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書評 ノット・ライク・ディス トランスジェンダーと身体の哲学 著/藤高和輝

 私には一般に流布している、トランスジェンダーといわれる人たちの主張が理解できない。なぜ生まれた時に、哺乳動物としての特徴の「雄/雌」により、「男/女」とされたことを受け入れられないのかについて、当事者から聞いてみたかったのがこの本を読もうとした理由だったのだが、結論からいうとそれは叶えられなかった。(この本にも記されているように、「男/女」の判断が明確にできない例が少なからずあることについては知っていたが、それについては別途考えることとしたい。)

 著者は、序章において、「トランスの身体性を記述しなおす理論的試みである。・・・人口に広く膾炙しているトランスジェンダーに対する病理学的な認識図式を批判し、オルタナティブな理論的枠組みを提示することが本書の主要な狙いである。それはまた、「身体とは何か」という問いをトランス的観点から思考する試みである」、「それは「トランスにとっての身体とは何か」という問いに応えるものであると同時に、トランス的観点から、誰もが生きているこの私の身体とは何かを再考する試みでもある。」と述べている。

 著者はまず、デカルトの「心身二元論」では身体が「意識が乗り越えるべき「否定的なもの」であるということにな」り、身体は「ただ意識の要求や理想を満たし反映するためだけに存在する「モノ」としての身体ということになる」としていると述べる。またトランスジェンダーの存在を「病理」「異常」「特殊」とみなす病理学的図式を批判しながら、「ジェンダーとは生物学的に決定されているとする本質主義の議論を批判」し、「ジェンダーとは社会的に構築されるものであるとみなす」「構築主義的図式」を批判的に再定式する言説を展開する。そのなかで、構築主義者たちの、「性自認」は「性他認」という議論を「心理の場所が「私」から「他者」へと移譲されてしまう」と批判している。

そこで著者は、「<私の身体>はテーブルの上にあるコップ」と異なり、「<私の身体>はつねに私とともにある」とし、<私の身体>の居場所を理論化しようとした、メルロ=ポンティの哲学に注目する。そして彼が、「身体イメージ」の概念を強調しているとし、「この観点から考えるならば、性別違和とは、「心」と「体」の間ではなく、「身体イメージ」と「物質的身体」のあいだに生じるといえるのではないか。」と述べる。そして、「トランスにとっての「真理の場所」―それは、「モノ」としての身体でも、心でもなく、社会という<他者>でもなく、身体イメージ、すなわち、私にとって感じられる身体にあるのではないだろうか。」と続ける。

そこで著者は、「本書の基盤になっている主張は、・・・あなたが感じる者こそ、真理であ」り、「自称すれば誰でも性別を変えることができる」とトランスフォーブ(=トランスジェンダー嫌悪者(森中・注))が言う「セルフID論」では決してない」と述べ、トランスジェンダーを擁護する。

それから著者は、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』で、「セックスとは自然的事実ではなく、むしろ異性愛規範によって部分的に形成されたものであると指摘」していることを紹介しているが、この辺までは何とか理解できる。

しかし、著者の論は、「身体の形」は物質的であるだけではなく、想像的なもの」という言説に展開し、トランスには、「この「身体の形」が私のものではないもの」として、・・・「ここに在る」という経験であり、したがって、この「身体の形」を「私のもの」として「引き受ける」ことの困難性がそこにはある。」と述べている。要するに、トランス女性は、自分の男性の陰茎や陰嚢、トランス男性は膣や胸のふくらみなどがあることを「引き受けられない」というわけだが、この言説を「シスジェンダー」の人たちがそのまま理解するのは正直に言って無理があるのではないだろうか。ここにほしいのは、感覚の絶対化ではなく相対化だ。なぜそのように感じるのかを自ら考えてほしいのだ。

著者は、「性別違和」は「シスジェンダー」の「性別役割拒否」とは異なると言う。それはわかるが、「性別違和」はこれまでの社会の性別に関する固定観念と無縁だといえるだろうか?トランスの人たちは、「男らしさ」「女らしさ」というような観念から自由なのだろうか?「女になりたい」「男になりたい」というとき、その「女」とは、その「男」とはどのような意味を含んでいるのだろうか?トランスの人たちは、自己の人間性よりも、性差にとらわれすぎていないだろうか?この問いは、バトラーたちの議論を読んでも解けなかった。

 私は人間として生まれ、与えられた自分の境遇や身体を引き受けるというのは、すべての人に共通する課題だと思っている。私自身、いわゆる「色覚障害」を背負っている。しかし、個々の色覚の感度は一律ではなく、障害というのは、色覚の感度に一定の基準を定め、その基準以下の色覚を便宜的に「異常」としたに過ぎないのだとは思っているが、運転免許の資格、各種のカラー図表、色分けなどで「色覚障害者」はほとんど無視されていて、程度の差はあるが、このことも生きにくい社会の一要素であることは確かだと思っている。

 それでも、この障害も、私が与えられたその障害は私の身体の一要素でしかなく、他の多様な要素とともに私に与えられているのだから、それをもって「自分の身体を受け入れない」ということはできないと思っている。そして、障害者は皆、「自分の身体を受け入れない」ということはできないのだろうとも思っている。

だから、トランスの人たちが、障害者や差別される人種の問題をどのように考えているのかを問いたかったのだ。この著書の中で、あるトランスの人が、彼らの運動は障害者運動と無縁だった。障害者運動などに学ぶ必要があると主張していることが紹介されている。しかしそれだけで、トランスの人たちはあまりそのような問題には関心がないようであり、これには不満がある。

黒人運動のような人種差別反対運動や障害者運動を学べば、トランスの人たちの社会認識は、決して新しい認識ではないことがわかるはずだ。被差別人種や障害者なかの多くの人たちは、「パス (トランスの人が、志向する性別であるかのように演じること(森中・注))さえできずにいることを理解するべきだ。

「身体への愛は自然には発生しない」と著者は述べる。そして、「多くのトランスの人たちはそれぞれの仕方で自らの身体と折り合いをつけながら・・・生きている。自らの身体と折り合いをつける、その愛の技法は、ある身体を「おぞましいもの」として排除する<いま・ここ>の社会的世界とは別の世界の可能性を先取りしているのである。いわば、この世界がトランスの人たちから愛の技法を学ぶべきなのだ。」と声高に主張しているが、いつまで待ってもそんな社会が実現するはずはないと思う。

だが、そのような社会の偏見を客観的に批判できていれば、「身体への愛」を生じさせるまで至らなくても、私たちは生まれついた身体を自然に受け入れることができるはずだと思う。生まれ出た社会のせいで生きにくさを感じるから、与えられた身体を「愛することができない」としたら、それは自分の身体を他者や社会の見る「眼差し」で見ているからではないだろうか。自分の身体を他者の「眼差し」で見てはならないのではないだろうか。

黒人の差別反対運動で「Black Is Beautiful」という、従来の白人中心の美の基準を覆し、黒人としての誇りや文化、肌の色を肯定する強力なメッセージを生み出していることに学ばなければならないのではないだろうか。

 ここで断わっておくが、この書評はトランスジェンダーの人の説にかなり批判的なものになっているが、私は、トランスの人を攻撃したいわけではない。ただ、本書のような断定的に「違和を感じる」と言うだけでなく、当事者が自らその根本的な理由をシスジェンダーにもわかるように考え、率直に説明してほしいのだ。感覚を客観化することこそ、人間同士が分かり合う前提だと思うからだ。

私は、人間は、生まれた時に「与えられた」身体を変えることはできないのだから、誰しもそれを受け入れて生きればいいのだと思っている。そして、すべての人が、「生まれて良かった」とまで思わないまでも、「生まれない方が良かった」という人がいる社会、世界にはしたくないとも思う。そのためには、身体の問題に関して言えば、男女の区別、障害の有無・程度・種類、人種等を含め、個々に全く同じ身体はないのに、社会は便宜的な標準を定め優劣をつけたがるもので、それを正当化するために様々な偏見を伴う言説が生じ、差別が生まれることは「人間の弱さ」のせいなのだということを認識し、決して非難をせずに、わかりやすく批判し、不当な扱いをされたら抗議するということを実践することが必要だと思う。そうしていれば、与えられた身体のことで苦しまずに生きられ、決して他者の眼差しで自分の身体を見つめることなく、堂々と生きることができると思う。そうしていれば、この世界は「学ぶべき」と声高に叫ばなくても、「学ぶようになる」のだと信じている。

