この本はこのようなタイトルだが、哲学者の池田と生物学者の福岡の対談が主に掲載されている。生物学者でありながら福岡はNHKの「日本人は何を考えてきたのか」という番組企画に参加し、近代日本思想史をたどる中で、「近代の超克」座談会を主にリードした京都学派の祖・西田幾多郎を「知る必要」があったという。
一方、主に理系、文系など「二つに大きく分断されてしまっている人類の知恵をもういちど統合しようとする試み」である「統合学」をめざす集まりにも参加していた福岡は、この集まりの中で西田の研究者の池田と出会い、池田が、福岡の「動的平衡の生命論」は「西田がめざしていた生命に対する考え方と極めて密接な相同性をもつ」と指摘していたことから、この対談に至ったそうだ。
対談は、西洋においては自然の中にある「ピュシス」が忘れられ、「ロゴス」の理念的世界の中に入ってしまい、ハイデガーにおいて、これは「存在の忘却」だと批判したが、西田はその前から「ピュシスに帰ろうとしていた」という、池田の解説から始まる。
そして、池田は、西田の「自覚」、「純粋経験」などについて解説する中で、福岡の細胞膜についての内側でも外側でもない「あいだ」という概念が、西田の「絶対矛盾」と同じだという。ここから、池田は「包む・包まれる」、あるいは「包まれつつ包む」という独自の説明理論の説明に入り、樹木の年輪を例にして、環境との関係を、「普通の考えでは、環境が樹木を限定するはずなのに、樹木のほうが逆に環境を空間の中に限定してもいるわけです。そのことが「包まれつつ包む」、すなわち西田の「逆限定」と言われます。」と述べる。
このことが納得できない福岡が質問を重ね、池田は、福岡が西田の理論を理解しているのにもかかわらず、この説明に納得しないことに戸惑いながら答えるというやりとりが繰り返され、ついに対談中にはそれが終わらず、その後メール交換をするという、対談記録としては珍しい展開となっていった。感心したのは、福岡が、自分が納得できなければ読者の多くも納得できないだろうと、半端な納得をしないように努めながら質問を繰り返していたことと共に、池田が福岡の姿勢を真摯に受けとめ、粘り強く、言葉を選びながら福岡に理解しやすく説明していたことだった。真理を求め、伝えるということはこういうことなのだと感動する思いだった。
この結論は、福岡が、「包む・包まれる」という表現について、それぞれの主語は同じであることを理解せずに解釈していた間違いに気づいたということで解決した形になっていて、福岡は「生命は、合成を行うと同時に分解を行う。生命は、エントロピー増大のなかにありつつ、エントロピー減少につとめる。」という理論と同じで、「矛盾していることが同時に存立している状態、それが「逆限定」だということ」と、わかったということだった。
この辺は西田哲学にも、福岡の生命理論にもなじんでいない私にとって理解困難だが、福岡が西田の理論のなかに自己の理論を見出すことができたのだろうと受け止めておいた。
この後、対談は西田の『論理と生命』、『生命』という論文に取りかかり、池田は、ソクラテス、プラトン、カントたちは、「私たちの理性や論理で近づける範囲のみで姿かたちを理解したり構成したりという、いわゆる「主観性の原理」に基づいてい」るので、「真の実在に触れることはでき」ないと西洋哲学を批判し、その後も「ミンコフスキー(ならびにアインシュタインなど)は時間を「存在論的」に思考した」が、「西田や福岡さんは」、「実在論」的に思考した」と述べる。ここから、池田は生命をめぐって、「存在と実在との差異」、「一の多」、「他の一」、過去、現在、未来のとらえ方にふれ、福岡の「先回り」という概念が、西田の「未だ来たらざるものであるが現在において既に現れているもの」と理解でき、さらに「同時進行」と同じで、「福岡さんの「先回り」(動的均衡)と、(西田の)「絶対矛盾的自己同一」とが完全に重なる」と述べる。
そして池田は、福岡が動的均衡の一回性について触れたことを取り上げ、「時空における「動的均衡」の「一回性」が永遠性を含む以上、日常生活において、よく「かけがえのない命」のように言われるわけですが、僕はこの状態の「かけがえのなさ」を、「大切な、無駄にできない尊さ」という倫理的な意味で表現したいと思っています。」、「一生を虚しく終わらせたくないのであれば、「現在」を過去・未来の同時性として生き抜く以外の生き方はあり得ないのです。その意味で二度と同じ状態をとらない「一回性」とは、「かけがえのないこと」と言えるのではないでしょうか。」と述べている。彼にとって哲学は単なる学問ではなく倫理であり、生き方そのものだったのだ。私もこの言葉を肝に銘じよう。そう、人間にとっては、過去に何をしたか、未来に何をするつもりかではなく、現在をどう生きるかということが全てだと。
全般に難解な問題について考える対話の中で、生命をロゴス的にとらえる「機械論」の批判として、福岡が自ら患っている花粉症を例に揚げた話はとても分かりやすい。福岡は、治療薬として使われる抗ヒスタミン剤が「これまでと違う新しい平衡状態を作り出そうとする」ので、生命はさらなるヒスタミンを放出するというリベンジをするため、より激しい症状になるという。だから「動的均衡論」では「花粉症とは、騙し騙し付き合っていくしかない」と説くが、これでは製薬会社は儲からないので、「動的均衡論」は資本主義になじまないという。さらに「悲しいことに、資本主義社会では、どうしても生命というものを<モノ>の延長として考えざるを得ないという側面があることも否めません。」とも述べている。今度は、哲学が経済システムにまで影響していることが明らかになった。
対談は、福岡の、「同時性」は、物事を因果関係で考えるこれまでの科学では扱えない、生物の行動の部分的達成は「自然選択」とはなりえないなどの、近代の常識となっている考え方の批判で終わり、後半は、福岡が西田哲学を取り入れた、「ピュシスの側から見た動的均衡」という理論編と、池田の「生命を「内から見ること」において統合される化学と哲学」というエピローグとなる。後者のなかで、池田の、デカルトが、「「われ思う故にわれ有り」のその「われ思う」とは、己の生命を外から「包む」ことはあっても、デカルト自身、よもやその生命に「包まれている」などとは思いもしなかったであろう。」、そして、西洋近代科学が、「客観性を「真理基準」としながら、結局のところ、どこまでも物を外から対象として見る限りにおいて認識主観における「主観性の原理」に過ぎなかったと言わざるを得ない。」という言は、これまでに述べてきた西洋哲学批判の分かりやすいまとめとなっていた。
最後に池田は、今日のライフサイエンスは生命哲学と一つに統合されるであろうと述べ、「その先に、生命的な時間をもちえない今日の<AI>(外からのみ知る人工知能)を含めた、人類の未来の有り様がやがて徐(おもむろ)に示されてくるに違いない。われわれのこのたびの対談がその先駆けとならんことを、こころから祈らざるを得ないのである。」と熱を込めて結んでいる。なお、池田はこの著書発行の数年後に逝去している。このような倫理を哲学的に、哲学を倫理的に説く人がいたことを記憶に深く刻みこみたい。