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書評 西洋の敗北 著/エマニュエル・トッド 訳/大野 舞

 書名や「日本と世界に何が起きるのか」という副題を見て、どんな本かと思って読んでみたら、ロシアのウクライナ進攻をめぐる評論だった。副題は、日本人向けにまえがきとあとがきが書いてあるためで、売れる本にするため出版社の作戦なのだろう。

ということで、ウクライナ戦争はロシアが西洋側に勝利するという結論になる解説が大半であったが、そのなかにも、参考になることは多かった。また疑問のある言説も多かった。

まず、プロテスタンティズムの(カトリック側から見た)特質についてだが、「プロテスタントの信者は、誰もが聖書にアクセスできなければならない」ので、信者を識字化させたという。そしてその能力は技術と経済の発展を可能にし、「意図せずして、非常に優秀な労働力を形成した」という。また、予定説を信じるようになり、「選ばれし者と地獄に落ちる者がいる」、「つまり、「人間は平等ではない」という人間観を共有している」、その不平等主義は「洗礼によって原罪から清められた人間はみな平等である」というカトリック(あるいは正教会)の根本的な考えに対立した」、「その結果として、人種差別が最も激しく、最も強固な形で現れたのがプロテスタンティズムの国だった」、さらには「これは基本的な人権をすべての人に認めるわけではない、というプロテスタンティズムの本質的な帰結なのである」とまでいう。ここまでプロテスタンティズムへの批判をするトッドの母国で主流のカトリシズムはどうなのだろうかと思いつつ、一応、受け入れた。

これは、「国家」や「国民」という概念の起源論にまで及び、誰もが聖書にアクセスできるようにするためには、聖書が土着の言語に訳されるべきということになったためで、プロテスタンティズムがそれらを生んだという説を述べる。確かにそれは一理あると思える。ただ、その概念はフランス革命が起源ではないとし、「プロテスタンティズムは、聖書を読みすぎたことで、「我こそは神に選ばれし者」という自己意識に至った人を出現させたのだ」とまでいうので、ここでも、「フランスはどうだったのか?」と言いたくなる。

この後もキリスト教の崩壊と思想の退化についての言説が延々と続く。トッド曰く、キリスト教崩壊の段階は、「活動期」段階から「ゾンビ」段階を経て、現在の「ゼロ」段階に至ったとのこと。現在は、東欧とイタリア以外ではキリスト教は消滅しているという。ほんとうにそこまでいっているといえるかどうかは疑問だが、ヨーロッパのキリスト教信者がかなり減っていることは確かだろう。

さて、ヨーロッパでは、その「ゾンビ」段階ではキリスト教的な慣習は残っていたが、「宗教を代替する信仰」として、ナショナリズムや国民国家を生み出されたという。しかし、この段階では、拘束力のある社会道徳や集団のために犠牲となる能力は残っていたが、現在の「ゼロ」段階は国民国家が解体され、グローバル化が生じた状態だという。この段階に至ると、道徳的精神がなくなり、これがもたらした「虚無」感がニヒリズムを生んだという。現在、ウクライナに代理戦争をさせることに疑問をもたないのは、「道徳ゼロ状態」を現しているという。そんなヨーロッパが、間接的にでも、ウクライナ戦争に参戦したことは自殺行為のようなものだという。

そして、今度は、「EUの軍事的な自殺幇助に死を与えるという」新たな役割を担うことになったアメリカの「貧困化」の話題となり、アメリカは新自由主義により、1945年当時、世界の工業生産の45%を占めていた工業生産が、今日では17%まで落ち込んでいて、中国は2020年に28.7%に増加しており、同盟国間の貿易赤字は2930億ドルで、中国に対しては3500億ドルの赤字だそうだ。このようなデータは参考になる。

アメリカのプロテスタンティズムの消滅についても言及している。1990年代に福音派が終わったという説は支持できないが、アメリカにおいては、反科学的なメンタリティと病的なナルシシズムにより、「神は(信者に)要求する存在ではなく、信者をおだて、心理的あるいは物質的なボーナスを与える存在になってしまった」という。

欧米で、出生率の低下がみられることは宗教性の退化を示す最も確実な方法だという説は支持できない。現に、欧米よりも顕著な日本や韓国の出生率の低さは宗教性の低下のせいとは言えないだろう。仮説ではあるが私見を述べれば、老齢年金制度が整った社会で起きている現象であり、この社会では子育ても社会で担わないと、子育ては経済的に割に合わない行為になるからだと考えている。

なぜかここで突然、トランスジェンダーについてのトッドの考え方が述べられる。トッドは、ジェンダーを自分の好みに従って変えることに反対であるという。このことは支持するが、性染色体を変えることができないのに、それができると主張することは「虚偽を肯定することで、典型的なニヒリスト的行為である。」、「虚偽を社会の心理として押し付けたいという欲求」を非難する理由については支持できない。ニヒリストなどという道徳的な非難には違和感があるし、私見を述べるならば、人間の性別は、人間も一種の動物でしかなく、その肉体の束縛のもとでしか生きられないという限界を認めざるを得ないということを人間も受け入れるべきだと考えているからだ。それは身体的な性別が男女に分けられない人がそのまま社会的に受け入れられなければならないということを含め、社会的なジェンダーとは別の問題だと考えている。

終盤になると、トッドは得意の統計的手法で、1965年に、「「高等教育を受けた人口が25%以上」という閾値にアメリカが達し(ヨーロッパは約1世代分後れで)」、「即座にあらゆるレベルでの知的衰退」をしたという分析を述べる。それは、「教育こそが切り札の一つだったプロテスタンティズムの消滅が起因していて、それが福音主義を普及させたという。

本書には、ほかにもこのような統計的手法にもとづく言説があるが、その統計数値が意味することや、どのように社会に影響を与えるのか説明がないのはおかしい。知的衰退についていえば、アメリカ人の知的水準は変わっているとは思えない。少なくとも、第2次大戦後は娯楽しか求めていなかったのではないかと思っている。それは、アメリカの文学作品や映画を見れば明らかだ。その原因は、資本主義が絶頂期だったせいだと考えている。

トッドは、アメリカは、新自由主義や自身が進めたグローバル化により、自己の覇権を失いつつあるとして、それは世界通貨としてのドルを生み出して金銭的な富を得ており、ドルはコストゼロで生産でき、それ以外のすべての経済活動は採算の合わない、魅力的でないものになるからだという。そのようなシステムを担う銀行家やロビイストがアメリカにおける最高の職業になっているという。

