己を抑制する従来の体制にもどったため、日本が精神分裂症質者である状態は変わらないままだと指摘する。

細かいことは別として、日本の近代をこのように捉えれば、自民党が対米従属をしたまま、「内的自己」として生き続ける右派の圧力を恐れ、国際的に批判されても皇室の男系男子による継承や靖国神社参拝などをする心理を納得しやすい。

だからここから、この分裂を解決するには、「内的自己」を非難すればいいものではないというヒントを得ることができる。それは「内的自己」と向き合い、この分裂を生じさせた欧米の批判がまず必要なのだ、ということなのだろう。もちろんそれは、岸田が述べるように、中国やインドは「植民地化の危険は冒しても、集団のアイデンティティをあくまで守る道」を選んだのに、日本は、「恥も外聞もなく欧米諸国の技術にとびつき」、「外的適応を達成する道」を選び、横暴な欧米を模倣するように中国や朝鮮などを侵略し植民地化するというという行為に流された、安易な軽薄さの自覚、反省を踏まえなければならないが。

次に取り上げたいのは、「ナルチシズム論」だ。彼はこのなかで、「本来なら、現実的自己(以下、現実我と呼ぶ)の保存のために使われるべきナルチドーが、非現実的自己(以下、幻想我という)の保存の方向へ逸脱する。わたしは、ナルチシズムを幻想我の保存の方向にナルチドーが向けられている状態であると定義する。それと対比して、ナルチドーが現実我の保存に向けられている状態がエゴイズムである。」と述べる。(なお、「ナルチドー」とは彼の造語のようで、リビドーが性本能のエネルギーを指しているので、個体保存本能のエネルギーを仮に「ナルチドー」としたとのこと。)

このような言説は初めて知ったので、今後、私なりに検討してみたいと思っているが、なるほどと思わされたのは、このナルチシズムが、自己陶酔に止まらず、他者に投影されるという指摘だ。 

彼は、「ナルチシズムは、自己と対象の区別が成立する以前に形成されたものであるから、自己と対象の混同をその本質的条件の一つとして含んでいる。幻想我は容易に他者と混同される。この条件を利用して、幻想我と現実我の葛藤を解決する方法もある。対象を幻想我と同一視し、対象にナルチシズムを投影するのである。」と述べ、「テレビの画面では、連日連夜、幻想我の代表選手である仮面ライダー・・・水戸黄門や銭形平次が、善玉(現実我)をみじめな状態に突き落とし、不当に虐待している」悪玉(現実原則)をやっつけているが、十年一日のごとき同工異曲の物語が決して飽きられることがない。人びとはこれほどまでに、幻想我の実現をはばんでいる現実の世界を恨んでいるのである。」と論を展開している。この「対象を幻想我と同一視し、対象にナルチシズムを投影する」という表現は見事だと感じる。

要するに、テレビや映画、小説などのヒーローへの憧れは、ナルチシズムと結びついていて、自己とそのヒーローを同一視する混同することから生じ、これはヒーロー以外にもアイドルや偉人にも同じことが言えるということなのだろうと私は理解した。有名な他者を同じ人間として見ようとせず、特別視、特別扱いする愚かさが明確に見えてくるではないか。現代人は現実に絶望的になっているので、幻想にしか生きられない様相になっている。かねてからのアメリカンドリームや最近のトランプ現象,大谷翔平現象にみるように、現代社会は幻想を幻想と捉えられない状況に陥っているが、その分析に有効な言説だと思う。

彼は、神や、何らかの主義、理想、理念などもナルチシズムの対象となると述べていて、「はて?」と思わせるが、それらの観念自体が崇拝の対象になりやすく、そうなっている場合のことを言いたいのであろう。私は、それは典型的にはナショナリズムや郷土愛などに現れていると思う。さらには誇りもナルチシズムにすぎないと思う。

ほとんどの論旨に同感だが、一つだけ納得できない言説がある。それは、「何のために親は子を育てるのか」の中で、人間の育児本能はこわれているので、子を育てることは親には大変な負担であり、子を育てないということもできるため、育児行動を根拠づける何らかの人為的観念をつくりあげなければ人類の存続は不可能であった。」とし、生き残った部族は、その思想に頼って育児行動を続け、それが母権制や家父長制などの社会制度となったという言説である。そして彼は、父殺しと近親相姦の二大タブーに、子捨てのタブーが加えられて、この三大タブーが家族制度を支える柱だったと言う。確かに、生んだ子どもは自分たちで責任をとれという社会規範があったから子捨てをかなり防いでいた面はあるが、これまでの社会は、子に扶養されなければ生きていけないという社会だったので、大半の人たちは子を産もうとしてきたのではないだろうか。

人間の子育て本能が壊れていることは確かだろうが、子育ては負担でも、有り余るメリットがあるから厭わず、むしろ懸命に育てたのではないだろうか。だから、義務付けなければ子育てを放棄するというのは、このようなことを忘れ、「人間の本能が壊れている」という論理に支配されすぎた言説ではないのだろうか。そして、子こそ親を扶養することが重荷だったので、親孝行という道徳が必要だったのではないだろうか。・・・その社会も年金制度や介護保険などにより変わりつつあり、子を産まないという選択をする男女も増えているが。

彼の言説には、引用文書などがあまり示されず(だから「ものぐさ」と自称しているのかもしれない)、乱暴な面もあるが、他にも「自己嫌悪の効用」など、注目すべき言説が数多く掲載されており、今後もっと広く読まれるべき書籍だと思う。

 

書評 神経症的な美しさ アウトサイダーが見た日本 著/モリス・バーマン 訳/込山宏太

 この著書の「日本語版への序」によれば、この著書のタイトル中の「美しさ」とは、著者が経験した合気道、囲碁、俳句、座禅などの日本の「伝統に表現されている精神的な態度すべては、日本の芸術家たちの偉大なる工芸の伝統とともに、西洋の私たちが・・・大いに必要としているものである。」からだ。「神経症的な」とは、ペリーの来航と太平洋戦争敗戦後の占領という米国による武力行使によってもたらされた日本の「二重苦」や、急激な近代化により生じた日本人の魂のねじれを指しているようだ。

 また、著者は、ペリー来航以来、日本は「西洋を乗り越えるために、西洋の技能やテクノロジーを獲得する競争が始まった。その速度は近代史(あるいは近代化の歴史)において類例のないものであった。」、「米国や西洋の帝国主義的列強に倣って、日本は近代世界において対等な関係の構築を目指す道を選んだが、それは古来の伝統やアイデンティティに大きな犠牲を強いるものであった。」と述べ、やがて、詰め込んだ西洋の知や西洋式の帝国主義が「満州事変や真珠湾、ヒロシマへと至る」原因だったとする。

 この指摘は基本的に正しいものであろう。米国人でありながら、米国がたどった歴史や現在の状況に批判的であり、こういう人がどのように日本や日本人を捉えるのかに興味をもったが、この著書の膨大な日本描写は、上記の「ねじれ」の日本文化への影響との関係を踏まえておらず、米国と異なって、伝統が長らく保持されている日本を美化していて、通俗的で、自身で「異国趣味」という欧米人の傾向を批判しているにもかかわらず、所詮「異国趣味」的な言説にすぎないと感じる。日本人を批判しながら、その欠陥が米国人にもあるという認識をした言説を述べる際に、「私たちは日本人に他ならない」という言に、日本人蔑視と自虐意識を感じるのは私だけだろうか。

 著作の意図はどこにあるのかと、どうしても考えてしまう。そもそも、著者が冒頭で「神経症的」と表現している日本の精神状況は、むしろ分裂的であり、いわば「統合失調症的」といった方がいいのではないだろうか。「美しさ」などは「アウトサイダー」が、表面的に眺めた印象でしかないか、この本を日本人向けに売るために「おだてよう」という意図を感じる。特に、最終章の「ポスト資本主義をモデルとしての日本?」という副題のもとで、近代化の歴史が浅いために、いまだに資本主義化されていない産業技術などを評価する言説を展開するが、本気で書いているのかどうかと思ってしまう。

 それにしても、それが欠けていると自己規定する米国人が評価する「伝統」とは何だろう。私には、日本は、家業が根強く残っているからに過ぎないように思える。「統合失調症」的で、アイデンティティを失っている日本人は、日本文化を自分自身で評価できないでいるのに、米国人などに評価されて、それが儲かる伝統家業になり、「日本人が誇るべき日本の伝統として残る」としたら、日本はペリー、占領に次ぐ第三波の影響を受けることになるかもしれない。

書評 西洋の敗北 著/エマニュエル・トッド 訳/大野 舞

 書名や「日本と世界に何が起きるのか」という副題を見て、どんな本かと思って読んでみたら、ロシアのウクライナ進攻をめぐる評論だった。副題は、日本人向けにまえがきとあとがきが書いてあるためで、売れる本にするため出版社の作戦なのだろう。

ということで、ウクライナ戦争はロシアが西洋側に勝利するという結論になる解説が大半であったが、そのなかにも、参考になることは多かった。また疑問のある言説も多かった。

まず、プロテスタンティズムの(カトリック側から見た)特質についてだが、「プロテスタントの信者は、誰もが聖書にアクセスできなければならない」ので、信者を識字化させたという。そしてその能力は技術と経済の発展を可能にし、「意図せずして、非常に優秀な労働力を形成した」という。また、予定説を信じるようになり、「選ばれし者と地獄に落ちる者がいる」、「つまり、「人間は平等ではない」という人間観を共有している」、その不平等主義は「洗礼によって原罪から清められた人間はみな平等である」というカトリック(あるいは正教会)の根本的な考えに対立した」、「その結果として、人種差別が最も激しく、最も強固な形で現れたのがプロテスタンティズムの国だった」、さらには「これは基本的な人権をすべての人に認めるわけではない、というプロテスタンティズムの本質的な帰結なのである」とまでいう。ここまでプロテスタンティズムへの批判をするトッドの母国で主流のカトリシズムはどうなのだろうかと思いつつ、一応、受け入れた。

