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書評 ものぐさ精神分析[増補新版] 著/岸田秀

 元のこの本は1977年に発行され、ベストセラーになってから増補された古い本だが、この著者が今年5月に亡くなり話題になっていたので読んでみた。読み始めてからすぐに、発行当時に読まなかったことを悔やんだくらい現在でも刺激的な本だ。

岸田は、巻末の「わたしの原点」で自分自身が精神的な問題を抱えて育ち、フロイド(フロイト)の精神分析を学びながら自身を分析して、強迫神経症、幻覚症状、鬱病などを克服してきたことを語っている。強迫症状のなかで、強迫的な禁止という症状が母に植えつけられたことに気がついてから個人的な問題を解決し、鬱病は日本人の精神構造などの社会的な問題は解決に取り組むために、日本近代の歴史、アメリカの歴史、人類の歴史へと向かったとのこと。なるほど、この本が歴史から性に関する分析まで、広範にわたった言説が述べられている理由、また理論が極めて実践的な理由がこれで納得できた。

独特のユニークな文体で述べる注目すべき言説の中で、最初の「日本近代を精神分析する」が秀逸だ。そこで彼は、ペリーの来航以来、日本の対応について開国論と尊王攘夷論が対立したまま、結局、開港派が権力を握り、攘夷派が阻害されて開港派の外的自己が公認となり、攘夷派の内的自己が抑制されたため、日本は精神分裂症質者にされ、やがてこの構造が壊れて内的自己が暴発して発病し、英に宣戦布告してしまったと言う。敗戦すると、外的自己が内的自己を抑制する従来の体制にもどったため、日本が精神分裂症質者である状態は変わらないままだと指摘する。

細かいことは別として、日本の近代をこのように捉えれば、自民党が対米従属をしたまま、「内的自己」として生き続ける右派の圧力を恐れ、国際的に批判されても皇室の男系男子による継承や靖国神社参拝などをする心理を納得しやすい。

だからここから、この分裂を解決するには、「内的自己」を非難すればいいものではないというヒントを得ることができる。それは「内的自己」と向き合い、この分裂を生じさせた欧米の批判がまず必要なのだ、ということなのだろう。もちろんそれは、岸田が述べるように、中国やインドは「植民地化の危険は冒しても、集団のアイデンティティをあくまで守る道」を選んだのに、日本は、「恥も外聞もなく欧米諸国の技術にとびつき」、「外的適応を達成する道」を選び、横暴な欧米を模倣するように中国や朝鮮などを侵略し植民地化するというという行為に流された、安易な軽薄さの自覚、反省を踏まえなければならないが。

次に取り上げたいのは、「ナルチシズム論」だ。彼はこのなかで、「本来なら、現実的自己(以下、現実我と呼ぶ)の保存のために使われるべきナルチドーが、非現実的自己(以下、幻想我という)の保存の方向へ逸脱する。わたしは、ナルチシズムを幻想我の保存の方向にナルチドーが向けられている状態であると定義する。それと対比して、ナルチドーが現実我の保存に向けられている状態がエゴイズムである。」と述べる。(なお、「ナルチドー」とは彼の造語のようで、リビドーが性本能のエネルギーを指しているので、個体保存本能のエネルギーを仮に「ナルチドー」としたとのこと。)

このような言説は初めて知ったので、今後、私なりに検討してみたいと思っているが、なるほどと思わされたのは、このナルチシズムが、自己陶酔に止まらず、他者に投影されるという指摘だ。 

彼は、「ナルチシズムは、自己と対象の区別が成立する以前に形成されたものであるから、自己と対象の混同をその本質的条件の一つとして含んでいる。幻想我は容易に他者と混同される。この条件を利用して、幻想我と現実我の葛藤を解決する方法もある。対象を幻想我と同一視し、対象にナルチシズムを投影するのである。」と述べ、「テレビの画面では、連日連夜、幻想我の代表選手である仮面ライダー・・・水戸黄門や銭形平次が、善玉(現実我)をみじめな状態に突き落とし、不当に虐待している」悪玉(現実原則)をやっつけているが、十年一日のごとき同工異曲の物語が決して飽きられることがない。人びとはこれほどまでに、幻想我の実現をはばんでいる現実の世界を恨んでいるのである。」と論を展開している。この「対象を幻想我と同一視し、対象にナルチシズムを投影する」という表現は見事だと感じる。

要するに、テレビや映画、小説などのヒーローへの憧れは、ナルチシズムと結びついていて、自己とそのヒーローを同一視する混同することから生じ、これはヒーロー以外にもアイドルや偉人にも同じことが言えるということなのだろうと私は理解した。有名な他者を同じ人間として見ようとせず、特別視、特別扱いする愚かさが明確に見えてくるではないか。現代人は現実に絶望的になっているので、幻想にしか生きられない様相になっている。かねてからのアメリカンドリームや最近のトランプ現象,大谷翔平現象にみるように、現代社会は幻想を幻想と捉えられない状況に陥っているが、その分析に有効な言説だと思う。

彼は、神や、何らかの主義、理想、理念などもナルチシズムの対象となると述べていて、「はて?」と思わせるが、それらの観念自体が崇拝の対象になりやすく、そうなっている場合のことを言いたいのであろう。私は、それは典型的にはナショナリズムや郷土愛などに現れていると思う。さらには誇りもナルチシズムにすぎないと思う。

ほとんどの論旨に同感だが、一つだけ納得できない言説がある。それは、「何のために親は子を育てるのか」の中で、人間の育児本能はこわれているので、子を育てることは親には大変な負担であり、子を育てないということもできるため、育児行動を根拠づける何らかの人為的観念をつくりあげなければ人類の存続は不可能であった。」とし、生き残った部族は、その思想に頼って育児行動を続け、それが母権制や家父長制などの社会制度となったという言説である。そして彼は、父殺しと近親相姦の二大タブーに、子捨てのタブーが加えられて、この三大タブーが家族制度を支える柱だったと言う。確かに、生んだ子どもは自分たちで責任をとれという社会規範があったから子捨てをかなり防いでいた面はあるが、これまでの社会は、子に扶養されなければ生きていけないという社会だったので、大半の人たちは子を産もうとしてきたのではないだろうか。

人間の子育て本能が壊れていることは確かだろうが、子育ては負担でも、有り余るメリットがあるから厭わず、むしろ懸命に育てたのではないだろうか。だから、義務付けなければ子育てを放棄するというのは、このようなことを忘れ、「人間の本能が壊れている」という論理に支配されすぎた言説ではないのだろうか。そして、子こそ親を扶養することが重荷だったので、親孝行という道徳が必要だったのではないだろうか。・・・その社会も年金制度や介護保険などにより変わりつつあり、子を産まないという選択をする男女も増えているが。

彼の言説には、引用文書などがあまり示されず(だから「ものぐさ」と自称しているのかもしれない)、乱暴な面もあるが、他にも「自己嫌悪の効用」など、注目すべき言説が数多く掲載されており、今後もっと広く読まれるべき書籍だと思う。

 

書評 ノット・ライク・ディス トランスジェンダーと身体の哲学 著/藤高和輝

 私には一般に流布している、トランスジェンダーといわれる人たちの主張が理解できない。なぜ生まれた時に、哺乳動物としての特徴の「雄/雌」により、「男/女」とされたことを受け入れられないのかについて、当事者から聞いてみたかったのがこの本を読もうとした理由だったのだが、結論からいうとそれは叶えられなかった。(この本にも記されているように、「男/女」の判断が明確にできない例が少なからずあることについては知っていたが、それについては別途考えることとしたい。)

 著者は、序章において、「トランスの身体性を記述しなおす理論的試みである。・・・人口に広く膾炙しているトランスジェンダーに対する病理学的な認識図式を批判し、オルタナティブな理論的枠組みを提示することが本書の主要な狙いである。それはまた、「身体とは何か」という問いをトランス的観点から思考する試みである」、「それは「トランスにとっての身体とは何か」という問いに応えるものであると同時に、トランス的観点から、誰もが生きているこの私の身体とは何かを再考する試みでもある。」と述べている。

 著者はまず、デカルトの「心身二元論」では身体が「意識が乗り越えるべき「否定的なもの」であるということにな」り、身体は「ただ意識の要求や理想を満たし反映するためだけに存在する「モノ」としての身体ということになる」としていると述べる。またトランスジェンダーの存在を「病理」「異常」「特殊」とみなす病理学的図式を批判しながら、「ジェンダーとは生物学的に決定されているとする本質主義の議論を批判」し、「ジェンダーとは社会的に構築されるものであるとみなす」「構築主義的図式」を批判的に再定式する言説を展開する。そのなかで、構築主義者たちの、「性自認」は「性他認」という議論を「心理の場所が「私」から「他者」へと移譲されてしまう」と批判している。

そこで著者は、「<私の身体>はテーブルの上にあるコップ」と異なり、「<私の身体>はつねに私とともにある」とし、<私の身体>の居場所を理論化しようとした、メルロ=ポンティの哲学に注目する。そして彼が、「身体イメージ」の概念を強調しているとし、「この観点から考えるならば、性別違和とは、「心」と「体」の間ではなく、「身体イメージ」と「物質的身体」のあいだに生じるといえるのではないか。」と述べる。そして、「トランスにとっての「真理の場所」―それは、「モノ」としての身体でも、心でもなく、社会という<他者>でもなく、身体イメージ、すなわち、私にとって感じられる身体にあるのではないだろうか。」と続ける。