そのような欧米の状況の中では、欧米のいう「その他の世界(欧米とその友好国以外の国」にとって、西洋はもはや尊敬に値する勝者ではなくなり、西洋の傲慢さに世界が苛立ちを募らせていることがロシアにとっての切り札となり、ロシアの経済制裁が効果を出すことができないのだという。「その他の世界」は、中国、インド、ブラジルなどの大国を含み、圧倒的な多数者だからだと述べている。

トッドの言説を俯瞰すると、世界の動向を機敏に察していることは確かだが、その原因としての宗教の社会的影響や伝統的な家族形態に囚われすぎているように思える。確かに西洋はキリスト教を離れて分析できない。しかし、科学的な知識の普及や哲学により、徐々にではあるが確実に西洋人はキリスト教から自由になりつつあると思っている(ただ、アメリカの福音派を含む宗教の動向については読めないが)。だから、上記のように、キリスト教の衰退が現在の欧米の劣化の主原因のような言説には説得力を感じられないのだろう。トッドは自己の手法で有名となったことに溺れてしまい、その手法を通した表面的な世界がしか見えていないのではないだろうか。

書評 すごい古典入門・ルソー『社会契約論』 著/宇野重規

 私は、数多くの著書でルソーの評価について読んでいたが、ルソーの著作そのものを読む機会がなかったので、この本で「入門」しようと思った。

 この本は、ルソーの人柄の意外性から語られ始める。これはその後のルソーの言動にも関係することになるので、導入部として興味深く読んだ。そして、ヒュームが、ルソーがこの著書で展開した「社会契約説」に、「あなたはいつ社会契約をしましたか?」「人類の歴史において、契約によって国家が作られた実例なんてありましたか?」という「非常に鋭い批判」をしたというエピソードが語られている。これは、私が以前から抱いていた疑問と同じなので、この後の著述が楽しみになった。

 宇野氏は、有名な「社会契約説」が当時、あまり評価されていなかったが、敗戦後の日本で、「近代そのものだ!」と評価されたが、「それは、世界的に見てもかなり特殊で興味深い現象でした。」という。

 その後、『社会契約説』そのものの解説がされているが、有名な「一般意思」の解説を含め、宇野氏は、ルソーは人間の理想を提唱していながら、実際には実現不可能と自ら述べているとし、要するにルソーは批判精神には優れているが、夢想家にすぎないと言っているようである。しかし、宇野氏は最後に、リベラリズムが見放されそうな現在こそ、ルソーのラディカルな思想が求められているとし、「ルソーを読んで、この時代と闘いましょう。」と呼びかけている。

 

矮小化された社会的影響、無とされた落ち度~安倍元首相銃撃事件の地裁判決

   この事件から主に自民党の政治家の旧統一教会(世界平和統一家庭連合、以下教団)との癒着関係が明らかになり、献金被害者への損害賠償が始まり、同教団の解散命令が東京地裁で決定されるなど、大きな社会問題となったにもかかわらず、2026年1月21日、奈良地裁は、単なる殺人事件のように矮小化した判決理由で、山上被告に無期懲役判決を言い渡した。

結果的にかもしれないが、安倍氏の殺害は、教団幹部を殺害するより、この問題を社会に問うという意味で効果は比較しようもなく大きかった。判決理由のように、「殺害を正当化できるような落ち度が安倍氏には見当たらな」ければ、こんな現象は起きなかったことだろう。安倍氏には落ち度どころか、責任があったのではないだろうか。

安倍氏が教団の友好団体にビデオメッセージを寄せたことを、山上被告が、安倍氏を教団と政治の関係の中心ととらえたと述べているのに、これを自己都合で教団幹部の代わりに安倍氏を襲撃したとし、安倍氏は不運な罪のない被害者であるかのようにしてしまった。また、自民党と教団の相互関係がこの事件後次々に明らかになったことをなかったことのようにしてしまった。

私は、殺人が許されない行為であることを否定しているわけではない。しかし、殺人者を一律に非難することはできない。その殺人にどのような背景があったかについて、他人事とせず、そのような状況、境遇に自分が置かれたらどのようにするだろうと、すべての人が考えるべきだ。判決にかかわる人たちはこのことを改めて認識するべきなのに、裁判官や裁判員の他者認識の甘さ、モラルの希薄さにはあきれる。全国霊感商法対策弁護士連絡会の弁護士が出廷し教団による献金被害の実態が述べられたが、裁判員たちからはほとんど質問がなかったようだ。

少年時代からのつらい経験が成人となっても影響している被告に対し、「長年ため込んだ負の感情を内心で健全に解消したり、合法的な手段での解決を模索したりせず殺人を選んで実行した」、「既に40代を迎えた自立した社会人」なのだから、人を殺してはならないという社会規範を身に付けていて当然、というような見解はあまりにも冷酷で安易なものだ。

被告に厳しい見解を持つことは簡単だ。このような判決を言い渡す裁判官は無難な法曹として評価され、上級庁への出世コースから外れることはないだろう。自分の良心を殺して行動することが成功の常識となっているこの社会、人間が家畜化されていると評されるこの世界では常に起こる現象だ。

一方で、教団は損害賠償請求に応じなければならなくなっているようだ。金銭的な解決だけでは済まない問題もあるが、被害者たちは絶望的な状況から救われた思いを抱いていることだろう。被告自身は意識していなくても、被害者たちを代表して被害者救済への道、教団の活動を止める道を開いたことは確かなのだ。被告は深く反省しているようなので控訴しないかもしれない。控訴せず、この不当な判決が確定された場合は、被害者たちを筆頭に、減刑嘆願などを広範に繰り広げよう。

書評 福音派 著・加藤善之

 ノーム・チョムスキーが『誰が世界を支配しているのか?』(https://morinaka2013.blogspot.com/2025/10/blog-post_18.html)という著書で、「米国民の地球温暖化に対する意識が高まらない理由は、「イエス・キリストの再臨を信じる人が多いからだ。米国人の約四〇パーセントが、イエスは二〇五〇年までに地上に戻ってくると信じている。だから今後数十年間に深刻な気候災害の脅威があっても、それは問題とは思わないのだ。」と述べているが、にわかには信じられないでいた。

しかし、福音派についてその成り立ちから言説まで詳細に解説されたこの本を読んで、それが本当に米国において起きている危機的現象なのだということを認識した。

この著書によると、終末論を信じている40%は米国人全体の割合だが、米国人の25%近くを占める「福音派」では、その60%を超えているという。

この団体は、進化論などを否定する原理主義者たちによって起こり、「ディスぺンセーション主義」という、旧約聖書の予言などは、イエスの到来などにより成就はされてはおらず、これからキリスト教徒とユダヤ民族に訪れるとする特殊な終末論を教義としている、現在は米国のキリスト教の諸宗派の壁を越えた宗教集団で、1970年代から強力な政治勢力として台頭したとのこと。          