これは、「国家」や「国民」という概念の起源論にまで及び、誰もが聖書にアクセスできるようにするためには、聖書が土着の言語に訳されるべきということになったためで、プロテスタンティズムがそれらを生んだという説を述べる。確かにそれは一理あると思える。ただ、その概念はフランス革命が起源ではないとし、「プロテスタンティズムは、聖書を読みすぎたことで、「我こそは神に選ばれし者」という自己意識に至った人を出現させたのだ」とまでいうので、ここでも、「フランスはどうだったのか?」と言いたくなる。

この後もキリスト教の崩壊と思想の退化についての言説が延々と続く。トッド曰く、キリスト教崩壊の段階は、「活動期」段階から「ゾンビ」段階を経て、現在の「ゼロ」段階に至ったとのこと。現在は、東欧とイタリア以外ではキリスト教は消滅しているという。ほんとうにそこまでいっているといえるかどうかは疑問だが、ヨーロッパのキリスト教信者がかなり減っていることは確かだろう。

さて、ヨーロッパでは、その「ゾンビ」段階ではキリスト教的な慣習は残っていたが、「宗教を代替する信仰」として、ナショナリズムや国民国家を生み出されたという。しかし、この段階では、拘束力のある社会道徳や集団のために犠牲となる能力は残っていたが、現在の「ゼロ」段階は国民国家が解体され、グローバル化が生じた状態だという。この段階に至ると、道徳的精神がなくなり、これがもたらした「虚無」感がニヒリズムを生んだという。現在、ウクライナに代理戦争をさせることに疑問をもたないのは、「道徳ゼロ状態」を現しているという。そんなヨーロッパが、間接的にでも、ウクライナ戦争に参戦したことは自殺行為のようなものだという。

そして、今度は、「EUの軍事的な自殺幇助に死を与えるという」新たな役割を担うことになったアメリカの「貧困化」の話題となり、アメリカは新自由主義により、1945年当時、世界の工業生産の45%を占めていた工業生産が、今日では17%まで落ち込んでいて、中国は2020年に28.7%に増加しており、同盟国間の貿易赤字は2930億ドルで、中国に対しては3500億ドルの赤字だそうだ。このようなデータは参考になる。

アメリカのプロテスタンティズムの消滅についても言及している。1990年代に福音派が終わったという説は支持できないが、アメリカにおいては、反科学的なメンタリティと病的なナルシシズムにより、「神は(信者に)要求する存在ではなく、信者をおだて、心理的あるいは物質的なボーナスを与える存在になってしまった」という。

欧米で、出生率の低下がみられることは宗教性の退化を示す最も確実な方法だという説は支持できない。現に、欧米よりも顕著な日本や韓国の出生率の低さは宗教性の低下のせいとは言えないだろう。仮説ではあるが私見を述べれば、老齢年金制度が整った社会で起きている現象であり、この社会では子育ても社会で担わないと、子育ては経済的に割に合わない行為になるからだと考えている。

なぜかここで突然、トランスジェンダーについてのトッドの考え方が述べられる。トッドは、ジェンダーを自分の好みに従って変えることに反対であるという。このことは支持するが、性染色体を変えることができないのに、それができると主張することは「虚偽を肯定することで、典型的なニヒリスト的行為である。」、「虚偽を社会の心理として押し付けたいという欲求」を非難する理由については支持できない。ニヒリストなどという道徳的な非難には違和感があるし、私見を述べるならば、人間の性別は、人間も一種の動物でしかなく、その肉体の束縛のもとでしか生きられないという限界を認めざるを得ないということを人間も受け入れるべきだと考えているからだ。それは身体的な性別が男女に分けられない人がそのまま社会的に受け入れられなければならないということを含め、社会的なジェンダーとは別の問題だと考えている。

終盤になると、トッドは得意の統計的手法で、1965年に、「「高等教育を受けた人口が25%以上」という閾値にアメリカが達し(ヨーロッパは約1世代分後れで)」、「即座にあらゆるレベルでの知的衰退」をしたという分析を述べる。それは、「教育こそが切り札の一つだったプロテスタンティズムの消滅が起因していて、それが福音主義を普及させたという。

本書には、ほかにもこのような統計的手法にもとづく言説があるが、その統計数値が意味することや、どのように社会に影響を与えるのか説明がないのはおかしい。知的衰退についていえば、アメリカ人の知的水準は変わっているとは思えない。少なくとも、第2次大戦後は娯楽しか求めていなかったのではないかと思っている。それは、アメリカの文学作品や映画を見れば明らかだ。その原因は、資本主義が絶頂期だったせいだと考えている。

トッドは、アメリカは、新自由主義や自身が進めたグローバル化により、自己の覇権を失いつつあるとして、それは世界通貨としてのドルを生み出して金銭的な富を得ており、ドルはコストゼロで生産でき、それ以外のすべての経済活動は採算の合わない、魅力的でないものになるからだという。そのようなシステムを担う銀行家やロビイストがアメリカにおける最高の職業になっているという。

そのような欧米の状況の中では、欧米のいう「その他の世界(欧米とその友好国以外の国」にとって、西洋はもはや尊敬に値する勝者ではなくなり、西洋の傲慢さに世界が苛立ちを募らせていることがロシアにとっての切り札となり、ロシアの経済制裁が効果を出すことができないのだという。「その他の世界」は、中国、インド、ブラジルなどの大国を含み、圧倒的な多数者だからだと述べている。

トッドの言説を俯瞰すると、世界の動向を機敏に察していることは確かだが、その原因としての宗教の社会的影響や伝統的な家族形態に囚われすぎているように思える。確かに西洋はキリスト教を離れて分析できない。しかし、科学的な知識の普及や哲学により、徐々にではあるが確実に西洋人はキリスト教から自由になりつつあると思っている(ただ、アメリカの福音派を含む宗教の動向については読めないが)。だから、上記のように、キリスト教の衰退が現在の欧米の劣化の主原因のような言説には説得力を感じられないのだろう。トッドは自己の手法で有名となったことに溺れてしまい、その手法を通した表面的な世界がしか見えていないのではないだろうか。

書評 ポストヨーロッパ 著/ユク・ホイ 訳/原島大輔

 日本人以外の東洋人?(中国人?ウィキペディアには「香港出身の哲学者」とされている)によるヨーロッパ文明批判の書籍なので興味を持った。

日本語版へのまえがきに、本書が日本思想に深く取り組んでいることや日本滞在時に日本人研究者と交流し、「それまでにないほどの洞察を」得ることができたことが述べられている。

なるほど、彼はこの著書で、第二次大戦中の日本に起きた「近代の超克」運動や京都学派、西田幾多郎、竹内好などの言説を正面から受け止め、批判的に評価している。

彼はかなり、ハイデガーの影響を受けていて、この「ポストヨーロッパ」論を、ハイデガー独特の「故郷喪失」、「(サイバネティクスによって画定された)哲学の終わり」、「惑星化」、「総かり立て体制」等の概念に触れながら展開しているため、後期のハイデガーの著作を読んでいないとわかりにくいが、訳者解題やウィキペディア等を参考にしながら読んでみた。

著者が注目しているのは、ヨーロッパ哲学がテクノロジカルな思考であることで、それがヨーロッパ哲学をグローバルにしたということであるようだ。それだけだと解説にすぎないが、著者は、それは理論的な先進性によるものではなく、海軍力の先進性がヨーロッパを非ヨーロッパ地域と比べて武力において優位に立たせたからだったからだと述べている。これは非ヨーロッパ人ならではの鋭い批判的分析でありわかりやすい。著者は、ポストヨーロッパ哲学はテクノロジーを抜本的に改革しなければならないという。そして西谷啓治がこのことを理解せず、近代科学を拒否したことが「近代の超克」プロジェクトが失敗した理由の大部分を負っているという。

以下、哲学論は正直いってよくわからないので、歴史認識を中心にこの著作を紹介し、私なりの理解や批判を述べる。

私が注目したのは、日本がヨーロッパと競争するために、極度に圧縮された近代化の過程を踏まざるを得なかったことで「方向喪失」に陥ってしまい、京都学派の思想家たちが、ヨーロッパ内の近代批判を認識しながら、日本中心の世界秩序を論じるようになり、それが他のアジア諸国を侵略することを正当化するために利用された、という言説である。そう、維新政府は日本をヨーロッパに追いつかせるために、政府主導で産業を興し、社会の制度を輸入してきたため、日本は官製国家でしかなく(これはいまだに続いている)、国民は封建的な従属性を受け継いだままで、政府が巧妙にプロパガンダで国民を操る状況から思想家も自由ではなかったのだ。

そして著者は、現代の消費社会は上記のようなテクノロジー万能的な哲学から生じ、「知性的過程を短絡」させ、ショッピング、ヴィデオゲーム、SNSの中毒現象を増殖させ、欲動に支配された経済は人間を脱個体化し、個人は自分自身を愛し損ね、それゆえ他者を愛する能力も失うと述べ、ポストヨーロッパ哲学はアメリカ的消費経済と対決しなければならないという。

この論文全般には、人間がこれまで「故郷」に自己のアイデンティティを求めてきたため、その思想がナショナリズムや人種主義などにとらわれてきたこと、その故郷がグローバル化、惑星化により失われてきて(「故郷喪失」)、よりどころがなくなったことが現代の精神的な危機の原因であることが述べられている。

