書評 アーリヤ人の誕生 著/長田俊樹

  謎めいた、この本の題名に惹かれて購入した。著者は一般的にアーリアと言われている言葉をアーリヤとしている。

 かねてから、インド人にアーリア系の人種がいるということと、ヒトラーがドイツ民族をアーリア系とし、優秀な民族だと持参していたことがどうも理解できずにいたので、アーリア人とは何だろうと、引っかかっていた。

 かつて世界の主な言語が、インド・ヨーロッパ語族、ウラル・アルタイ語族、セム・ハム語族にグループ化されていて、インド語(と言っても単一の言語ではないが)が、ヨーロッパ諸語と同じ起源を持っているようだという知識は持っていた。この本を読むと、インドの古語であり、現在でも使われているサンスクリット語がヨーロッパ人にヨーロッパ諸語と類似していることが発見され、当初はサンスクリット語そのものが印欧祖語だとする説が有力だったそうだ。その後、その説は否定され、言語学界は、今は存在しない印欧祖語を「再建」する研究に入り、「再建された語彙を手がかりとした言語的古生物学を生んだ。その言語的古生物学の成果から、印欧祖語の話し手、つまり「アーリヤ人」の宗教や文化に関心がいき、「アーリヤ人種説」を生んでいく。」とのことで、いわば「アーリヤ人」とは想像上の概念だったようだ。「アーリヤ人」とは、それが派生して現存している人種のように誤解されたということになり合点がいった。

 ところで、この著書には、「新インド学入門」という副題がつけられている。彼はこれまでの「インド学」がサンスクリット語の研究など、現代のインドを対象としていないのに対し、インドの少数民族のムンダ人の集落で暮らしながら、ムンダ語の専門家となり、現代インドの諸問題に目を向けて、「新インド学」を標榜している。その中で、ムンダ人は、ヒンドゥ教徒が高潔崇高とされているインド社会で、無知蒙昧な民といわれ差別されていること、そのムンダ人が、他者(他民族)を「ディク」と言って警戒しているのに、「都会で教育を受けたムンダ人たちは、もはや「ディク」は他者ではなく、「自己」変革の理想のモデル」なのである。」というインド社会の矛盾を指摘している。この現象を「西洋」を「他者」とみる視点と、「西洋」を「自己」変革の理想的なモデルという視点が同居している日本との類似性を指摘している言説に、鋭い観察眼を感じた。

 補章に、最近の人文系学問が理系偏重の圧力に押され、危機にあることが書かれている。この著者のような優れた研究者が軽んじられる傾向にさらされていることはある程度認識していたが、この補章のように具体的な組織の動きには改めて驚いてしまう。資本主義に利用されてばかりの理系偏重の学会等に、どのような対応ができるだろうかと考えさせられる。

日本政府はアメリカの要請に屈せずパレスチナ国家を承認せよ 4(2025年9月24日)

 22日に国連本部でパレスチナ問題の解決に向けて開かれた国際会議において、ヨーロッパ各国、カナダ、オーストラリアなどの国々がパレスチナの国家承認を表明する中で、日本を代表して出席した岩屋外務大臣は、承認を見送る理由を、「承認するか否かではなく、いつするか」という問題であると述べたとのこと。

さらに、今後の情勢の変化を常に注視しつつ、更に重大な関心を持って総合的な検討を行っていく旨述べ、仮に今後イスラエルが「二国家解決」実現への道を閉ざす更なる行動に踏み出す場合には、我が国として、新たな対応を取ることになると付け加えたとのこと。

これは、これまで報道されていた理由と異なっている。これは、アメリカと同じ理由にすると日本のアメリカに対する属国的な立場があまりにも明確になることを恐れ、はぐらかしたか、結論を先延ばしにしたためではないだろうか。当日出席しなかった、石破首相も同様な発言をしていることを見ると、岩屋外務大臣はこのような内容で口裏合わせをして出国したのだろう。このような理由付けはほとんど議論の経過はなさそうなので、思いついたもっともらしいものだと思われる。

ガザのホロコーストを残虐に進めるイスラエルへ圧力を与えようと、パレスチナの国家承認で盛り上がってきた機運に水を差すような判断をし、「イスラエルが国家解決実現への道を閉ざす更なる行動に踏み出」すまで「注視」するということは、いったいどこまでガザの人びとが殺されてしまうのを黙認するのだろう。その時は、少なくともガザ地区はイスラエルの完全な支配下になっていることだろう。