そこで著者は、「本書の基盤になっている主張は、・・・あなたが感じる者こそ、真理であ」り、「自称すれば誰でも性別を変えることができる」とトランスフォーブ(=トランスジェンダー嫌悪者(森中・注))が言う「セルフID論」では決してない」と述べ、トランスジェンダーを擁護する。

それから著者は、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』で、「セックスとは自然的事実ではなく、むしろ異性愛規範によって部分的に形成されたものであると指摘」していることを紹介しているが、この辺までは何とか理解できる。

しかし、著者の論は、「身体の形」は物質的であるだけではなく、想像的なもの」という言説に展開し、トランスには、「この「身体の形」が私のものではないもの」として、・・・「ここに在る」という経験であり、したがって、この「身体の形」を「私のもの」として「引き受ける」ことの困難性がそこにはある。」と述べている。要するに、トランス女性は、自分の男性の陰茎や陰嚢、トランス男性は膣や胸のふくらみなどがあることを「引き受けられない」というわけだが、この言説を「シスジェンダー」の人たちがそのまま理解するのは正直に言って無理があるのではないだろうか。ここにほしいのは、感覚の絶対化ではなく相対化だ。なぜそのように感じるのかを自ら考えてほしいのだ。

著者は、「性別違和」は「シスジェンダー」の「性別役割拒否」とは異なると言う。それはわかるが、「性別違和」はこれまでの社会の性別に関する固定観念と無縁だといえるだろうか?トランスの人たちは、「男らしさ」「女らしさ」というような観念から自由なのだろうか?「女になりたい」「男になりたい」というとき、その「女」とは、その「男」とはどのような意味を含んでいるのだろうか?トランスの人たちは、自己の人間性よりも、性差にとらわれすぎていないだろうか?この問いは、バトラーたちの議論を読んでも解けなかった。

 私は人間として生まれ、与えられた自分の境遇や身体を引き受けるというのは、すべての人に共通する課題だと思っている。私自身、いわゆる「色覚障害」を背負っている。しかし、個々の色覚の感度は一律ではなく、障害というのは、色覚の感度に一定の基準を定め、その基準以下の色覚を便宜的に「異常」としたに過ぎないのだとは思っているが、運転免許の資格、各種のカラー図表、色分けなどで「色覚障害者」はほとんど無視されていて、程度の差はあるが、このことも生きにくい社会の一要素であることは確かだと思っている。

 それでも、この障害も、私が与えられたその障害は私の身体の一要素でしかなく、他の多様な要素とともに私に与えられているのだから、それをもって「自分の身体を受け入れない」ということはできないと思っている。そして、障害者は皆、「自分の身体を受け入れない」ということはできないのだろうとも思っている。

だから、トランスの人たちが、障害者や差別される人種の問題をどのように考えているのかを問いたかったのだ。この著書の中で、あるトランスの人が、彼らの運動は障害者運動と無縁だった。障害者運動などに学ぶ必要があると主張していることが紹介されている。しかしそれだけで、トランスの人たちはあまりそのような問題には関心がないようであり、これには不満がある。

黒人運動のような人種差別反対運動や障害者運動を学べば、トランスの人たちの社会認識は、決して新しい認識ではないことがわかるはずだ。被差別人種や障害者なかの多くの人たちは、「パス (トランスの人が、志向する性別であるかのように演じること(森中・注))さえできずにいることを理解するべきだ。

「身体への愛は自然には発生しない」と著者は述べる。そして、「多くのトランスの人たちはそれぞれの仕方で自らの身体と折り合いをつけながら・・・生きている。自らの身体と折り合いをつける、その愛の技法は、ある身体を「おぞましいもの」として排除する<いま・ここ>の社会的世界とは別の世界の可能性を先取りしているのである。いわば、この世界がトランスの人たちから愛の技法を学ぶべきなのだ。」と声高に主張しているが、いつまで待ってもそんな社会が実現するはずはないと思う。

だが、そのような社会の偏見を客観的に批判できていれば、「身体への愛」を生じさせるまで至らなくても、私たちは生まれついた身体を自然に受け入れることができるはずだと思う。生まれ出た社会のせいで生きにくさを感じるから、与えられた身体を「愛することができない」としたら、それは自分の身体を他者や社会の見る「眼差し」で見ているからではないだろうか。自分の身体を他者の「眼差し」で見てはならないのではないだろうか。

黒人の差別反対運動で「Black Is Beautiful」という、従来の白人中心の美の基準を覆し、黒人としての誇りや文化、肌の色を肯定する強力なメッセージを生み出していることに学ばなければならないのではないだろうか。

 ここで断わっておくが、この書評はトランスジェンダーの人の説にかなり批判的なものになっているが、私は、トランスの人を攻撃したいわけではない。ただ、本書のような断定的に「違和を感じる」と言うだけでなく、当事者が自らその根本的な理由をシスジェンダーにもわかるように考え、率直に説明してほしいのだ。感覚を客観化することこそ、人間同士が分かり合う前提だと思うからだ。

私は、人間は、生まれた時に「与えられた」身体を変えることはできないのだから、誰しもそれを受け入れて生きればいいのだと思っている。そして、すべての人が、「生まれて良かった」とまで思わないまでも、「生まれない方が良かった」という人がいる社会、世界にはしたくないとも思う。そのためには、身体の問題に関して言えば、男女の区別、障害の有無・程度・種類、人種等を含め、個々に全く同じ身体はないのに、社会は便宜的な標準を定め優劣をつけたがるもので、それを正当化するために様々な偏見を伴う言説が生じ、差別が生まれることは「人間の弱さ」のせいなのだということを認識し、決して非難をせずに、わかりやすく批判し、不当な扱いをされたら抗議するということを実践することが必要だと思う。そうしていれば、与えられた身体のことで苦しまずに生きられ、決して他者の眼差しで自分の身体を見つめることなく、堂々と生きることができると思う。そうしていれば、この世界は「学ぶべき」と声高に叫ばなくても、「学ぶようになる」のだと信じている。

 

 

書評 神経症的な美しさ アウトサイダーが見た日本 著/モリス・バーマン 訳/込山宏太

 この著書の「日本語版への序」によれば、この著書のタイトル中の「美しさ」とは、著者が経験した合気道、囲碁、俳句、座禅などの日本の「伝統に表現されている精神的な態度すべては、日本の芸術家たちの偉大なる工芸の伝統とともに、西洋の私たちが・・・大いに必要としているものである。」からだ。「神経症的な」とは、ペリーの来航と太平洋戦争敗戦後の占領という米国による武力行使によってもたらされた日本の「二重苦」や、急激な近代化により生じた日本人の魂のねじれを指しているようだ。

 また、著者は、ペリー来航以来、日本は「西洋を乗り越えるために、西洋の技能やテクノロジーを獲得する競争が始まった。その速度は近代史(あるいは近代化の歴史)において類例のないものであった。」、「米国や西洋の帝国主義的列強に倣って、日本は近代世界において対等な関係の構築を目指す道を選んだが、それは古来の伝統やアイデンティティに大きな犠牲を強いるものであった。」と述べ、やがて、詰め込んだ西洋の知や西洋式の帝国主義が「満州事変や真珠湾、ヒロシマへと至る」原因だったとする。

 この指摘は基本的に正しいものであろう。米国人でありながら、米国がたどった歴史や現在の状況に批判的であり、こういう人がどのように日本や日本人を捉えるのかに興味をもったが、この著書の膨大な日本描写は、上記の「ねじれ」の日本文化への影響との関係を踏まえておらず、米国と異なって、伝統が長らく保持されている日本を美化していて、通俗的で、自身で「異国趣味」という欧米人の傾向を批判しているにもかかわらず、所詮「異国趣味」的な言説にすぎないと感じる。日本人を批判しながら、その欠陥が米国人にもあるという認識をした言説を述べる際に、「私たちは日本人に他ならない」という言に、日本人蔑視と自虐意識を感じるのは私だけだろうか。

 著作の意図はどこにあるのかと、どうしても考えてしまう。そもそも、著者が冒頭で「神経症的」と表現している日本の精神状況は、むしろ分裂的であり、いわば「統合失調症的」といった方がいいのではないだろうか。「美しさ」などは「アウトサイダー」が、表面的に眺めた印象でしかないか、この本を日本人向けに売るために「おだてよう」という意図を感じる。特に、最終章の「ポスト資本主義をモデルとしての日本?」という副題のもとで、近代化の歴史が浅いために、いまだに資本主義化されていない産業技術などを評価する言説を展開するが、本気で書いているのかどうかと思ってしまう。

 それにしても、それが欠けていると自己規定する米国人が評価する「伝統」とは何だろう。私には、日本は、家業が根強く残っているからに過ぎないように思える。「統合失調症」的で、アイデンティティを失っている日本人は、日本文化を自分自身で評価できないでいるのに、米国人などに評価されて、それが儲かる伝統家業になり、「日本人が誇るべき日本の伝統として残る」としたら、日本はペリー、占領に次ぐ第三波の影響を受けることになるかもしれない。