 

 

書評 体の居場所をつくる 著/伊藤亜紗

 10人の難治性の病を抱えている人と、一人の在日の人へのインタビュー集だ。

私は、いわゆる「心と体」という問題をどうとらえるべきなのかをずっと考えている。この著書は、心にとっての体の様々なありようを知るうえで貴重なものだと思う。

在日の元在日コリアン以外は、ダイエットや過食が原因の摂食障害、脊髄性筋萎縮症(SMA)、ナルコレプシー(睡眠障害)、ALS(筋萎縮性側索硬化症)、脳脊髄液減少症、身体症状症、コロナ後遺症による筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)及び副腎機能不全、皮膚と関節が壊れ続けるPAPA症候群など様々な難病と闘病中の人にインタビューをしている。いずれの例も、医療だけでは解決せず、闘病者による病気の客観化が必要であるようだ。この闘病者たちの「パーソナルな」取り組み方、認識にも目を開かされるが、著者はその取り組みかたを丹念に聴きだし、明晰に分析・表現している。

なんといっても示唆に富むのは最後の今泉美佳さんのPAPA症候群の例だった。この病は「皮膚と関節が壊れ続けて」いき、化膿した皮膚が「腐る」と自身が表現する、世界に1000人くらいしか例のない、なんともおぞましい難病で、彼女は4歳に発病したという。それから彼女は様々な病院で検査を受けたが、「大学病院でもこんな症状はない」などと、「できることを探すというよりも、病気そのものを否定するようなお手上げの宣言」を発するような状態で、「医学に対する諦めと不信感が感じられ」る、と著者は述べる。

思春期には、「なんで私がこんな思いをしなきゃならないの」という怒りを父親にぶつけていたが、それを受け止めていた父親がトイレで泣いているのを聞いて、当たることはやめ、「「明るく痛みを伝える」ようになった」、それは「自分の大切な人に痛みを伝えることで、その方の悲しい顔を見たくない」という気持ちになったからだという。

その後、仕事も出産も経験し、現在40代に差し掛かっているとのこと。痛みも強いのに、彼女からは、「壊れていく体に対して、先回りしてそれが起こらないように制御しようとする介入的な意思」を感じられず、「どこか、「体は体、私は私」と割り切れないものを割り切る距離感がある。」という。 

その割切りは、彼女が経験の中で身に付けた、「自分の痛みは決して他者には伝わらない」という「痛みの私秘性とその共有不可能性」の認識が、「逆説的にも、「この痛み」が「私の痛み」でなくな」ったこととつながっているという。

そして彼女には、「「自分が死なないこと」が投げかけるメッセージ」、「生かされている」「与えられたもの」、「「そこには理由がある」という感覚が生じているといい、著者は「理由があるという感覚は、・・・「生の理由」を問う物語に変わったとき、その信念は美佳さんにとって、自分の体を置く居場所になっていったように思います。」と述べている。これこそ著者がこの本を著したかったことなのだろう。

医療に不信感を抱いていた美佳さんだが、整形外科的な処置は受け入れられたようで、インタビューの2年前に人工関節を入れ、人生で初めて痛みのない体を経験し、「「これが生きることなの?」と実感し」、「あれもやりたい、これもやりたいってどんどん気持ちが出てくる」という。求道者の様に生きてきた美佳さんが人間らしい喜びも感じられるようになったことに、ほっこりした気持ちになる。

この著書には、以上の闘病している人へのものと、例外的に病気ではない在日の女性へのインタビューが掲載されている。人が個人としてではなく国籍や人種として見られるということは、「社会的な問題であると同時に、身体的感覚として経験される」と語っているが、私にはこのインタビューは他のものとあまりにも異質で、この著書に掲載されている意味が分からなかった。

むしろ、この著者には、機会があれば、トランスジェンダーの人にインタビューし、この人たちの体の居場所について聴きだしてほしい、特に美佳さんの「与えられたもの」という感覚について、その人たちがどう応えるかを知りたいと思った。

書評 ポストヨーロッパ 著/ユク・ホイ 訳/原島大輔

 日本人以外の東洋人?(中国人?ウィキペディアには「香港出身の哲学者」とされている)によるヨーロッパ文明批判の書籍なので興味を持った。

日本語版へのまえがきに、本書が日本思想に深く取り組んでいることや日本滞在時に日本人研究者と交流し、「それまでにないほどの洞察を」得ることができたことが述べられている。

なるほど、彼はこの著書で、第二次大戦中の日本に起きた「近代の超克」運動や京都学派、西田幾多郎、竹内好などの言説を正面から受け止め、批判的に評価している。

彼はかなり、ハイデガーの影響を受けていて、この「ポストヨーロッパ」論を、ハイデガー独特の「故郷喪失」、「(サイバネティクスによって画定された)哲学の終わり」、「惑星化」、「総かり立て体制」等の概念に触れながら展開しているため、後期のハイデガーの著作を読んでいないとわかりにくいが、訳者解題やウィキペディア等を参考にしながら読んでみた。

著者が注目しているのは、ヨーロッパ哲学がテクノロジカルな思考であることで、それがヨーロッパ哲学をグローバルにしたということであるようだ。それだけだと解説にすぎないが、著者は、それは理論的な先進性によるものではなく、海軍力の先進性がヨーロッパを非ヨーロッパ地域と比べて武力において優位に立たせたからだったからだと述べている。これは非ヨーロッパ人ならではの鋭い批判的分析でありわかりやすい。著者は、ポストヨーロッパ哲学はテクノロジーを抜本的に改革しなければならないという。そして西谷啓治がこのことを理解せず、近代科学を拒否したことが「近代の超克」プロジェクトが失敗した理由の大部分を負っているという。

以下、哲学論は正直いってよくわからないので、歴史認識を中心にこの著作を紹介し、私なりの理解や批判を述べる。

私が注目したのは、日本がヨーロッパと競争するために、極度に圧縮された近代化の過程を踏まざるを得なかったことで「方向喪失」に陥ってしまい、京都学派の思想家たちが、ヨーロッパ内の近代批判を認識しながら、日本中心の世界秩序を論じるようになり、それが他のアジア諸国を侵略することを正当化するために利用された、という言説である。そう、維新政府は日本をヨーロッパに追いつかせるために、政府主導で産業を興し、社会の制度を輸入してきたため、日本は官製国家でしかなく(これはいまだに続いている)、国民は封建的な従属性を受け継いだままで、政府が巧妙にプロパガンダで国民を操る状況から思想家も自由ではなかったのだ。

そして著者は、現代の消費社会は上記のようなテクノロジー万能的な哲学から生じ、「知性的過程を短絡」させ、ショッピング、ヴィデオゲーム、SNSの中毒現象を増殖させ、欲動に支配された経済は人間を脱個体化し、個人は自分自身を愛し損ね、それゆえ他者を愛する能力も失うと述べ、ポストヨーロッパ哲学はアメリカ的消費経済と対決しなければならないという。

この論文全般には、人間がこれまで「故郷」に自己のアイデンティティを求めてきたため、その思想がナショナリズムや人種主義などにとらわれてきたこと、その故郷がグローバル化、惑星化により失われてきて(「故郷喪失」)、よりどころがなくなったことが現代の精神的な危機の原因であることが述べられている。