このような教義が、イスラエル建国につながるバルフォア宣言に影響していたということだから、いやでも注目せざるを得ない。そのイスラエル建国が「ディスぺンセーション主義者の確信を深めたというのだから、私としては嘆息を禁じ得ない。

日本でも、時折、何千人もの教徒が集まる米国のメガチャーチの情景がテレビ放映され、違和感をもちながら視聴していたが、おそらくこのような福音派の集会だったのではないかと思う。

このような教義は、ビリー・グラハムなどの伝道者のラジオを使った伝道活動によって広がり、保守的な思想で共産主義を敵視する主張が、アイゼンハワー、ニクソン、レーガン、ブッシュ、トランプなど共和党の大統領との親密な関係を作っていったようだ。

ブッシュ(子)大統領がイラク戦争を始める理由としてあげた、イラクの大量破壊兵器保有は福音派の正戦論にあったというのも驚きだ。また、「法を通して地上に楽園を構築することで、最終的にイエスが帰還すると説」く、終末論が最近有力になりつつあるそうで、これはキリスト教国家を創るということで、時代錯誤的な恐ろしい傾向も表れている。

それにしても、唯物的な資本主義が最高に発達した米国において、このような宗教が力を持っていることに納得がいかないのは私だけだろうか。やはり、人間は経済的充足(国民すべてが充足しているわけではないが)だけでは飽き足らず、何らかの尊い価値を求める存在なのに、宗教(キリスト教)批判から始まった西洋哲学を回避し、人間の良心を信頼することかできなかった米国文化は、精神の空洞化に耐えられず、宗教的な言辞に依存し、集団での熱狂を求めてしまうのだろう。これは決して人間同士の信頼にはつながらない。

最近は、ガザでパレスチナ人のホロコーストをするイスラエルを支持し続け、独立国であるベネズエラの大統領を米国で裁判にかけるために暴力的に拉致する行為に及ぶトランプ大統領の暴走、これを止められない世界に絶望さえ感じる。

それでも、米国では、近年、「非宗教者」が28%を占めてきて、約5年前の5倍以上になっているそうだ。これが50%を超え、米国の政治を着実に制御するようになるのがいつかは見通せないが、我々はその日が来ることを待つしかないのだろうか。その日までに世界が「現実の終末」に至らなければいいのだが。

書評 イスラエル=アメリカの新植民地主義 著/ハミッド・ダバシ 訳/早尾貴紀

 

この著者は、「イランのサイード」と称されている在米イラン人の中東・イスラーム研究者で批評家でもあるとのこと。訳者によれば、本書はロンドン拠点の中東ニュースサイト「ミドルイースト・アイ」に連載している記事の、2023年10月7日のガザ一斉蜂起の後に発表したものの集成版だそうだ。

 「新植民地主義」とは耳慣れない言葉だが、植民地にされた国等の現地人が奴隷のように働かされる旧来の典型的な「植民地」に対して、「入植者植民地」と著者が呼んでいる、植民地にした国の国民等が先住民を排除して自ら入植する植民地のことを意味しているようだ。

そして、著者はイスラエルという国自体が「入植者植民地」であるとしている。訳者・早尾の解説にはアメリカ合衆国、南アフリカ共和国、アルゼンチン日本の北海道などもその例だとしているが、その意味ではアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、かつて日本が中国を侵略してつくった満州なども「入植者植民地」だといえそうだが、著者はイスラエルと、イスラエルと一体のようになっているアメリカを名指しして批判の的にしている。

連載記事であるため、ガザ一斉蜂起以来の出来事について詳細に述べている一方で、著者は、イスラエルの大統領が、「この戦争はイスラエルとハマースの間の戦争だけではない。この戦争は、真に、本当に、西洋文明を救うための、西洋文明の価値観を守るための戦争なのだ」と述べていたことを取り上げ、「大統領は全く正しい。・・・この作戦は現在大量虐殺として広く認識されているこれはまさに、最も野蛮な「西洋文明」の表れである」という根本的な批判をしている。

この著者は冒頭に「日本の読者へ」として、長崎市長が2024年の平和祈念式典にイスラエルの代表を招待しなかったことに抗議して米英をはじめにG7各国が参加しなかったことを取り上げていて、ここに欧米がイスラエルに寄り添った姿勢であることが明確に表れている。確かに、このような惨劇を止めようとするどころか、アメリカが莫大な援助を惜しまないことや、イスラエルの報復行為を支持してきたヨーロッパ諸国の対応をみれば、世界中に植民地主義を広めた西欧文明の「野蛮さ」に改めて気づかされる。(これは敗戦までの日本にも伝染したことを忘れてはならない。)

そして、「今や全世界が「西洋文明」の野蛮さに直面させられている。それは政治的な側面においてだけでない。私たちは西洋の神学や哲学のDNAに組み込まれた不道徳と残虐さの腐った根を暴き出さなければならない。」と主張している。これに関連しては、別に「ヘーゲルの人種差別的哲学がヨーロッパのシオニズムに与えた影響」という言説が掲載されている。早尾も、訳者あとがきにおいて、「カントやヘーゲルの名前で知られるヨーロッパ近代の「理性」の哲学は、「普遍」を装いながら、実のところ、理性をヨーロッパ人に特権的なものとみなし、ヨーロッパの非ヨーロッパに対する優越を前提にし、かつその優越意識を強化・正当化するものであった。」とし、現代まで継承されていると述べている。

さらに、著者は、「シオニズムはユダヤ教よりもはるかにキリスト教による植民地プロジェクト」である、キリスト教は入植者植民主義的であるとも述べている。確かに、宣教師が植民に果たした役割を考えればうなずける言説だと思う。もちろん、アメリカ国民の4分の1とも3分の1ともいわれているキリスト教福音派についても触れられている。

この著書全般に、イスラエルの批判は勿論だが、アメリカへの批判も激しく述べられていて、それはトランプ、共和党ばかりでなく、バイデン、ハリス、H・クリントン、オバマなどの民主党にも及んでいて、アメリカの中東に対する政策は党を問わないとしている。

イスラエルによるガザ地区の虐殺行為があまりにも執拗なため、フランスなどのヨーロッパ諸国やイスラエル建国の張本人であるイギリスまでもがこの秋に相次いでパレスチナを国家として承認しても、アメリカは姿勢を改めようとしない。いや、アメリカは改められないのだということがこの著書で納得がいく。