書評 結婚の社会学 著/阪井裕一郎 

 この著者は私が数年前に読んだエリザベス・ブレイクの『最小の結婚』の共訳者のひとりだった。そのため、特に後半でこの著書の引用が多くなっている。

  読んでいて、タイトルの『結婚の社会学』から想像した内容とずれを感じる部分がかなりあったが、あとがきを読むと、このタイトルは編集者から提案されたものだったとのことで合点がいった。

冒頭でこの著書は、最近の欧米で家族をめぐる大きな変化が起きていることを解説している。具体的には、婚姻制度以外の共同生活をカップルが増加し、同時に、出産・子育てが婚姻制度からどんどん分離しているという。

それから、現在、国連加盟国の中で夫婦同姓を法定しているのはわが国だけになっているそうだが、最近わが国でも、国会で夫婦別姓について議論が交わされるようになったことに関し、日本では1898年に民法で一戸籍一氏が確立するまで、明治政府は妻の氏については、慣習にしたがって実家の氏に固執していたという歴史に言及している。

そのような状況だったのに、不平等条約を改正するために、欧米、特にドイツの法律を模倣して同姓にせざるを得なかったとのこと。当時、これに対し、「儒教道徳を重んじ、別姓を伝統としてきた旧武士層から多くの反発が噴出」したそうだ。現在の同姓制度支持者が「「伝統の破壊」や「西洋への追随」とみなす夫婦別姓に対する批判と真逆の構図ですね。」という皮肉が面白い。

また、開国のころ、日本に来た西洋人たちが日本の男色文化を非難したため、日本の指導者たちがそれを「不道徳」とみなすようになっていた、とアメリカの歴史学者が著書に記していたとのこと。

これらは、明治維新以来、欧米を真似ようと必死だった日本が、変わりつつある欧米に追い付けなくなり、迷子のようになっている現在の日本を象徴している。当時の欧米の勢いに押され、その相手を客観的に分析せずに、ひたすら真似をすればいいという安易な姿勢が貫かれていることがここにも表れているに過ぎない。「和魂洋才」という掛け声が掛け声でしかなかったことを物語っている。

ことの是非はともかく、当時の我が国の伝統を守り、欧米の真似をしなければ、夫婦同姓問題は起こらなかったことになる。現在の、同性愛者等の差別意識を温存しながら、LGBTQの主張に流されるという迷走も、いまだに日本人の明治以来の西洋コンプレックスが続いていることが表れている。

後半の第5章の「セクシュアル・マイノリティと結婚」では、セクシュアリティとジェンダーについての詳しい解説とともに同性婚が欧米に限らず認められるようになっていることや、同時にパートナーシップ制度も普及していて、異性同士でも結婚の代わりにそちらを選ぶことができるようになってきた国々の状況を記している。

第6章の「結婚の未来」では、アイルランドで高齢の男性と中年の男性が、ケアと財産相続を交換条件にしようとする際、贈与税を避けるために結婚したという、これまで誰も考えなかったようなエピソードが語られ、こうなるとそもそも結婚とは何かということになる。

フランスで1999年に制定されたPACSというパートナーシップ制度は同性愛カップルのためだったが、異性カップルも法律婚の代わりに選択できるばかりか、性的関係、恋愛関係に限定されず、友人同士でも契約でき、ベルギーでは兄弟でも利用可能とのこと。このため著者は、「近年、世界では友人と家族を明確に線引きすることの正当性が揺らいでおり、社会の在り方を問い直す動きが高まっています。欧米の社会学でも、90年代後半から「友人の家族化/家族の友人化」や「選び取る家族」という新しい概念が注目されている」と述べている。そして、エリザベス・ブレイクが『最小の結婚』で、結婚でしか手に入らない法的権利を多くの人に保障するべきだと主張していることや、キスレフが恋愛より排他的でない友情を重んじることにより一人で同時に複数のルートでサポート関係を構築する社会を構想していることを紹介している。

また、マーサ・A・ファインマンが、「「家族という社会的・法的カテゴリーが、中核に結婚関係があるかないかに依存してはいけない」(『ケアの絆』)」、と主張し、さらに、「「出産や育児といった子どもをめぐる再生産については「明らかに重要な社会的利益」であり、「私たちが本当に子どもの福祉に配慮するなら、オルタナティブな関係にも結婚と同様に社会的な援助や支援を与える政策をめざすべき」だと述べていることを紹介している。これは、子育てを家族でという固定観念から離れ、社会全体で支えようという、もっともな主張であろう。

世界の動向を知ることができた貴重な著書であったが、最後に著者は、主に我が国内において、子育て支援の議論が、子どもを持つ人と持たない人の分断を生んでいるとして、「結婚している人を支援すれば、独身の人が損をする」「子どもを持つ人を優遇すれば、子どもを持たない人が損をする」などの応酬がみられることについて、「我々を縛っている損得勘定の常識を問い直すことが重要」といわば啓蒙的な批判をして結んでいるが、これには賛同できない。日本人が欧米先進国の仲間入りができているという安心感を持ち、学ばなくなっていることは確かだが、実際にこのような分断はこの議論から生じているわけではない。立場により有利であったり不利であったりする構造は有史以来、緩和されたことはまだほんの一部に止まっている。それどころか常に強者は権利保持に努め、拡大のチャンスをうかがっていて、それは新自由主義の普及により急激に拡大している。そのような社会の分断情況に触れずに済ませてしまっていることは残念だった。

書評 「家族」を超えて生きる 著/山本智子

 この著書は、副題にあるように、西成区(大阪市)の障害者施設でスーパーバイザーをしている臨床発達心理士の精神障害者を支援する現場からの報告である。

著者は、この著書の序文を寄せた精神科医の成田善弘が、親役割を果たさなくなった家族の中で、育つ子どもが青年期以降、不適応状態を示すことがあり、診察室の中で「自分は悪くない。悪いのは家族だ」と訴えることがあるが、自分を「被害者」だと規定すれば、自分の内なる欲動や空想に気づく必要や、自分が変化する必要がなくなる。ここには「悪しきものは自分の内部にあるのでなく外部からくる」という古代の精神病観に似た思想が見え隠れすると指摘していることを紹介し、「これは・・・親との関係の中で苦しみ、長い時間が掛かったけれどもその苦しさがどこから来ているのかを見つめることによって、「誰が被害者でも加害者でもない。そこで起こっていた家族力動がおかしかったのだ」ということに気づき、楽になっていったことと重なるように思う。」と述べている。

この著書には主に5人の精神障害者を支援する過程が述べられている。被援助者たちは、母親が統合失調症の母子家庭、母親が再婚した家庭、厳しい養父母の家庭、親戚の家庭という環境で育っている。残りの1例は実父母の家庭だが、母親に抱擁を拒否されたことがあるという。彼ら、彼女らは、それぞれ、世間的に理想とはいえない家庭で育ち、それが精神障害になった原因だと自ら思い込んでいるようだ。著者はその思い込みが自分を縛っていることを面談によって明らかにしていく。被援助者がそのような面談や援助チームの支援を経て立ち直っていく過程には感心させられる。

ここには「普通の家庭」という幻想が人々を苦しめている現代社会が描かれている。多くの人がそのような家庭を基準にしているため、そこから外れた家庭の子供たちは精神的な変調をきたすと、序文のように、「普通」でなくなった家族のせいにし、精神病に対する社会的なスティグマも作用して「セルフスティグマ」に陥ることも重なり、自己を客観的に見られなくなっているようだ。それを解きほぐしていくには、さぞかし丹念な努力が必要なことだろう。

援助チームのメンバーには、「家族を超える」という発想が生まれている。考えてみれば、家族とは夫婦関係を除けば、お互いに選んで結ばれたのではない偶然の集団であり、親子は人格で結ばれた関係ではない。母性愛、父性愛などを特別に大切な愛とすること自体が神話だといえるだろう。

家業中心の社会から賃金労働が中心になった現在、一定の社会的な援助がなされるようにはなったが、家族単位の自助が依然として原則であること自体は変わっていない。その原則が「普通」の家族に貫かれている。その状態を維持するために意図的に様々な幻想が創られ、いまだに多くの人びとは「親孝行」、「母性愛・父性愛」、「仲睦まじい家庭」などのモラルに疑問を持たない。母の日のカーネーションはかつて問題となったが、なぜかすっかり忘れられている。このような孤児、ひとり親など、子供に関係なく生じる事態を例外としてしまう社会は人間的な社会とはいえないのではないだろうか。

この著書に取り上げられた事例には救われる気持ちを持てるが、この背後には多くの救えなかった例があることだろう。それはこの地域以外の全国、いや全世界に限りなく存在していることだろう。そもそも、このような援助が不要な社会であるべきなのではないだろうか。どんな環境に生まれた子供でも、ひけめや、生活上の苦難を被ることなく生きていくことができる社会を実現するためには、人間は「家族を超える」必要があること、今後も「家族」が存在するとしても、親子関係は血縁関係でしかないことが一般の人々にも自覚されていなくてはならないのではないだろうか。

書評 西洋の敗北 著/エマニュエル・トッド 訳/大野 舞

 書名や「日本と世界に何が起きるのか」という副題を見て、どんな本かと思って読んでみたら、ロシアのウクライナ進攻をめぐる評論だった。副題は、日本人向けにまえがきとあとがきが書いてあるためで、売れる本にするため出版社の作戦なのだろう。