著者は、これを解決するためには、故郷を取り戻すことではなく、故郷喪失を肯定し、「思想家が国民国家を乗り越えるためには故郷喪失者になるしかない」という。そして彼は、コーダ(終章?)「ニーチェの後に、善きヨーロッパ人」の最後に、「出生が意味するのは国籍ではなく、むしろこの惑星上への偶有的な被投性、そしてそれによってひとが生きてこの惑星を共有する権利を獲得するということである。この偶有性はまた必然的な初期設定としての欠陥をも意味する。ひとはそれを通じて特殊な歴史と場所から与えられた特定の資源の継承をするのである。」という存在論を述べている。これこそ、由来はヨーロッパであっても、人間(地球人)は、どこの国民でもなく、そしてすべての属性から自由に生きようという、すべての人間を結ぶ認識だと思う。

この著書は理解しがたい面もあるが、私が期待したとおり、日本人以外の非ヨーロッパ人によるヨーロッパ文明批判として満足できるものだったが、無視できない30頁以上に亘る訳者解題がある。前半の「本書にいたるホイの仕事について」で字義のとおりの説明があり、「本書について」は訳者独自の考え方が述べられている。この中で訳者は、「本書のとりわけ日本語版の読者がホイの問いに応えるためには、まずもって前世紀の日本における「近代の超克」にそれぞれの立場から対決することが求められているように私には思われる。」として、加藤典洋の『敗戦後論』の「よごれ」をとりあげ、「よごれとは侵略戦争という悪をなして敗れたということである。戦争を通過した私たちは二度と過去に回帰することが不可能な仕方でよごれた。このことに向き合わない限り自己に向けても他者に向けても哀悼と謝罪が可能な主体がいつまでも構築できない。この状態でいくら哀悼と謝罪をしたところでどこまでも形だけのものにしかなりえない。このねじれとよごれを抑圧した自己欺瞞ゆえに私たちはいわば人格が外向きと内向きの自己に分裂しており、これを克服して一個の人格を回復しなければ先に進めない。」といいながら、なぜ分裂していているのか、どう人格を回復させるのかを述べていない。これではこの問題が単にモラルにしか及ばず、かねてから「自虐的」といわれていた言説と変わらない。

私はかねてから日本のアジア侵略は、日本人が欧米の帝国主義的な政策に反感や危機感を持っていたにもかかわらず、それと同じことをアジア各国にしてしまうという卑劣な行為であったと考えている。そしてその反省は、欧米への反感等にとどまり、欧米批判に至らなかったということを踏まえたものでなければならないと考えている。日本人の人格が分裂しているのは、東京裁判により、欧米批判を意識的にも無意識的にも抑圧させられていることに原因があると思っている。「鬼畜米英」と叫んだことや戦前の右翼思想すべてを否定してしまうことは間違いなのだ。欧米の大航海時代からの侵略は当時の日本人の脅威であったのであり、このことを抜きに過去の批判を安易にしてはならない。欧米にこのことについて反省させ、アジア諸国への謝罪をするならば、欧米とともに謝罪するべきなのだ。

この著書において著者ホイが、軍事力で地球中を荒らしまくった欧米批判を展開しているのに、これを翻訳しながら、この訳者はそれをどう読んだのだろうか。ホイは、ヨーロッパ中心主義がヨーロッパのみならず、「惑星的」に普及していることを読者に訴えているにも関わらず、それが理解されにくいことが、訳者の言説でも明確になってしまっている。

 

書評 トランスクリティーク カントとマルクス 著/柄谷行人

 著者の柄谷氏自身が、この著書について「難しい本」だとインタビューじんぶん堂企画室)で語っているとおりの難解な本だが、彼は、カントやマルクスの著書についてのポイントをついた引用をし、具体例を挙げながら、彼独特の解釈もあるとは思うが、丁寧な腑に落ちる解説をしてくれているので、なんとか読み通すことができた。しかし、内容が濃いため、脳が煮詰まり、続けて読めるのは2時間がせいぜいだった。 

正直言って、カントの著書は全く読んだことがないのでピンと来なかった。マルクスについては、『共産党宣言』、『ヘーゲル法哲学批判序説』、『ドイツ・イデオロギー』等の小冊子のみで、『資本論』については断片的な解説しか読んでいなかったが、彼の『資本論』の解釈は納得でき、参考になるものだった。

さて、この著書は注まで含めると500頁を超える大著であるため、ここで全体について触れることはできない。以下、私なりに理解したマルクス解説について述べる。

結論からいうと、資本主義の仕組みの労働者搾取だけでなく、交換過程に注目するべきであり、そうすれば、これまでのマルクス主義者による資本主義の捉え方では抜け出すことができなかった、資本=ネーション(共同体、集団)=ステート(国家)という三位一体のリングの出口を見出すことができる、ということを彼はいいたかったのだと思う。これを彼は、マルクスが『資本論』で、「産業資本の剰余価値は、たんに労働者を働かせることによってではなく、(総体としての)労働者が作ったものを労働者自身が買い戻すことにおける差額から得られる」と述べていることを引用しながら導き出している。労働者からの搾取ばかりを問題とした労働運動のみの抵抗運動は結局、資本の力に対抗できず、社会的な広がりを期待することもできないため行き詰まる宿命にあるのだという。

 

このことが、エンゲルス以降のマルクス主義者には理解されなかったから、ソ連の様な集権主義的な社会主義国家が生まれ、その後、衰退したのだろう。この辺を読んでいると、アレントの『革命論』におけるマルクス批判が極めて表面的なことをつくづく感じる。

そして柄谷氏は、この交換過程への注目から、「アソシエーション」という思想をもとに、労働者が「買わない」ということにより資本を脅かすことができる消費者運動を、労働運動と連携させることが有効な資本経済への対抗運動となると述べ、具体的には協同組合で生産、消費を管理すれば資本主義を揚棄することができるという展望を述べている。

彼の、交換過程への注目や「アソシエーション」への言及、消費者運動と労働運動の連携については目新しいものを感じる。しかし協同組合による資本主義揚棄は頷けない。現在、消費者協同組合は存在するが、資本に対抗する運動母体になるようには見えない。生産協同組合はこれまで西欧等で生まれたがほとんど消滅しているようだ。柄谷氏は、1990年代以降、「世界商品」が、巨大な資本による耐久消費財生産から、情報産業に移行しつつあるので、今後、生産協同組合がそれを担える状況が生まれているとしているが、そもそも、そのような運動は起きるような気配はない。

柄谷氏の言説は、20世紀初頭だったら有効だったかもしれない。経済的に悲惨な状況が過去に比べて軽減されている現在、社会民主主義的な改革が一定程度浸透している現在、どのような人々がそのような運動を起こすのだろうか。この状況は社会民主主義を批判しても打開できない。     現在の危機は、地球環境問題や人間が、消費や娯楽の奴隷のようにされていることにあるのではないだろうか。彼は、資本主義的商品経済の限界として、自然環境と人間を自ら作り出せないこととしている。これについては「後に述べるように」とあるので探したが、具体的な言及は見つからなかった。私の読み方が足りないのかもしれないが、残念だった。

今、必要なことは、目に見えにくいが確実に人類を滅亡させるようなこの危機を、多くの人々に気づかせることではないのだろうか。それがなければ資本への対抗運動は起きないだろう。

もうひとつ気になることがある。それは斎藤幸平氏にもいえることだが、柄谷氏も多くのマルクス研究者と同じように、「マルクスは○○といっている」という論理に囚われていることだ。マルクスが偉大な思想家であることに、私も異論はない。しかし、あくまで優れた一人の思想家として捉え、その優れた考え方を学ぶというスタンスを保持するべきだ。そうでないと、マルクスの崇拝者でしかないか、自分の考えをマルクスに権威づけてもらうようなことになってしまう。要は、自分が現在感じていることを表現するべきなのではないだろうか。そうすれば、今、ここにいる人々に響く言論になるのではないだろうか。

書評 アーレントと革命の哲学 『革命論』を読む 著/森一郎

 アーレントの『革命論』の翻訳者の解説本なので読んでみた。 『革命論』を引用しながらその個所の解説が殆どだが、「左翼陣営からすれば『革命論』は反革命の書なのである。」という言及や、『活動的生』における「相互約束」の引用などは参考になった。 しかし、その解説は読者が疑問をもつことを予測して、わかりやすく解説するというものではなく、ただアーレントの言説をなぞっているだけだった。

