信彦自戒録 8 自分の非を認めたくない気持ちに囚われて悩んでいると思ったら

タイトルに、「自分の非を認めたくない気持ちに囚われて悩んでいると思ったら」、と書いたが、実はそこに至るまでが大変で、そこに至れば悩みは半分解決反省している。自分が「まずい」と思うようなことをしたとき、反射的にする行為は、「そんなことはしていない」と思うようにすることだろう。そうすることが難しいとしたら、「なかったことにすればいい」、「自分が忘れればいい」という心理操作をするようになる。

しかし、「まずい」と思った行為が重い行為であればあるほど、自分の良心は忘れてくれないので悩んでしまうことになる。

自分自身のことで悩んでいるとき、そのようなジレンマに陥っていないかどうかを素直に見つめることができれば解決の道が開ける。そうすれば、「まずかった」と思う理由が見つかり、それを反省する気持ちになれる。反省し、そのようなことをしないようにしようと決意すれば、ジレンマから解放される。

その際、障害となるのが、自分が非違行為をする人間だと決めつけられてしまうことを避けたいという気持ちだ。このような気持ちは成長すればするほど強くなるが、これは人間認識の基本的な間違いである。人間は正しい人間と間違った人間に分けられるなどということはない。人間という存在は弱い存在で、誰しも間違ったことをする可能性はあり、尊敬されているような人物でも、そのようなことを絶対にしないように自分をコントロールすることは困難なのだ。個々の人間に当否があるのではなく、個々の行為に当否があるのだ。他者に悪い人間と決めつけられることを恐れるのは、そのような認識がなく、自分自身が非違行為をした人を軽蔑してもいい人と決めつけているから、その反対にそう思われたくないのだ。そういう自分の考え方から離れればいいのだ。

このことを理解していれば素直に反省でき、悩みから解放され、こんなことなら逃げずに早く自分の非を認めればよかったと思うようになる。 

要は子供のときのように、悪いことをしたと思ったら、素直に反省し、必要なら謝ればいいわけだが、謝る頻度が減るほど成長しているような気になってしまい、自分の非を認められなくなっている大人は多い。素直になることは大人になるほど難しくなる。


信彦自戒録7 自己嫌悪とは?

 

岸田秀は『ものぐさ精神分析』において、「「自己嫌悪とは、つまり、「架空の自分」が「現実の自分」を嫌悪している状態である。」、「自己嫌悪は、その社会的承認と自尊心が「架空の自分」にもとづいている者にのみ起こる現象である。」と述べている。

私は、自己嫌悪とは、自分が行った嫌悪する行為を客観化できない結果、そのような行為を繰り返してしまい悩んでいる人が、その自分を嫌うことにより、本当の自分(これが岸田の言う「架空の自分」か)は、その自分とは違っていると思おうとする心理だと思っている。

これは自己嫌悪に限らない心理で、肉親や他人を嫌悪する場合にも言えることだ。近親憎悪はその典型だ。自分と似ていると感じることを否定するために「嫌う」のだ。嫌悪することにより、その他者と自分は違うと思おうとするのだ。自己嫌悪する人は似ている他者をも「嫌う」。

岸田の言は、そのような心理に陥る人が「架空の自分」にもとづいているということなのだろうか?

出自を知る権利は必須か?

 


  

  最近、第三者から精子提供された人工授精が非公表で行われていたことをめぐる報道があり、これに関して、識者から、「出自を知る権利」が守られるべきだという論調ばかりが述べられているが、果たして、出自を知っていることに、どんな意味があるのだろうか。

  出自を知っている人間にそんなことを言う権利はないと言われそうだが、それでは、それを絶対に知ることができない子は本当に可哀そうな子なのだろうか。不幸を背負って一生を過ごさなければならないのだろうか。そんなことはないはずだし、そうであってはならないのではないだろうか。もし、そうであれば、自分の子ではないという親の告白はその子を不幸にすることであり、その告白は許されないことになる。匿名出産も許されないことになり、子殺しや母子心中にさえ波及する。

