「家族」と「内密出産」下

 

「家族」と「内密出産」

2022719日の信濃毎日新聞の社説に内密出産で生まれた子が特別養子縁組を前提に里親の元で育てられるようになったという経過とともに、政府が内密出産の運用の指針を進めているが、あくまで現行法の範囲内の対応にとどまり、制度化に踏み込む姿勢は見えないということが報告されていました。

そして、この問題を、一病院と自治体に委ねていていい問題ではないと述べ、その問題に悩む女性の支援システムを土台とした制度化の検討に本腰を入れるべきだとの主張をしていることに全面的に賛成します。

ただ、このような問題の制度化には時間がかかります。政府が現行法の範囲での対応であっても「違法ではない」という見解を示した(同年2月25日参院予算委員会・後藤厚生労働大臣)ことを機に、慈恵病院のような産院や支援者がつぎつぎと現れ、募金等によりその資金が確保され、全国どの都道府県でも匿名かどうかに関わらず出産支援が受けられるようになることを期待しています。そのように既成事実化させることが優柔不断な政府を動かし、制度化の方向を決めることにもつながると思います。

なお、私は制度化の論議の中で、子どもの「出自を知る権利」を保証することが重要な条件とされています。そのことを子供のために配慮するよう、母親に伝える必要はあると思いますが、それが絶対条件のようになり、その人が「内密出産」をあきらめざるを得ないようになるまで追い詰めてはならないと思います。

自分の血縁上の両親を知っていなくとも、人間は人間として生まれた人間で、そのことはなんの欠如にもなりません。両親に育てられた子でも、成長するにしたがって社会の中のよき大人を尊重し見習うようになるのです。「出自を知っている」ことが人間として必須の条件であるように考えることも、上記引用のような「神話」かもしれません。このブログのタイトルで述べているように、人間は生まれただけで人間になったのではなく、自分が存在しているという意識を持った時に人間になるのです。その時、自分の属性(男女、生物的な父母、名前、人種、国籍等)は偶然に与えられたものにすぎないのです。いわば私たちは「地球という星に産み落とされた宇宙の孤児」なのですから。

また、今回のように里親、養子縁組ということにならず、養護施設で成人するまで養育されても、その子が「家族の良さがわからない不幸な子ということにはならない社会」になるべきだと思います。「父と母が揃った家庭で育つ」ことを理想とし、モデル化・一般化すると、どうしても差別の問題が伴います。「親は無くとも子は育つ」という諺があります。「家族」、「親子」の既成観念と、この言葉の重さの違いを感じ取りましょう。

最後に、このような問題は人任せにせず、一人一人が自分の考え方を検討していくことによってしか本当の解決は望めません。内密出産のようなことは他人事だと思っている人でも、心の奥で自分の子や孫がそうなることに不安を感じているのではないでしょうか。そう感じながら、自分だけには、自分の子にだけにはそんなことは起きないという極めて幼稚な妄想によって、その不安を打ち消そうとしていませんか。そして、他人事としたいために望まぬ妊娠をした人を差別するような誘惑に負けていませんか。他者に起きたことは自分にも起こりうることと認識できてこそ人間らしい人間です。自分と同じように苦しい事態に陥った人に寄り添う不安のない、温かい社会をみんなで創りませんか。

(了)

 「家族」と「内密出産」

宮台真司、渡辺靖、苅部直の鼎談集『民主主義は不可能なのか?』において、社会人類学者の渡辺らが述べていることが、この問題を考える参考になると思うので、長くなりますが引用します。

渡辺                                                                                               「最近は、男女問わず、晩婚化、全非婚化の流れが強まっています。背景にあるのは何か。男女関係やその役割分担、夫婦観や家族観において、旧態依然としたイメージがあり、それを想像してしまうと萎えてしまう。自分みたいなものが結婚したって、家族を幸せに養えないからとか、配偶者の親の受け入れなど、家族や親族とのしがらみがあると思うと萎えてしまう。根強い家族神話に拘束されて、その前で怖気づいている人も少なくないのではないか。今はそういう結婚観・家族観が転換する時期にある。家族は個人にとって選択肢の一つにすぎない。家族のために自らの自由を放棄するのは馬鹿らしいと考える。単にソーシャルキャピタルの窮屈さを避けているわけではないと思います。」

