この本は2001年11月に発行されているので、もう時代遅れかもしれない。しかし、少なくとも20世紀末までの社会の分析ではあった。
筆者は、「オタク」文化のアニメやゲームを紹介しながら、その分析をしていくが、私はそのアニメ等はなじみがないので正直言って、その辺はよくわからない。
しかし、この本はそれでは終わっていない。筆者の分析は、日本はもちろん世界の文化のポストモダン化にまで及んでいる。彼は、‘60年代からのポストモダニズムの起源を述べてから、「日本では八〇年代半ば、若い世代の流行思想として(大学ではなく)むしろ大学の外でもてはやされ、そして時代と共に忘れ去られた。」、「むしろ重要なのは、日本で、その難解な思想がジャーナリスティックに流行してしまったという事実である。」と述べる。さらに、「おそらくその流行は、当時すでに一部の批評家が指摘していたように、八〇年代の日本社会を満たしていたナルシシズムと関係している。」という。
当時のポストモダニストは、「ポストモダン化とは、近代の後に来るものを意味する。しかし日本はそもそも十分に近代化されていない。それはいままで欠点だとされていたが、世界史の段階が近代からポストモダンへ移行しつつある現在、むしろ利点に変わりつつある。十分に近代化されていないこの国は、逆に最も容易にポストモダン化されうるからだ。(中略)そのようにして二十一世紀の日本は、高い科学技術と爛熟した消費社会を享受する最先端の国家へと変貌を遂げるだろう。」というような主張を好んだという。
これについて著者は、「この単純な図式は、歴史的には、戦前の京都学派が唱えた「近代の超克」の反復だと言える。だが同時に、その発想はやはり当時の経済環境を色濃く反映している。八〇年代半ばの日本は・・・アメリカと対照的に、いつのまにか世界経済の頂点に立ち、バブルに至る短い繁栄期の入り口にさしかかっていた。」と分析し、批判する。おおむね妥当な言説だとは思うが、その頃の「ナルシシズム」な風潮に乗った軽薄極まりない論理は「近代の超克」とは較べられないのではないだろうか。
著者は、「近代は大きな物語で支配された時代」で、ポストモダンは、その「大きな物語」が機能不全となり、社会全体のまとまりが弱体化した時代であり、日本では七〇年代にそれが加速し、「オタク」が出現したのは、その空白を埋め合わせるためだという。
この後、著者はコジェーヴの、「ヘーゲル的な歴史が終わった後には」、アメリカ的な生活様式の追求=
「動物への回帰」か、日本的な「スノビズム」(=ジジェクの「シニニズム」)しか残されていないという言説を紹介する。前者は、戦後のアメリカは動物が食物さえあればいいように、「ニーズ」が満たされることしかない消費社会に過ぎないという意味だろう。資本主義に踊らされている度合いが強いほどこうなることは必然なのだろう。
一方「スノビズム」についてコジェーヴは例として「切腹」を挙げ、ジジェクは「シニニズム」の例として「スターリニズム」を挙げているそうだ。ジジェクは、『イデオロギーの崇高な対象』のなかで、「私たちはみな、舞台裏では荒々しい党派闘争が続いていることを知っている。にもかかわらず、党の統一という見かけは、どんな代償を払ってでも保たれなければならない。本当はだれも支配的なイデオロギーなど信じていない。・・・」とそれを分析しているとのことだ。言ってみれば、「たてまえ」しか認められていない状態のようだ。
著者は、ポストモダンは七〇年代以降の文化世界を指しているが、ポストモダン化の始まりは、第一次世界大戦が終わった二〇年代、三〇年代であり、冷戦が崩壊し、「共産主義という最後の大きな物語の亡霊さえなくなった八九年」にかけてゆるやかに行われたと捉えている。だから、二〇世紀とは「中途半端にポストモダンだった時代だった」という。その時代の人びとは、「大きな物語」と「小さな物語」を繋げるためにスノビズムが必要だったが、その後のポストモダンの人びとは、それらを繋げることなく、バラバラに共存させていて、「わかりやすく言えば、ある作品(小さな物語)に深く感情的に動かされたとしても、それを世界観(大きな物語)に結びつけないで生きていく、そういう術を学ぶのである。筆者は以下、そのような切断のかたちを精神医学の言葉を借りて「乖離的」と呼びたいと思う。」と述べているが、これは現在の世界の風潮を極めて鋭く的確に表していると感心した。
近代哲学や思想の根幹である、「動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要としている」という区別、「間主体的な構造」が消え、「動物的」だとコジェーヴが言ったアメリカ社会の論理は、いまや全世界を覆いつくしていると、著者は述べたが、最後の章は、「この章では、原理的な考察はもうやめて、ポストモダンとは表層的にはどのような世界で、そこで流通する作品はどのような美学で作られるのか」の思いつきの記述に入ってしまった。これはいただけない。上記のような危機的な状況になった原因を解析し、どのように脱するかまではいかなくても、対処の心構えぐらいは記してほしかったと思う。