一方、この著書には、『革命論』からの引用個所に関連する日本の状況についての論評が目立った。それは、あまり評価できる内容ではないと思う。むしろ、ない方がいいのではないかと感じている。

具体的には、森氏は、加藤典洋の『アメリカの影』、『9条入門』などを参考にしながら、「敗戦後の日本にとって脱出不可能なアメリカとの関係を、今後いかに再構築していくか、そこに新しい始まりは可能か。」として、「この課題に取り組むには、アメリカが革命精神の発祥の地であったことを改めて認識し、その忘れられた事実をアメリカに対して発信するといった地道な努力が重要となろう。そのための最善の道案内となりうるのが、アーレントの『革命論』なのである。」と述べているが、アメリカに発信する前に、日本国民の対米従属さえ自ら認識できないという情況を考えれば、こじつけの全く滑稽な言辞としか受け取れない。

砂川事件などをめぐって、「アメリカ憲法の精神を裏切る干渉行為を当のアメリカ合衆国が行なったことを、その通り指摘することは「反米」ではない。まさに「親米」というべきであろう。」などという言説は、「米国コンプレックス」でしかない。明治維新や「敗戦後の再出発」が、「革命」とみなせるかというような言説があるが、これも不要なものでしかない。

アーレントは革命や民主主義に絶望しながら一生を終えたのだろうか。」とは、私が革命論』について最後に述べた疑問だったが、森氏の『アーレントと革命の哲学』に参考になることはなかった。

 

書評 精読 アレント『人間の条件』 著/牧野雅彦

 (アレントはアーレントとされている著書が多いが、ここではこの著者の表記を使用します)

この著書は、アレントの『人間の条件』の訳者による解説本だ。

まず、著者は『人間の条件』について、「近代に始まる自然科学と技術の発展は、ついにそうした自然的条件をも克服するかに見えるところまで来ている。それをもたらした人間の能力とは、いったいどのようなものなのか。それが人間と、そして人間をとり巻く自然にもたらすものは何なのか。これらの問題にマルクスとは違った展望を見出そうとすることーこれが『人間の条件』を貫く主題である。」と述べている。 果たして、アレントはどんな展望を見出したのだろうと期待しながら読み進めてみた。

この著者は、マルクスの著書等を独自に引用しながら、『人間の条件』を解説している。しかし、アレントの言説の解説の範囲内の著述を出ていない。解説しながら疑問になったり、批判したくなったりしなかったのだろうかという思いを抱きながら読んだが、著者が述べた展望をどこに見出せばいいのかわからなかった。

 あまり意味のない購読だったが、あとがきに、『人間の条件』ではニーチェ批判が完結していないこと、それはアレントがニーチェに親近感をもっていたこと、師であったハイデガーのニーチェ評価にも原因があったことが述べられていたことは参考になりそうだ

書評 すごい古典入門・アーレント『人間の条件』 著/戸谷洋志

 アーレントからは「卒業」したつもりだったが、『人間の条件』が研究者にどのように評価をされているのかを知りたくて購入してみたが、結論から言うと、アーレントのマルクス批判についてのこの著者の評価は、百木漠氏の『アーレントのマルクス』と同じであることが分かりがっかりした(百木氏の同書についての感想はこち)。

そもそも、私にはアーレントがこの著書を書いた意図がわからなかった(私の『人間の条件』評は)。その後、解説本などを読んで出した結論は、暴論と言われるかもしれないが、『人間の条件』は、ギリシャ時代が好きなアーレントが、現代世界に幻滅し、ペシミスティックになった原因をマルクスのせいだとするための理論ではないかということだ。おそらく、彼女は生活には全く心配のない著名人なので、いわば古代ギリシャの市民のような立場であるため、その「公的領域」で私的な利害に関わらない議論をする生活への憧れる、という倒錯した意識があったのではないだろうか。その意識に無自覚だったのだろう。ともかく、読者に訴えるものがない著書なのは確かだと思う。

戸谷氏は、『人間の条件』でアーレントが3区分した人間の活動や、古代ギリシャにおいて明確だった公的領域の消滅の経過などについて解説するが、なぜそうしたのかについては考えなかったようだ。哲学者とは、そういうことを考えない人たちなのかと思ってしまう。

戸谷氏は(百木氏も同様だが)、アーレントが蔑視する「労働」の優位を、マルクスが現代社会で決定的にしたと批判していることを紹介し、そのため、「労働」以上に価値のある、「それ以外の営為、活動と仕事など、かすんで消えてしまったかのようです。」と自論を述べながら、マルクスは、「紛れもなく、人間を労働へと駆り立てる資本主義社会に対する最大の批判者です。」と述べ、「アーレントのマルクス解釈は、かなり一面的であることがわかってい」る、彼女の労働概念とマルクスのそれは異なり、彼女の言う活動や仕事を含んでいる、「アーレントはマルクスを誤読している」と批判するなど、ちぐはぐな論理に陥っている。

現代の人々が消費や娯楽のために奴隷のように労働している情況に愁いを抱くのはもっともだ。しかし、それをマルクスのせいにするのはお門違いだ。人間が資本に支配されているからこのような情況になったのであり、マルクスはその資本と戦うべきだとしていたのではないか。そもそも、哲学的な概念規定が社会を動かすなどということはあり得ない。

そして、「しかしその誤読は、少なくとも現代社会の一つの特徴を浮かびあがらせるものであるという点では、役に立つものであります。研究者のなかには、これは生産的な誤読であるとして、積極的に評価する人(森中注・百木氏のことであろう)もいます。僕も基本的にはそう思います。」と、苦し紛れのわからない結論を述べる。このような結論は、アーレントに伝わらないからといって、彼女にとっては屈辱的なものであり、けっして述べてはならないことだ。「誤読」しているとするのなら、なぜ、そのような誤読がされたのか、について徹底的に考察し、批判するべきではないだろうか。

アーレントにしても、マルクスにしても偶像化していては理解も批判もできない。対等な人間として、その言説を正面から受け取り、疑問があれば、それを自分の能力が足りないせいなどと逃げずにこだわり続けるべきだと思う。

書評 『人間の条件』 著/ハンナ・アレント 訳/牧野雅彦

 (アレントはアーレントとされている著書が多いが、この著書の訳者の表記を使用します)

訳者解題には、『人間の条件』がアレントの主著とされているとして、『全体主義の起源』後、彼女が展開することになる主要な論点のほぼすべてが掲示されていて、古代ギリシャに始まる西洋哲学の諸潮流の展開の中にみずからの思想を位置づけた、哲学上の主著というべき書物だと説明されている。 私は彼女の『革命論』を読んで、彼女のマルクス批判をもっと知りたくなり、この本に取り組んだ。しかし、ギリシャ哲学の素養がないため、理解できない文章が多く、放棄したくなったが何とかひととおり読み通すことができた。

1は、「私は、「活動的生活」という言葉で、労働、仕事、行為という三つの基本的活動を示すことにしたい。これらの活動が基本的なのは。地球上の生命が人間に与えた基礎的な諸条件にそれぞれ対応しているからである。」という文章から始まる。 私は、いきなり戸惑わされてしまった。それらについての説明がされていっても、その理由が見えてこないので引き込まれることがないまま読んでいったわけだが、「活動的生活」とは、ギリシャの哲人たちが重んじていた「観照」に対応する言葉であるという説明を読んでから、興味が湧いてきた。