著者は、これを解決するためには、故郷を取り戻すことではなく、故郷喪失を肯定し、「思想家が国民国家を乗り越えるためには故郷喪失者になるしかない」という。そして彼は、コーダ(終章?)「ニーチェの後に、善きヨーロッパ人」の最後に、「出生が意味するのは国籍ではなく、むしろこの惑星上への偶有的な被投性、そしてそれによってひとが生きてこの惑星を共有する権利を獲得するということである。この偶有性はまた必然的な初期設定としての欠陥をも意味する。ひとはそれを通じて特殊な歴史と場所から与えられた特定の資源の継承をするのである。」という存在論を述べている。これこそ、由来はヨーロッパであっても、人間(地球人)は、どこの国民でもなく、そしてすべての属性から自由に生きようという、すべての人間を結ぶ認識だと思う。

この著書は理解しがたい面もあるが、私が期待したとおり、日本人以外の非ヨーロッパ人によるヨーロッパ文明批判として満足できるものだったが、無視できない30頁以上に亘る訳者解題がある。前半の「本書にいたるホイの仕事について」で字義のとおりの説明があり、「本書について」は訳者独自の考え方が述べられている。この中で訳者は、「本書のとりわけ日本語版の読者がホイの問いに応えるためには、まずもって前世紀の日本における「近代の超克」にそれぞれの立場から対決することが求められているように私には思われる。」として、加藤典洋の『敗戦後論』の「よごれ」をとりあげ、「よごれとは侵略戦争という悪をなして敗れたということである。戦争を通過した私たちは二度と過去に回帰することが不可能な仕方でよごれた。このことに向き合わない限り自己に向けても他者に向けても哀悼と謝罪が可能な主体がいつまでも構築できない。この状態でいくら哀悼と謝罪をしたところでどこまでも形だけのものにしかなりえない。このねじれとよごれを抑圧した自己欺瞞ゆえに私たちはいわば人格が外向きと内向きの自己に分裂しており、これを克服して一個の人格を回復しなければ先に進めない。」といいながら、なぜ分裂していているのか、どう人格を回復させるのかを述べていない。これではこの問題が単にモラルにしか及ばず、かねてから「自虐的」といわれていた言説と変わらない。

私はかねてから日本のアジア侵略は、日本人が欧米の帝国主義的な政策に反感や危機感を持っていたにもかかわらず、それと同じことをアジア各国にしてしまうという卑劣な行為であったと考えている。そしてその反省は、欧米への反感等にとどまり、欧米批判に至らなかったということを踏まえたものでなければならないと考えている。日本人の人格が分裂しているのは、東京裁判により、欧米批判を意識的にも無意識的にも抑圧させられていることに原因があると思っている。「鬼畜米英」と叫んだことや戦前の右翼思想すべてを否定してしまうことは間違いなのだ。欧米の大航海時代からの侵略は当時の日本人の脅威であったのであり、このことを抜きに過去の批判を安易にしてはならない。欧米にこのことについて反省させ、アジア諸国への謝罪をするならば、欧米とともに謝罪するべきなのだ。

この著書において著者ホイが、軍事力で地球中を荒らしまくった欧米批判を展開しているのに、これを翻訳しながら、この訳者はそれをどう読んだのだろうか。ホイは、ヨーロッパ中心主義がヨーロッパのみならず、「惑星的」に普及していることを読者に訴えているにも関わらず、それが理解されにくいことが、訳者の言説でも明確になってしまっている。

 

書評 トランスクリティーク カントとマルクス 著/柄谷行人

 著者の柄谷氏自身が、この著書について「難しい本」だとインタビューじんぶん堂企画室)で語っているとおりの難解な本だが、彼は、カントやマルクスの著書についてのポイントをついた引用をし、具体例を挙げながら、彼独特の解釈もあるとは思うが、丁寧な腑に落ちる解説をしてくれているので、なんとか読み通すことができた。しかし、内容が濃いため、脳が煮詰まり、続けて読めるのは2時間がせいぜいだった。 

正直言って、カントの著書は全く読んだことがないのでピンと来なかった。マルクスについては、『共産党宣言』、『ヘーゲル法哲学批判序説』、『ドイツ・イデオロギー』等の小冊子のみで、『資本論』については断片的な解説しか読んでいなかったが、彼の『資本論』の解釈は納得でき、参考になるものだった。

さて、この著書は注まで含めると500頁を超える大著であるため、ここで全体について触れることはできない。以下、私なりに理解したマルクス解説について述べる。

結論からいうと、資本主義の仕組みの労働者搾取だけでなく、交換過程に注目するべきであり、そうすれば、これまでのマルクス主義者による資本主義の捉え方では抜け出すことができなかった、資本=ネーション(共同体、集団)=ステート(国家)という三位一体のリングの出口を見出すことができる、ということを彼はいいたかったのだと思う。これを彼は、マルクスが『資本論』で、「産業資本の剰余価値は、たんに労働者を働かせることによってではなく、(総体としての)労働者が作ったものを労働者自身が買い戻すことにおける差額から得られる」と述べていることを引用しながら導き出している。労働者からの搾取ばかりを問題とした労働運動のみの抵抗運動は結局、資本の力に対抗できず、社会的な広がりを期待することもできないため行き詰まる宿命にあるのだという。

 

このことが、エンゲルス以降のマルクス主義者には理解されなかったから、ソ連の様な集権主義的な社会主義国家が生まれ、その後、衰退したのだろう。この辺を読んでいると、アレントの『革命論』におけるマルクス批判が極めて表面的なことをつくづく感じる。

そして柄谷氏は、この交換過程への注目から、「アソシエーション」という思想をもとに、労働者が「買わない」ということにより資本を脅かすことができる消費者運動を、労働運動と連携させることが有効な資本経済への対抗運動となると述べ、具体的には協同組合で生産、消費を管理すれば資本主義を揚棄することができるという展望を述べている。

彼の、交換過程への注目や「アソシエーション」への言及、消費者運動と労働運動の連携については目新しいものを感じる。しかし協同組合による資本主義揚棄は頷けない。現在、消費者協同組合は存在するが、資本に対抗する運動母体になるようには見えない。生産協同組合はこれまで西欧等で生まれたがほとんど消滅しているようだ。柄谷氏は、1990年代以降、「世界商品」が、巨大な資本による耐久消費財生産から、情報産業に移行しつつあるので、今後、生産協同組合がそれを担える状況が生まれているとしているが、そもそも、そのような運動は起きるような気配はない。

柄谷氏の言説は、20世紀初頭だったら有効だったかもしれない。経済的に悲惨な状況が過去に比べて軽減されている現在、社会民主主義的な改革が一定程度浸透している現在、どのような人々がそのような運動を起こすのだろうか。この状況は社会民主主義を批判しても打開できない。     現在の危機は、地球環境問題や人間が、消費や娯楽の奴隷のようにされていることにあるのではないだろうか。彼は、資本主義的商品経済の限界として、自然環境と人間を自ら作り出せないこととしている。これについては「後に述べるように」とあるので探したが、具体的な言及は見つからなかった。私の読み方が足りないのかもしれないが、残念だった。

今、必要なことは、目に見えにくいが確実に人類を滅亡させるようなこの危機を、多くの人々に気づかせることではないのだろうか。それがなければ資本への対抗運動は起きないだろう。

もうひとつ気になることがある。それは斎藤幸平氏にもいえることだが、柄谷氏も多くのマルクス研究者と同じように、「マルクスは○○といっている」という論理に囚われていることだ。マルクスが偉大な思想家であることに、私も異論はない。しかし、あくまで優れた一人の思想家として捉え、その優れた考え方を学ぶというスタンスを保持するべきだ。そうでないと、マルクスの崇拝者でしかないか、自分の考えをマルクスに権威づけてもらうようなことになってしまう。要は、自分が現在感じていることを表現するべきなのではないだろうか。そうすれば、今、ここにいる人々に響く言論になるのではないだろうか。

奴隷貿易を「人道に対する最も重い罪」とした国連決議

 3月25日の国連総会において、奴隷貿易を「人道に対する最も重い罪」と宣言する、ガーナ提出の決議が123か国の賛成多数で採決された、今後、その賠償や謝罪を求める論議が起こるだろうというが、正直いって「今頃?」という感じがした。それは、「今に至るまで、そういうことが論議されなかったの?」ということであり、決して「そんなことはアナクロだ」ということではない。

 奴隷貿易について、すでに謝罪している当事国はオランダだけだとのこと。その他の欧米当事国は道義的責任については、これまであいまいにしても許されてきた、ということになる。それに甘えているイギリスを筆頭とする当事国は決議に際し棄権し、その状態を続けようとしているのは明らかだ。棄権したのは、日本を含め52か国にのぼるという。

 そして、決議の際、反対したのは例によって、イスラエルと米国の横暴コンビと、トランプにそっくりな大統領のアルゼンチンだそうだ。イスラエルは当事国ではないが、破廉恥さは同等なので抵抗なく同調したのだろう。

  しかし、欧米の罪は奴隷貿易だけではない。大航海時代から地球上を荒らしまくり、アフリカ、南北アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイ、アジアなどにおける、原住民の虐殺や居留地への閉じ込め、植民地化、不平等な貿易による搾取、人種差別、民族差別など様々な「人道に対する重い罪」を犯してきている。 

ここまで広げると、そのような欧米をまね、東アジアや東南アジアに植民地を築いた日本のような国も当事国となるが、この際、国連を含め世界中で奴隷貿易だけではなく、上記の植民地政策なども「罪」の対象にして論議するべきではないだろうか。それらの加害国がその論議を受けて真摯に反省し、その罪を認め、その被害を受けた国々に謝罪をしなければなければならないのではないだろうか。