書評 誰が世界を支配しているのか? 著 ノーム・チョムスキー 訳 大地 舜・榊原美奈子

 この本は、2018年に刊行された単行本の文庫版で、原著作は2016年。2017年版に向けたあとがきがある。いずれにしても8年以上経過しているが、「2025年の世界になっても基本がまったく変わっていない。ノーム・チョムスキーの慧眼は、2025年の世界を見通していたことがわかる。」という訳者あとがきに、同感だ。

 現在進行中の、ロシアのウクライナ侵攻の原因となった経緯が述べられ、「まやかしの」オスロ合意を起因としてガザでの残虐な行為が頻発していたこと、「EIプロジェクト」などヨルダン川西岸地区の今後問題になることなどを指摘している。また2017年はトランプ米大統領の1期目にあったので、トランプ現象やヨーロッパの右傾化にも触れている。

 さらに、この本には、主に米国が第2次世界大戦後に行った数々の戦争、侵略、世界各地で民主的に成立した政府を転覆するなどの陰謀について丹念に述べられていて、歴史書としても貴重な著作だと思う。

 この中で、公開された米国政府の機密情報を追って、公表された偽善的なスローガンと全く異なる政府要人の本音を暴露している。著者は米国の衰退が「第二次世界大戦の終わりから始まっている。」と述べているが、それにもかかわらず、米国はその現実を認めることができず、「世界を支配」しているという幻想が保たれるように体面を繕い続けてきたことを解説していて、その幻想が、現在さすがに怪しくなってきたため、トランプが米国を再び「偉大な国」にすると叫んでいることにつながることがよくわかる。

著者の透徹した観察は、米国の良心を象徴するようなケネディやオバマの裏面にも触れ、米国の悪徳さは指導者の個性ではなく、米国全体の問題であることを明確にしている。

それでは、「世界を支配している」のは米国だという主張かと思いそうになったが、著者はアダム・スミスの、「新らしい時代の精神:富を得よ。己以外のことは忘れろ」という言が「支配者たちの邪悪な処世訓」で、現代の支配者は「多国籍企業や巨大な金融機関、超巨大小売業者などだ。」としていて、国家、政府ではないという。このため米国では二大政党のどちらも企業や超富裕層の資本家の意向に左右されているため、国民の不満が充満するようになったと分析している。著者はマルクスのように資本主義を明確に批判していないが、マルクスと同様な認識なのだと思う。

最後に、著者は、「一つだけ(非常に残念な)実例」といいながら、米国民の地球温暖化に対する意識が高まらない理由は、「イエス・キリストの再臨を信じる人が多いからだ。米国人の約四〇パーセントが、イエスは二〇五〇年までに地上に戻ってくると信じている。だから今後数十年間に深刻な気候災害の脅威があっても、それは問題とは思わないのだ。」と述べている。この言説は浅学なため初耳だが、ありうる話だと思う。キリスト教福音派の信者がキリストの二〇五〇年再臨について信じていることは確かなようだ。

書評 スピノザ 「変性の哲学者」の思想世界 著/加藤 節

 

スピノザについては、『エチカ』という著書を書いた哲学者として、その名前を知っている程度だったが、ユダヤ協会から破門にされたユダヤ人であることを知り、ユダヤ性から自由になろうとしたユダヤ人としては最初期に生きた人と言えそうなので、このスピノザの解説書から読んでみることにした。

 破門の理由は、「魂の不死性とユダヤ教の律法の真実性を否認し、「哲学的な」神しか存在しないと主張した」とのこと。これは彼が23歳のときで、「肺疾患という宿痾に長く苦しんだ末に44歳という若さでその一生を閉じた」という。

 その理由はともかく、スピノザは典型的なユダヤ人としての育てられたが、17歳から家業の貿易業を手伝うようになり、父親が亡くなったため22歳からその家業を引き継いだそうで、その経験が、「ユダヤ教以外の多様な信仰や思想を持つ「賢き商人」と呼ばれた教養ある人々との接触と、ユダヤ教徒のように律法に拘束されることなく、富や利益の蓄積によって社会的地位の向上を図る人間の赤裸々な姿の認識をもたらした」とのこと。ここから、スピノザが、ユダヤ教の世界観の相対性を自覚するようになり、キリスト教世界の学問や自然科学を研究するためラテン語学校に入学し、マキャヴェッリやホッブス、デカルト等の影響を受けるようになったことが破門に至った経過のようだ。

 スピノザは、破門を機に、「最高善」の獲得を目指す倫理学に向かい、そのための通路をどこまでも人間の「認識」を求め、その「倫理学に政治学を抱合させる方向を辿った」とのこと。

「認識」については、著者によれば、当時、自然科学が発展する中で、「認識対象としての自然の非人格的な実体への還元」には、「プロテスタンティズムとりわけカルヴィニズムが果たした被造物崇拝の徹底的な否定」が被造物を「即物的自然へ還元して科学的認識の客体を析出し」た一方、「造物主としての神の全能性を証明」しようとしたことの影響があったそうだが、「スピノザの倫理学を支える支点としての「認識」の対象は、自然科学が対象とする第一の自然ではなく、どこまでも、「精神」および「神」と合一した「全自然」以外のものではありえなかった」とのこと。

「近代哲学の父とも評されるデカルトの自然と精神とを二つの実体とみなす世界の二元論的構成」には、現在批判がされているが、スピノザの上記のような論理はその中でどのように位置づけられるのだろうか。

それはともかく、「倫理学としてのスピノザの哲学は、彼の有名な命題、「神即自然」に集約される汎神論の範疇に属するもの」だとのこと。

以下、スピノザの「意識」、「延長」、「思惟」、「感情」、「三種類の知(表象知、理性知、直観)」、「三つの「人間の条件(この中で、「協議し、傾聴し、討論する」ことを最重要視した)」などの概念が開設されているが、ここでは触れない。

今日の私たちが認識しておくべきことに絞るとすれば、「倫理学」の章においては、上記の「神即自然」だが、「政治学」の章においては、デカルトの「私は思惟する、ゆえに私は存在する」という命題を、スピノザは、「私は思惟しつつ存在する」という「単一命題」として理解し」ていたとし、これは「あきらかに一元論的思考様式」だという。それから、当時の哲学者(スコラ哲学者)へのスピノザの批判は、キリスト教による原罪観念などの神学的人間解釈を清算し、「人間の自然状態」を神学的非難から守ろうとする明確な意図があったとのことだ。