以下、ギリシャ時代に明確だった公的領域と私的領域が、社会という領域の出現により霞んでしまい、私的領域だった家族のような政治的共同体が国民国家となったという第Ⅱ章のあと、「活動的生活」のなかの、「労働」、「仕事」、「行為」について述べられている。そして最後の第Ⅳ章で近代の「活動的生活」についての彼女の考えがまとめられる。彼女によれば、ガリレオの望遠鏡の発明や宇宙から地球の自然を見る新しい科学の発展等により「観照的生活」と「活動的生活」の序列が逆転したことが、近代の最も重大な精神的結果だとのこと。正直に言って、私には彼女がこのような見解を述べ、主にマルクスを批判している意図が分からない。しかし、「言論と行為によって、人間の世界に参入する第二の誕生で、われわれは、自分の顔つきや体つきをした生身の肉体をもってこの世に生まれたというありがままの事実を確認し、わが身に引き受ける」、「行為の不可逆性に対する救済策としての許し」、「行為の予測不可能性の困難を軽減する約束」、「尊敬は資質や業績からは独立しているが、近代になって尊敬は賞賛や評価から生まれると信じられるようになった」(以上一部要約)等の言説には深い共感を覚える。こうしたギャップは私の理解不足が主な原因ということは認めざるを得ない。 それにしても、アレントは読者に何を伝えたいのだろうか。『革命論』で感じた人間世界への悲観的な考え方を、より深く感じてしまうのは私だけだろうか。 この疑問への答えを『精読 アレント『人間の条件』』に求めてみたい。

書評 「進歩」を疑う 著/スラヴォイ・ジジェク 訳/早川健治

 スラヴォイ・ジジェクについては、名前を記憶していた程度の知識しかなく、それは私が哲学そのものにはあまり興味がないせいだが,この著書の表題に興味を惹かれて購読した。従って、ここに記した私の見解は、あくまでこの著書についてである。読んでみて正直言ってがっかりした。そもそも、この著書は著者が書き下ろそうとしたものではなさそうだ。12章に亘って述べられていることは相互に関連がない表面的な評論でしかなく、いわば「随筆」のような印象を受けるのは私だけだろうか。個々の章の中にも、私たちが進歩という神話を相対化するために必要とされる問題点などを、この著書は語っていないのではないだろうか。そもそも新書版で表題のような重いテーマを十全に著述することは不可能であり、表題につられて購読することが間違いだったのかもしれない。「入門書」としても適切な構成とは思えない。おそらく、出版社がなんでもいいからジジェクに書いてもらえば売れるだろうというような発想で企画したのではないだろうか。

 物足りなさは、斎藤幸平の主張を論評している第2章に特に現れている。ジジェクは、マルクスが、「資本主義による自然界の無慈悲な搾取が人類の存続すら脅かしているという点へ注目するようになった」と、斎藤が解釈していることを評価するが、「最近の動向をみると、世界資本主義は基本的な構造のレベルで変わってきているため、そもそも引き続きこれを資本主義と呼ぶべきかどうかも疑わしい。斎藤はこれを無視しているように思える。」と批判し、ギリシャの政治家、ヤニス・パルファキスが、資本主義は死に、「テクノ封建制」となったとしていることを挙げながら、「斎藤の批評が前提としている資本主義の概念は引き続き有効なのだろうか。」と、疑念を述べている。

 これに続けて、ジジェクは、資本主義は「人間の本性」に合致していて、機敏で変幻自在であり、「人間の欲望の基本的な逆説を取り入れて機能する、初めてにして唯一の社会秩序」なので、斎藤の「脱成長」モデルの欲望を抑えることで成立する論理では「ダメだ」と言い切る。しかし、そのような資本主義の特性は周知のことではないだろうか。それを根拠に、「斎藤が思い描くような未来社会は望ましいものだろうか。つまり、それは過半数の人びとが満足するかどうかという、単純な意味において望ましいものだろうか。」と述べ、斎藤の言説が近いという「仏教経済学」の批判に移り、仏教経済学の目標とする「中庸」を実践に移すと、必ずではないがとしながら、「しばしばソフトファシズムに陥ってしまう。」という。

 この章のまとめに、ジジェクは、「現代の諸問題の本当の原因は、結局のところ何なのか。」として述べていることに注目すると、「生活世界への没入を支える座標系を解除するという、困難な作業がここにある。世界の背景をなす座標系への基本的な信頼、すなわち大文字の「知恵」を頼ろうとしても、それはもはや生命の危機を引き起こすものでしかない。」、「ここでは、資本の自律的な回路と伝統的な知恵の両方から切り離された化学が求められている。科学が自立するときがようやく来たのだ。」という、あいまいな結論しか示されていない。「大文字の「知恵」」という言葉の意味が不明だが、斎藤の批判をするのなら、それで終わらせるのは無責任ではないだろうか。

 物足りなさは他の章にも続く。「加速主義は・・・プロセスにかんする認識が甘い」、「リベラルな多文化主義(新右派とムスリム原理主義の共通の標的)」の偽善は、「超自我」が働いているからだなどという言説はもっとていねいな説明が必要だと思う。

それから、「本来の欧州中心主義者は、2022年にイランを震撼させた、マフサ・アミニの死を受けて勃発した女性の抗議運動の波に合流すべきであり、「本来の「欧州中心主義者」は、こうした運動こそを欧州そのものより欧州的なものとして完全に支持すべき」という主張がされているが、「本来の欧州中心主義者」とはどのような人たちなのだろう。ジジェク自身が現在批判されている欧州中心主義から脱していないことになるのではないだろうか。

読者に対して呼びかけもしている。「地球規模の惨事の到来は必然だ。・・・惨事の到来を阻止するための行動を起こす必然もある。・・・行動を起こさせなくさせるような怠慢は許されないからだ。」、「「(破局まで)まだ時間はある。・・・」などと言うのではなく、破局を不可避のものとして受け入れ、星に刻まれた運命を解呪するための行動を起こすべきだ。」と述べているが、説得力を感じない。

冒頭に出版社の批判をしたが、いかにも資本主義的な企画に乗って、このような中途半端な著作をしてしまったジジェクも批判されるべきではないだろうか。訳者の早川も斎藤幸平に関する言及や、第11章に述べられている、役所広司が主演した『PERFECT DAYS』論に、「疑問なしとは言えない。」と異例な論評をしている。

書評 たまたま、この世界に生まれて 半世紀後の『アメリカ哲学』講義 著/鶴見俊輔

 鶴見俊輔は、60年安保やベトナム反戦運動などを主導した戦後知識人として有名な哲学者だ。まちライブラリーで見つけたこの著書の、メインタイトル、サブタイトルに興味を惹かれて読んでみた。

この著者は、1950年に『アメリカの哲学』という著書を発行していて、2007年に発行された今回の著書は、1950年当時からのアメリカ哲学つまりプラグマティズムについて開かれた4回の講義、というより7人の受講者との談話会を記録したものなので、このサブタイトルとなったようだ。

私はプラグマティズムにかねてから疑問を持っており、その批判論を読んでみたかったが、その意味では期待を裏切られた著書だった。

しかし、鶴見の境遇、人間性、彼が交流してきた知識人たちの言説などが率直に語られていて、その意味では収穫があった著書だった。

母方の祖父は明治・大正時代の政治家・後藤新平で父も政治家という家族の中で育った鶴見は多感な少年だったのだろう、中学校を2回退学するという、自称「不良少年」だったとのこと。しかしその後、日本の共通一次テストのようなUSA(鶴見はアメリカという国名は曖昧だからということでUSAとしている)の試験に合格してハーヴァード大学に入学という驚くべき経歴を記すことになる。同大学では「点取り虫」で「一番病」にかかっていたという。さらにその後は、1941年の日米開戦により捕虜収容所に入れられながら大学を卒業し、日米交換船での帰国たとのことだ。その後の文筆活動については割愛するが、結婚後、鬱病に苦しんだ時期もあったとのこと。

さて、鶴見のプラグマティズムの定義はという講義参加者の質問に鶴見は、「今の主張を実験として確かめてみたらという実験計画が、言葉の意味だ」、「概念というのは自分が考えている実験計画なんだ。」とし、「プラグマティズムは言葉の意味を行動に形にしてとらえる方法」、「(プラグマティズムは)特殊と普遍を切り離さないっていうやり方・・・カントにはない」等と述べているが、いずれも断片的で総体的なプラグマティズム解説にはなっていない。