そのような過程を踏まないと、被害者意識がいつまでも残り、いまや全人類の問題となっている地球環境の危機を招いていることを、全人類の課題として自覚できないだろう。産業革命が戦争を大規模化・残忍化し、公害をもたらしたことを再認識し、近代という時代はそのような時代であり、それにも関わらず、「近代化」ということが人間に幸福をもたらし明るい未来を築くということを無自覚に信じてきたことについて考え直すことができないだろう。さらに、資本主義がその近代化を加速させ、極大化させていることにも気づかないだろう。

  

クラブのホステスどころか、SNSでは「安物のスナックのママ」の高市首相

 326日のこのブログに私は、高市首相の日米会談における振る舞いが、「まるでクラブのホステスのように」と記したが、同日の集英社オンラインによると、先日の日米首脳会談の高市首相の振る舞いがX(旧Twitter)で、「スナックママ外交」という厳しい批判にさらされているが、経済専門家は、「とはいえ、他にやりようがないというのが現実」と首相を弁護しているとのこと。

集英社オンラインは続けて、

しかし、これらの「スナックママ」といった批判は、匿名個人の感想や一部メディアの表現を集めたものに過ぎない。外交の成果や戦略を専門的に分析したものではなく、見た目の印象に頼った信頼性の低い感情論である。こうした根拠のない批判をそのまま鵜呑みにすることは避けるべきだ。では、高市首相のこの外交は間違っているのだろうか。結論から言えば、彼女を特別に褒めるというよりも、日本の置かれた状況を考えれば「他にやりようがない」というのが現実ではないか。」と、その評論家に同調しながら、

「日本の政治家は、岸田文雄元首相しかり高市首相しかり、相手の顔色を窺って態度をコロコロと変えるのが大変お得意なようである。

強い相手には徹底的にすり寄るし、相手によって見せる顔を全く違うものにするのだ。もし国内政治で総理大臣がこのような八方美人の態度をとり、言うことをコロコロ変えていたら、私は強く批判する。信念を持たずに周囲の顔色ばかりを窺う政治家は信用できないからだ。」

と言いながら、

「しかし外交においては話が全く別である。態度をコロコロ変えていることが相手国に知られない限りにおいてだが、そもそも外国は日本の首相がおべっかを使っていることにさほど関心がない。振り返れば、私たち日本人も外国の首脳が他国で何を発言しているかなど気にしていないだろう。

日本が相手の顔色を窺って態度を変えることは、いい悪いではなく、「これ以上どうしろというのだ」というのが実状ではないか。日本には自国を守る圧倒的な軍事力も、国を動かす資源もない。そのような国が、理想やプライドだけを振りかざして生きていけるほど世界は甘くない。

このような「相手によって態度を変え、保険をかける」日本のやり方を、専門的な言葉で「ヘッジング戦略」と呼ぶ。

日本外交は、大きく分けて「アメリカへの同盟強化」「中国との経済的な関与」「その他の国との実利外交」という三つの要素から成る。外務省が公式に出している『外交青書』を読み解くと、いかに相手に合わせて言葉を使い分けているかがわかる。」、「第一に安全保障を依存しているアメリカに対してだ。自分たちの力だけでは国を守れないため「価値観が完全に一致する親友です」と熱烈にアピールし頼らなければならない。」と、もっともらしい口調で、訳の分からない論理を展開しながら、「『外交青書』(2025年版)には、「第一に、日米同盟の充実・強化です。日米同盟は、日本の外交・安全保障の基軸であり、トランプ政権との間でも、強固な信頼関係を構築し、日米同盟を更なる高みに引き上げていきます」と書かれているとし、

「高市首相がトランプ大統領の前で媚びているように振る舞ったのは、この「基軸」を守るために相手の顔色を最高レベルで窺った結果である。見栄えは悪いかもしれないが、国の安全のためにはひたすらヨイショするしか方法がない。」と、評価する。

 情けなくて、絶句してしまうような言説だ。私はSNSの動向にはあまりなじみがなく、通常、SNS上の毀誉褒貶についても注目していない。しかし、今回は、SNS上の批判や炎上を支持する。理念のかけらもない経済評論家と同調するマスコミなら、直感的な反応のほうがまともだろう。

外交が国内政治と別物である訳がないではないか。「態度をコロコロ変えていることが相手国に知られない限りにおいてだが」というが、知られないと思っているのは認識不足で、米国はとっくにそんなことは見抜いている。そのうえで知らないふりをしていることを見抜けない自らの甘さ、劣等性を知るべきだ。

「そもそも外国は日本の首相がおべっかを使っていることにさほど関心がない。振り返れば、私たち日本人も外国の首脳が他国で何を発言しているかなど気にしていないだろう。」というのは、全くの認識不足だ。「私」(オンライン筆者)は、外国の首脳が他国で何を発言しているかなど気にしていないかもしれないが、それは「私」だけなのではないだろうか。そして外国人も日本の首相のトランプ大統領へのごますりや媚をみて、米国の「永久敗戦国」のような日本の従属性を再確認し、内心では軽蔑していることを想像できない人がSNSの批判をしていることは滑稽でさえある。

そして、「日本には自国を守る圧倒的な軍事力も、国を動かす資源もない。そのような国が、理想やプライドだけを振りかざして生きていけるほど世界は甘くない。」というが、日本政府を含め、そのように他国(米国)に依存する国が、強国に従っていれば、その国が守ってくれると、思っていることは、「甘くない」と言えるだろうか。

何事にも損得を重視する米国が日本を守るとなぜ言えるのだろう。現にトランプ大統領は日米安保条約が片務的で不公平だと不平を何度も言っている。彼らは中国やロシアなどの軍事大国から危険を冒してまで、日本を守ろうなどとするはずがないではないか。米国は日本を守ろうとするはず、などというのは、蝶々夫人の例を挙げるまでもなく、空しい願望にすぎないのではないだろうか。

イラン攻撃以前から、ガザでホロコーストを進めるイスラエルに軍事援助をし、ベネズエラ大統領を誘拐し、これからキューバを攻撃すると脅すトランプ大統領をノーベル平和賞候補に推薦し、先の日米会談、「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけ」、彼の息子が「イケメンでご両親に似ている」というような、できているかどうかは別にして、女を武器に、あからさまな媚を売ることは、まさに「安物のスナックのママ」そのものではないか。「ドナルドだけ」は、米国に主体的に事態を鎮静化させる狙いがあるという言説もみられるが、トランプ大統領はそんな自覚をするどころか、幼稚な「アダルトチルドレン」だから、ますますつけあがるだけだろう。

ところで、実際の「スナックのママ」は、そのようにして実利をしっかり稼いでいる。これに対し、高市首相を代表にした日本は、米国に基地を提供し、駐留経費を援助し、米国企業が生産する武器を大量購入し、貿易黒字が多くなれば輸出を自主規制するなど、米国に多大な貢物を送っているにもかかわらず、何の見返りもないかもしれないではないか。こんなばかばかしい対米関係を続けている日本が、イランに対し、「直接のパイプを生かし、あらゆる外交努力をする」というが、イランは、このような日米関係を知らないはずはなく、そんなアリバイ的言辞は「聞き置く」とされるのがせいぜいだろう。

 集英社オンラインは続けて、

しかし、私はここで一つの思いをどうしても捨てきれない。いくら外交が実利優先のヘッジング戦略で基本いいのだとしても、それに甘んじるのは、ただの「思考停止」である。

協力と競争を両立させるために曖昧な態度を取り、相手によって言うことを変える二枚舌を使っていれば、本来、馬鹿にされても仕方がないのだ。また、戦略が本質的に「曖昧」であるため、相手国や第三国が日本の意図を誤読しやすいという大きな危険もある。

例えば、「日本は中立を保っているのではなく、裏で敵対の準備を進めているのではないか」と疑われるリスクだ。

だからこそ、「スナックママ」のやりすぎは良くない。理不尽で横暴な客に対しては、笑顔の中にも毅然とした態度でピシャリと対応するものである。繁盛する一流店とはそういうものだ。

そして、この曖昧で誤解されやすい二枚舌外交の限界を補うために、日本はこれからの方向性を明確に示す必要がある。例えば、対象を「東アジア」に限定し、この地域の経済的・軍事的な安定に対して積極的に関与していくと堂々と掲げてはどうだろうか。

外交の舞台で相手の顔色を窺い、泥臭く実利を追い求めること自体は、資源も力もない日本が生き残るための厳然たる事実であり、私はその経済合理性を支持する。だが、その根底にあるべき「国家としての誇り」まで売り渡してしまえば、単なる卑屈な迎合に成り下がる。

四方に媚を売りつつも、最後の一線では毅然と振る舞い、東アジアの安定という明確な軸を持つしたたかさこそが、国益を守る道ではないか。」

と、先の情けない評価を修正しながら結論しているが、この部分が本音だとすれば、先のような評価をするべきではなく、この筆者は何を考えているのかわからなくなる。しかし、この部分の論理を分析すれば、この筆者は、表面上の振る舞いをどうすればいいかと考えているだけで、単なる技術論でしか政治を語ることしかできないことが見えてくる。

やはり、このようなマスコミの劣化が、SNS隆盛の原因の一因であることは確かなようだ。

NATO各国のお陰で窮地から救われた、高市首相

 319日の日米首脳会談前に、トランプ米大統領は日本をはじめとする友好国への、ホルムズ海峡への艦船派遣を撤回した。この豹変は、NATO各国がきっぱりとこの要請に応じない姿勢を打ち出したため、ごり押しが困難であることが明確になり、恥をかきたくなかったからだろう。相も変わらぬ、幼稚な態度にはあきれるばかりだ。