いずれにしても、日本はそのように世界中に表明したのだから、日本が適切な時期に適切な行動を示さなければ、日本はアメリカに逆らえない国という位置づけが明白となり、国家としての自立性が厳しく問われるだろうし、そのような日本政府を支えている日本人自身を問うべきだろう。

日本政府はアメリカの要請に屈せずパレスチナ国家を承認せよ 3(2025年9月20日)

 岩見外相が昨日、記者会見で、正式にパレスチナの国家承認を見送ることにしたとを述べ、その際、22日に開かれる予定の、国連のパレスチナ問題解決のための国際会議に日本政府は欠席する方針を改め、自らが代表として参加するとも発表したとのこと。欠席では、アメリカに逆らえないことがあまりにも明白になってしまうからなのだろう。果たして参加して、日本独自の理由説明ができるだろうか。記者会見の際に、18日付で記した、「承認するとイスラエルが態度を硬化させ、パレスチナのガザの情勢が一層悪化する」というアメリカの懸念を、その理由としているようだが、そのままに理由付けを説明したら、欠席したほうがましだったということになりそうだ。22日からの会議での論議の経過、結果を注目しよう。

日本政府はアメリカの要請に屈せずパレスチナ国家を承認せよ 2

 

案の定、パレスチナの国家承認に関し、自民党政権はアメリカの要請には抵抗できないことが報道されている。

承認するとイスラエルが態度を硬化させ、パレスチナのガザの情勢が一層悪化するという、理由とは言えない理由のアメリカの主張に逆らうことを恐れる卑屈な態度と言わざるを得ない。22日に開かれる予定の、国連のパレスチナ問題解決のための国際会議には欠席するという。今や、イスラエルとアメリカは孤立しつつあり、世界がパレスチナの惨状を打開するために、パレスチナの国家承認に動き出している時に、ただアメリカにつき従っている状態では恥ずかしくて参加できないのだろう。

マスコミの皆さんは、この件で日本政府が忘れてはならない恥ずべき判断をしたことを国民に周知し、国民間でこれについての大きな論議が巻き起こるようにしてほしい。

国会においては徹底的に論議してほしい。その際、野党はこれまでのように与党を安易に非難する論調に流れず、与党の、国家承認がガザ情勢を悪化させるという理由付けについて、明確な説明を徹底的に求めてほしい。説明の疑問点を深く冷静に追求すれば、理由付けが支離滅裂であることが誰にもわかるはずだ。適切な問いかけは、相手にも疑問となる理由を再検討させるかもしれない。例えば、アメリカを怖がることが妄想のようなものであることが共有できるかもしれない。

それから、上記のような日本政府の行動を許しているのは我々有権者だということを改めて自覚することが必要だ。こんななかで、自民党は次期総裁選にばかり熱中しているが、誰が次期総裁になるにしても、自民党に投票することはパレスチナ・ガザ地区の虐殺に加担することに他ならないことだ。次の総選挙までに、イスラエルはさらなる虐殺を尽くし、ガザ地区制圧は完了しているかもしれないが、日本の有権者は最低限、投票行動でイスラエルの虐殺行為を許さないことを示してほしい。

書評 家族、この不条理な脚本 著/キム・ジヘ 訳/尹 怡景(ユン・イキョン)

 

この著書には、「家族神話を解体する7章」というサブタイトルが付けられていて、「家族神話」は私が取り組もうとしているテーマなので読んでみたくなった。

 家族制度について、韓国は日本と似た状況にあり実情を述べながら、ヨーロッパの家族状況にも触れていて、ファミリーの語源のラテン語・ファミリアは、妻子や奴隷を含む、「家長に属する所有物を意味」していて、現代の家族とは異なっていた、とか、ジョン・スチュアート・ミルが、「結婚こそ、イギリスの法律におけるただ一つの現実的奴隷制度」と述べていたという興味深い挿話もあった。

 韓国では、日本の植民地時代に制度化された家制度や戸主制度の影響が最近まで残っていたが、世界的な潮流になってきている同性婚などを主張する人々が増えつつあり、伝統的な家族制度が揺らいでいるとのこと。

 これと日本より深刻な少子化問題を結びつけて、同性婚を憂慮する層があるが、これについては、同性婚に寛容な国では逆に出生率が高いというデータを示し、反論している。さらに、「もしかしたら、これらの国では、人がどのように生まれたかには関係なく、平等な生活を保障するための社会づくりを進めてきたという意味ではないだろうか。」と述べているが、ここは想像ではなく、子育てを社会化している具体的な制度調査や判断が欲しかった。

