最近、第三者から精子提供された人工授精が非公表で行われていたことをめぐる報道があり、これに関して、識者から、「出自を知る権利」が守られるべきだという論調ばかりが述べられているが、果たして、出自を知っていることに、どんな意味があるのだろうか。
出自を知っている人間にそんなことを言う権利はないと言われそうだが、それでは、それを絶対に知ることができない子は本当に可哀そうな子なのだろうか。不幸を背負って一生を過ごさなければならないのだろうか。そんなことはないはずだし、そうであってはならないのではないだろうか。もし、そうであれば、自分の子ではないという親の告白はその子を不幸にすることであり、その告白は許されないことになる。匿名出産も許されないことになり、子殺しや母子心中にさえ波及する。
出自を知らなくても、この世に生まれた同じ人間という意味では何の引け目を感じる必要はないはずだ。出自を知らないために苦しんでいる人にはそう言ってやればいいのではないだろうか。そもそも、出自とは、これまでの社会が、子を産んだ男女が家族を形成し養育することを標準としてきたために、たまたま明らかだった事実に過ぎないのではないだろうか。出自が明らなことが尊いということも神話に過ぎないのではないだろうか。