具体的な政治論は、伝統的な「三政体論(民主制、貴族制、君主制)」を踏襲していたが、「神政政治」や「王権神授説」に特に批判的で、彼の「社会契約説」は、「政治権力の支配の正当性根拠を人間の同意に求めるもの」で、「所与の政治共同体に倫理的生活を可能にする「変性」を目的として求める意味を蔵して」いたという。

「聖書批判の展開」の章においては、「「表象知」に依拠する「預言」は、それ自体においては何らの確実性も内に含むことができない」もの」だと批判し、「奇跡」とすることは「無知」だからだと指摘し、「真の宗教」論を提案するなど、大胆な主張をしたという。しかし、彼の主張も、「十七世紀のヨーロッパにおいて、時代の正統的なキリスト教信仰とされるものに抗して「信仰の新しい理念を宣言」し、「宗教の新しい形式を具体化しようとした」どの思想家の企図も、聖書解釈を通して「キリスト教の新しい表現を見いだそうとする努力」以外の形態をとりえなかった」ように、「政治的な最高権力への反逆を信仰者の義務として課するものではなかったとのことだ。

 そんな中でもスピノザは、「神の子」として神格化された「イエスキリスト」について、「「神の子」たるこの神的な「知性」は、「神の知恵」として人間イエスの「肉体」の中にではなく、神と「精神対精神」で交わったイエスキリストの「精神」の中に最も多く「表現」されている」としたほか、「聖書を「人間の言葉」で書かれた歴史的文献に還元したうえで、・・・聖書に疑うことが許されない「神の言葉」としての「真理の認識体系」を与える一切の立場を否定し、・・・「宗教を解釈し、宗教に関して判断する最高の権能は各人の下になければならない」と言ったそうだ。

 要するに、スピノザは、ドグマと化しているキリスト教の教えを相対化した先駆者だが、「真の宗教」論を唱え、自ら無神論者ではないと主張し、宗教否定にまでは行きつかなかった哲学者と言えるのではないだろうか。その彼にとって「神」とは何だったのだろうか。この著書には、スピノザの哲学的言説が詳しく述べられているが、その現代的な意味づけ、位置づけなどの解説が欲しいと思った。

書評 フロイトのモーセ ヨセフ・ハイーム・イェルシャルミ/著 小森謙一郎/訳

  サイードが『フロイトと非-ヨーロッパ人』において、この本の著者が、フロイトといえどもユダヤ人の性格上の特徴を継承することは避けられないとしていることを引用していたので、その内容を詳しく知りたいと思っていた。

この著者は1932年生まれのユダヤ系アメリカ人のユダヤ史家だ。序章の「聴衆のための序奏」で、このテーマを研究するきっかけは、「反セム主義の精神分析的研究調査班」に参加することになったことだったと述べている。このメンバーはおそらくほとんどがユダヤ人の精神分析家なのだろうが、この研究を充実させるためにユダヤ人歴史家が必要ということになり、彼が選ばれたようだ。

読んでみると、予測していた通りのフロイト批判だった。 フロイトの『モーセと一神教』は、イェルシャルミの言う通り、歴史書でも小説でもないアナロジー的な著作だといえるだろう。しかし、この著書の意図は、反ユダヤ主義の原因となったヨーロッパでの伝統的なユダヤ人ぎらいの原因となっているユダヤ人の選民意識を解消しなければ危機的状況は避けられないという認識で、この意識の根拠となっている、旧約聖書の神話を崩そうとしたことにあり、サイードも上記の著書において、その意味でフロイトを評価している。そのこと自体を支持しないまでも、理解しなければ、単なるケチつけのような評論にならざるを得ない。

確かにフロイトの論理には飛躍や強引さがあることは認めざるを得ない。しかし、この弱点を指摘し歴史書としての批判をしても意味がないのだ。それにもかかわらず、イェルシャルミは執拗にフロイトの認識の矛盾を突いている。この著者はフロイトが、なぜ自己を含むユダヤ人のユダヤ性と苦闘していたのかということに少しも理解を示さず、フロイトの『モーセと一神教』と共に彼の精神分析論をシニカルに批判している。この姿勢には、フロイトの時代とは異なり、反ユダヤ主義と罵倒すれば世界中の言論をリードできるとして、いまや強者となったユダヤ人の驕りを感じる。このような姿勢にユダヤ人以外の人間の共感は生まれない。このような姿勢こそ、現在のイスラエルの残忍なガザ侵攻をもたらしているのではないだろうか。この著者はこの状況を知らずに没しているが、このような姿勢をユダヤ人が改めなければ、「新たな反ユダヤ主義」が生じることは避けられないだろう。

イェルシャルミのこの著書で参考になったのは、フロイトが生家において身に着けさせられたユダヤ的な慣習を明らかにしたことだ。割礼を含むユダヤ人の様々な慣習は少なくともフロイトが育った19世紀後期にも続いていて、おそらく現在も残っているのだと思われ、ユダヤ性の根強さはこの家族的慣習にあることを再認識した。

書評 人間モーセと一神教 フロイト(フロイド)著 土井正徳・吉田正己訳  日本教文社 改訂版フロイド選集8宗教論より

  私はフロイト(この本ではフロイドとしているが、ここでは一般的な日本語読み表記とする)自身の出自であるユダヤ人についてどう考えていたのかをかねてから知りたいと思っていた。最近、早尾貴紀の著書で、サイードの『フロイトと非-ヨーロッパ人』という著書に、フロイトの『モーセと一神教』(モーセはモーゼとも読まれている)という論考についての論評があることを知り、その両方を読もうと思った。先に前者を読むことになったが、ふと考えると、後者は50年ほど前に買いそろえていた、日本教文社の『フロイド選集』に入っているかもしれないと気が付いた。そしたら案の定、この第8巻に収録されていた。

読み始めて驚いたのは、昭和45年の初版(私が読んだのは翌年発行の第4版、改訂前の版は昭和29年頃の発行らしい)だが、旧漢字のオンパレードで、仮名遣いも、吃音の「つ」が小文字になっていなかったことなどだ。旧漢字はほとんど読めたので、それほど苦にならなかいことは幸いだったが、このころの出版物の状況を再認識した。

『モーセと一神教』(この選集では『人間モーセと一神教』)は、最後に書かれた「モーセとその民および一神教」の前書きに説明されているが、別々の時期に書かかれた3つの論文がそのまま整理されずに掲載されていて、読みにくい論考だった。

さて本題に入ろう。先に上記で述べたようにサイードの論評を読んでいたため、フロイトが述べたい趣旨はある程度想像できていた。サイードが引用していた、「ある民族が同胞のうちでもっとも偉大な人物として誇っている人間に妄評を加えて片づけてしまおうということは・・・」という有名な一節は冒頭に述べられていて、改めてフロイトがこの論考に臨んだ決意の重さを実感する。