しかし、このお陰で、救われたのが高市首相だ。おそらく首相は、「派遣に応じたいという思いはやまやまだが、法的制約などから困難」というようなことを言ったのだろう。これは、イラン攻撃を批判したNATO各国と比較すれば、トランプ大統領にとって慰めとなったことだろう。ホルムズ海峡の安全保持に協力すべきだという「原則論」を述べただけで、「日本はNATOとは違う」というような「おほめ」までいただくことになった。

この会談を大成功などという評価も耳に入ってくるが、まるでクラブのホステスのように、「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけ」などとトランプをおだてる態度は目に余る。イラン攻撃に法的評価はできないというという言明は、逃げ、ごまかしであることは明白だ。NATO各国の米国批判でさえ生ぬるいのに、日本の首相のそのような態度は情けない限りだ。

米国が滅びつつある国であることは確かであり、この国とは距離を取り、滅亡に巻き込まれないようにすることが長期的な外交方針であるべきだろう。このような認識のない高市首相は後に、「幼稚で横暴なトランプ米大統領に追随してばかりいた日本の首相」として、歴史に名を遺すことは間違いないだろう。今回の日米首脳会談で窮地に陥ることは免れたが、こんな首相であることは確かであり、今後どんなにおかしな対米追随外交をするか油断できない。日本を米国滅亡の巻き添え国にしてはならない。

案の定、米国が要請してきたペルシャ湾への艦船派遣

   米トランプ大統領は、日本時間の本日(3月16日)、ホルムズ海峡への艦船派遣を日本などにも要請してきた。彼でなくても、こうすることは目に見えていた。というのは、湾岸戦争後の1991年(平成3年)にペルシャ湾に海上自衛隊の掃海部隊(ペルシャ湾掃海派遣部隊)が派遣されてから、米国が中東地域を危機に陥れる行為をするごとに、繰り返されてきたことだったからだ。

それでも、当時は、国連も絡んでいたが、イラク戦争などからは、米国の独断で起こした紛争の後始末を要請されるようになっている。今回のイラン攻撃は、ホロコーストをされた民族は他民族にホロコーストを加えても許される、と信じ込んでいるイスラエルにそそのかされた米国が起こした横暴極まりないものであり、ドイツを除く、ヨーロッパの友好国さえ異論がある愚挙だ。両国が核兵器を所持し、それで威嚇行為をしているにもかかわらず、イランに核兵器を持たせてはならないとし、親米国家に体制を変えさせようなどという意図を、支持できるわけがないではないか。

このような中で、日本の高市首相は、イラン攻撃に対し、「日本は(攻撃に関する)詳細な事実関係を十分把握する立場にない」と評価しない理由を挙げ、とぼけているが、「私は、米国に対し、異論は告げず、ただ追随することしか考えていません」と、いうスタンスであることは明らかだ。だから、今回のような紛争が収まっていない状況でも、予定されているトランプ大統領との会談で、ペルシャ湾への自衛隊艦船の派遣要請を受け入れてくることは目に見えている。このような要請に対して日本がとるべき対応は、「そんな要請より米国は攻撃をやめ、停戦しろ」という要求をするということではないだろうか。

日本国民の大半は、この自国と関係ない紛争で、石油価格の急激な値上がりを被り、「迷惑千万」だと思っていることだろう。イスラエルと米国にこの損害賠償を要求してもいいところだ。それを、「マッチポンプ」にさえせず(「マッチポンプ」は犯人が自分で後始末をする)、始末を他国にもやらせるという破廉恥極まりない行為ではないか。これを許し、自衛隊員に命をかけさせ、福祉や医療予算を削ってまで国費をあててもいいのだろうか。先の選挙で高市自民党に投票した国民は、そうさせようとしているのだということを、この際、はっきりと認識するべきだ。

書評 アーレントと革命の哲学 『革命論』を読む 著/森一郎

 アーレントの『革命論』の翻訳者の解説本なので読んでみた。 『革命論』を引用しながらその個所の解説が殆どだが、「左翼陣営からすれば『革命論』は反革命の書なのである。」という言及や、『活動的生』における「相互約束」の引用などは参考になった。 しかし、その解説は読者が疑問をもつことを予測して、わかりやすく解説するというものではなく、ただアーレントの言説をなぞっているだけだった。

一方、この著書には、『革命論』からの引用個所に関連する日本の状況についての論評が目立った。それは、あまり評価できる内容ではないと思う。むしろ、ない方がいいのではないかと感じている。

具体的には、森氏は、加藤典洋の『アメリカの影』、『9条入門』などを参考にしながら、「敗戦後の日本にとって脱出不可能なアメリカとの関係を、今後いかに再構築していくか、そこに新しい始まりは可能か。」として、「この課題に取り組むには、アメリカが革命精神の発祥の地であったことを改めて認識し、その忘れられた事実をアメリカに対して発信するといった地道な努力が重要となろう。そのための最善の道案内となりうるのが、アーレントの『革命論』なのである。」と述べているが、アメリカに発信する前に、日本国民の対米従属さえ自ら認識できないという情況を考えれば、こじつけの全く滑稽な言辞としか受け取れない。

砂川事件などをめぐって、「アメリカ憲法の精神を裏切る干渉行為を当のアメリカ合衆国が行なったことを、その通り指摘することは「反米」ではない。まさに「親米」というべきであろう。」などという言説は、「米国コンプレックス」でしかない。明治維新や「敗戦後の再出発」が、「革命」とみなせるかというような言説があるが、これも不要なものでしかない。

アーレントは革命や民主主義に絶望しながら一生を終えたのだろうか。」とは、私が革命論』について最後に述べた疑問だったが、森氏の『アーレントと革命の哲学』に参考になることはなかった。

 

書評 すごい古典入門・ルソー『社会契約論』 著/宇野重規

 私は、数多くの著書でルソーの評価について読んでいたが、ルソーの著作そのものを読む機会がなかったので、この本で「入門」しようと思った。

 この本は、ルソーの人柄の意外性から語られ始める。これはその後のルソーの言動にも関係することになるので、導入部として興味深く読んだ。そして、ヒュームが、ルソーがこの著書で展開した「社会契約説」に、「あなたはいつ社会契約をしましたか?」「人類の歴史において、契約によって国家が作られた実例なんてありましたか?」という「非常に鋭い批判」をしたというエピソードが語られている。これは、私が以前から抱いていた疑問と同じなので、この後の著述が楽しみになった。

 宇野氏は、有名な「社会契約説」が当時、あまり評価されていなかったが、敗戦後の日本で、「近代そのものだ!」と評価されたが、「それは、世界的に見てもかなり特殊で興味深い現象でした。」という。

 その後、『社会契約説』そのものの解説がされているが、有名な「一般意思」の解説を含め、宇野氏は、ルソーは人間の理想を提唱していながら、実際には実現不可能と自ら述べているとし、要するにルソーは批判精神には優れているが、夢想家にすぎないと言っているようである。しかし、宇野氏は最後に、リベラリズムが見放されそうな現在こそ、ルソーのラディカルな思想が求められているとし、「ルソーを読んで、この時代と闘いましょう。」と呼びかけている。

 

日米同盟は日本側の片思い?

  1月26日のテレビ朝日の報道ステーションで、共産党の田村委員長に、問題となっている昨年11月の「存立危機事態」発言の撤回を求められた際、(台湾で)「大変なことが起きた時」、つまりいわゆる「台湾有事」をぼかしながら、「私たちは台湾にいらっしゃる日本人やアメリカ人を救いに行かなきゃならないわけです。そこで共同行動をとる場合もあるわけです。そこで共同行動を取っているアメリカ軍が攻撃を受けた時に、日本が何もせず逃げ帰ると日米同盟が潰れますから、あくまで法律の範囲で、現在の法律の範囲内で、そこで起きている事象を総合的に判断しながら対応するということです。」と答えた。

台湾に中国が軍事侵攻した場合、日本政府が日本人救出をしようとすることは当然だ。余裕があればその際、アメリカ人に限らず、他の国民も救出するべきだろう。共同行動をとることも必要かもしれない。しかし、高市首相はここで、この救出の際、自衛隊がその任務に当たることを当然のように言っていることになる。それは、「共同行動をとっている」のは「アメリカ軍」だからだ。

救出をするのは自衛隊でなくてもよく、過去にそのような事態になったときには民間航空機を派遣することが通例であった。だから高市首相は国民救出を理由にしながら、「逃げ」ないで、「対応する」ということは、軍事介入を示唆していることになる。

こんな発言が伝われば中国政府が怒るのは当然で、案の定、これに対し中国外務省は翌日、当然、非難声明を出した。日中関係の修復はさらに遠くなった。

なぜ、高市首相はこんな発言をするのだろう。まさか、中国と事を構えることを望んでいるわけではないだろう。米国に次ぐような軍事力を保持し、核兵器を保持する中国と戦えば日本は壊滅的な敗北を免れない。安全保障条約を結んでいる米国と同盟関係があり、そんな恐れはないと思っているから、虎の威を借りる狐よろしく、勇ましそうなポーズをとるのだろう。トランプ大統領にこの件でたしなめられたことは漫画的だった。80年前にGHQのマッカーサーが「日本人は12歳以下」と言ったが、米国人の大半が幼稚園以下であることが明らかになった現在、トランプと高市の言動は幼稚園の学芸会でしかない。強がることにとらわれている高市首相の振る舞いの見苦しさは、ピエロを演じていると思わなければ耐えられない。