出自を知らなくても、この世に生まれた同じ人間という意味では何の引け目を感じる必要はないはずだ。出自を知らないために苦しんでいる人にはそう言ってやればいいのではないだろうか。そもそも、出自とは、これまでの社会が、子を産んだ男女が家族を形成し養育することを標準としてきたために、たまたま明らかだった事実に過ぎないのではないだろうか。出自が明らなことが尊いということも神話に過ぎないのではないだろうか。

信彦自戒録6

 とっさに出た行為こそ自分だ

 不意にしてしまった行為に、「あれは本心ではない」とか「ついやってしまったことで自分らしくない行為だった」などと言い訳をすることがよく見られる。

 政治家の失言報道などでよく見聞きする現象だ。この場合は「つい報道されることに不注意に本音を言ってしまった」という失敗を反省しているだけで、その行為について反省をしていないことがほとんどだ。

 それとは別に、上記のようなことをしてしまう自己を本気で反省している場合もあるかもしれない。しかし反省していてもその行為をしないとは限らない。その行為を悔いているのだから、もうしないはずだと思っても、その行為をした時の自分の心理的な癖を冷静に振り返ることから逃げていると、いくら悔いていても繰り返すことになる。その行為を反射的にしてしまう癖が自分にあるのだということを受け入れ、そのうえでどういう行為をとるべきだったのかを具体的にきちんと考え、その実践を繰り返すことにこそ、自分を変える糸口がある。

このブログを始めた理由

 私がこのブログを始めたのは、この世界があまりにも理不尽な状況になりつつあると感じたからです。

 私は、人間は他者を自己と同じ存在であると感じられるからこそ人間なのだと思っています。人間が動物と異なるといえるのは、そのことにこそあるのだと思います。

 言葉を持ち、知能を持ち、自然をコントロールするだけだったら「高等な生物」であるにすぎません。現在の人間世界はこのようなものでしかありません。

 利己的でないと生きにくく、殺人、窃盗などの行為こそ近代国家内では規制されているものの、国家間はいまだに無法状態に近いのではないでしょうか。国連などの国際組織は大国の妥協の産物でしかないため、大国間の利害が一致しないと機能しません。諸国民がナショナリズムに無自覚である現状は目を覆いたくなります。

 スポーツ、芸術、文学、学問という人間が生み出した人間らしい分野もでさえ、ナショナリズム、商業主義、名誉欲、偽善が幅を利かせ、文化、文明は魅力を失ってきています。

 地球環境の危機がせまり、 AIはより資本に寄与するようになり、労働者は働く場を失い貧富の差がさらに広がることは目に見えています。

 地球上の全生物まで巻き込んだ危機が迫っているのに、「これではいけない」という声が常にかき消されてしまう現在の世界には絶望しそうになります。人間は「ソドムとゴモラ」で語られたような懲らしめを受けないと反省をしないのだと思いたくなりますが、その時ではもう遅いのかもしれません。

 わたしはそのようなことになる前に、少しでも早く人間がこのような状況を反省し、本当に人間らしい世界を創る方向に向かうことを願ってこのブログをはじめました。

 まず、最初に述べた、「人間は他者を自己と同じ存在であると感じられるからこそ人間なのだ」ということを確認することから始めたいと思っています。

 多くの人は、映画、小説などで人間の心のつながりに涙したり、感動したりすることでしょう。人間には他者と喜びや悲しみを共感すること、困っている他人を思いやることができます。そのことは日本でも「情けは人のためならず」、「人のふり見て我がふりなおせ」、「明日は我が身」、「他人事ではない」等と昔から格言として言い伝えられていました。このような格言は、他者も同じ人間だという認識があるから生まれた言葉だと思います。