ということで、ウクライナ戦争はロシアが西洋側に勝利するという結論になる解説が大半であったが、そのなかにも、参考になることは多かった。また疑問のある言説も多かった。

まず、プロテスタンティズムの(カトリック側から見た)特質についてだが、「プロテスタントの信者は、誰もが聖書にアクセスできなければならない」ので、信者を識字化させたという。そしてその能力は技術と経済の発展を可能にし、「意図せずして、非常に優秀な労働力を形成した」という。また、予定説を信じるようになり、「選ばれし者と地獄に落ちる者がいる」、「つまり、「人間は平等ではない」という人間観を共有している」、その不平等主義は「洗礼によって原罪から清められた人間はみな平等である」というカトリック(あるいは正教会)の根本的な考えに対立した」、「その結果として、人種差別が最も激しく、最も強固な形で現れたのがプロテスタンティズムの国だった」、さらには「これは基本的な人権をすべての人に認めるわけではない、というプロテスタンティズムの本質的な帰結なのである」とまでいう。ここまでプロテスタンティズムへの批判をするトッドの母国で主流のカトリシズムはどうなのだろうかと思いつつ、一応、受け入れた。

これは、「国家」や「国民」という概念の起源論にまで及び、誰もが聖書にアクセスできるようにするためには、聖書が土着の言語に訳されるべきということになったためで、プロテスタンティズムがそれらを生んだという説を述べる。確かにそれは一理あると思える。ただ、その概念はフランス革命が起源ではないとし、「プロテスタンティズムは、聖書を読みすぎたことで、「我こそは神に選ばれし者」という自己意識に至った人を出現させたのだ」とまでいうので、ここでも、「フランスはどうだったのか?」と言いたくなる。

この後もキリスト教の崩壊と思想の退化についての言説が延々と続く。トッド曰く、キリスト教崩壊の段階は、「活動期」段階から「ゾンビ」段階を経て、現在の「ゼロ」段階に至ったとのこと。現在は、東欧とイタリア以外ではキリスト教は消滅しているという。ほんとうにそこまでいっているといえるかどうかは疑問だが、ヨーロッパのキリスト教信者がかなり減っていることは確かだろう。

さて、ヨーロッパでは、その「ゾンビ」段階ではキリスト教的な慣習は残っていたが、「宗教を代替する信仰」として、ナショナリズムや国民国家を生み出されたという。しかし、この段階では、拘束力のある社会道徳や集団のために犠牲となる能力は残っていたが、現在の「ゼロ」段階は国民国家が解体され、グローバル化が生じた状態だという。この段階に至ると、道徳的精神がなくなり、これがもたらした「虚無」感がニヒリズムを生んだという。現在、ウクライナに代理戦争をさせることに疑問をもたないのは、「道徳ゼロ状態」を現しているという。そんなヨーロッパが、間接的にでも、ウクライナ戦争に参戦したことは自殺行為のようなものだという。

そして、今度は、「EUの軍事的な自殺幇助に死を与えるという」新たな役割を担うことになったアメリカの「貧困化」の話題となり、アメリカは新自由主義により、1945年当時、世界の工業生産の45%を占めていた工業生産が、今日では17%まで落ち込んでいて、中国は2020年に28.7%に増加しており、同盟国間の貿易赤字は2930億ドルで、中国に対しては3500億ドルの赤字だそうだ。このようなデータは参考になる。

アメリカのプロテスタンティズムの消滅についても言及している。1990年代に福音派が終わったという説は支持できないが、アメリカにおいては、反科学的なメンタリティと病的なナルシシズムにより、「神は(信者に)要求する存在ではなく、信者をおだて、心理的あるいは物質的なボーナスを与える存在になってしまった」という。

欧米で、出生率の低下がみられることは宗教性の退化を示す最も確実な方法だという説は支持できない。現に、欧米よりも顕著な日本や韓国の出生率の低さは宗教性の低下のせいとは言えないだろう。仮説ではあるが私見を述べれば、老齢年金制度が整った社会で起きている現象であり、この社会では子育ても社会で担わないと、子育ては経済的に割に合わない行為になるからだと考えている。

なぜかここで突然、トランスジェンダーについてのトッドの考え方が述べられる。トッドは、ジェンダーを自分の好みに従って変えることに反対であるという。このことは支持するが、性染色体を変えることができないのに、それができると主張することは「虚偽を肯定することで、典型的なニヒリスト的行為である。」、「虚偽を社会の心理として押し付けたいという欲求」を非難する理由については支持できない。ニヒリストなどという道徳的な非難には違和感があるし、私見を述べるならば、人間の性別は、人間も一種の動物でしかなく、その肉体の束縛のもとでしか生きられないという限界を認めざるを得ないということを人間も受け入れるべきだと考えているからだ。それは身体的な性別が男女に分けられない人がそのまま社会的に受け入れられなければならないということを含め、社会的なジェンダーとは別の問題だと考えている。

終盤になると、トッドは得意の統計的手法で、1965年に、「「高等教育を受けた人口が25%以上」という閾値にアメリカが達し(ヨーロッパは約1世代分後れで)」、「即座にあらゆるレベルでの知的衰退」をしたという分析を述べる。それは、「教育こそが切り札の一つだったプロテスタンティズムの消滅が起因していて、それが福音主義を普及させたという。

本書には、ほかにもこのような統計的手法にもとづく言説があるが、その統計数値が意味することや、どのように社会に影響を与えるのか説明がないのはおかしい。知的衰退についていえば、アメリカ人の知的水準は変わっているとは思えない。少なくとも、第2次大戦後は娯楽しか求めていなかったのではないかと思っている。それは、アメリカの文学作品や映画を見れば明らかだ。その原因は、資本主義が絶頂期だったせいだと考えている。

トッドは、アメリカは、新自由主義や自身が進めたグローバル化により、自己の覇権を失いつつあるとして、それは世界通貨としてのドルを生み出して金銭的な富を得ており、ドルはコストゼロで生産でき、それ以外のすべての経済活動は採算の合わない、魅力的でないものになるからだという。そのようなシステムを担う銀行家やロビイストがアメリカにおける最高の職業になっているという。

そのような欧米の状況の中では、欧米のいう「その他の世界(欧米とその友好国以外の国」にとって、西洋はもはや尊敬に値する勝者ではなくなり、西洋の傲慢さに世界が苛立ちを募らせていることがロシアにとっての切り札となり、ロシアの経済制裁が効果を出すことができないのだという。「その他の世界」は、中国、インド、ブラジルなどの大国を含み、圧倒的な多数者だからだと述べている。

トッドの言説を俯瞰すると、世界の動向を機敏に察していることは確かだが、その原因としての宗教の社会的影響や伝統的な家族形態に囚われすぎているように思える。確かに西洋はキリスト教を離れて分析できない。しかし、科学的な知識の普及や哲学により、徐々にではあるが確実に西洋人はキリスト教から自由になりつつあると思っている(ただ、アメリカの福音派を含む宗教の動向については読めないが)。だから、上記のように、キリスト教の衰退が現在の欧米の劣化の主原因のような言説には説得力を感じられないのだろう。トッドは自己の手法で有名となったことに溺れてしまい、その手法を通した表面的な世界がしか見えていないのではないだろうか。

書評 トランスクリティーク カントとマルクス 著/柄谷行人

 著者の柄谷氏自身が、この著書について「難しい本」だとインタビューじんぶん堂企画室)で語っているとおりの難解な本だが、彼は、カントやマルクスの著書についてのポイントをついた引用をし、具体例を挙げながら、彼独特の解釈もあるとは思うが、丁寧な腑に落ちる解説をしてくれているので、なんとか読み通すことができた。しかし、内容が濃いため、脳が煮詰まり、続けて読めるのは2時間がせいぜいだった。 

正直言って、カントの著書は全く読んだことがないのでピンと来なかった。マルクスについては、『共産党宣言』、『ヘーゲル法哲学批判序説』、『ドイツ・イデオロギー』等の小冊子のみで、『資本論』については断片的な解説しか読んでいなかったが、彼の『資本論』の解釈は納得でき、参考になるものだった。

さて、この著書は注まで含めると500頁を超える大著であるため、ここで全体について触れることはできない。以下、私なりに理解したマルクス解説について述べる。

結論からいうと、資本主義の仕組みの労働者搾取だけでなく、交換過程に注目するべきであり、そうすれば、これまでのマルクス主義者による資本主義の捉え方では抜け出すことができなかった、資本=ネーション(共同体、集団)=ステート(国家)という三位一体のリングの出口を見出すことができる、ということを彼はいいたかったのだと思う。これを彼は、マルクスが『資本論』で、「産業資本の剰余価値は、たんに労働者を働かせることによってではなく、(総体としての)労働者が作ったものを労働者自身が買い戻すことにおける差額から得られる」と述べていることを引用しながら導き出している。労働者からの搾取ばかりを問題とした労働運動のみの抵抗運動は結局、資本の力に対抗できず、社会的な広がりを期待することもできないため行き詰まる宿命にあるのだという。

 

このことが、エンゲルス以降のマルクス主義者には理解されなかったから、ソ連の様な集権主義的な社会主義国家が生まれ、その後、衰退したのだろう。この辺を読んでいると、アレントの『革命論』におけるマルクス批判が極めて表面的なことをつくづく感じる。

