スピノザについては、『エチカ』という著書を書いた哲学者として、その名前を知っている程度だったが、ユダヤ協会から破門にされたユダヤ人であることを知り、ユダヤ性から自由になろうとしたユダヤ人としては最初期に生きた人と言えそうなので、このスピノザの解説書から読んでみることにした。
破門の理由は、「魂の不死性とユダヤ教の律法の真実性を否認し、「哲学的な」神しか存在しないと主張した」とのこと。これは彼が23歳のときで、「肺疾患という宿痾に長く苦しんだ末に44歳という若さでその一生を閉じた」という。
その理由はともかく、スピノザは典型的なユダヤ人としての育てられたが、17歳から家業の貿易業を手伝うようになり、父親が亡くなったため22歳からその家業を引き継いだそうで、その経験が、「ユダヤ教以外の多様な信仰や思想を持つ「賢き商人」と呼ばれた教養ある人々との接触と、ユダヤ教徒のように律法に拘束されることなく、富や利益の蓄積によって社会的地位の向上を図る人間の赤裸々な姿の認識をもたらした」とのこと。ここから、スピノザが、ユダヤ教の世界観の相対性を自覚するようになり、キリスト教世界の学問や自然科学を研究するためラテン語学校に入学し、マキャヴェッリやホッブス、デカルト等の影響を受けるようになったことが破門に至った経過のようだ。
スピノザは、破門を機に、「最高善」の獲得を目指す倫理学に向かい、そのための通路をどこまでも人間の「認識」を求め、その「倫理学に政治学を抱合させる方向を辿った」とのこと。
「認識」については、著者によれば、当時、自然科学が発展する中で、「認識対象としての自然の非人格的な実体への還元」には、「プロテスタンティズムとりわけカルヴィニズムが果たした被造物崇拝の徹底的な否定」が被造物を「即物的自然へ還元して科学的認識の客体を析出し」た一方、「造物主としての神の全能性を証明」しようとしたことの影響があったそうだが、「スピノザの倫理学を支える支点としての「認識」の対象は、自然科学が対象とする第一の自然ではなく、どこまでも、「精神」および「神」と合一した「全自然」以外のものではありえなかった」とのこと。
「近代哲学の父とも評されるデカルトの自然と精神とを二つの実体とみなす世界の二元論的構成」には、現在批判がされているが、スピノザの上記のような論理はその中でどのように位置づけられるのだろうか。
それはともかく、「倫理学としてのスピノザの哲学は、彼の有名な命題、「神即自然」に集約される汎神論の範疇に属するもの」だとのこと。
以下、スピノザの「意識」、「延長」、「思惟」、「感情」、「三種類の知(表象知、理性知、直観)」、「三つの「人間の条件(この中で、「協議し、傾聴し、討論する」ことを最重要視した)」などの概念が開設されているが、ここでは触れない。
今日の私たちが認識しておくべきことに絞るとすれば、「倫理学」の章においては、上記の「神即自然」だが、「政治学」の章においては、デカルトの「私は思惟する、ゆえに私は存在する」という命題を、スピノザは、「私は思惟しつつ存在する」という「単一命題」として理解し」ていたとし、これは「あきらかに一元論的思考様式」だという。それから、当時の哲学者(スコラ哲学者)へのスピノザの批判は、キリスト教による原罪観念などの神学的人間解釈を清算し、「人間の自然状態」を神学的非難から守ろうとする明確な意図があったとのことだ。
具体的な政治論は、伝統的な「三政体論(民主制、貴族制、君主制)」を踏襲していたが、「神政政治」や「王権神授説」に特に批判的で、彼の「社会契約説」は、「政治権力の支配の正当性根拠を人間の同意に求めるもの」で、「所与の政治共同体に倫理的生活を可能にする「変性」を目的として求める意味を蔵して」いたという。
「聖書批判の展開」の章においては、「「表象知」に依拠する「預言」は、それ自体においては何らの確実性も内に含むことができない」もの」だと批判し、「奇跡」とすることは「無知」だからだと指摘し、「真の宗教」論を提案するなど、大胆な主張をしたという。しかし、彼の主張も、「十七世紀のヨーロッパにおいて、時代の正統的なキリスト教信仰とされるものに抗して「信仰の新しい理念を宣言」し、「宗教の新しい形式を具体化しようとした」どの思想家の企図も、聖書解釈を通して「キリスト教の新しい表現を見いだそうとする努力」以外の形態をとりえなかった」ように、「政治的な最高権力への反逆を信仰者の義務として課するものではなかったとのことだ。
そんな中でもスピノザは、「神の子」として神格化された「イエスキリスト」について、「「神の子」たるこの神的な「知性」は、「神の知恵」として人間イエスの「肉体」の中にではなく、神と「精神対精神」で交わったイエスキリストの「精神」の中に最も多く「表現」されている」としたほか、「聖書を「人間の言葉」で書かれた歴史的文献に還元したうえで、・・・聖書に疑うことが許されない「神の言葉」としての「真理の認識体系」を与える一切の立場を否定し、・・・「宗教を解釈し、宗教に関して判断する最高の権能は各人の下になければならない」と言ったそうだ。
要するに、スピノザは、ドグマと化しているキリスト教の教えを相対化した先駆者だが、「真の宗教」論を唱え、自ら無神論者ではないと主張し、宗教否定にまでは行きつかなかった哲学者と言えるのではないだろうか。その彼にとって「神」とは何だったのだろうか。この著書には、スピノザの哲学的言説が詳しく述べられているが、その現代的な意味づけ、位置づけなどの解説が欲しいと思った。