フロイトのこの著書は「モーセはおそらく高貴なエジプト人であって、伝説によってユダヤ人にされているものにちがいない。」と結論されていて、サイードは、フロイトがこう断定することにより、ユダヤ人の独善的なアイデンティティに異議を挟んだことを評価しているが、この前後には、この説の根拠の説明が続いていて、サイードが、「そうした観察や引証は、ときには途轍もなくうんざりするような繰り返しさえ帯びておりました。」と述べているとおりで、あまり興味を惹く内容ではなかった。

そしてフロイトは専門の精神分析理論をユダヤ教に適用し、その父殺しの理論でユダヤ教の始祖としたモーセをユダヤ人が殺したことにより原罪を背負うことになったとしているなどの主張を随処で展開しているが、それにも少々うんざりした。

私が注目したのは、反ユダヤ主義の原因となったヨーロッパでの伝統的なユダヤ人ぎらいをユダヤ人側の姿勢にあるという指摘をしていることだ。最初に、ユダヤ人が集団として暮らすという風習を指摘している。これは、私もかねてからそう思っていたことであり、これを当のユダヤ人フロイトが語ったということで確信を持つことができた。そして、「集団の共同感情は、それを充足するために、外部の少数者に対して敵意をさしむけることが必要」だからユダヤ人迫害が始まったとしている。

それから注目した点は、ユダヤ教とキリスト教の関係を述べている部分だ。フロイトによれば、ユダヤ教は原父の宗教であり、潜伏していた原父が回帰したことが、ユダヤ教を進歩させただけにとどまらず、キリスト教を誕生させてしまったという。モーセ殺害という悲劇に関するような部分も回帰し、増大しつつあった罪意識がユダヤ民族を含む全文化世界を覆ってしまったとのこと。モーセの虐殺に関する悔恨によって、この民に救済と約束された世界支配をもたらす救世主が再来する願望的空想もあって、この中で生まれて処刑されたユダヤ民族のキリストがその後継者となったという。ローマ系ユダヤ人パウロは、このような背景を基にして、ユダヤ教から選民意識や割礼の風習を廃止したためにこの新宗教(キリスト教)が普遍性をもった世界宗教となりえたとも述べている。この辺の論旨を私なりに解釈すると、キリスト教はユダヤ教を改革して生まれた、いわば「新ユダヤ教」だと言っているように感じるのだが飛躍しすぎだろうか。

それは、「新たな教えを受けいれたのはユダヤ民族のごく一部だけであった。この教えを拒否した人たちは、今日でもなおユダヤ人と呼ばれている。彼らはこの分離によって、以前にも増してますますはっきりと他のものたちから区別されている。彼らは・・・新たな宗教共同体から、彼らこそ神を殺害したのだという非難を聞かねばならなかった。」という指摘にも表れていて、ユダヤ教が新・旧に分裂したと言っているように感じる。

そして逆にキリスト教信者となったヨーロッパ人は、神はまたもや救世主をユダヤ人の中から選んだとして、「つまり本当に彼らは正しかったのだ、彼らこそ神の選んだ民族である、と。」と、ユダヤ人の不遜を是認せざるを得ないような心理になり、「そのかわりに生じたことは、イエスキリストによる救済が単に彼らのユダヤ人ぎらいを強化したにすぎなかった」という。それは、今日でもまだ克服されていないとし、さらに、ユダヤ人の割礼の風習はいまわしい、無気味な印象を与えるものだとして、それまでのユダヤ人ぎらいが新たな局面を迎えたことを指摘する。ヨーロッパの反ユダヤ主義のもととなった、キリスト教徒の心理を分析したこの指摘は鋭く、さすがフロイトだと感心する。

それからフロイトは「ユダヤ人たちはとくに自己に対する強い信念を持ち、自分たちがすぐれて高貴であり、他民族にまさったものだと考えていることは疑う余地もない。(中略)彼らは実際に自分たちが神から選ばれた民であると自認し、神のそばに立っていると信じている。」と述べ、このような選民意識についての分析も行っている。  

曰く、ユダヤ教の神の像を作ることの禁止は、「抽象的と呼ばれる観念に対して感覚的知覚が無視されていることを意味する。すなわち感性に対する精神性の勝利、厳密に言うならば、心理学的に必然的な結果をともなった衝動放棄を意味するものである。」効果をもったとして、モーセ信仰の禁止によって「神は精神性の高度の段階にまで高められ、神=観念のその後の変更のために道が開かれたのであるが」、この禁止はもう一つの別の作用として、「精神性におけるこうした進歩はすべて、個人の自尊心を高め、個人に誇りをもたせて感性の束縛のなかにとどまっている他の人たちに対して優越を抱かせるようになるという結果を生ずる。」、「外的要求にもとづく行動放棄はただ不快であるにすぎないが、内的理由、つまり超自我への服従にもとづく衝動放棄は・・・自我にたいして快感利得というものを、いわば代償満足にひとしいものを得させることになる。自我を高められたと感じ衝動放棄を価値ある行為であるかのように誇るであろう。」とのことで、《思考の全能》という心理効果の説明を含めて、明快な分析であると思える一方で、このような記述はフロイト自身を含めたユダヤ人を賛美しているようにも感じさせる。このような一面は、イェルシャルミが、「「フロイト・・・といえども、かかるユダヤ人の性格上の特徴を継承し共有することは避けられない」と信じていたらしい」(サイード『フロイトと非-ヨーロッパ人』より)と述べていたことを裏付けているような気がする。

また、ユダヤ教から生まれた「イスラム教の発展が停頓するにいたったのは、ユダヤ人の場合の教祖の虐殺が引き起こした変化が欠けていたからだ。」として、「東洋の宗教(どの宗教を指しているか不明だがおそらくイスラム教を含んだ)は合理主義的に見えるが、祖先崇拝であり、停頓する」という指摘や、東洋の宗教を未開民族の宗教と同一視し、神経症と関連させる言説があり、サイードはこれに直接触れていないが、『フロイトと非-ヨーロッパ人』で語っている、フロイトのヨーロッパ人としての限界がここにも表れていると感じる。

そんな疑問点もある著書だったが、「ユダヤ性」についてユダヤ人自身がどのように捉えているのかを知るためには欠かせない、貴重な著書だと思う。

書評 極限の思想 ニーチェ 道徳批判の哲学 城戸 淳(著)

 