これに対し社会学者の宮台は                                                「データ的には、年収1250万以上の女は6割以上が結婚せず、男は年収が低いほど結婚できない。要は、女は金がなければ結婚し、男は金がなければ結婚できない。これは「愛よりも金」を示すと同時に、渡辺さんがおっしゃる性別役割分業のオールド・レジームを示します。」と応じています。

(結婚の同様な傾向は。山田昌弘『結婚不要社会』にも述べられています。)

日本は明治以降、欧米のように産業を発展させ、都市化してきたのに、封建的な社会制度を取り入れるという、ちぐはぐな近代化をしてきましたが、敗戦後はこれを民主的な制度に変革せざるを得なくなり、このわずか一世紀半の間に他の国にはほとんど例のない荒波にさらされてきました。このためでもありますが、日本国民の家族観・社会観はこの状況に的確に対応できておらず、精神的に極めて不安定なままだと思います。今はこの状況を踏まえた新しい家族観を構築していくべき時なのです。ただ旧来の家族観を守ることを主張し、このような状況を考えない政治家は、政治家たる資格はありません。 

「出産」は性行為により生じた結果で、「家族」との直接の関係はありません。「家族」と結びつけるということは、性行為によって生まれた子供の養育はその両親に責任を持たせる民法上のルール(第877条第一項 直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。)があるからなのでしょう。しかし、その両親と子は「家族」であるとは限りません。いわゆる「家族」とは結婚しているかどうか、共同生活をしているかどうかは別にしても、継続的な関係がなければならないでしょう。特に両親が未成年の場合、「家族」であることはめったにないでしょう。上記の批判は、「家族」でなければ子を産んではならないという道徳の強制で、そこからはずれた「出産」は捨て子、子殺し、母子心中につながってしまいます。ですから、「出産」と「家族」は別の問題として扱わなければなりません。

「できちゃった婚」という結婚が、最近ごくありふれたことになってきたことはいいことだと思いますが、強姦はいうまでもありませんが、ともにパートナーとして生きようとしないカップルや結婚できない年齢の男女にも子供はできます。

『最小の結婚』においてアメリカの哲学者、エリザベス・ブレイクは

「だが、子どもは、結婚以外の様々な方法で保護されうる。彼ら彼女らは、ひとり親もしくは血のつながっていない親たちによって養育されるかもしれない。問題となるのは、子どもの保護のためにどのような枠組みが配置される必要があるかということであり、その答えは明らかに彼ら彼女らの生物的な両親の結婚ではないのである。」

と述べています。

私たちは、既成の概念、モラル等を客観的に、徹底的に分析し、現在の状況からかけ離れた束縛から脱却し、子どもの養育のためにはどのような社会のしくみが必要かを考えようではないですか。

(下へ続く)

「家族」と「内密出産」

「家族」と「内密出産」上

 最初のテーマとして、「家族」と「内密出産」について考えてみましょう。

「家族」とは誰にも当たり前のようですが、これについては考えれば考えるほど不明確な概念であることが分かります。

「家族」については私が若い時からずっと考えてきたことですが、最近、このことについて考えたきっかけは、「内密出産」あるいは「匿名出産」という出来事が話題になったからです。

「内密出産」はフランスでは200年以上前から、また現在では、ドイツ等、欧米の多くの国で認められており(参照・2019年3月・厚生労働省「妊娠を他者に知られたくない女性に対する 海外の法・制度に関する調査研究 報告書」)ます。しかし日本国内では認められていないため、一部の国会議員が議員立法を目指していますが、保守層からは捨て子助長論等の反対論が多いとのこと。その人たちは、捨てさせなければ解決すると思っているのでしょうか。孤立出産をせざるを得ず、生まれた子を殺すという痛ましい事件が後を絶たないのはこのような社会的圧力が原因なのではないでしょうか。

こういった懸念を解消するためにも、感情的な議論にならないようにするためにも、それらの国の状況を調べたり、専門家の見解を聴き、問題点等を明確にする必要があるでしょう。

また、与党から「伝統的な家族観を壊す」という批判が根強いため実現困難とのこと。「伝統的な家族観を壊す」ということが「内密出産」を認められない理由になるのでしょうか。超党派の生殖補助医療議員連盟がこの問題に取り組んでいるようですが、この論理について議論したのでしょうか。まずそのような主張をする人に、「伝統的な家族観」とは何か、そしてそれが壊れないようにすることにどのような意義があるのか、ということを明確に説明させる必要があると思います。

(中へ続く)