そんな茶番劇の相手で、自民党政府が同盟関係にあると思っている米国は、打算的な国であることを直視することが必要だ。これはトランプ大統領でなくても同じだろう。中国が覇権を争うライバルだとして敵視しながら、中国は米国がこれまで軍事侵攻等をしたような小国ではないので、米国は軍事衝突を避けたいはずである。たとえ、中国がこれまで援助してきた台湾を併合しようとしても、黙認するほうが損失が少ないと判断するだろう。特にトランプ大統領は南北アメリカ大陸などの西半球の支配を優先し、ロシアや中国以外の地域は、「同盟」国に米国に利があるように支配させたいという意図が鮮明にしている。背景には米国は第2次大戦後、着実に衰退しつつあり、世界中を統制できなくなってきていることがある。「MAGA」はその危機感から生じたスローガンだ。

この流れで、トランプ大統領は、日米安全保障条約を米国の役割が重い不公平な条約だと、盛んに日本政府を責めている。その不平を理由に、たとえ中国と日本が軍事衝突しても、台湾と同様に黙認する可能性のほうが現実的だろう。米国は、信頼関係などを守ろうとする国ではないということをこの際はっきり認識するべきだ。

「日米同盟」というものは、ほとんど日本人の片思いで信じられている幻想にすぎないのでは?ということを考えるべきなのだ。そして、世界で一番危険な国であることが明らかになった米国の軍事基地が日本中に置かれていることが招くかもしれない「存立危機事態」についても考えるべきだ。そんな危機を顧みない政党に政権を持たせていることの愚かさから、もう脱するべき時なのだ。

書評 江藤淳と加藤典洋 著/與那覇 潤

  久しぶりに読み応えのある著書に巡り会った。この本については、「エアレボリューション」のユーチューブ番組(https://www.youtube.com/watch?v=einza3fpe9A)で知り、最近評論界では話題にならない表題の2人の評論家を取り上げた理由に興味がわいた。

 表題はこうだが、実際には前半には、戦後の日本を反映した太宰治、椎名鱗造、柴田翔、庄司薫、村上龍、大佛次郎、村上春樹など作品が文芸評論的に紹介され、後半に三島由紀夫をからめた江藤淳と加藤典洋の論争やそれぞれの著作について論じられている。

  なんといっても、この本のポイントはこの後半だろう。後半は、江藤の『閉ざされた言語空間』をめぐる論争を中心に、主としてアメリカの占領政策の影響、この過程で制定された憲法9条の受け止め方、改憲論について論じられる。

  中でも、江藤が発見した、GHQ作成の「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」という計画が、「(日本)国民は軍国主義者にすべての罪を負わせることを受け入れ、・・・国民の「だまされていた」、「責任はない」という実感にお墨付きを与え」たため、戦後当初は、「「憎しみ」を感じるべき相手は、日本政府や日本軍」ではなく、米国だと思っていた日本人の「順当」な考えが懐柔されてしまったという江藤の言説をめぐっての評価等が主に紹介されている。この評価の微妙なニュアンスの相違はわかりにくい。

WGIPなどという計画をたてた、実質は米国単独の占領機関であるGHQの巧妙な占領政策の許すべからざる一面が発見したことは江藤の功績であることは確かだろう。しかし、WGIPの発見を含む『閉ざされた言語空間』が発表されなくても、欺瞞的で巧妙なGHQの占領政策は周知のことで、ことさらにこれを言挙げした江藤の言説はネット右翼や「ビジネス保守」の「WGIP史観」という主張を生んでしまったとのこと。

一方で、加藤については、『敗戦後論』の「戦後後論」において、「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の哀悼、死者への謝罪に至る道は可能か」と表現したことが、加害者である日本軍兵士の追悼を、アジアの犠牲者への謝罪より優先するものとして非難の対象になった。」ことを取り上げて、「あたかも戦前の日本人と自分たちが切れているかのような態度に立って、まるで第三者がするのと同様な視点で過去の批判をしてはいけない。」と批判し、加藤を擁護している。

加藤典洋は2019年に逝去しているが、この本によると、與那覇は加藤の『太宰と井伏』の文庫版が同年に刊行される際、加藤とは面識がなかったが、この本の解説を執筆したとのこと。そのことが縁で彼が書いた加藤への追悼文が最後に掲載されている。

 そこには、加藤の『敗戦後論』の「敗戦後論」が、「「押しつけ憲法」を攻撃する改憲論の亜種」だと誤解されが、加藤は、「戦争を反省し、平和を願う言葉。それを私たちは、ほんらい自分の手でつくるべきだった。しかし、GHQ案に基づく9条の出来栄えがあまりによかったので、どの日本人作家の小説よりも強力な「戦後の再出発」を象徴する文章になったしまった。」と考えていたのだという弁護が述べられている。そして、加藤は、「「あれは他者の言葉だ」という保守派の指弾にも、「内容さえよければいい」という護憲派の居直りにも同ぜず、「他者の言葉を自己のものにする」作法にこだわりつづけた」のだと続けている。

高市首相の「台湾有事」の際の日本の「存立危機」発言問題・論考         この問題を国際情勢について国民全体で考える糸口にしよう!

  高市首相の、「台湾有事」が日本の「存立危機」事態になりうるという発言に対し、中国の報復措置が続々と発表されているが、なぜ中国がこのように反省を迫るのかを、自民党政府は理解できていないのではないだろうか。その一因は、短絡的に結論した中途半端な国会での質疑にある。それには、立憲民主党の岡田議員の責任もある。

2026年1月4日の信濃毎日新聞に、その質疑の際、暗黙のうちに想定されていたと思われる「台湾有事」の際のシミュレーションが掲載されたので、その内容を見ながら具体的に考えてみよう。

ポイントは、中国による台湾の「海上封鎖を国際法違反とみなした米軍は横須賀基地(神奈川県横須賀市)を拠点とする第7艦隊を周辺海域に派遣。海上封鎖を解く活動をはじめたところ中国艦隊と軍事衝突が発生した。米中の外交当局間では収束せず、交戦状態に陥った。」というシミュレーションがまず前提になっていることだ。この記事のタイトルが、「「存立危機」米軍事介入が鍵」とされているように、日本が単独で軍事介入するつもりがないのなら、その想定を前提にしなければ、日本の「存立危機」、つまり中国との戦争にはならないことになるので順当な言説だろう。

岡田氏は質疑の中で、まずこの点を明確に確認するべきだった。存立危機事態になりうるのは、日本の単独軍事介入が前提かどうかと。首相はこれには、さすがにNOと答えるだろう。そうすると、米軍の軍事介入を前提にしているのかという問いを岡田氏は続ければいい。これに高市氏はYESと言えるだろうか。おそらくそうは答えられないだろうし、最近の米国の「世界の警察ではない」と言明する態度を見ていると、口先介入はしてもこの問題に軍事介入するとは思えないというのが一般的な認識だと思うからだ。

まず、第2次世界大戦後の米国の台湾政策がご都合主義的でしかないことを認識してほしい。中華民国政府が台湾に避難した際、当時のトルーマン大統領は軍事援助をしないとしたが、翌年、朝鮮戦争が勃発すると共産主義の拡大を防止するため軍事援助を再開し、相互防衛条約を結んだ。しかし、ソ連との対抗のため1979年には中国(中華人民共和国)と国交を回復する方針に転換をしたため、台湾との関係は弱体化した。それでも、米国は*「台湾関係法」を制定し、武器売却をしながらあいまいな関係を続けて、現在に至っている。この経過を追えば、米国は両地域と現在の関係を続けたいのだが、台湾への中国の軍事攻撃があった場合、台湾側について軍事介入することにより失うメリットのほうが大きいという判断をするだろう。その際、あわよくば、日本や韓国が代役を務めてくれることを期待しているため、しきりに両国に危機を煽り、軍備を増強するように圧力をかけている。

トランプにたしなめられるという漫画

高市首相はその米国(トランプ大統領)のその欺瞞的なスタンスを考慮せず、本音を忖度して、うっかりあの発言をしてしまったというのがこの件の有様だ。中国の怒りをかった態度をトランプ大統領にたしなめられるという出来事は、日本人にとって屈辱的な漫画でしかない。こんな人が首相になってしまう日本の民度が嘆かわしい(もっとも、米国をはじめとする世界各国も同様な状況だが)。高市内閣の支持率が依然高いということは、このような体たらくを理解できないのだろうか。この問題は単なる国会質疑の失言では済まなくなっている。 

それはともかく発言問題に戻ると、「存立危機事態」は起こりえないことになる。国会での質疑は表面上、無事終了してしまう。しかし、それでは自民党政府が「台湾有事の際の沖縄先島諸島民の避難計画、シェルター整備、自衛隊基地の配備などについて、計画を進めている理由がなくなってしまうので、立憲民主党はそこでその矛盾を追求すれば、現在の危機的な国際情勢を国民全体で考える糸口が開ける。日本は米国からどのような働きかけがあっても台湾有事に介入しなければ、上記の計画等を止めることができる。

もし米国が台湾有事に参戦するということがあったとしても、日本に米軍基地がなく、日米安全保障条約があっても日本に参戦義務がなければ米中間の問題だ。この際これらも問題を根底的に検討するべきだろう。現在、米国は世界中で最も横暴で危険な国家である。その米国との「安全保障条約」を結び、相互性を強くすることは、「安全」よりも「危機」を選んでいることになるのではないだろうか。

*台湾関係法(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E9%96%A2%E4%BF%82%E6%B3%95

書評 福音派 著・加藤善之

 ノーム・チョムスキーが『誰が世界を支配しているのか?』(https://morinaka2013.blogspot.com/2025/10/blog-post_18.html)という著書で、「米国民の地球温暖化に対する意識が高まらない理由は、「イエス・キリストの再臨を信じる人が多いからだ。米国人の約四〇パーセントが、イエスは二〇五〇年までに地上に戻ってくると信じている。だから今後数十年間に深刻な気候災害の脅威があっても、それは問題とは思わないのだ。」と述べているが、にわかには信じられないでいた。

