最近、ロシアが愛国教育を強化し、国旗掲揚や国歌斉唱を学校に義務付けたというニュースが流れていた。日本の戦前教育を思わせる政策で、戦後は植民地の独立運動以外にそのような動きはあまり聞こえていなかったので、私は当初、このような動きはアナクロニズムだと感じたが、ロシアの歴史やナショナリズムについて考え合わせると、今回のウクライナ侵略の問題の原因も見えたように思われてきた。
歴史的にはロシアは帝政の時代から社会主義革命によって、国際主義的な国家(体制)のソビエト社会主義共和国連邦の一国になった。そのため多くのヨーロッパ諸国が、専制的な君主制国家を国民主体の近代国家に変革し、均一の文化や民族などの一体感を味わうナショナリズムを謳歌したのに対し、ロシアはそのような段階を経ていない。
ロシアの帝政時代の状況については、ベネディクト・アンダーソン「定本 想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行」に詳しく述べられている。
(P148)「一八世紀のサンクトペテルブルグの宮廷語はフランス語であり。一方の地方貴族の多くはドイツ語を使っていた。ナポレオンの侵略の後セルゲイ・ウバーロフ伯は一八三二年の公式報告書の中で、王国が専制、正教、ナツォナルノスト(ナショナリティ、国民性)の三原則を基礎とすべきことを提案した。これら三原則のうち、最初の二原則むかしからのものであったのに対し、第三の原則はきわめて新しく(中略)そして「国民」の半分がまだ農奴で、また半分以上がロシア語以外言語を母語としていた時代には少々時期尚早であった。」
(同P149)アレクサンドル三世の治世(1881~94)になってはじめてロシア化は王朝の公の政策となったが、それは帝国領内においてウクライナ、フィン(筆者注・フィンランド)、ラトヴィアその他のナショナリズムが出現したずっと後のことだった。
(同P149)1887年、ロシア語が、バルト海地方すべての国立学校において最低学年から授業の言語として義務付けられ、やがてそれは私立学校へも適用された。
またロシア革命について同書は、
(同P149)そしてシートンワトソンは、以下のようなことまで主張する。つまり1905年の革命は、「労働者、農民、急進的知識人の専制に対する革命であったばかりでなく、非ロシア人のロシア化に対する革命でもあった。二つの反乱はもちろん関連していた。実際、社会革命は、ポーランド人労働者、ラトヴィア農民、グルジア農民を主役として、非ロシア地域で最も激烈であった。」
つまり、ロシアでは帝政時代末期に「上からの」ロシア化の政策を始めたようだが、帝政下であったためにロシアナショナリズムは国民的なレベルには至らなかったのではないだろうか。
これは仮説だが、私はナショナリズムとは、エゴイズムの共同化でしかないにもかかわらず、国家としての一体感を味わったことが、良い結果(大英帝国の繁栄、日本の近代化、植民地だった国家の独立等)であれ悪い結果(日本やドイツの第2次世界大戦の敗戦等)であれ、その国民がアイデンティティを確立するために一度は経験しなければならない、言わば必要悪または通過儀礼のようなものだと思っている。
現在のロシアという国家は前世紀末に突然生まれたばかりの国で、上記のような事情により近代国家としてのナショナリズムを経験していないため、かつて兄弟のような関係だった国で反露的なナショナリズムが起きていることに対して、なされるままにされている誇りのない自国にプーチン一派は我慢ができなかったのではないだろうか。特に今回のウクライナ侵略に際しこのことを痛感したのだろう。そのため改めて「近代国民国家」として「上からの」ナショナリズムの提唱を始めたのだろう。これが、プーチン一派だけでなく、今後、ロシア国民にどれだけ支持され、「下からも」ナショナリズム運動が起き、国民一般の感覚になるかどうかが今後の大きな問題となると思われる。アイデンティティーを確立できない不満がどれだけロシア国民に共有されているかということにかかっているのだろう。