2022年9月30日の信濃毎日新聞に社会学者の大澤真幸氏が寄稿している。
まず、「この国葬は、日本人の国民の記憶に明確な痕跡を残すことなく、忘れられていく予感がする」と述べていることには同感だ。
しかし、その根拠の「国葬の是非をめぐる世論の極端な分断にある」、「単一の主体を立ち上げるのに失敗した」という理由付けには納得がいかない。分断された状況があれば、それは忘れがたい記憶になるのではないだろうか。
さらに「今回の国葬をめぐる世論の分裂に、通常の政治的意見の対立とは異なる深刻なものを感じている。」、「普通は意見が対立していても、人は互いに反対派の気持ちや論拠に対しても一定の共感や理解をもっている。」が、今回は「このような反対派への共感が極端に薄かった」という感覚には大きな違和感がある。少なくとも日本の政治関しては、ずっと今回のような状況であったと私は思っている。彼のいう「普通」の状態とは、いつどのような状況において存在したのだろうか。それが存在したとすれば、なぜ無くなったのかを分析しなければないのではないだろうか。具体的な説明ができないのならただのノスタルジーかと思わざるを得ない。
そして、安倍晋三という政治家がなぜ憲政史上最長になりえたかという自ら設定した疑問に対し、また「わが国の議会制民主主義の中にほとんど反映されていない不可視の分裂が国民の中にあった」という結論のようなことを述べているが、「不可視」で済ませていてはならないのではないだろうか。
「最長」の疑問に関しては、私が先にこのブログで述べたように、自民党の中の最大派閥を巧妙に取り仕切っていたこと、党内にそんな安倍晋三より有力な人材がいなかったというレベルの低い結論をくださなくてはならないだけだ。わが国の議会制民主主義とは、理念などそっちのけの自民党を地縁や利権等のために支持してしまう日本国民の民度の低さで説明するしかないのではないだろうか。