一方、プラグマティズムの弱点について、「プラグマティックな思想を受け入れる人は妥協しやすい。・・・逆風が吹いているときプラグマティズムの側は、それに対する抵抗を貫くことが相当に難しい。」と述べているが、その理由は説明していない。別の個所で「プラグマティズムは、哲学として特別に強い一本の心が通った思想じゃないんですよ。」と述べているが、それがその理由に当たるのかもしれない。

プラグマティズムの日本への影響にも触れていて、(西田幾多郎は)「座禅を組んでは、ウィリアム・ジェイムズの著作を読んだ。こうして彼はジェイムズの『根本的経験論』に触れ」たが、これは認識論なのだが、西田は「価値で色づけられた概念として読ん」で、それが純粋経験として西田に理解された、というエピソードには興味を惹かれた。その解釈はともかく、京都学派の「近代の超克」論議も、プラグマティズムと同様、近代西欧哲学批判という潮流から生まれたのであろうという認識を確かめた。

プラグマティズムとは離れて、「キリスト教会は本体論的な証明があって、神は完全だから、存在を含んでいるって言うんです。・・・それは日本の国体論と違うとは言えないでしょう。案外、日本の国体概念も岩倉ミッション(岩倉遣外使節)がヨーロッパに行って、そこから密輸してきたのかもしれない。キリスト教国家の特性を日本で採用したから、ああいう形になった。」、と述べている。あくまで推論なのだろうが鋭い発想をする鶴見に感心した。

書評 スピノザ 「変性の哲学者」の思想世界 著/加藤 節

 

スピノザについては、『エチカ』という著書を書いた哲学者として、その名前を知っている程度だったが、ユダヤ協会から破門にされたユダヤ人であることを知り、ユダヤ性から自由になろうとしたユダヤ人としては最初期に生きた人と言えそうなので、このスピノザの解説書から読んでみることにした。

 破門の理由は、「魂の不死性とユダヤ教の律法の真実性を否認し、「哲学的な」神しか存在しないと主張した」とのこと。これは彼が23歳のときで、「肺疾患という宿痾に長く苦しんだ末に44歳という若さでその一生を閉じた」という。

 その理由はともかく、スピノザは典型的なユダヤ人としての育てられたが、17歳から家業の貿易業を手伝うようになり、父親が亡くなったため22歳からその家業を引き継いだそうで、その経験が、「ユダヤ教以外の多様な信仰や思想を持つ「賢き商人」と呼ばれた教養ある人々との接触と、ユダヤ教徒のように律法に拘束されることなく、富や利益の蓄積によって社会的地位の向上を図る人間の赤裸々な姿の認識をもたらした」とのこと。ここから、スピノザが、ユダヤ教の世界観の相対性を自覚するようになり、キリスト教世界の学問や自然科学を研究するためラテン語学校に入学し、マキャヴェッリやホッブス、デカルト等の影響を受けるようになったことが破門に至った経過のようだ。

 スピノザは、破門を機に、「最高善」の獲得を目指す倫理学に向かい、そのための通路をどこまでも人間の「認識」を求め、その「倫理学に政治学を抱合させる方向を辿った」とのこと。

「認識」については、著者によれば、当時、自然科学が発展する中で、「認識対象としての自然の非人格的な実体への還元」には、「プロテスタンティズムとりわけカルヴィニズムが果たした被造物崇拝の徹底的な否定」が被造物を「即物的自然へ還元して科学的認識の客体を析出し」た一方、「造物主としての神の全能性を証明」しようとしたことの影響があったそうだが、「スピノザの倫理学を支える支点としての「認識」の対象は、自然科学が対象とする第一の自然ではなく、どこまでも、「精神」および「神」と合一した「全自然」以外のものではありえなかった」とのこと。

「近代哲学の父とも評されるデカルトの自然と精神とを二つの実体とみなす世界の二元論的構成」には、現在批判がされているが、スピノザの上記のような論理はその中でどのように位置づけられるのだろうか。

それはともかく、「倫理学としてのスピノザの哲学は、彼の有名な命題、「神即自然」に集約される汎神論の範疇に属するもの」だとのこと。

以下、スピノザの「意識」、「延長」、「思惟」、「感情」、「三種類の知(表象知、理性知、直観)」、「三つの「人間の条件(この中で、「協議し、傾聴し、討論する」ことを最重要視した)」などの概念が開設されているが、ここでは触れない。

今日の私たちが認識しておくべきことに絞るとすれば、「倫理学」の章においては、上記の「神即自然」だが、「政治学」の章においては、デカルトの「私は思惟する、ゆえに私は存在する」という命題を、スピノザは、「私は思惟しつつ存在する」という「単一命題」として理解し」ていたとし、これは「あきらかに一元論的思考様式」だという。それから、当時の哲学者(スコラ哲学者)へのスピノザの批判は、キリスト教による原罪観念などの神学的人間解釈を清算し、「人間の自然状態」を神学的非難から守ろうとする明確な意図があったとのことだ。

具体的な政治論は、伝統的な「三政体論(民主制、貴族制、君主制)」を踏襲していたが、「神政政治」や「王権神授説」に特に批判的で、彼の「社会契約説」は、「政治権力の支配の正当性根拠を人間の同意に求めるもの」で、「所与の政治共同体に倫理的生活を可能にする「変性」を目的として求める意味を蔵して」いたという。

「聖書批判の展開」の章においては、「「表象知」に依拠する「預言」は、それ自体においては何らの確実性も内に含むことができない」もの」だと批判し、「奇跡」とすることは「無知」だからだと指摘し、「真の宗教」論を提案するなど、大胆な主張をしたという。しかし、彼の主張も、「十七世紀のヨーロッパにおいて、時代の正統的なキリスト教信仰とされるものに抗して「信仰の新しい理念を宣言」し、「宗教の新しい形式を具体化しようとした」どの思想家の企図も、聖書解釈を通して「キリスト教の新しい表現を見いだそうとする努力」以外の形態をとりえなかった」ように、「政治的な最高権力への反逆を信仰者の義務として課するものではなかったとのことだ。

 そんな中でもスピノザは、「神の子」として神格化された「イエスキリスト」について、「「神の子」たるこの神的な「知性」は、「神の知恵」として人間イエスの「肉体」の中にではなく、神と「精神対精神」で交わったイエスキリストの「精神」の中に最も多く「表現」されている」としたほか、「聖書を「人間の言葉」で書かれた歴史的文献に還元したうえで、・・・聖書に疑うことが許されない「神の言葉」としての「真理の認識体系」を与える一切の立場を否定し、・・・「宗教を解釈し、宗教に関して判断する最高の権能は各人の下になければならない」と言ったそうだ。

 要するに、スピノザは、ドグマと化しているキリスト教の教えを相対化した先駆者だが、「真の宗教」論を唱え、自ら無神論者ではないと主張し、宗教否定にまでは行きつかなかった哲学者と言えるのではないだろうか。その彼にとって「神」とは何だったのだろうか。この著書には、スピノザの哲学的言説が詳しく述べられているが、その現代的な意味づけ、位置づけなどの解説が欲しいと思った。

書評 プラグマティズム 著/W・ジェイムズ 訳/桝田啓三郎

 

プラグマティズムをアメリカに広めた哲学者の本だ。若い時から読んでみようと思いながら実際に読む気にならなかったのだが、ある学者が読むべき「古典」としていたので、今更ながら読んだ次第だ。

「プラグマティズム」とは、ウィキペディアによれば、「実用主義、道具主義、実際主義とも訳される・・・元々は、「経験不可能な事柄の真理を考えることはできない」という・・・イギリス経験論を引き継ぎ、概念や認識をそれがもたらす客観的な結果によって科学的に記述しようとする志向を持つ点で従来のヨーロッパの観念論的哲学と一線を画するアメリカ合衆国の哲学」とされている。ジェイムズはチャールズ・サンダース・バースからこの哲学を学んだとしているが、現在普及している「プラグマティズム」はこの本により普及した考え方のようだ。