そして柄谷氏は、この交換過程への注目から、「アソシエーション」という思想をもとに、労働者が「買わない」ということにより資本を脅かすことができる消費者運動を、労働運動と連携させることが有効な資本経済への対抗運動となると述べ、具体的には協同組合で生産、消費を管理すれば資本主義を揚棄することができるという展望を述べている。

彼の、交換過程への注目や「アソシエーション」への言及、消費者運動と労働運動の連携については目新しいものを感じる。しかし協同組合による資本主義揚棄は頷けない。現在、消費者協同組合は存在するが、資本に対抗する運動母体になるようには見えない。生産協同組合はこれまで西欧等で生まれたがほとんど消滅しているようだ。柄谷氏は、1990年代以降、「世界商品」が、巨大な資本による耐久消費財生産から、情報産業に移行しつつあるので、今後、生産協同組合がそれを担える状況が生まれているとしているが、そもそも、そのような運動は起きるような気配はない。

柄谷氏の言説は、20世紀初頭だったら有効だったかもしれない。経済的に悲惨な状況が過去に比べて軽減されている現在、社会民主主義的な改革が一定程度浸透している現在、どのような人々がそのような運動を起こすのだろうか。この状況は社会民主主義を批判しても打開できない。     現在の危機は、地球環境問題や人間が、消費や娯楽の奴隷のようにされていることにあるのではないだろうか。彼は、資本主義的商品経済の限界として、自然環境と人間を自ら作り出せないこととしている。これについては「後に述べるように」とあるので探したが、具体的な言及は見つからなかった。私の読み方が足りないのかもしれないが、残念だった。

今、必要なことは、目に見えにくいが確実に人類を滅亡させるようなこの危機を、多くの人々に気づかせることではないのだろうか。それがなければ資本への対抗運動は起きないだろう。

もうひとつ気になることがある。それは斎藤幸平氏にもいえることだが、柄谷氏も多くのマルクス研究者と同じように、「マルクスは○○といっている」という論理に囚われていることだ。マルクスが偉大な思想家であることに、私も異論はない。しかし、あくまで優れた一人の思想家として捉え、その優れた考え方を学ぶというスタンスを保持するべきだ。そうでないと、マルクスの崇拝者でしかないか、自分の考えをマルクスに権威づけてもらうようなことになってしまう。要は、自分が現在感じていることを表現するべきなのではないだろうか。そうすれば、今、ここにいる人々に響く言論になるのではないだろうか。

書評 アーレントと革命の哲学 『革命論』を読む 著/森一郎

 アーレントの『革命論』の翻訳者の解説本なので読んでみた。 『革命論』を引用しながらその個所の解説が殆どだが、「左翼陣営からすれば『革命論』は反革命の書なのである。」という言及や、『活動的生』における「相互約束」の引用などは参考になった。 しかし、その解説は読者が疑問をもつことを予測して、わかりやすく解説するというものではなく、ただアーレントの言説をなぞっているだけだった。

一方、この著書には、『革命論』からの引用個所に関連する日本の状況についての論評が目立った。それは、あまり評価できる内容ではないと思う。むしろ、ない方がいいのではないかと感じている。

具体的には、森氏は、加藤典洋の『アメリカの影』、『9条入門』などを参考にしながら、「敗戦後の日本にとって脱出不可能なアメリカとの関係を、今後いかに再構築していくか、そこに新しい始まりは可能か。」として、「この課題に取り組むには、アメリカが革命精神の発祥の地であったことを改めて認識し、その忘れられた事実をアメリカに対して発信するといった地道な努力が重要となろう。そのための最善の道案内となりうるのが、アーレントの『革命論』なのである。」と述べているが、アメリカに発信する前に、日本国民の対米従属さえ自ら認識できないという情況を考えれば、こじつけの全く滑稽な言辞としか受け取れない。

砂川事件などをめぐって、「アメリカ憲法の精神を裏切る干渉行為を当のアメリカ合衆国が行なったことを、その通り指摘することは「反米」ではない。まさに「親米」というべきであろう。」などという言説は、「米国コンプレックス」でしかない。明治維新や「敗戦後の再出発」が、「革命」とみなせるかというような言説があるが、これも不要なものでしかない。

アーレントは革命や民主主義に絶望しながら一生を終えたのだろうか。」とは、私が革命論』について最後に述べた疑問だったが、森氏の『アーレントと革命の哲学』に参考になることはなかった。

 

書評 精読 アレント『人間の条件』 著/牧野雅彦

 (アレントはアーレントとされている著書が多いが、ここではこの著者の表記を使用します)

この著書は、アレントの『人間の条件』の訳者による解説本だ。

まず、著者は『人間の条件』について、「近代に始まる自然科学と技術の発展は、ついにそうした自然的条件をも克服するかに見えるところまで来ている。それをもたらした人間の能力とは、いったいどのようなものなのか。それが人間と、そして人間をとり巻く自然にもたらすものは何なのか。これらの問題にマルクスとは違った展望を見出そうとすることーこれが『人間の条件』を貫く主題である。」と述べている。 果たして、アレントはどんな展望を見出したのだろうと期待しながら読み進めてみた。

この著者は、マルクスの著書等を独自に引用しながら、『人間の条件』を解説している。しかし、アレントの言説の解説の範囲内の著述を出ていない。解説しながら疑問になったり、批判したくなったりしなかったのだろうかという思いを抱きながら読んだが、著者が述べた展望をどこに見出せばいいのかわからなかった。

 あまり意味のない購読だったが、あとがきに、『人間の条件』ではニーチェ批判が完結していないこと、それはアレントがニーチェに親近感をもっていたこと、師であったハイデガーのニーチェ評価にも原因があったことが述べられていたことは参考になりそうだ

書評 すごい古典入門・アーレント『人間の条件』 著/戸谷洋志

 アーレントからは「卒業」したつもりだったが、『人間の条件』が研究者にどのように評価をされているのかを知りたくて購入してみたが、結論から言うと、アーレントのマルクス批判についてのこの著者の評価は、百木漠氏の『アーレントのマルクス』と同じであることが分かりがっかりした(百木氏の同書についての感想はこち)。

そもそも、私にはアーレントがこの著書を書いた意図がわからなかった(私の『人間の条件』評は)。その後、解説本などを読んで出した結論は、暴論と言われるかもしれないが、『人間の条件』は、ギリシャ時代が好きなアーレントが、現代世界に幻滅し、ペシミスティックになった原因をマルクスのせいだとするための理論ではないかということだ。おそらく、彼女は生活には全く心配のない著名人なので、いわば古代ギリシャの市民のような立場であるため、その「公的領域」で私的な利害に関わらない議論をする生活への憧れる、という倒錯した意識があったのではないだろうか。その意識に無自覚だったのだろう。ともかく、読者に訴えるものがない著書なのは確かだと思う。

戸谷氏は、『人間の条件』でアーレントが3区分した人間の活動や、古代ギリシャにおいて明確だった公的領域の消滅の経過などについて解説するが、なぜそうしたのかについては考えなかったようだ。哲学者とは、そういうことを考えない人たちなのかと思ってしまう。

戸谷氏は(百木氏も同様だが)、アーレントが蔑視する「労働」の優位を、マルクスが現代社会で決定的にしたと批判していることを紹介し、そのため、「労働」以上に価値のある、「それ以外の営為、活動と仕事など、かすんで消えてしまったかのようです。」と自論を述べながら、マルクスは、「紛れもなく、人間を労働へと駆り立てる資本主義社会に対する最大の批判者です。」と述べ、「アーレントのマルクス解釈は、かなり一面的であることがわかってい」る、彼女の労働概念とマルクスのそれは異なり、彼女の言う活動や仕事を含んでいる、「アーレントはマルクスを誤読している」と批判するなど、ちぐはぐな論理に陥っている。

現代の人々が消費や娯楽のために奴隷のように労働している情況に愁いを抱くのはもっともだ。しかし、それをマルクスのせいにするのはお門違いだ。人間が資本に支配されているからこのような情況になったのであり、マルクスはその資本と戦うべきだとしていたのではないか。そもそも、哲学的な概念規定が社会を動かすなどということはあり得ない。

そして、「しかしその誤読は、少なくとも現代社会の一つの特徴を浮かびあがらせるものであるという点では、役に立つものであります。研究者のなかには、これは生産的な誤読であるとして、積極的に評価する人(森中注・百木氏のことであろう)もいます。僕も基本的にはそう思います。」と、苦し紛れのわからない結論を述べる。このような結論は、アーレントに伝わらないからといって、彼女にとっては屈辱的なものであり、けっして述べてはならないことだ。「誤読」しているとするのなら、なぜ、そのような誤読がされたのか、について徹底的に考察し、批判するべきではないだろうか。

アーレントにしても、マルクスにしても偶像化していては理解も批判もできない。対等な人間として、その言説を正面から受け取り、疑問があれば、それを自分の能力が足りないせいなどと逃げずにこだわり続けるべきだと思う。