しかし、福音派についてその成り立ちから言説まで詳細に解説されたこの本を読んで、それが本当に米国において起きている危機的現象なのだということを認識した。

この著書によると、終末論を信じている40%は米国人全体の割合だが、米国人の25%近くを占める「福音派」では、その60%を超えているという。

この団体は、進化論などを否定する原理主義者たちによって起こり、「ディスぺンセーション主義」という、旧約聖書の予言などは、イエスの到来などにより成就はされてはおらず、これからキリスト教徒とユダヤ民族に訪れるとする特殊な終末論を教義としている、現在は米国のキリスト教の諸宗派の壁を越えた宗教集団で、1970年代から強力な政治勢力として台頭したとのこと。          

このような教義が、イスラエル建国につながるバルフォア宣言に影響していたということだから、いやでも注目せざるを得ない。そのイスラエル建国が「ディスぺンセーション主義者の確信を深めたというのだから、私としては嘆息を禁じ得ない。

日本でも、時折、何千人もの教徒が集まる米国のメガチャーチの情景がテレビ放映され、違和感をもちながら視聴していたが、おそらくこのような福音派の集会だったのではないかと思う。

このような教義は、ビリー・グラハムなどの伝道者のラジオを使った伝道活動によって広がり、保守的な思想で共産主義を敵視する主張が、アイゼンハワー、ニクソン、レーガン、ブッシュ、トランプなど共和党の大統領との親密な関係を作っていったようだ。

ブッシュ(子)大統領がイラク戦争を始める理由としてあげた、イラクの大量破壊兵器保有は福音派の正戦論にあったというのも驚きだ。また、「法を通して地上に楽園を構築することで、最終的にイエスが帰還すると説」く、終末論が最近有力になりつつあるそうで、これはキリスト教国家を創るということで、時代錯誤的な恐ろしい傾向も表れている。

それにしても、唯物的な資本主義が最高に発達した米国において、このような宗教が力を持っていることに納得がいかないのは私だけだろうか。やはり、人間は経済的充足(国民すべてが充足しているわけではないが)だけでは飽き足らず、何らかの尊い価値を求める存在なのに、宗教(キリスト教)批判から始まった西洋哲学を回避し、人間の良心を信頼することかできなかった米国文化は、精神の空洞化に耐えられず、宗教的な言辞に依存し、集団での熱狂を求めてしまうのだろう。これは決して人間同士の信頼にはつながらない。

最近は、ガザでパレスチナ人のホロコーストをするイスラエルを支持し続け、独立国であるベネズエラの大統領を米国で裁判にかけるために暴力的に拉致する行為に及ぶトランプ大統領の暴走、これを止められない世界に絶望さえ感じる。

それでも、米国では、近年、「非宗教者」が28%を占めてきて、約5年前の5倍以上になっているそうだ。これが50%を超え、米国の政治を着実に制御するようになるのがいつかは見通せないが、我々はその日が来ることを待つしかないのだろうか。その日までに世界が「現実の終末」に至らなければいいのだが。

書評 イスラエル=アメリカの新植民地主義 著/ハミッド・ダバシ 訳/早尾貴紀

 

この著者は、「イランのサイード」と称されている在米イラン人の中東・イスラーム研究者で批評家でもあるとのこと。訳者によれば、本書はロンドン拠点の中東ニュースサイト「ミドルイースト・アイ」に連載している記事の、2023年10月7日のガザ一斉蜂起の後に発表したものの集成版だそうだ。

 「新植民地主義」とは耳慣れない言葉だが、植民地にされた国等の現地人が奴隷のように働かされる旧来の典型的な「植民地」に対して、「入植者植民地」と著者が呼んでいる、植民地にした国の国民等が先住民を排除して自ら入植する植民地のことを意味しているようだ。

そして、著者はイスラエルという国自体が「入植者植民地」であるとしている。訳者・早尾の解説にはアメリカ合衆国、南アフリカ共和国、アルゼンチン日本の北海道などもその例だとしているが、その意味ではアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、かつて日本が中国を侵略してつくった満州なども「入植者植民地」だといえそうだが、著者はイスラエルと、イスラエルと一体のようになっているアメリカを名指しして批判の的にしている。

連載記事であるため、ガザ一斉蜂起以来の出来事について詳細に述べている一方で、著者は、イスラエルの大統領が、「この戦争はイスラエルとハマースの間の戦争だけではない。この戦争は、真に、本当に、西洋文明を救うための、西洋文明の価値観を守るための戦争なのだ」と述べていたことを取り上げ、「大統領は全く正しい。・・・この作戦は現在大量虐殺として広く認識されているこれはまさに、最も野蛮な「西洋文明」の表れである」という根本的な批判をしている。

この著者は冒頭に「日本の読者へ」として、長崎市長が2024年の平和祈念式典にイスラエルの代表を招待しなかったことに抗議して米英をはじめにG7各国が参加しなかったことを取り上げていて、ここに欧米がイスラエルに寄り添った姿勢であることが明確に表れている。確かに、このような惨劇を止めようとするどころか、アメリカが莫大な援助を惜しまないことや、イスラエルの報復行為を支持してきたヨーロッパ諸国の対応をみれば、世界中に植民地主義を広めた西欧文明の「野蛮さ」に改めて気づかされる。(これは敗戦までの日本にも伝染したことを忘れてはならない。)

そして、「今や全世界が「西洋文明」の野蛮さに直面させられている。それは政治的な側面においてだけでない。私たちは西洋の神学や哲学のDNAに組み込まれた不道徳と残虐さの腐った根を暴き出さなければならない。」と主張している。これに関連しては、別に「ヘーゲルの人種差別的哲学がヨーロッパのシオニズムに与えた影響」という言説が掲載されている。早尾も、訳者あとがきにおいて、「カントやヘーゲルの名前で知られるヨーロッパ近代の「理性」の哲学は、「普遍」を装いながら、実のところ、理性をヨーロッパ人に特権的なものとみなし、ヨーロッパの非ヨーロッパに対する優越を前提にし、かつその優越意識を強化・正当化するものであった。」とし、現代まで継承されていると述べている。

さらに、著者は、「シオニズムはユダヤ教よりもはるかにキリスト教による植民地プロジェクト」である、キリスト教は入植者植民主義的であるとも述べている。確かに、宣教師が植民に果たした役割を考えればうなずける言説だと思う。もちろん、アメリカ国民の4分の1とも3分の1ともいわれているキリスト教福音派についても触れられている。

この著書全般に、イスラエルの批判は勿論だが、アメリカへの批判も激しく述べられていて、それはトランプ、共和党ばかりでなく、バイデン、ハリス、H・クリントン、オバマなどの民主党にも及んでいて、アメリカの中東に対する政策は党を問わないとしている。

イスラエルによるガザ地区の虐殺行為があまりにも執拗なため、フランスなどのヨーロッパ諸国やイスラエル建国の張本人であるイギリスまでもがこの秋に相次いでパレスチナを国家として承認しても、アメリカは姿勢を改めようとしない。いや、アメリカは改められないのだということがこの著書で納得がいく。

「台湾有事は日本の存立危機」とは米国の策略(2025年11月30日)

 11月26日の信濃毎日新聞の「今日の視覚」で内田樹は「台湾有事は戦争か内戦か」と題して、台湾有事は少なからぬ米国人にとっては南北戦争のような内戦であると述べている。

しかし、高市首相は台湾有事が中国との戦争であるかのように捉え、それに日本が巻き込まれる事態になるかのような発言をした。これに中国が怒るのは当然ではないか。様々な中国の報復措置の是非はともかく、日中共同声明で台湾を中国の領土だと認めながら、台湾を武力統一することが内戦ではないとし、日本が無関係どころかそれ自体が日本の危機だというのは二枚舌である。

なぜ高市首相はこんな発言をしたのだろうか。それは中国の勢力が自国を凌駕しつつある状況に危機意識を高めた米国は、単独で中国に軍事的に対抗するのが困難になってきたので、日本にそれを補完させるためにかねてからずっと、上記ように認識するようにさせてきたからだ。それに従うこと自体情けないことだが、それでもそれは表立って言ってはならないことだったのだ。強いふりをすることにばかり気を取られている愚かな人間が日本政府を代表するようになったこと自体が「存立危機事態」ではないだろうか。少なからぬ米国人が台湾有事を内戦のように捉えているにもかかわらず、米国のこのように卑劣な策略をする国である。そもそも、台湾が第2次大戦後80年も統一されないのは米国が手厚い援助をしているからだ。

そもそも、戦前から、中国に利権を持とうとした米国が、蒋介石の国民党を援助し、日本に抵抗させてきたが、日本の敗戦後、国民党軍が共産党軍に敗れ、台湾に敗走して樹立したのが台湾政府であり、米国はソ連との冷戦のためにこの状態を維持しようとしてきた。冷戦終結後はこの必要性がなくなったが、中国対策として、台湾が米国にとって有益な存在であることに変わりはない。だから米国は日本を利用してこの状況を維持しようしている。自民党政府が進めた集団的自衛権の容認、安保法制改定、軍事費割合の増などはそれを唯々諾々と受け入れた政策だ。

このように自国中心的な米国は、台湾有事になってもおそらく手を出さないだろう。台湾はかなり抵抗するだろうが中国は勝利するだろう。

万が一、米国が軍事的に干渉する事態になったときのことを考えると、確かに日本に存立危機事態になる可能性はある。なぜなら、米国の攻撃拠点は沖縄をはじめとする軍事基地であり、中国はそれらの基地を真っ先に攻撃するはずだからだ。

