書評 フロイトのモーセ ヨセフ・ハイーム・イェルシャルミ/著 小森謙一郎/訳

  サイードが『フロイトと非-ヨーロッパ人』において、この本の著者が、フロイトといえどもユダヤ人の性格上の特徴を継承することは避けられないとしていることを引用していたので、その内容を詳しく知りたいと思っていた。

この著者は1932年生まれのユダヤ系アメリカ人のユダヤ史家だ。序章の「聴衆のための序奏」で、このテーマを研究するきっかけは、「反セム主義の精神分析的研究調査班」に参加することになったことだったと述べている。このメンバーはおそらくほとんどがユダヤ人の精神分析家なのだろうが、この研究を充実させるためにユダヤ人歴史家が必要ということになり、彼が選ばれたようだ。

読んでみると、予測していた通りのフロイト批判だった。 フロイトの『モーセと一神教』は、イェルシャルミの言う通り、歴史書でも小説でもないアナロジー的な著作だといえるだろう。しかし、この著書の意図は、反ユダヤ主義の原因となったヨーロッパでの伝統的なユダヤ人ぎらいの原因となっているユダヤ人の選民意識を解消しなければ危機的状況は避けられないという認識で、この意識の根拠となっている、旧約聖書の神話を崩そうとしたことにあり、サイードも上記の著書において、その意味でフロイトを評価している。そのこと自体を支持しないまでも、理解しなければ、単なるケチつけのような評論にならざるを得ない。

確かにフロイトの論理には飛躍や強引さがあることは認めざるを得ない。しかし、この弱点を指摘し歴史書としての批判をしても意味がないのだ。それにもかかわらず、イェルシャルミは執拗にフロイトの認識の矛盾を突いている。この著者はフロイトが、なぜ自己を含むユダヤ人のユダヤ性と苦闘していたのかということに少しも理解を示さず、フロイトの『モーセと一神教』と共に彼の精神分析論をシニカルに批判している。この姿勢には、フロイトの時代とは異なり、反ユダヤ主義と罵倒すれば世界中の言論をリードできるとして、いまや強者となったユダヤ人の驕りを感じる。このような姿勢にユダヤ人以外の人間の共感は生まれない。このような姿勢こそ、現在のイスラエルの残忍なガザ侵攻をもたらしているのではないだろうか。この著者はこの状況を知らずに没しているが、このような姿勢をユダヤ人が改めなければ、「新たな反ユダヤ主義」が生じることは避けられないだろう。

イェルシャルミのこの著書で参考になったのは、フロイトが生家において身に着けさせられたユダヤ的な慣習を明らかにしたことだ。割礼を含むユダヤ人の様々な慣習は少なくともフロイトが育った19世紀後期にも続いていて、おそらく現在も残っているのだと思われ、ユダヤ性の根強さはこの家族的慣習にあることを再認識した。