 しかし、現実には上記のような格言やモラルを守っているようなふりをしながら、他者を利用して得をしようとする人が蔓延っていて、そうされまいという警戒をしていないと、だまされたり、損害を被ったりしてしまいます。そのような場合、それが違法行為でない限りはどうにもなりません。さらに騙された人たちは「お人好し」と馬鹿にされるような社会に私たちは生きています。美しい物語に感動しても、ほとんどの人は、あれは「創作だから」として、一時の感傷を味わえればそれで満足し、また現実の生活に戻ってしまいます。差別的な言動をする人を描いたドラマを見て、その登場人物を非難しても、自分が当事者になると登場人物と同じことをする人がほとんどかもしれません。

 ここでモラルの向上を訴えることは、この社会のゆがんだ構造等を隠蔽することになりかねません。そして、モラルを守らない、大切にしない人を非難しても不毛な結果しか期待できません。

 なぜこうなるのでしょう。なぜ、人間として生きるということが、他者と自分を同じように扱うことだということを認識できないのでしょう。これでは人間世界は人間らしい世界にはなりません。

 主な原因は、多くの人が競争社会を受け入れざるを得ず、貧乏くじを引かないように損得にこだわり、人よりいい生活を得ることにばかり心を奪われ、成功者はその立場が失われることを恐れ、負け組になりつつある人たちは成功者に憧れることにより現実から逃れようと、ほとんどの人がかなえられない幻想にしがみついています。

 そして、そのどちらの立場の親たちも、自分の子どもを成功者にするため、当然のように学業の成績競争を強いています。何の疑問もなくそれを受け入れた子供たちは、挫折しなければ、自分たちもそのような大人、親になることは必然です。ですから、これは永続する風潮になることでしょう。

 競争が生活に直結するような社会はこのような社会になってしまうのです。この社会構造が変わっても、上記のようなエゴや猜疑心が消えるわけではありませんが、そのような人間の弱さをむき出しにさせるのが競争社会なのだと思います。ですから、社会構造を分析しながら、現在の私たちの現実生活上の心理や行動を振り返って客観化し、人間という存在を皆さんと共に考えていきたいと思っています。

 疑問に感じる記述の指摘、反論等をお寄せください。気軽に互いに認識を高め合う議論をしましょう。

 


ロシアのウクライナ侵略問題 7

 私はこのブログにおいて、最初からこの戦争は即時停戦するべきと述べてきた。

しかし、ゼレンスキー大統領は兵士や国民の命よりもウクライナという国のナショナリズムを重んじ、欧米よりの国家像を盾に、欧米や日本の国会に、自国を援助することこそ正義であるように働きかけてきた。

米国を代表とするそれらの国は、ゼレンスキー大統領の主張に乗せられ、代理戦争をやらせ続けた。しかし、私が当初から予測した通り、いくら支援してもウクライナが目指す勝利には程遠い戦局が続いていた。

今日(2024年1月29日)、やっと米国はこれまでのウクライナの領土を奪還することは困難であるという認識を表明し、新たな侵攻を抑止する支援する方針に変更することにしたという報道がされている。

これをウクライナが受け入れるだろうか。これまでのゼレンスキー大統領の言動からはかなり困難が予想できる。戦局が不利であることを認めさせることさえ難しそうだ。

そもそも、起きてしまった戦争を停戦させるには、戦力が拮抗している状況下でなければ当事国間で妥協することは難しい。当事国間の戦力、国力等について冷静に分析し、友好国が長期的には不利である場合は、早期に停戦させるようにするべきなのだ。

不利な状況になってから停戦をしようとした場合、有利な側に足元を見られ、屈辱的な協定にならざるを得ないことは明らかだ。だから、ここまで来てからこのような方針転換をしようとする米国政府の態度はお粗末というしかない。大統領選挙対策も絡んでいるような見方もあり、情けなくなってくる。そして、そんなアメリカに追随しているばかりの日本はもっと情けない。

いずれにしても、この戦争の結末はウクライナという国にとって無残なことになりそうだが、人命がなにより大事なので、ゼレンスキー大統領を失脚させることになったとしても、停戦になることを祈るばかりだ。