書評 アーレントのマルクス: 労働と全体主義 著/百木 漠

 ハンナ・アーレントの『革命論』や『人間の条件』におけるマルクス批判の論拠を知りたいと思っていたらこのような書籍があることを知り読みたくなった。しかし高価なので即購入をせず、図書館から借りて読んだ。結果的にはこれが正解だった。  百木は、「アーレントのマルクス研究は当初「マルクス主義の全体主義的要素」を明らかにするためにはじめられた。」とこの著書で解説している。これでは、アーレントのマルクス研究は予断をもって始まったことになると思いながら読み始めた。

まず、この著者を含め、アーレントがマルクスをかなり誤読していたということを指摘している人が多かったことを知ることができたのは収穫だったと言っておこう。しかし、著者が、「(ときには意図的ではないかと思われるほどの)「あからさまな誤読」と言いながら、表紙に記されている「アーレントはなぜこれほどまでにマルクスを「誤読」したのか?」とした、肝心の、なぜ誤読したのか、その結果の彼女の言説の誤りなどについての追及はなく、「彼女のマルクス批判が意味を持つのは、マルクスへの批判としてではなく、近代社会=労働中心社会への批判としてであり、その先に予感される全体主義への批判としてではないか」などとしてしまうことは、思考を放棄しているのではないだろうか。

 『人間の条件』を読んでいて、私が感じたことは、全体主義が、さも哲学的な誤りから生まれたように記述されていることだった。私は、いわゆる全体主義は資本主義的な経済発展において、英仏に後れを取り、その専横ぶりに国民的プライドまで失いそうになった独伊の、精神的な立ち直りを鼓舞する運動だと思っているので、この著書の論理には違和感を禁じえなかった(日本は少し事情が異なるが)。

さらに、アーレントがマルクスが高めた労働についての評価が全体主義に利用されたと主張する論理が誤読に基づくものだとすれば、『人間の条件』の論理そのものが破産している、ということにならざるを得ないのではないだろうか。  

後半に至り、百木は、「アーレントのマルクスに対する評価は両義的である。」としてマルクスを偉大な思想家であると評価する一方で、「マルクスは、「労働」こそが人間にとって本質的な近代社会の状況を肯定し、「労働を賛美」する思想を創り上げた点では、根本的な誤りを犯していた思想家である。」としたアーレントの言説を、前半で「マルクスは近代資本主義のもとにおける労働のあり方に対して一貫して批判的であった。それゆえにマルクスを近代的労働の賛美者として批判しようとするアーレントの姿勢には、基本的な前提で大きな誤りがあったと言わねばならない。」と述べたことを忘れたかのように、批判なしに取り上げている。こんな支離滅裂なことを長々と書いた著書が発行されていることには呆れてしまう。 結局、この著書は私のアーレント評価の参考にはならなかった。

しかし、著者が述べた、アーレントが意図的ではないかと思われるほどのマルクスの誤読について、最近こんな仮説が頭に浮かんでいる。それは「近親憎悪」のような心理がアーレントに働いているのではないか、ということだ。どういうことかと言うと、マルクスとアーレントはともにユダヤ人であり、マルクスは『ユダヤ人問題に寄せて』という著書において徹底的にユダヤ教に取りつかれたユダヤ人を批判している。それは彼がユダヤ人ゆえにこそ指摘できるユダヤ人の習性の批判だと思う。

一方のアーレントもユダヤ人という立場に客観的だと言えるだろう。しかし、マルクスほどには至っていない。『イェルサレムのアイヒマン』において、ユダヤ人的な立場ではない言説を述べて、彼らから猛批判を浴びたことは評価できるが、結局アイヒマン裁判を肯定したことにそれは現れている。要するにアーレントはマルクスほどユダヤ人性から自由ではないのだと思う。その桎梏に対する無意識のコンプレックスがマルクスに対する「近親憎悪」を生んだのではないだろうか。もしかすると、彼女はマルクスに自虐性を感じたのかもしれない。

書評 『人間の条件』 著/ハンナ・アレント 訳/牧野雅彦

 (アレントはアーレントとされている著書が多いが、この著書の訳者の表記を使用します)

訳者解題には、『人間の条件』がアレントの主著とされているとして、『全体主義の起源』後、彼女が展開することになる主要な論点のほぼすべてが掲示されていて、古代ギリシャに始まる西洋哲学の諸潮流の展開の中にみずからの思想を位置づけた、哲学上の主著というべき書物だと説明されている。 私は彼女の『革命論』を読んで、彼女のマルクス批判をもっと知りたくなり、この本に取り組んだ。しかし、ギリシャ哲学の素養がないため、理解できない文章が多く、放棄したくなったが何とかひととおり読み通すことができた。

1は、「私は、「活動的生活」という言葉で、労働、仕事、行為という三つの基本的活動を示すことにしたい。これらの活動が基本的なのは。地球上の生命が人間に与えた基礎的な諸条件にそれぞれ対応しているからである。」という文章から始まる。 私は、いきなり戸惑わされてしまった。それらについての説明がされていっても、その理由が見えてこないので引き込まれることがないまま読んでいったわけだが、「活動的生活」とは、ギリシャの哲人たちが重んじていた「観照」に対応する言葉であるという説明を読んでから、興味が湧いてきた。

以下、ギリシャ時代に明確だった公的領域と私的領域が、社会という領域の出現により霞んでしまい、私的領域だった家族のような政治的共同体が国民国家となったという第Ⅱ章のあと、「活動的生活」のなかの、「労働」、「仕事」、「行為」について述べられている。そして最後の第Ⅳ章で近代の「活動的生活」についての彼女の考えがまとめられる。彼女によれば、ガリレオの望遠鏡の発明や宇宙から地球の自然を見る新しい科学の発展等により「観照的生活」と「活動的生活」の序列が逆転したことが、近代の最も重大な精神的結果だとのこと。正直に言って、私には彼女がこのような見解を述べ、主にマルクスを批判している意図が分からない。しかし、「言論と行為によって、人間の世界に参入する第二の誕生で、われわれは、自分の顔つきや体つきをした生身の肉体をもってこの世に生まれたというありがままの事実を確認し、わが身に引き受ける」、「行為の不可逆性に対する救済策としての許し」、「行為の予測不可能性の困難を軽減する約束」、「尊敬は資質や業績からは独立しているが、近代になって尊敬は賞賛や評価から生まれると信じられるようになった」(以上一部要約)等の言説には深い共感を覚える。こうしたギャップは私の理解不足が主な原因ということは認めざるを得ない。 それにしても、アレントは読者に何を伝えたいのだろうか。『革命論』で感じた人間世界への悲観的な考え方を、より深く感じてしまうのは私だけだろうか。 この疑問への答えを『精読 アレント『人間の条件』』に求めてみたい。

書評 『革命論』 著/ハンナ・アーレント 訳/森一郎

 この本は高価(7150円)なため、いきなり購入する気になれず図書館から借りて読みだしたが、書き抜く文章が膨大(最終的にレポート用紙14枚になった)になるので結局購入した。英語版は1963年、ドイツ語版は1965年に書かれている。私は昨年発行された後者の日本語訳を読んだ訳だが、米ロ冷戦時代のこの著作が、決して過去の時代を語っているのに過ぎないどころか、現代の民主主義の限界を指摘している彼女の鋭さに驚嘆している。内容は主に独立戦争を含むアメリカ革命とフランス革命についての分析で具体的には今後にしたい。

アーレントは日本では一般的にアメリカ独立戦争としてしかとらえられていないアメリカ独立運動全体を「アメリカ革命」としている。最初は違和感があったが、読み進むうちに、イギリスという立憲君主国に支配された植民地を独立した共和制の国家としたのだから、なるほど革命なのだと思えるようになった。 また、アーレントが前半でアメリカ革命を非常に高く評価している事にも違和感があったが、独立後のアメリカ革命の停滞や、アメリカ特有の風潮の原因を指摘し、今日のアメリカの惨憺たる情況も予言しているような記述に触れ納得した。

 アーレントは、革命はそれに先行する支配体制が無法的であればあるほど、絶対主義的にふるまうことになり、絶対君主制は革命による専制独裁に引き継がれるといういわば運命を負っており、それがフランス革命の帰着で、アメリカ革命との大きな違いだという。 アメリカの場合、支配していたイギリスは絶対君主制ではなく、「制限」君主制であり、独立宣言後に問題となったのは権力をいかにして制限しうるかではなく、いかにして確立するかであったという。そして、フランスにあった貧窮という社会問題がアメリカになかった違いも挙げている。

そのような背景と、アメリカ革命の人びとが相互信頼という考え方を組織的行為の原理として革命を進めたことが「自由の創設」成功の要因として挙げられている。 これに対し、フランス革命は同じように「自由の確立」を目指したが、貧困等の社会問題があったため、目標から外れざるを得ず、貧困にあえぐ人民への「同情」により「多数者の幸福}を目指したためにそれも失敗したという。 そして、「同情」は、暴力的行動へと人民を赴かせるため、政治的には「永続的な制度」を打ち立てることができないというメルヴィルの説を紹介している。

アーレントは、フランス革命はとルソーの、アメリカ革命はモンテスキューの思想に影響されていると言う。 前者については、ルソーが「一般意思」という概念で、国家をたった一つの身体としてイメージしたことが指導者には好都合で、ロベスピエールがたえず「世論」を引き合いに出すときに考えていたことであると言う。そして、この「一般意思」は外の敵の存在を暗黙裡に前提し、それに対抗して国民が一致団結するため、ナショナリズムを産む思想となったとも言っている。