ヨーロッパ近代哲学批判は19世紀後半から始まっているが、その流れの一つとして生まれたということになるだろう。しかし、「実体的なあるいは形而上学的な意味における「自我」とか「物質」などーそれらの思惟形式の支配を何人も脱するわけにはいかない。実際生活においては、常識的な思惟手段がつねに価値を利するのである。・・・・この自然な思惟の母国語に比べると、その後のより批判的な哲学などは単なる気まぐれな考えに過ぎない。」という言説などを読んでみると、新たな哲学などとは到底言えない、「哲学からの逃避」のように思える。

「世界はじつに鍛えられるものとして存在し、われわれ人間の手によって最後のタッチが加えられるのを待っているのである。天空の王国と同じように、世界は人間の暴力を悦んで受け容れる。人間が審理を産みつけるのである。」という主張には、トランプ米大統領が石油などを掘りまくると叫んでいることと同じ根っこを感じさせる。

読む気をなくさせるような言説の連続だったこの本を読み終えて思ったことは、現在のアメリカ人がとりつかれている思潮が突然現れたのではなく、伝統的なものであることがよく分かり、そのこと自体は収穫だったということだ。

私も近代西洋哲学には疑問を持っているが、プラグマティズムはそれを解く考え方には全くならず、心情的にはどちらかと言えば、前者のほうにシンパシーを感じる。

書評 動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 著・東 浩紀

 この本は2001年11月に発行されているので、もう時代遅れかもしれない。しかし、少なくとも20世紀末までの社会の分析ではあった。

 筆者は、「オタク」文化のアニメやゲームを紹介しながら、その分析をしていくが、私はそのアニメ等はなじみがないので正直言って、その辺はよくわからない。

しかし、この本はそれでは終わっていない。筆者の分析は、日本はもちろん世界の文化のポストモダン化にまで及んでいる。彼は、‘60年代からのポストモダニズムの起源を述べてから、「日本では八〇年代半ば、若い世代の流行思想として(大学ではなく)むしろ大学の外でもてはやされ、そして時代と共に忘れ去られた。」、「むしろ重要なのは、日本で、その難解な思想がジャーナリスティックに流行してしまったという事実である。」と述べる。さらに、「おそらくその流行は、当時すでに一部の批評家が指摘していたように、八〇年代の日本社会を満たしていたナルシシズムと関係している。」という。

当時のポストモダニストは、「ポストモダン化とは、近代の後に来るものを意味する。しかし日本はそもそも十分に近代化されていない。それはいままで欠点だとされていたが、世界史の段階が近代からポストモダンへ移行しつつある現在、むしろ利点に変わりつつある。十分に近代化されていないこの国は、逆に最も容易にポストモダン化されうるからだ。(中略)そのようにして二十一世紀の日本は、高い科学技術と爛熟した消費社会を享受する最先端の国家へと変貌を遂げるだろう。」というような主張を好んだという。

これについて著者は、「この単純な図式は、歴史的には、戦前の京都学派が唱えた「近代の超克」の反復だと言える。だが同時に、その発想はやはり当時の経済環境を色濃く反映している。八〇年代半ばの日本は・・・アメリカと対照的に、いつのまにか世界経済の頂点に立ち、バブルに至る短い繁栄期の入り口にさしかかっていた。」と分析し、批判する。おおむね妥当な言説だとは思うが、その頃の「ナルシシズム」な風潮に乗った軽薄極まりない論理は「近代の超克」とは較べられないのではないだろうか。

著者は、「近代は大きな物語で支配された時代」で、ポストモダンは、その「大きな物語」が機能不全となり、社会全体のまとまりが弱体化した時代であり、日本では七〇年代にそれが加速し、「オタク」が出現したのは、その空白を埋め合わせるためだという。

この後、著者はコジェーヴの、「ヘーゲル的な歴史が終わった後には」、アメリカ的な生活様式の追求=

「動物への回帰」か、日本的な「スノビズム」(=ジジェクの「シニニズム」)しか残されていないという言説を紹介する。前者は、戦後のアメリカは動物が食物さえあればいいように、「ニーズ」が満たされることしかない消費社会に過ぎないという意味だろう。資本主義に踊らされている度合いが強いほどこうなることは必然なのだろう。

一方「スノビズム」についてコジェーヴは例として「切腹」を挙げ、ジジェクは「シニニズム」の例として「スターリニズム」を挙げているそうだ。ジジェクは、『イデオロギーの崇高な対象』のなかで、「私たちはみな、舞台裏では荒々しい党派闘争が続いていることを知っている。にもかかわらず、党の統一という見かけは、どんな代償を払ってでも保たれなければならない。本当はだれも支配的なイデオロギーなど信じていない。・・・」とそれを分析しているとのことだ。言ってみれば、「たてまえ」しか認められていない状態のようだ。

著者は、ポストモダンは七〇年代以降の文化世界を指しているが、ポストモダン化の始まりは、第一次世界大戦が終わった二〇年代、三〇年代であり、冷戦が崩壊し、「共産主義という最後の大きな物語の亡霊さえなくなった八九年」にかけてゆるやかに行われたと捉えている。だから、二〇世紀とは「中途半端にポストモダンだった時代だった」という。その時代の人びとは、「大きな物語」と「小さな物語」を繋げるためにスノビズムが必要だったが、その後のポストモダンの人びとは、それらを繋げることなく、バラバラに共存させていて、「わかりやすく言えば、ある作品(小さな物語)に深く感情的に動かされたとしても、それを世界観(大きな物語)に結びつけないで生きていく、そういう術を学ぶのである。筆者は以下、そのような切断のかたちを精神医学の言葉を借りて「乖離的」と呼びたいと思う。」と述べているが、これは現在の世界の風潮を極めて鋭く的確に表していると感心した。

近代哲学や思想の根幹である、「動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要としている」という区別、「間主体的な構造」が消え、「動物的」だとコジェーヴが言ったアメリカ社会の論理は、いまや全世界を覆いつくしていると、著者は述べたが、最後の章は、「この章では、原理的な考察はもうやめて、ポストモダンとは表層的にはどのような世界で、そこで流通する作品はどのような美学で作られるのか」の思いつきの記述に入ってしまった。これはいただけない。上記のような危機的な状況になった原因を解析し、どのように脱するかまではいかなくても、対処の心構えぐらいは記してほしかったと思う。

書評 福岡伸一、西田哲学を読む 著・池田善昭、福岡伸一

  この本はこのようなタイトルだが、哲学者の池田と生物学者の福岡の対談が主に掲載されている。生物学者でありながら福岡はNHKの「日本人は何を考えてきたのか」という番組企画に参加し、近代日本思想史をたどる中で、「近代の超克」座談会を主にリードした京都学派の祖・西田幾多郎を「知る必要」があったという。

 一方、主に理系、文系など「二つに大きく分断されてしまっている人類の知恵をもういちど統合しようとする試み」である「統合学」をめざす集まりにも参加していた福岡は、この集まりの中で西田の研究者の池田と出会い、池田が、福岡の「動的平衡の生命論」は「西田がめざしていた生命に対する考え方と極めて密接な相同性をもつ」と指摘していたことから、この対談に至ったそうだ。

 対談は、西洋においては自然の中にある「ピュシス」が忘れられ、「ロゴス」の理念的世界の中に入ってしまい、ハイデガーにおいて、これは「存在の忘却」だと批判したが、西田はその前から「ピュシスに帰ろうとしていた」という、池田の解説から始まる。

 そして、池田は、西田の「自覚」、「純粋経験」などについて解説する中で、福岡の細胞膜についての内側でも外側でもない「あいだ」という概念が、西田の「絶対矛盾」と同じだという。ここから、池田は「包む・包まれる」、あるいは「包まれつつ包む」という独自の説明理論の説明に入り、樹木の年輪を例にして、環境との関係を、「普通の考えでは、環境が樹木を限定するはずなのに、樹木のほうが逆に環境を空間の中に限定してもいるわけです。そのことが「包まれつつ包む」、すなわち西田の「逆限定」と言われます。」と述べる。

