書評 消費される階級 著/酒井順子

 

現在の社会の風潮と変遷、矛盾などを分かりやすく、鋭く解説する随筆集だ。私たちがなんとなく感じていることを明確に分析している。

多くの古くて新しいテーマが扱われているが、この中の「反ルッキズム時代の容姿磨き」を興味深く読んだ。著者は、現在の美を追求する活動が、「昭和時代よりずっと先鋭化している」とし、かつては、「自分が他人からどう見えるか気にしている」ことは、恥ずかしいこととされていたが、ネット上に自分の姿を晒すようになったせいで、その見栄えが問われるようになったために、美しく自分を見せる行為が当然とされるようになったからだと解説する。そして、美しい容姿を追求することが、「自分を高めるための努力を怠らない人」と肯定されるようになったと言う。そのため、「外見はどうであっても、内面が美しければそれでいいのです」とは言っていられなくなったと言う。

確かに、容姿に限らず、「インスタ映え」などと、見栄えを競う風潮が当然とされるようになっている。この変化見逃さずに捉えていることは鋭い。彼女の言う通り、ネット上に自分の姿を晒すようになったことはそのきっかけかもしれない。しかし、だからといって、なぜ見栄えを気にする愚かさを感じなくなったのだろう。それでは、化粧品や美容整形を含む美容産業は儲からないので、これらの産業から巧妙に仕向けられてからではないだろうか。その辺まで分析してほしくなるが、これは随筆であり、その分析まで求めることには無理があるかもしれない。

それから、「モテなくてもいいけど、出会いたい」というテーマでは、戦前の主流だった見合い結婚が1960年代末に恋愛結婚に逆転された歴史が語られている。それは結婚相手は自分で探すことになっただけで、恋愛と言っても、「自然の出会い」を成立させるために、様々な権謀術数や手練手管が使用されていたこと、「誰かと愛し合いたい」「パートナーが欲しい」という要求が、「モテたい」ということにしかならず、晩婚化、非婚化が進んだこと、それにも無理があるためマッチングアプリが生まれ、その存在感が高まっていると述べている。これも風潮を明確に認識している文章だと思うが、社会的な背景までは突っ込んでいない。やはりそういう不満にも無理があるかもしれない。

書評 西洋化の限界 著/ジョン・T・ダヴィダン 中嶋啓雄/監訳

 

註等を含めると400頁を超える大作で、魅惑的な表題の著書だが、得るところがほとんどなかった。

サブタイトルが、「アメリカと東アジアの知識人が近代性を創造する」、第二章のテーマが「一八九〇年代から一九一〇年代にかけてのアメリカ的思想における近代性の発展」とされていることに、違和感があったが、読み進めるうちに、この著者は日本や中国の思想家たちを表面的にしか捉えられないこと、プラグマティズムを礼賛している軽薄な学者であることが明確になっていった。

この著者は、一九世紀後半から始まった西欧近代思想への批判についての認識がなく、そこから派生したプラグマティズムに疑問を持たずに、日本や中国の知識人の思想を分析してこの論文を著している。だからそれらのあらさがしをすることにしかならない。そもそも知識人は社会のなかで特定の階層に属しているので、その思想分析をしただけでは、それぞれの国の文化や社会の構造は見えてこないのに、その主張さえ理解しようとしないのだから、アメリカ人から見た東アジアの知識人の主張の劣等性を指摘する言説に終始してしまうのだ。

彼は、第一次世界大戦の結果、「西洋の帝国は縮小し、アメリカを除く西洋は経済的に弱体化した。」、「ヨーロッパと太平洋における圧倒的な勝利は、アメリカ人たちが西洋化された近代性に大きな夢を持つことを可能にしたのである。」という文章が挿入されているが、ここには彼がアメリカの国勢と思想の優位性を混同していることが明確に表れている。

彼は、「中国は西洋化に失敗した。」と切り捨て、これに比して日本の西洋化を認めている。ここには日本人の欧米コンプレックスが大きく影響していることに無頓着で、中国人にはその影響がなかった原因等についての考察がないことは、このテーマを取り上げた言説においては致命的な欠陥だ。

結局、この著者は欧米人にわかりやすい福澤諭吉や丸山眞男はある程度評価しているが、竹内好や魯迅たちの思想を理解できずに済ましていた。まして、日本の思想家の転向などの問題には到底行きつかない。

「西洋化の取り組みは、帝国主義の古いイデオロギーや、西洋文明の優位性とされていたものとの関連性から、強力な反対に遭遇した。」と述べながら、その反省をしているわけでもなく、西谷啓治らの京都学派の学者が「近代」と「西洋化」を混同しているとしながら、それぞれの定義をしていないため、この著書において自らがそれらを混同しているなど、論理が極めてお粗末だ。

結びにおいて、「西洋化の限界」とはアメリカ人が想定したよりも彼ら(東アジアの思想家)は多様で、自らの伝統に関心があり、西洋を模倣することに関心が低かったと、思い違いを反省しているかと思うと、ロストウらの理論が「合衆国に後れをとっている非西洋諸国についての完全な説明とそれらの国々が追いつくことができる方法の処方箋として開花した」と述べ、それが短い間でしかの究極の理論だったという理由を検討しないで、「実際には諸国家をアメリカ式の近代性に迅速に変換することができなかった」と淡々と語るなど、この著者は読者に伝えようとしていることがあるとは思えない。「近代性の解放主義的傾向は、学者や一般の人々の間で劇的に拡大した。」、人間は未だ解放と合理的な問題解決の能力があり、この事実を受け入れるならば、私たちは近代性を救うことができる。」という言説は虚しく付け足しされている。