アーレントが、「政治的手段によって人間を貧困から解放しようとする試み以上に、古臭く余計なことはないように思われる。」、「革命が残虐に鎮圧された国のほうが、見た目には革命が勝利した国(中略)、よりも市民の権利自体は大事にされているのが実情」などと述べていることも、先の理論に増して重い歴史の現実なのだろう。 さて、アメリカ革命にはそのような問題はなかったが、彼女はアメリカ独立宣言の幸福の追求に公共性の理念が欠けていたために国民が私利私欲を好き放題に追求する権利があると確信する原因になったと指摘する。

そして、「理論的明晰さが欠如していたことが主たる原因の一つとなって、アメリカ革命は国際政治上、不毛にとどまった」、「そしてついに二十世紀には、アメリカほど、どんなイカサマ的思想にひっかかりやすい国はないことが明らかになった。」と手厳しい。 結局、アーレントはこれまでの革命による民主制の実現には失望しているようだ。それでは我々に明るい未来はないのだろうか。 最終盤に、代表制の問題点に触れ、ジェファソンが「初等国家群」と呼んだ小共同体、パリのコミューンのセクションや人民協会などに期待を述べている。

それは、このような革命が進行する中で存在した共同体に「われわれが思っているところの新しい革命的国家形態の微弱な萌芽以上のもの」が実現したかもしれないという期待だ。ただ、これを結論として述べたわけではない。アーレントは革命や民主主義に絶望しながら一生を終えたのだろうか。

書評 コンビニ人間 著 村田沙耶香

 読んでみたいと思いながら、芥川賞受賞から約10年後になってしまった。とても奇妙な作品というのが第一印象だ。

 最初は、コンビニで働く主人公の日常の仕事場の描写で始まる。そこから、主人公が「コンビニ店員として生まれる前」の描写に移る。ここで描かれている主人公の少女時代のエピソードは奇妙奇天烈で笑いをこらえきれなくなる。しかし、大人がおかしいと受けとった、公園で死んでいた小鳥をなぜ食べないかのという少女の疑問は合理性があるかもしれないが、そのごのエピソードについては、そうも言ってはいられない。これは実際起こりうることだろうかと考えてしまう。起きているとすれば情緒障害のような発達障害の問題になるが、この小説は、そのようには展開しない。この子はそういった行為を正そうとする大人の論理を理解できないが、父母を悲しませないために、「家の外では極力口を利かないことにして、周囲の真似をするか、誰かの指示に従うだけで、自分で判断して行動しなくなる。

 そんな少女が大学生になってから、なんとなく始めたコンビニのアルバイトは、いわば一挙手一投足に至るまでマニュアル化されているため、すぐに適合でき、役に立つ店員として、大学を卒業してもそのまま36歳に至るまで続いているというのは、この子(人)ならでは、という感想になりがちだが、考えてみると現在の社会の超現実的な描写にも思えてくる。

 周囲の空気を読み、普通を演じながら、奴隷や家畜のようになってしまっている人間の危機状態を告発しているのかもしれないというのは深読みのし過ぎだろうか。

書評 江藤淳と加藤典洋 著/與那覇 潤

  久しぶりに読み応えのある著書に巡り会った。この本については、「エアレボリューション」のユーチューブ番組(https://www.youtube.com/watch?v=einza3fpe9A)で知り、最近評論界では話題にならない表題の2人の評論家を取り上げた理由に興味がわいた。

 表題はこうだが、実際には前半には、戦後の日本を反映した太宰治、椎名鱗造、柴田翔、庄司薫、村上龍、大佛次郎、村上春樹など作品が文芸評論的に紹介され、後半に三島由紀夫をからめた江藤淳と加藤典洋の論争やそれぞれの著作について論じられている。

  なんといっても、この本のポイントはこの後半だろう。後半は、江藤の『閉ざされた言語空間』をめぐる論争を中心に、主としてアメリカの占領政策の影響、この過程で制定された憲法9条の受け止め方、改憲論について論じられる。

  中でも、江藤が発見した、GHQ作成の「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」という計画が、「(日本)国民は軍国主義者にすべての罪を負わせることを受け入れ、・・・国民の「だまされていた」、「責任はない」という実感にお墨付きを与え」たため、戦後当初は、「「憎しみ」を感じるべき相手は、日本政府や日本軍」ではなく、米国だと思っていた日本人の「順当」な考えが懐柔されてしまったという江藤の言説をめぐっての評価等が主に紹介されている。この評価の微妙なニュアンスの相違はわかりにくい。

WGIPなどという計画をたてた、実質は米国単独の占領機関であるGHQの巧妙な占領政策の許すべからざる一面が発見したことは江藤の功績であることは確かだろう。しかし、WGIPの発見を含む『閉ざされた言語空間』が発表されなくても、欺瞞的で巧妙なGHQの占領政策は周知のことで、ことさらにこれを言挙げした江藤の言説はネット右翼や「ビジネス保守」の「WGIP史観」という主張を生んでしまったとのこと。

一方で、加藤については、『敗戦後論』の「戦後後論」において、「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の哀悼、死者への謝罪に至る道は可能か」と表現したことが、加害者である日本軍兵士の追悼を、アジアの犠牲者への謝罪より優先するものとして非難の対象になった。」ことを取り上げて、「あたかも戦前の日本人と自分たちが切れているかのような態度に立って、まるで第三者がするのと同様な視点で過去の批判をしてはいけない。」と批判し、加藤を擁護している。

加藤典洋は2019年に逝去しているが、この本によると、與那覇は加藤の『太宰と井伏』の文庫版が同年に刊行される際、加藤とは面識がなかったが、この本の解説を執筆したとのこと。そのことが縁で彼が書いた加藤への追悼文が最後に掲載されている。

 そこには、加藤の『敗戦後論』の「敗戦後論」が、「「押しつけ憲法」を攻撃する改憲論の亜種」だと誤解されが、加藤は、「戦争を反省し、平和を願う言葉。それを私たちは、ほんらい自分の手でつくるべきだった。しかし、GHQ案に基づく9条の出来栄えがあまりによかったので、どの日本人作家の小説よりも強力な「戦後の再出発」を象徴する文章になったしまった。」と考えていたのだという弁護が述べられている。そして、加藤は、「「あれは他者の言葉だ」という保守派の指弾にも、「内容さえよければいい」という護憲派の居直りにも同ぜず、「他者の言葉を自己のものにする」作法にこだわりつづけた」のだと続けている。

書評 隠された奴隷制 著/植村邦彦

 

 奴隷制というと、まずアメリカ合衆国のかつての黒人奴隷制が思い浮かぶが、現代の賃金労働者も奴隷であるという論旨の著書だ。しかもこのような言説は、ルソーやマルクスも唱えていて、決して最近生まれたものではないということが、述べられている。ただ、ルソーの場合は、政治的隷属に主眼があったそうだが・・・

 そして、このアメリカでの奴隷制がイギリス(イングランド)の産業革命の資本蓄積を生み、アメリカでの黒人奴隷制度がなければヨーロッパにおける資本主義は生まれなかった、という言説が、マルクスなどを引用しながら述べられている。浅学のため、この関連については全く考慮外だった。

 論旨に戻ると、賃金労働者は制度的には自由に職業を選択し、生活の糧を得ているように思えるが、経営者に操られ、職を失わないために隷属せざるを得ないので、やはり奴隷なのだということだ。

 アダム・スミスやヘーゲルは自由な賃金労働者を賛美しただけだったが、ジョン・フランシス・ブレイやマルクスがこれを批判したことが述べられた後、20世紀後半に起きた社会主義国の自壊による冷戦の終結後に盛んになった「新自由主義的反革命」により、特に日本で、「個人の自助努力」、「自己責任」、「自己啓発」などといった「強制された自発性」により労働者の奴隷化が進み、その結果が「過労死」の激増となったという。

 私は、過労自殺のニュースに触れるたびに、なぜその人はその職場をから離脱するのでなく、自殺に至ったのかという疑問が頭から離れなかったが、納得のいく論旨だった。なるほど、彼ら、彼女らは、自分の能力が足りないせいと思い込まされていたから、不当な労働時間を拒否できなかったのだ。

最近、人間が家畜化していくという危機が少なからず叫ばれているが、これは上記のような「隠された奴隷制」による結果であるように思えてくる。

 著者は、このような状況下の賃金労働者に、熊沢誠の表現を借り、「「会社のため」ではなく、「自分の生活のため」に働くのだという確固とした意志」を持ち、定時に帰るために上司の指示を断る行動を呼びかけている。そして、「「自己責任」という呪文」の正体を見抜くべきことを呼びかけている。

書評 家族、この不条理な脚本 著/キム・ジヘ 訳/尹 怡景(ユン・イキョン)

 

この著書には、「家族神話を解体する7章」というサブタイトルが付けられていて、「家族神話」は私が取り組もうとしているテーマなので読んでみたくなった。

 家族制度について、韓国は日本と似た状況にあり実情を述べながら、ヨーロッパの家族状況にも触れていて、ファミリーの語源のラテン語・ファミリアは、妻子や奴隷を含む、「家長に属する所有物を意味」していて、現代の家族とは異なっていた、とか、ジョン・スチュアート・ミルが、「結婚こそ、イギリスの法律におけるただ一つの現実的奴隷制度」と述べていたという興味深い挿話もあった。