 私はニーチェの著書に何度も挑戦しているが読み通したことがない。箴言の連続で読者にわかりやすい解説がないためだ。だからといって、そのような著書を読まずに解説本を先に読むことにも抵抗があったため、魅力を感じながら遠い存在だった。しかしどうしても彼が考えていることを知りたいと思い、この解説本を購入した。 結論から言うと、購入して正解だった。ニーチェの言説を鋭く、しかもわかりやすく解説している。なんとなくイメージしていたニーチェの道徳批判の意義を明確にできたと感じている。 あわせて感心したのは、ありがちなニーチェ崇拝にならず、ニーチェの言説の問題点等を指摘していることだ。曰く、「ニーチェには、批判的観察によって原理を発見すると、その原理を絶対化して、その貫徹を要求しだすという、いわば過剰解釈のねじれた論理がある。力への意思も、もともとは虚栄心やルサンチマンを分析するための心理的概念装置だったものが、いつのまにか積極的に崇拝され、ディオニソス的宇宙像の形而上学装置になってしまった。」

 また、次のようなニーチェの道徳批判のポイント、「(道徳的価値観が世界を覆いつくしている)この二千年の出発点にあるのはキリスト教である。キリスト教こそは、「まさにユダヤ的な価値への誘惑にして迂回路」であり、「復讐の真に多いなる政治の秘めた黒魔術」であるとニーチェはいう。」、「いかなる返済の努力も決して届きえないような無限の債務など、はたしてありうるだろうか。この問いに「逆説的で恐るべき窮余の策によって答えたのが、「キリスト教の天才的悪戯」であった。原始キリスト教団、あるいは『アンチクリスト』によればその首謀者であるパウロは、イエスの十字架での刑死という不慮の出来事に意味を与えるべく、神が人間の罪を贖うために身代わりで死んだと再解釈したのである。」、などの指摘は明快だ。

 著者がニーチェを「戦慄すべき道徳性の分析家」として評価しながら客観的に批判できるのは、あとがきに卒論でニーチェに取り組んだのちにカントを研究したときに、「ニーチェのある側面は、カントの前で色褪せて見えるようになった。」ということにあるようだ。そして次第に彼は、「ニーチェの方法論の核心にはカント的な超越論哲学の伝統があるはずだ」という予感は確信になっていたという。このような研究経緯を率直に述べていることに好感を持った。

ユダヤ人が「選民」の呪縛から自由になれば反ユダヤ主義はなくなる ~パレスチナ問題の根本的解決のためになされなければならないこと

 ハマスのミサイル攻撃や人質拘束への報復として行われているイスラエルのガザ侵攻は常軌を逸している。ユダヤロビーに操られているアメリカやホロコーストへの罪責意識に囚われているドイツなどがイスラエル支持をやめられないのをいいことに、イスラエルは報復どころか、金輪際パレスチナからの攻撃がなされないようにするための仕上げを着々と進めている。

この非情さ、苛烈さに世界中から非難の声が上がっていることに対し、イスラエル等のユダヤ人から「反ユダヤ主義」という非難が返されている。こんなことをする国はナチのホロコーストを非難することはできないはずなのに、ホロコーストにつながった「反ユダヤ主義」を、いまだにタブーとして利用し反論する態度は陳腐になりつつあり、そのタブー意識はヨーロッパにおいても、若い世代ほど持ち合わせていないので、このままでは、かつてとは異なった形での「反ユダヤ主義」が起こることになりそうだ。

そもそもパレスチナの問題は、1948年のイスラエル建国に至るシオニズムから始まっている。ガンジーは「聖書の概念でのパレスチナは地理的な領域ではまったくありません。パレスチナはユダヤ人の心に中にあるのです。」とある書簡で語っているが、何千年も前に無くなった国の民が、現実にそこに住んでいる人々を排除して、その民族の国家を再興しようとし、それを支援する国家が存在したということは二十世紀の最大級の汚点だろう。

このような国は全世界から制裁されるべきではないのか。また上記のような支援国家も制裁されるべきではないのか。アメリカやドイツの支援をやめさせるために、両国との経済関係を完全に断つことは困難でも、一部の関係を断つことは検討されるべきではないのだろうか。しかし、そのような動きは全く見られない。

この状況を憂いたイスラエル内外のユダヤ人から、現在のイスラエルを産んだシオニズムは、ユダヤ教に反しているというような言説が述べられている。ユダヤ教は暴力を嫌っており、シオニズムは間違っているというわけだが、この論理だけでは、ユダヤ人すべてが政府の政策を支持しているわけではないという言い訳にしかならず、シオニズムが起こる前の、ヨーロッパの伝統的なユダヤ人迫害や差別などの反ユダヤ主義が起きた理由については問題外になってしまう。そこで、ここでは、これまでの「反ユダヤ主義」等を産んだ、ユダヤ人の「選民意識」について考えてみよう。

始めに断っておくが、ここではユダヤ人と言われるすべての人について述べているわけではない。私は人間を属性で判断することは間違いだと思っている。人間はそれぞれ個性を持って生きている。だから複数の人に属性をこじつけ、その属性で個々の人の判断をすることは間違いである。現に、後で述べるように、ユダヤ的でないユダヤ人が少なくないことを知っている。ここで「ユダヤ人」としているのは、自らユダヤ人という集団意識を持ちながら生きてきた(生きている)ユダヤ人のことであり、いわば、人間ではなく「ユダヤ人」という概念について述べているわけだ。

さて、そもそも何千年前に流浪の民となっても連帯感を持ち続け、行き着いた地域の人々になじまず、ユダヤ教信者でなくても「ユダヤ人」としてのアイデンティティを保とうとすれば、その地域の人々からうさん臭く感じられそうだということを理解せず、その相手を悪者にし、自分たちは善良な被害者、受難者という立場になり、マゾヒスティックに選民意識を抱いているから反ユダヤ主義が生まれるのではないだろうか。こんなことを述べると、私が「反ユダヤ主義者」、差別者などと非難されそうだが、このことはタブーにされているだけで、そのような状況では、そのように感じる人がほとんどではないだろうか。

私はそれが当然だとは言わない。自分たちとは異なる慣習を守る人やその集団を、単になじめないからと、うさん臭い目で見ることは愚かなことだ。しかし、だからといってその相手を単に悪者とすることも愚かなのではないだろうか。不当な行為を受けたと感じた時、なぜそのような行為をするのかを相手に尋ねれば、自らの行為の相手にとっての受け止め方を理解することができるだろうし、自分の行為の説明をすればわかり合うことも可能なはずだ。そのような基本的なコミュニケーションを阻むのが選民意識ではないのだろうか。人間は弱く、人見知りになりがちで、上記のような現象が起こりがちであるということをお互いに認め合えばいいのに、「選民意識」が強いと、自分たちこそ正当だと思い込むから差別や紛争になったりする。

