「家族」と「内密出産」

宮台真司、渡辺靖、苅部直の鼎談集『民主主義は不可能なのか?』において、社会人類学者の渡辺らが述べていることが、この問題を考える参考になると思うので、長くなりますが引用します。

渡辺                                                                                               「最近は、男女問わず、晩婚化、全非婚化の流れが強まっています。背景にあるのは何か。男女関係やその役割分担、夫婦観や家族観において、旧態依然としたイメージがあり、それを想像してしまうと萎えてしまう。自分みたいなものが結婚したって、家族を幸せに養えないからとか、配偶者の親の受け入れなど、家族や親族とのしがらみがあると思うと萎えてしまう。根強い家族神話に拘束されて、その前で怖気づいている人も少なくないのではないか。今はそういう結婚観・家族観が転換する時期にある。家族は個人にとって選択肢の一つにすぎない。家族のために自らの自由を放棄するのは馬鹿らしいと考える。単にソーシャルキャピタルの窮屈さを避けているわけではないと思います。」

これに対し社会学者の宮台は                                                「データ的には、年収1250万以上の女は6割以上が結婚せず、男は年収が低いほど結婚できない。要は、女は金がなければ結婚し、男は金がなければ結婚できない。これは「愛よりも金」を示すと同時に、渡辺さんがおっしゃる性別役割分業のオールド・レジームを示します。」と応じています。

(結婚の同様な傾向は。山田昌弘『結婚不要社会』にも述べられています。)

日本は明治以降、欧米のように産業を発展させ、都市化してきたのに、封建的な社会制度を取り入れるという、ちぐはぐな近代化をしてきましたが、敗戦後はこれを民主的な制度に変革せざるを得なくなり、このわずか一世紀半の間に他の国にはほとんど例のない荒波にさらされてきました。このためでもありますが、日本国民の家族観・社会観はこの状況に的確に対応できておらず、精神的に極めて不安定なままだと思います。今はこの状況を踏まえた新しい家族観を構築していくべき時なのです。ただ旧来の家族観を守ることを主張し、このような状況を考えない政治家は、政治家たる資格はありません。 

「出産」は性行為により生じた結果で、「家族」との直接の関係はありません。「家族」と結びつけるということは、性行為によって生まれた子供の養育はその両親に責任を持たせる民法上のルール(第877条第一項 直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。)があるからなのでしょう。しかし、その両親と子は「家族」であるとは限りません。いわゆる「家族」とは結婚しているかどうか、共同生活をしているかどうかは別にしても、継続的な関係がなければならないでしょう。特に両親が未成年の場合、「家族」であることはめったにないでしょう。上記の批判は、「家族」でなければ子を産んではならないという道徳の強制で、そこからはずれた「出産」は捨て子、子殺し、母子心中につながってしまいます。ですから、「出産」と「家族」は別の問題として扱わなければなりません。

「できちゃった婚」という結婚が、最近ごくありふれたことになってきたことはいいことだと思いますが、強姦はいうまでもありませんが、ともにパートナーとして生きようとしないカップルや結婚できない年齢の男女にも子供はできます。

『最小の結婚』においてアメリカの哲学者、エリザベス・ブレイクは

「だが、子どもは、結婚以外の様々な方法で保護されうる。彼ら彼女らは、ひとり親もしくは血のつながっていない親たちによって養育されるかもしれない。問題となるのは、子どもの保護のためにどのような枠組みが配置される必要があるかということであり、その答えは明らかに彼ら彼女らの生物的な両親の結婚ではないのである。」

と述べています。

私たちは、既成の概念、モラル等を客観的に、徹底的に分析し、現在の状況からかけ離れた束縛から脱却し、子どもの養育のためにはどのような社会のしくみが必要かを考えようではないですか。

(下へ続く)