 韓国では、日本の植民地時代に制度化された家制度や戸主制度の影響が最近まで残っていたが、世界的な潮流になってきている同性婚などを主張する人々が増えつつあり、伝統的な家族制度が揺らいでいるとのこと。

 これと日本より深刻な少子化問題を結びつけて、同性婚を憂慮する層があるが、これについては、同性婚に寛容な国では逆に出生率が高いというデータを示し、反論している。さらに、「もしかしたら、これらの国では、人がどのように生まれたかには関係なく、平等な生活を保障するための社会づくりを進めてきたという意味ではないだろうか。」と述べているが、ここは想像ではなく、子育てを社会化している具体的な制度調査や判断が欲しかった。

この著者は、家族において、「生計の維持について責任を負う人が必要」ということは、「生物的な性としての男性の存在が必要ということではない」として、「家族神話の解体」を試みたり、いまだに「家族の失敗」をした人たちだけが社会保障の対象であることを不当としたりしているが、家族という制度は、人びとがやむを得ずに形成したに過ぎず、神話はそれを維持するために作られたものに過ぎない。だから、現在の家族に対する考え方を批判してもあまり意味がないと思う。むしろ、家族というものはそのようなものだと受け入れ、そのうえであるべき社会、性等を考えるべきだろう。

 その意味で、最後に、ヨーロッパから広がりつつある同性婚について、「家族の意味を更新すべき時代に、同性婚を求める主張によって、むしろ既存の家族制度を再び延命させるのではないかという懸念」があると述べていることには同感だ。男女間に生まれた子を、その当事者に養育を義務付けるために現代まで続いてきた婚姻制度やそれに付随した諸制度を絶対化し、同性間にも適用しろという要求は、安易な平等主義ではないだろうか。人間にはパートナーガ必要だとすれば、婚姻制度は廃止し、著者がここで述べている「民事連帯契約」や「同居」制度を採用すればいいのではないだろうか。

書評 消費される階級 著/酒井順子

 

現在の社会の風潮と変遷、矛盾などを分かりやすく、鋭く解説する随筆集だ。私たちがなんとなく感じていることを明確に分析している。

多くの古くて新しいテーマが扱われているが、この中の「反ルッキズム時代の容姿磨き」を興味深く読んだ。著者は、現在の美を追求する活動が、「昭和時代よりずっと先鋭化している」とし、かつては、「自分が他人からどう見えるか気にしている」ことは、恥ずかしいこととされていたが、ネット上に自分の姿を晒すようになったせいで、その見栄えが問われるようになったために、美しく自分を見せる行為が当然とされるようになったからだと解説する。そして、美しい容姿を追求することが、「自分を高めるための努力を怠らない人」と肯定されるようになったと言う。そのため、「外見はどうであっても、内面が美しければそれでいいのです」とは言っていられなくなったと言う。

確かに、容姿に限らず、「インスタ映え」などと、見栄えを競う風潮が当然とされるようになっている。この変化見逃さずに捉えていることは鋭い。彼女の言う通り、ネット上に自分の姿を晒すようになったことはそのきっかけかもしれない。しかし、だからといって、なぜ見栄えを気にする愚かさを感じなくなったのだろう。それでは、化粧品や美容整形を含む美容産業は儲からないので、これらの産業から巧妙に仕向けられてからではないだろうか。その辺まで分析してほしくなるが、これは随筆であり、その分析まで求めることには無理があるかもしれない。

それから、「モテなくてもいいけど、出会いたい」というテーマでは、戦前の主流だった見合い結婚が1960年代末に恋愛結婚に逆転された歴史が語られている。それは結婚相手は自分で探すことになっただけで、恋愛と言っても、「自然の出会い」を成立させるために、様々な権謀術数や手練手管が使用されていたこと、「誰かと愛し合いたい」「パートナーが欲しい」という要求が、「モテたい」ということにしかならず、晩婚化、非婚化が進んだこと、それにも無理があるためマッチングアプリが生まれ、その存在感が高まっていると述べている。これも風潮を明確に認識している文章だと思うが、社会的な背景までは突っ込んでいない。やはりそういう不満にも無理があるかもしれない。

書評 動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 著・東 浩紀

 この本は2001年11月に発行されているので、もう時代遅れかもしれない。しかし、少なくとも20世紀末までの社会の分析ではあった。

 筆者は、「オタク」文化のアニメやゲームを紹介しながら、その分析をしていくが、私はそのアニメ等はなじみがないので正直言って、その辺はよくわからない。

しかし、この本はそれでは終わっていない。筆者の分析は、日本はもちろん世界の文化のポストモダン化にまで及んでいる。彼は、‘60年代からのポストモダニズムの起源を述べてから、「日本では八〇年代半ば、若い世代の流行思想として(大学ではなく)むしろ大学の外でもてはやされ、そして時代と共に忘れ去られた。」、「むしろ重要なのは、日本で、その難解な思想がジャーナリスティックに流行してしまったという事実である。」と述べる。さらに、「おそらくその流行は、当時すでに一部の批評家が指摘していたように、八〇年代の日本社会を満たしていたナルシシズムと関係している。」という。

当時のポストモダニストは、「ポストモダン化とは、近代の後に来るものを意味する。しかし日本はそもそも十分に近代化されていない。それはいままで欠点だとされていたが、世界史の段階が近代からポストモダンへ移行しつつある現在、むしろ利点に変わりつつある。十分に近代化されていないこの国は、逆に最も容易にポストモダン化されうるからだ。(中略)そのようにして二十一世紀の日本は、高い科学技術と爛熟した消費社会を享受する最先端の国家へと変貌を遂げるだろう。」というような主張を好んだという。

これについて著者は、「この単純な図式は、歴史的には、戦前の京都学派が唱えた「近代の超克」の反復だと言える。だが同時に、その発想はやはり当時の経済環境を色濃く反映している。八〇年代半ばの日本は・・・アメリカと対照的に、いつのまにか世界経済の頂点に立ち、バブルに至る短い繁栄期の入り口にさしかかっていた。」と分析し、批判する。おおむね妥当な言説だとは思うが、その頃の「ナルシシズム」な風潮に乗った軽薄極まりない論理は「近代の超克」とは較べられないのではないだろうか。

著者は、「近代は大きな物語で支配された時代」で、ポストモダンは、その「大きな物語」が機能不全となり、社会全体のまとまりが弱体化した時代であり、日本では七〇年代にそれが加速し、「オタク」が出現したのは、その空白を埋め合わせるためだという。

この後、著者はコジェーヴの、「ヘーゲル的な歴史が終わった後には」、アメリカ的な生活様式の追求=

「動物への回帰」か、日本的な「スノビズム」(=ジジェクの「シニニズム」)しか残されていないという言説を紹介する。前者は、戦後のアメリカは動物が食物さえあればいいように、「ニーズ」が満たされることしかない消費社会に過ぎないという意味だろう。資本主義に踊らされている度合いが強いほどこうなることは必然なのだろう。

一方「スノビズム」についてコジェーヴは例として「切腹」を挙げ、ジジェクは「シニニズム」の例として「スターリニズム」を挙げているそうだ。ジジェクは、『イデオロギーの崇高な対象』のなかで、「私たちはみな、舞台裏では荒々しい党派闘争が続いていることを知っている。にもかかわらず、党の統一という見かけは、どんな代償を払ってでも保たれなければならない。本当はだれも支配的なイデオロギーなど信じていない。・・・」とそれを分析しているとのことだ。言ってみれば、「たてまえ」しか認められていない状態のようだ。

著者は、ポストモダンは七〇年代以降の文化世界を指しているが、ポストモダン化の始まりは、第一次世界大戦が終わった二〇年代、三〇年代であり、冷戦が崩壊し、「共産主義という最後の大きな物語の亡霊さえなくなった八九年」にかけてゆるやかに行われたと捉えている。だから、二〇世紀とは「中途半端にポストモダンだった時代だった」という。その時代の人びとは、「大きな物語」と「小さな物語」を繋げるためにスノビズムが必要だったが、その後のポストモダンの人びとは、それらを繋げることなく、バラバラに共存させていて、「わかりやすく言えば、ある作品(小さな物語)に深く感情的に動かされたとしても、それを世界観(大きな物語)に結びつけないで生きていく、そういう術を学ぶのである。筆者は以下、そのような切断のかたちを精神医学の言葉を借りて「乖離的」と呼びたいと思う。」と述べているが、これは現在の世界の風潮を極めて鋭く的確に表していると感心した。

近代哲学や思想の根幹である、「動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要としている」という区別、「間主体的な構造」が消え、「動物的」だとコジェーヴが言ったアメリカ社会の論理は、いまや全世界を覆いつくしていると、著者は述べたが、最後の章は、「この章では、原理的な考察はもうやめて、ポストモダンとは表層的にはどのような世界で、そこで流通する作品はどのような美学で作られるのか」の思いつきの記述に入ってしまった。これはいただけない。上記のような危機的な状況になった原因を解析し、どのように脱するかまではいかなくても、対処の心構えぐらいは記してほしかったと思う。