 このことが納得できない福岡が質問を重ね、池田は、福岡が西田の理論を理解しているのにもかかわらず、この説明に納得しないことに戸惑いながら答えるというやりとりが繰り返され、ついに対談中にはそれが終わらず、その後メール交換をするという、対談記録としては珍しい展開となっていった。感心したのは、福岡が、自分が納得できなければ読者の多くも納得できないだろうと、半端な納得をしないように努めながら質問を繰り返していたことと共に、池田が福岡の姿勢を真摯に受けとめ、粘り強く、言葉を選びながら福岡に理解しやすく説明していたことだった。真理を求め、伝えるということはこういうことなのだと感動する思いだった。

 この結論は、福岡が、「包む・包まれる」という表現について、それぞれの主語は同じであることを理解せずに解釈していた間違いに気づいたということで解決した形になっていて、福岡は「生命は、合成を行うと同時に分解を行う。生命は、エントロピー増大のなかにありつつ、エントロピー減少につとめる。」という理論と同じで、「矛盾していることが同時に存立している状態、それが「逆限定」だということ」と、わかったということだった。

 この辺は西田哲学にも、福岡の生命理論にもなじんでいない私にとって理解困難だが、福岡が西田の理論のなかに自己の理論を見出すことができたのだろうと受け止めておいた。

 この後、対談は西田の『論理と生命』、『生命』という論文に取りかかり、池田は、ソクラテス、プラトン、カントたちは、「私たちの理性や論理で近づける範囲のみで姿かたちを理解したり構成したりという、いわゆる「主観性の原理」に基づいてい」るので、「真の実在に触れることはでき」ないと西洋哲学を批判し、その後も「ミンコフスキー(ならびにアインシュタインなど)は時間を「存在論的」に思考した」が、「西田や福岡さんは」、「実在論」的に思考した」と述べる。ここから、池田は生命をめぐって、「存在と実在との差異」、「一の多」、「他の一」、過去、現在、未来のとらえ方にふれ、福岡の「先回り」という概念が、西田の「未だ来たらざるものであるが現在において既に現れているもの」と理解でき、さらに「同時進行」と同じで、「福岡さんの「先回り」(動的均衡)と、(西田の)「絶対矛盾的自己同一」とが完全に重なる」と述べる。

 そして池田は、福岡が動的均衡の一回性について触れたことを取り上げ、「時空における「動的均衡」の「一回性」が永遠性を含む以上、日常生活において、よく「かけがえのない命」のように言われるわけですが、僕はこの状態の「かけがえのなさ」を、「大切な、無駄にできない尊さ」という倫理的な意味で表現したいと思っています。」、「一生を虚しく終わらせたくないのであれば、「現在」を過去・未来の同時性として生き抜く以外の生き方はあり得ないのです。その意味で二度と同じ状態をとらない「一回性」とは、「かけがえのないこと」と言えるのではないでしょうか。」と述べている。彼にとって哲学は単なる学問ではなく倫理であり、生き方そのものだったのだ。私もこの言葉を肝に銘じよう。そう、人間にとっては、過去に何をしたか、未来に何をするつもりかではなく、現在をどう生きるかということが全てだと。

 全般に難解な問題について考える対話の中で、生命をロゴス的にとらえる「機械論」の批判として、福岡が自ら患っている花粉症を例に揚げた話はとても分かりやすい。福岡は、治療薬として使われる抗ヒスタミン剤が「これまでと違う新しい平衡状態を作り出そうとする」ので、生命はさらなるヒスタミンを放出するというリベンジをするため、より激しい症状になるという。だから「動的均衡論」では「花粉症とは、騙し騙し付き合っていくしかない」と説くが、これでは製薬会社は儲からないので、「動的均衡論」は資本主義になじまないという。さらに「悲しいことに、資本主義社会では、どうしても生命というものを<モノ>の延長として考えざるを得ないという側面があることも否めません。」とも述べている。今度は、哲学が経済システムにまで影響していることが明らかになった。

 対談は、福岡の、「同時性」は、物事を因果関係で考えるこれまでの科学では扱えない、生物の行動の部分的達成は「自然選択」とはなりえないなどの、近代の常識となっている考え方の批判で終わり、後半は、福岡が西田哲学を取り入れた、「ピュシスの側から見た動的均衡」という理論編と、池田の「生命を「内から見ること」において統合される化学と哲学」というエピローグとなる。後者のなかで、池田の、デカルトが、「「われ思う故にわれ有り」のその「われ思う」とは、己の生命を外から「包む」ことはあっても、デカルト自身、よもやその生命に「包まれている」などとは思いもしなかったであろう。」、そして、西洋近代科学が、「客観性を「真理基準」としながら、結局のところ、どこまでも物を外から対象として見る限りにおいて認識主観における「主観性の原理」に過ぎなかったと言わざるを得ない。」という言は、これまでに述べてきた西洋哲学批判の分かりやすいまとめとなっていた。

 最後に池田は、今日のライフサイエンスは生命哲学と一つに統合されるであろうと述べ、「その先に、生命的な時間をもちえない今日の<AI>(外からのみ知る人工知能)を含めた、人類の未来の有り様がやがて徐(おもむろ)に示されてくるに違いない。われわれのこのたびの対談がその先駆けとならんことを、こころから祈らざるを得ないのである。」と熱を込めて結んでいる。なお、池田はこの著書発行の数年後に逝去している。このような倫理を哲学的に、哲学を倫理的に説く人がいたことを記憶に深く刻みこみたい。

書評 極限の思想 ニーチェ 道徳批判の哲学 城戸 淳(著)

 

 私はニーチェの著書に何度も挑戦しているが読み通したことがない。箴言の連続で読者にわかりやすい解説がないためだ。だからといって、そのような著書を読まずに解説本を先に読むことにも抵抗があったため、魅力を感じながら遠い存在だった。しかしどうしても彼が考えていることを知りたいと思い、この解説本を購入した。 結論から言うと、購入して正解だった。ニーチェの言説を鋭く、しかもわかりやすく解説している。なんとなくイメージしていたニーチェの道徳批判の意義を明確にできたと感じている。 あわせて感心したのは、ありがちなニーチェ崇拝にならず、ニーチェの言説の問題点等を指摘していることだ。曰く、「ニーチェには、批判的観察によって原理を発見すると、その原理を絶対化して、その貫徹を要求しだすという、いわば過剰解釈のねじれた論理がある。力への意思も、もともとは虚栄心やルサンチマンを分析するための心理的概念装置だったものが、いつのまにか積極的に崇拝され、ディオニソス的宇宙像の形而上学装置になってしまった。」

 また、次のようなニーチェの道徳批判のポイント、「(道徳的価値観が世界を覆いつくしている)この二千年の出発点にあるのはキリスト教である。キリスト教こそは、「まさにユダヤ的な価値への誘惑にして迂回路」であり、「復讐の真に多いなる政治の秘めた黒魔術」であるとニーチェはいう。」、「いかなる返済の努力も決して届きえないような無限の債務など、はたしてありうるだろうか。この問いに「逆説的で恐るべき窮余の策によって答えたのが、「キリスト教の天才的悪戯」であった。原始キリスト教団、あるいは『アンチクリスト』によればその首謀者であるパウロは、イエスの十字架での刑死という不慮の出来事に意味を与えるべく、神が人間の罪を贖うために身代わりで死んだと再解釈したのである。」、などの指摘は明快だ。

 著者がニーチェを「戦慄すべき道徳性の分析家」として評価しながら客観的に批判できるのは、あとがきに卒論でニーチェに取り組んだのちにカントを研究したときに、「ニーチェのある側面は、カントの前で色褪せて見えるようになった。」ということにあるようだ。そして次第に彼は、「ニーチェの方法論の核心にはカント的な超越論哲学の伝統があるはずだ」という予感は確信になっていたという。このような研究経緯を率直に述べていることに好感を持った。