この著者は、家族において、「生計の維持について責任を負う人が必要」ということは、「生物的な性としての男性の存在が必要ということではない」として、「家族神話の解体」を試みたり、いまだに「家族の失敗」をした人たちだけが社会保障の対象であることを不当としたりしているが、家族という制度は、人びとがやむを得ずに形成したに過ぎず、神話はそれを維持するために作られたものに過ぎない。だから、現在の家族に対する考え方を批判してもあまり意味がないと思う。むしろ、家族というものはそのようなものだと受け入れ、そのうえであるべき社会、性等を考えるべきだろう。

 その意味で、最後に、ヨーロッパから広がりつつある同性婚について、「家族の意味を更新すべき時代に、同性婚を求める主張によって、むしろ既存の家族制度を再び延命させるのではないかという懸念」があると述べていることには同感だ。男女間に生まれた子を、その当事者に養育を義務付けるために現代まで続いてきた婚姻制度やそれに付随した諸制度を絶対化し、同性間にも適用しろという要求は、安易な平等主義ではないだろうか。人間にはパートナーガ必要だとすれば、婚姻制度は廃止し、著者がここで述べている「民事連帯契約」や「同居」制度を採用すればいいのではないだろうか。

日本政府はアメリカの要請に屈せずパレスチナ国家を承認せよ

 

パレスチナのガザ地区に対するイスラエルの暴虐極まりない攻撃は、20世紀のナチによるユダヤ人虐殺に匹敵する民族浄化行為と言えるだろう。これに対し、世界は言わば黙認しているかのような状況であり、忸怩たる気持でいっぱいになる。

 なぜ、イスラエルのユダヤ人は自分たちにされたことを、パレスチナ人にしているとは思えないのだろう。なぜ、アメリカはこれをやめさせようともせず、支持するのだろう。

 このような状況があまりにも悲惨なため、わずかながら世界がようやく動きはじめた。それはフランスを皮切りにイギリスも、パレスチナを国家として承認する方針となり、国連常任理事国で承認するつもりがないのはアメリカのみとなり、G7の一員であるカナダも同様な方針を表明し、ドイツ、イタリアも前向きなようだ。今や、イスラエルにNOを言えないアメリカを孤立させ、危機感を持たせる好機となった。

 そのような動きでパレスチナ問題が解決できるわけではない。国境をどの範囲にするか、はたしてパレスチナの暫定自治政府が正式な国家として機能できるかなど、解決すべき課題は多いだろう。しかし、どんな形でも、これまでの固定的な状況が動き始めたことを大事にしなければならないのではないだろうか。

日本政府もこのような中で、パレスチナの国家承認の教義を始めたようだが、案の定、アメリカがこれを見送るよう要請したという。その理由は「和平実現を後退させる」という訳が分からないもので、アメリカがユダヤロビーや福音派に逆らえないからに過ぎないだろう。

アメリカはそのような要請を上記の国々にはしていないようだ。少なくともそのような報道はされていないと思う。そうだとすると、今更ながら、アメリカが日本を自国の意向を忖度する、扱いやすい国、もっと言えば属国のように捉えていることが改めて明確に表れている。このような関係のために日本が不利益を被るだけならまだしも(それだけでも国民は怒りを覚え、惨めな気持ちにさせられるが)、パレスチナを犠牲にしてアメリカの「いい子」から自立した判断をしないならば、もはや独立国ではない。また国際的にも許されない行為だ。

日本政府がこの件でアメリカの意向に屈することは、イスラエルによるガザ地区のホロコーストを容認することに他ならない。日本政府は奴隷根性から脱し、パレスチナを国家承認せよ。

書評 スピノザ 「変性の哲学者」の思想世界 著/加藤 節

 

スピノザについては、『エチカ』という著書を書いた哲学者として、その名前を知っている程度だったが、ユダヤ協会から破門にされたユダヤ人であることを知り、ユダヤ性から自由になろうとしたユダヤ人としては最初期に生きた人と言えそうなので、このスピノザの解説書から読んでみることにした。

 破門の理由は、「魂の不死性とユダヤ教の律法の真実性を否認し、「哲学的な」神しか存在しないと主張した」とのこと。これは彼が23歳のときで、「肺疾患という宿痾に長く苦しんだ末に44歳という若さでその一生を閉じた」という。

 その理由はともかく、スピノザは典型的なユダヤ人としての育てられたが、17歳から家業の貿易業を手伝うようになり、父親が亡くなったため22歳からその家業を引き継いだそうで、その経験が、「ユダヤ教以外の多様な信仰や思想を持つ「賢き商人」と呼ばれた教養ある人々との接触と、ユダヤ教徒のように律法に拘束されることなく、富や利益の蓄積によって社会的地位の向上を図る人間の赤裸々な姿の認識をもたらした」とのこと。ここから、スピノザが、ユダヤ教の世界観の相対性を自覚するようになり、キリスト教世界の学問や自然科学を研究するためラテン語学校に入学し、マキャヴェッリやホッブス、デカルト等の影響を受けるようになったことが破門に至った経過のようだ。