シオニズムを批判している著名なユダヤ人たちの中に、「ディアスポラこそユダヤ人の特性」という類の言説を述べる人たちがいる。このようなユダヤ人も、ユダヤ人がディアスポラを経験して普遍的な思想を生み出す能力を身に着けられたことを、「ユダヤ人ならでは」、とその経過を特権化している。それも選民意識であり選民的意識から脱していない。

ディアスポラがもたらしたものについては、パレスチナ人思想家のエドワード・サイードが、「ユダヤ人だけの特徴だと言う必要はない」、「膨大な人口、避難民、亡命者、国籍離脱者と移民が氾濫するこの時代において、自分の共同体の内と外の両側に同時に生きる人びとの、ディアスポラな放浪と未決のコスモポリタンな意識にもまた、そうしたことが探し出せるはず」と述べているように、ユダヤ人のディアスポラも歴史の中で生じた現象に過ぎない。

そもそも、人類に「選ばれた民」など存在しない。「選民」という観念は、厳めしそうだが、その起こりは極めて幼稚な妄想なのではないだろうか。「選民」とは、「実存」の感覚を自分の殻に閉じ込め、自分は特別な存在(人間)であるかのように思う自己幻想が、伝統、慣習、宗教等が同じ民族に広がった原始的な共同幻想なのではないだろうか。

優性思想や選民的意識はアングロサクソン系アメリカ人、中華思想の漢民族、ナチスドイツのアーリア系民族など各地にみられ、日本にも太平洋戦争以前には神国思想などが興隆した。しかしユダヤ人以外の民族は、その民族に勢いがあるときに限られている。そして、ユダヤ人以外の民族は、出身国から離れると自己の民族性を徐々に失っていくが、アメリカにおけるユダヤ(イスラエル)・ロビーの活動は活発で、ガザ侵攻問題の解決を困難にしているばかりか、アメリカが軍事支援をやめないように圧力をかけ、ヨーロッパにおいても様々な自民族援助が行われているように、ユダヤ人の選民意識による結束力は特別だ。ユダヤ人がこのような意識から脱することは不可能に見えてしまう。

しかし、ユダヤ人のなかには、選民意識やユダヤ性を感じさせないマルクス、フロイトなど、いまだに世界中に強い影響力を持っている人物がいることは有名で、先に述べたような普遍的な思想を生み出す能力を身に着けられた例とされている。フロイトは自らのユダヤ性を認めているが、それに縛られた言説は自制されていると言えるだろう。

私は、私自身も影響を受けた、このような人物がユダヤ人から輩出されたことを、かねてから不思議に思っていた。ユダヤ人が特別、優秀な民族だからだという答えは「ユダヤ人選民論」に逆戻りになる。それを排除して考えると、このような結論になる。

ユダヤ人の選民意識は特別根強いから、これを客観化し、脱するという困難を克服するためには、人間という存在の意味を特別深く考え理解しなければならなかった。そのために彼らは、民族等の属性などを始めとするあらゆる既成概念を相対化しなければならなかった。それを実践した彼らは民族等を超えた思想や理論を獲得することができ、その思想や理論は広く普及し、現代に至っている。

このように言うと、「そのような特別な人しかユダヤ性を克服できないのではないか」と思われがちだが、そんなことはない。彼らはそういうことができるという範を示してくれたのだから、それに倣えばいいのだ。先駆者としてそれを実践することは大変なことだが、後の人はそれをはじめから経験する必要はなく、いわば模倣すればいいのだから誰にでもできる。要するに「選民」という意識は思い込みに過ぎないということが理解されればいいのだ。

ヨーロッパにおいて、ユダヤ人以外の社会に同化したユダヤ人は多いようだ。ユダヤ人性に客観的と言われていても、そこから逃れられていないアーレントは、同化主義者をシオニストと同様に、「反ユダヤ主義の教義に逃れた」と批判したようだが、必ずしもそのような消極的動機ではなく、ユダヤ人という出自にこだわらず、素直な気持ちで同化した人は少なくないのではないだろうか。むしろそのような同化こそ進むべきだったのではないだろうか。

民族、人種、国籍、性別等の違いなど、生まれながらの属性は、たまたま備わってしまったのであり、それに意味はない。属性を恥じたり、誇ったりするのは愚かな心理でしかない。この理解が広がり、みな等しく「人間」であり、そのことに比べたら属性は些細な事だということが認められなければならない。

「自民族性から自由に」、ということは人類共通の課題だが、「選民」という観念に縛りつかれているために現在最も苦しんでいるユダヤ人が、まず取り組む必要があるのではないだろうか。ユダヤ人が自身のために「選民」の呪縛から自由になれば「反ユダヤ主義」はなくなるだろう。ユダヤ人が真っ先に選民意識や民族性から脱し、他の民族にそれが広がれば、人類は国家という共同幻想からも脱し、世界の分断がなくなる未来が開けるだろう。


旧統一教会の問題について

 安倍元総理の暗殺の動機となった旧統一教会の問題がクローズアップされ、宗教をめぐる議論が提起されているが、宗教はこのブログテーマと関連する大きな事柄だ。「存在」をめぐる不可思議で不安な感覚は、ユダヤ教の聖書(キリスト教の旧約聖書)のように「神が創った」と言えばわかりやすく、そう信じて不安が解消される人も多いだろう。それから、生きていく上での苦悩に対し、宗教者が「神の教え」をアドバイスすることで多くの人が救われたという気持ちになることだろう。その意味で宗教が社会に役立っていることは認める。私も素晴らしいと考えている内容の(神のではない)「教え」は数知れない。

しかし、宗教はその救済を与えるだけでなく、その人の依存心を利用して信者とさせ、その宗教への継続的な関係を求める。その宗教なしでも自立していけるようには決してせず、そのような信者を増やそうとする。そこに「人間」は存在せず、「信者」だけが存在する。私は、これが宗教の本質だと思う。信者が多くなると社会への影響力がついてきて、教祖やその後継者に野心があるとあらぬ方向に向かいがちだ。旧統一教会がそうだとは言わないが、中にはその野心のために創られた宗教さえありそうだ。

私はあえて存在の不安をいつも抱えながら生きてこそ、本当の人間同士の共感が得られるのだと思う。悩む人にアドバイスしてやることは必要だ。その際、その人が今後も悩むことがあっても自分自身で解決できるようにするべきなのだ。