米国が手を出さないのに、米国にそそのかされた日本が台湾有事に巻き込まれる事態になることが最悪のケースだ。そうなっても、米国は日米安保条約を守ろうとせず、日本を救おうとはしないだろう。

台湾の人々には気の毒だが、日本に台湾独立を守る大義はない。そそのかされて台湾有事にかかわってしまうことが「存立危機事態」を招くのだ。米国の自国中心主義的策略を見抜き、米国依存から脱することが日本の安全を確保する現実的な道に他ならない。



書評 誰が世界を支配しているのか? 著 ノーム・チョムスキー 訳 大地 舜・榊原美奈子

 この本は、2018年に刊行された単行本の文庫版で、原著作は2016年。2017年版に向けたあとがきがある。いずれにしても8年以上経過しているが、「2025年の世界になっても基本がまったく変わっていない。ノーム・チョムスキーの慧眼は、2025年の世界を見通していたことがわかる。」という訳者あとがきに、同感だ。

 現在進行中の、ロシアのウクライナ侵攻の原因となった経緯が述べられ、「まやかしの」オスロ合意を起因としてガザでの残虐な行為が頻発していたこと、「EIプロジェクト」などヨルダン川西岸地区の今後問題になることなどを指摘している。また2017年はトランプ米大統領の1期目にあったので、トランプ現象やヨーロッパの右傾化にも触れている。

 さらに、この本には、主に米国が第2次世界大戦後に行った数々の戦争、侵略、世界各地で民主的に成立した政府を転覆するなどの陰謀について丹念に述べられていて、歴史書としても貴重な著作だと思う。

 この中で、公開された米国政府の機密情報を追って、公表された偽善的なスローガンと全く異なる政府要人の本音を暴露している。著者は米国の衰退が「第二次世界大戦の終わりから始まっている。」と述べているが、それにもかかわらず、米国はその現実を認めることができず、「世界を支配」しているという幻想が保たれるように体面を繕い続けてきたことを解説していて、その幻想が、現在さすがに怪しくなってきたため、トランプが米国を再び「偉大な国」にすると叫んでいることにつながることがよくわかる。

著者の透徹した観察は、米国の良心を象徴するようなケネディやオバマの裏面にも触れ、米国の悪徳さは指導者の個性ではなく、米国全体の問題であることを明確にしている。

それでは、「世界を支配している」のは米国だという主張かと思いそうになったが、著者はアダム・スミスの、「新らしい時代の精神:富を得よ。己以外のことは忘れろ」という言が「支配者たちの邪悪な処世訓」で、現代の支配者は「多国籍企業や巨大な金融機関、超巨大小売業者などだ。」としていて、国家、政府ではないという。このため米国では二大政党のどちらも企業や超富裕層の資本家の意向に左右されているため、国民の不満が充満するようになったと分析している。著者はマルクスのように資本主義を明確に批判していないが、マルクスと同様な認識なのだと思う。

最後に、著者は、「一つだけ(非常に残念な)実例」といいながら、米国民の地球温暖化に対する意識が高まらない理由は、「イエス・キリストの再臨を信じる人が多いからだ。米国人の約四〇パーセントが、イエスは二〇五〇年までに地上に戻ってくると信じている。だから今後数十年間に深刻な気候災害の脅威があっても、それは問題とは思わないのだ。」と述べている。この言説は浅学なため初耳だが、ありうる話だと思う。キリスト教福音派の信者がキリストの二〇五〇年再臨について信じていることは確かなようだ。

米国のガザ和平提案に隠されている「グレイ・トラスト計画」  プーチン・ロシアより悪辣なトランプ・アメリカを許すな!(2025年10月2日)

 アメリカが、パレスチナのガザ地区に関する「グレイト・トラスト計画」を構想していることは、あまり報道されていないが、驚くべき計画だ。これは、ワシントンポスト紙がリークしたもので、その主な内容は、イスラエルにガザ地区からパレスチナ人を追い出させ、アメリカがガザ地区を10年間管理下に置き、リゾート開発や工場をアメリカの企業の工場を造るという、いかにも資本主義的な考え方を優先するアメリカの計画だ。その計画名は出さないが、トランプ大統領がガザのリゾート化について、「ガザをリビエラのようにする」と、かねてから語っており、その計画は決して絵空事ではない。

このようなことを紛争の当事者の地域において構想するなどということは、悪辣非道さにおいて、ウクライナを侵略しているロシアのプーチン大統領をはるかに超えるのではないだろうか。決して支持できるわけではないが、ロシアにはウクライナ領内のロシア人の権利を守ろうとするナショナリスティックな理由がある。これに対し、アメリカには他国で金儲けをしようとする欲得ずくの動機しかない。これは世界中で問題視し、制裁などを加えるなどして絶対に食い止めなければならない問題ではないだろうか。

ところが、この問題はほとんど注視されていない。9月23日にトランプ大統領はアラブ諸国首脳との会合で、ガザの戦闘終結や戦後統治に関する計画を提示したと米ニュースサイトが報じた。この際、トランプ大統領が「21項目の計画」を提示したというが、ハマスの人質全員の解放、イスラエル軍の段階的な撤収、戦後のガザ統治からのハマス排除、アラブ諸国の治安部隊への関与や復興に向けた資金援助などの他には具体的に何をどう説明したかは不明だ。アラブ側は計画支持の条件として、イスラエルがヨルダン川西岸やガザを併合しないこと、ガザを占領しないこと、ユダヤ人入植地を建設しないことを要求したところ、トランプ大統領は西岸を併合しないと答えたのみだったようだ。

このトランプ大統領の答えは、西岸のユダヤ人入植とガザの占領と併合は許すということ、つまりガザに関しては上記の「グレイト・トラスト計画」を進める方針を貫くことを言外に物語っている。

926日、BS-TBSは報道1930において、「グレイト・トラスト計画」について報道していた。しかしこの報道について日本国内での反響がほとんどないのはどういう訳だろう。

(余談だが、この番組の主要テーマはパレスチナの国家承認を日本政府がなぜ見送ったかということがテーマだったが、ゲストのパックン(パトリック、ハーラン氏)が、日本政府が見送った原因は、日本国内でこの問題に関する国民の声が上がっていないからだと指摘していたが、その通りだと私も思う。欧米にばかり関心を持ち、中東で何が起きても日本に直接利害がなければ「対岸の火事」、「他人事」にしてしまう日本人の内向き姿勢、自民党総裁選挙にばかりかまけているマスコミの軽薄さが悲しい。)

この後、929日にトランプ大統領がホワイトハウスでイスラエルのネタニヤフ首相に「20項目」の和平計画を説明したという報道がされた(減った1項目はカタールへの攻撃禁止に関するもので、この問題は解決済みになったため除外されたようだ)。この20項目には「グレイト・トラスト計画」があいまいな表現で挿入されていることに注目することが必要だ。

20項目」の中にある、「ガザの再建と活性化を図るトランプ経済開発計画は、中東で繁栄する現代の奇跡的な都市の誕生に貢献した専門家パネルを招集し、策定される。多くの思慮深い投資提案や刺激的な開発アイディアが善意ある国際グループから提案されており、雇用、機会、ガザの将来への希望を創出するこれらの投資を誘致・促進するために安全保障と統治枠組みを統合することが検討される。」という項目がそれだ。

この甘美な夢を語るような表現にごまかされてはならない。アラブ諸国首脳との会談を経て、イスラエルのガザ地区占領や併合についてはあきらめることにした関係で、別の項目で、ガザからのパレスチナ人の追放と、アメリカによる10年間の管理などのあからさまな措置はさすがにやめたようだが、トランプが主導する開発、投資などを唱っていることは明確だ。ガザ地区パレスチナ人の土地所有権などに代わる債権のようなものを与えるようなことが「グレイト・トラスト計画」にあるが、正当な価値が保障されるわけはないだろう。

この提案の、ハマスを徹底的に排除する一方、一般のパレスチナ人には寛容に扱うというスタンスには、太平洋戦争終結の際、アメリカが日本軍幹部や右翼的思想家などのみに罪を負わせ、一般の日本国民は彼らの被害者であるかのように扱って日本人を懐柔して、現在に至るまで日本を追随国家にし、搾取してきた成功体験が影響しているように感じるのは私だけだろうか。

アメリカには停戦のためと言いながら、以上のような欲深い狙いがあることを指摘し告発することが必要だ。そして、その活動にはパレスチナの国家承認で盛り上げた機運以上の盛り上げが必要だ。その抑止力が弱いまま、この悪辣な和平提案をパレスチナが受け入れなければ、アメリカはイスラエルにガザをほしいままにさせ、それを利用して「グレイト・トラスト計画」を進めることになるからだ。

アラブ側の首脳が、上記のような危機感をもたずに先の会合が終わったとすれば、アラブ側の認識は甘く、パレスチナへの関わり方は冷淡で、イスラエルやアメリカの方針を黙認するつもりのように思える。アラブ諸国さえもアメリカに追随しパレスチナを見捨てるつもりだろうか。

930日、カタール、エジプト、トルコの3国がハマスに、アメリカの示したガザの和平計画は「最前の取引」だとして受け入れを迫ったという報道がされている。ホロコーストになる事態を防ぐためにはやむを得ないということならわかるが、アメリカの巧妙な詐欺的言辞を信じてそのような行為をし、ハマスが受け入れざるを得ず、停戦になったとしても、アメリカ主導の開発が進んだ結果、ガザ地域パレスチナ人が被る損失を償う覚悟をするべきだろう。