 スピノザは、破門を機に、「最高善」の獲得を目指す倫理学に向かい、そのための通路をどこまでも人間の「認識」を求め、その「倫理学に政治学を抱合させる方向を辿った」とのこと。

「認識」については、著者によれば、当時、自然科学が発展する中で、「認識対象としての自然の非人格的な実体への還元」には、「プロテスタンティズムとりわけカルヴィニズムが果たした被造物崇拝の徹底的な否定」が被造物を「即物的自然へ還元して科学的認識の客体を析出し」た一方、「造物主としての神の全能性を証明」しようとしたことの影響があったそうだが、「スピノザの倫理学を支える支点としての「認識」の対象は、自然科学が対象とする第一の自然ではなく、どこまでも、「精神」および「神」と合一した「全自然」以外のものではありえなかった」とのこと。

「近代哲学の父とも評されるデカルトの自然と精神とを二つの実体とみなす世界の二元論的構成」には、現在批判がされているが、スピノザの上記のような論理はその中でどのように位置づけられるのだろうか。

それはともかく、「倫理学としてのスピノザの哲学は、彼の有名な命題、「神即自然」に集約される汎神論の範疇に属するもの」だとのこと。

以下、スピノザの「意識」、「延長」、「思惟」、「感情」、「三種類の知(表象知、理性知、直観)」、「三つの「人間の条件(この中で、「協議し、傾聴し、討論する」ことを最重要視した)」などの概念が開設されているが、ここでは触れない。

今日の私たちが認識しておくべきことに絞るとすれば、「倫理学」の章においては、上記の「神即自然」だが、「政治学」の章においては、デカルトの「私は思惟する、ゆえに私は存在する」という命題を、スピノザは、「私は思惟しつつ存在する」という「単一命題」として理解し」ていたとし、これは「あきらかに一元論的思考様式」だという。それから、当時の哲学者(スコラ哲学者)へのスピノザの批判は、キリスト教による原罪観念などの神学的人間解釈を清算し、「人間の自然状態」を神学的非難から守ろうとする明確な意図があったとのことだ。

具体的な政治論は、伝統的な「三政体論(民主制、貴族制、君主制)」を踏襲していたが、「神政政治」や「王権神授説」に特に批判的で、彼の「社会契約説」は、「政治権力の支配の正当性根拠を人間の同意に求めるもの」で、「所与の政治共同体に倫理的生活を可能にする「変性」を目的として求める意味を蔵して」いたという。

「聖書批判の展開」の章においては、「「表象知」に依拠する「預言」は、それ自体においては何らの確実性も内に含むことができない」もの」だと批判し、「奇跡」とすることは「無知」だからだと指摘し、「真の宗教」論を提案するなど、大胆な主張をしたという。しかし、彼の主張も、「十七世紀のヨーロッパにおいて、時代の正統的なキリスト教信仰とされるものに抗して「信仰の新しい理念を宣言」し、「宗教の新しい形式を具体化しようとした」どの思想家の企図も、聖書解釈を通して「キリスト教の新しい表現を見いだそうとする努力」以外の形態をとりえなかった」ように、「政治的な最高権力への反逆を信仰者の義務として課するものではなかったとのことだ。

 そんな中でもスピノザは、「神の子」として神格化された「イエスキリスト」について、「「神の子」たるこの神的な「知性」は、「神の知恵」として人間イエスの「肉体」の中にではなく、神と「精神対精神」で交わったイエスキリストの「精神」の中に最も多く「表現」されている」としたほか、「聖書を「人間の言葉」で書かれた歴史的文献に還元したうえで、・・・聖書に疑うことが許されない「神の言葉」としての「真理の認識体系」を与える一切の立場を否定し、・・・「宗教を解釈し、宗教に関して判断する最高の権能は各人の下になければならない」と言ったそうだ。

 要するに、スピノザは、ドグマと化しているキリスト教の教えを相対化した先駆者だが、「真の宗教」論を唱え、自ら無神論者ではないと主張し、宗教否定にまでは行きつかなかった哲学者と言えるのではないだろうか。その彼にとって「神」とは何だったのだろうか。この著書には、スピノザの哲学的言説が詳しく述べられているが、その現代的な意味づけ、位置づけなどの解説が欲しいと思った。