註等を含めると400頁を超える大作で、魅惑的な表題の著書だが、得るところがほとんどなかった。
サブタイトルが、「アメリカと東アジアの知識人が近代性を創造する」、第二章のテーマが「一八九〇年代から一九一〇年代にかけてのアメリカ的思想における近代性の発展」とされていることに、違和感があったが、読み進めるうちに、この著者は日本や中国の思想家たちを表面的にしか捉えられないこと、プラグマティズムを礼賛している軽薄な学者であることが明確になっていった。
この著者は、一九世紀後半から始まった西欧近代思想への批判についての認識がなく、そこから派生したプラグマティズムに疑問を持たずに、日本や中国の知識人の思想を分析してこの論文を著している。だからそれらのあらさがしをすることにしかならない。そもそも知識人は社会のなかで特定の階層に属しているので、その思想分析をしただけでは、それぞれの国の文化や社会の構造は見えてこないのに、その主張さえ理解しようとしないのだから、アメリカ人から見た東アジアの知識人の主張の劣等性を指摘する言説に終始してしまうのだ。
彼は、第一次世界大戦の結果、「西洋の帝国は縮小し、アメリカを除く西洋は経済的に弱体化した。」、「ヨーロッパと太平洋における圧倒的な勝利は、アメリカ人たちが西洋化された近代性に大きな夢を持つことを可能にしたのである。」という文章が挿入されているが、ここには彼がアメリカの国勢と思想の優位性を混同していることが明確に表れている。
彼は、「中国は西洋化に失敗した。」と切り捨て、これに比して日本の西洋化を認めている。ここには日本人の欧米コンプレックスが大きく影響していることに無頓着で、中国人にはその影響がなかった原因等についての考察がないことは、このテーマを取り上げた言説においては致命的な欠陥だ。
結局、この著者は欧米人にわかりやすい福澤諭吉や丸山眞男はある程度評価しているが、竹内好や魯迅たちの思想を理解できずに済ましていた。まして、日本の思想家の転向などの問題には到底行きつかない。
「西洋化の取り組みは、帝国主義の古いイデオロギーや、西洋文明の優位性とされていたものとの関連性から、強力な反対に遭遇した。」と述べながら、その反省をしているわけでもなく、西谷啓治らの京都学派の学者が「近代」と「西洋化」を混同しているとしながら、それぞれの定義をしていないため、この著書において自らがそれらを混同しているなど、論理が極めてお粗末だ。
結びにおいて、「西洋化の限界」とはアメリカ人が想定したよりも彼ら(東アジアの思想家)は多様で、自らの伝統に関心があり、西洋を模倣することに関心が低かったと、思い違いを反省しているかと思うと、ロストウらの理論が「合衆国に後れをとっている非西洋諸国についての完全な説明とそれらの国々が追いつくことができる方法の処方箋として開花した」と述べ、それが短い間でしかの究極の理論だったという理由を検討しないで、「実際には諸国家をアメリカ式の近代性に迅速に変換することができなかった」と淡々と語るなど、この著者は読者に伝えようとしていることがあるとは思えない。「近代性の解放主義的傾向は、学者や一般の人々の間で劇的に拡大した。」、人間は未だ解放と合理的な問題解決の能力があり、この事実を受け入れるならば、私たちは近代性を救うことができる。」という言説は虚しく付け足しされている。