この本は2007年に発行され、その頃読んでいるが、この著者の『アメリカ・イン・ジャパン』を読んでから再読した。
その著書と重なる部分はかなりあるが、この本は、2001年の「9.11」以降に高まった反米思潮の描写から始まっている。このため世界中ではアメリカの好感度が大きく下がったのに較べ、日本においてはあまり下がらなかったという。この特異な日本の親米意識は、戦勝国にも関わらず、日本の復興を暖かく支援してくれたからだけではないと、アメリカとの交流が始まった開国以来の歴史を述べながら探っている。
強引な開国要求にも関わらず、「自由の国」アメリカというイメージはこのころから植えつけられ、内村鑑三のアメリカへの幻滅にもかかわらず、明治期をとおして、福澤諭吉などから広められていたという。
そして、大正期までには、浅草オペラなど、「より通俗的で感覚的な大衆文化にも影響を及ぼし始めてい」て、「今や「アメリカ的でない日本がどこにあるか」」とある評論家が述べていたほどであったそうだ。
しかし、「第一次世界大戦後の日本におけるアメリカニズムは、すでに裏返しのナショナリズム、つまり西洋的なまなざしを内面化した「日本回帰」を内包していた。」という。
大正デモクラシーにもつながったアメリカニズムは、ウィルソン大統領の国際主義提唱を境に、吉野作造などの支持派と保守層の懐疑派に別れ、欧米の人種差別的な黄禍論などから反米意識も芽生えてきたとのこと。
この反米意識は日米関係が険悪化する1930年代に高まり、「鬼畜米英」を唱えるものの、「アメリカに対する日本人の関心の高さは、・・・姿を変えながら持続していたように見え」、「強く意識し、時にはアメリカを無意識に欲望し続けたようにすら見えるのである。」と述べる。
戦後の日本については、このような日本人の心理が、アメリカの巧妙な占領政策の狙い通りに操られてきた描写がなされていく。この辺は前著書と重なる部分が多いが、著者は、「戦後、天皇制を信奉するナショナリストが「反米」を主張しようとすると、論理的には「天皇」を信奉しつつも、「天皇」を非難するという自己矛盾に直面せざるを得なかった。」と、日本のナショナリズムの特殊性を指摘している。
戦後の「反米」は反安保闘争に表現されたが、ここには民族ナショナリズムが見られ、ベトナム反戦運動にはそこからの決別があったというが、「「アメリカと日本は、お互いに、戦争犯罪を隠すために協力」してきたのであり、・・・自己の加害性についての真摯な自覚がない」と鶴見俊輔の言説を引きながら、日本人がナショナリズムから自由になれない理由を述べている。
現在の日本人には、「内なる他者としての「アメリカ」の二つの次元が存在するという。一つは軍事基地として見える形で、もう一つは「見えざるまなざしとしての「アメリカ」」だと。後者は上記の「裏返しのナショナリズム」と同じことを指しているのだろう。それは天皇を焦点に位置づけた、日本独特の視覚を完成させ、「三種の神器」に象徴される「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」が日常生活に取り込まれながら形成され、「消費社会型のアメリカニズム=ナショナリズムが確立」したことにより、1970年代以降は、「「親米」と「反米」という対抗自体が、人びとの意識に浮上しなくなる。」という。
さらに、江藤淳の「この空気のように偏在するアメリカから逃れることはできない」という認識を引きながら、「この時点までに日本社会は、「アメリカ」を自己に取り込み、同時に「日本」自身を他者化」するという、いわばアイデンティティ喪失(錯誤)の状態に日本人が陥っていることを指摘し、「イラク戦争の失敗」後、衰退するアメリカを見据え、アジアにおいて進んでいる、「日米の「抱擁」が隠蔽してきた諸問題を受け止め、「「親米」と「反米」という二項対立を内破して問い直し、アジアとの、歴史との、そして多様な複数的な自己との、真に反省的な再会を果たしていく必要がある」という結びに大いに同感する。