「台湾有事は日本の存立危機」とは米国の策略(2025年11月30日)

 11月26日の信濃毎日新聞の「今日の視覚」で内田樹は「台湾有事は戦争か内戦か」と題して、台湾有事は少なからぬ米国人にとっては南北戦争のような内戦であると述べている。

しかし、高市首相は台湾有事が中国との戦争であるかのように捉え、それに日本が巻き込まれる事態になるかのような発言をした。これに中国が怒るのは当然ではないか。様々な中国の報復措置の是非はともかく、日中共同声明で台湾を中国の領土だと認めながら、台湾を武力統一することが内戦ではないとし、日本が無関係どころかそれ自体が日本の危機だというのは二枚舌である。

なぜ高市首相はこんな発言をしたのだろうか。それは中国の勢力が自国を凌駕しつつある状況に危機意識を高めた米国は、単独で中国に軍事的に対抗するのが困難になってきたので、日本にそれを補完させるためにかねてからずっと、上記ように認識するようにさせてきたからだ。それに従うこと自体情けないことだが、それでもそれは表立って言ってはならないことだったのだ。強いふりをすることにばかり気を取られている愚かな人間が日本政府を代表するようになったこと自体が「存立危機事態」ではないだろうか。少なからぬ米国人が台湾有事を内戦のように捉えているにもかかわらず、米国のこのように卑劣な策略をする国である。そもそも、台湾が第2次大戦後80年も統一されないのは米国が手厚い援助をしているからだ。

そもそも、戦前から、中国に利権を持とうとした米国が、蒋介石の国民党を援助し、日本に抵抗させてきたが、日本の敗戦後、国民党軍が共産党軍に敗れ、台湾に敗走して樹立したのが台湾政府であり、米国はソ連との冷戦のためにこの状態を維持しようとしてきた。冷戦終結後はこの必要性がなくなったが、中国対策として、台湾が米国にとって有益な存在であることに変わりはない。だから米国は日本を利用してこの状況を維持しようしている。自民党政府が進めた集団的自衛権の容認、安保法制改定、軍事費割合の増などはそれを唯々諾々と受け入れた政策だ。

このように自国中心的な米国は、台湾有事になってもおそらく手を出さないだろう。台湾はかなり抵抗するだろうが中国は勝利するだろう。

万が一、米国が軍事的に干渉する事態になったときのことを考えると、確かに日本に存立危機事態になる可能性はある。なぜなら、米国の攻撃拠点は沖縄をはじめとする軍事基地であり、中国はそれらの基地を真っ先に攻撃するはずだからだ。

米国が手を出さないのに、米国にそそのかされた日本が台湾有事に巻き込まれる事態になることが最悪のケースだ。そうなっても、米国は日米安保条約を守ろうとせず、日本を救おうとはしないだろう。

台湾の人々には気の毒だが、日本に台湾独立を守る大義はない。そそのかされて台湾有事にかかわってしまうことが「存立危機事態」を招くのだ。米国の自国中心主義的策略を見抜き、米国依存から脱することが日本の安全を確保する現実的な道に他ならない。



書評 たまたま、この世界に生まれて 半世紀後の『アメリカ哲学』講義 著/鶴見俊輔

 鶴見俊輔は、60年安保やベトナム反戦運動などを主導した戦後知識人として有名な哲学者だ。まちライブラリーで見つけたこの著書の、メインタイトル、サブタイトルに興味を惹かれて読んでみた。

この著者は、1950年に『アメリカの哲学』という著書を発行していて、2007年に発行された今回の著書は、1950年当時からのアメリカ哲学つまりプラグマティズムについて開かれた4回の講義、というより7人の受講者との談話会を記録したものなので、このサブタイトルとなったようだ。

私はプラグマティズムにかねてから疑問を持っており、その批判論を読んでみたかったが、その意味では期待を裏切られた著書だった。

しかし、鶴見の境遇、人間性、彼が交流してきた知識人たちの言説などが率直に語られていて、その意味では収穫があった著書だった。

母方の祖父は明治・大正時代の政治家・後藤新平で父も政治家という家族の中で育った鶴見は多感な少年だったのだろう、中学校を2回退学するという、自称「不良少年」だったとのこと。しかしその後、日本の共通一次テストのようなUSA(鶴見はアメリカという国名は曖昧だからということでUSAとしている)の試験に合格してハーヴァード大学に入学という驚くべき経歴を記すことになる。同大学では「点取り虫」で「一番病」にかかっていたという。さらにその後は、1941年の日米開戦により捕虜収容所に入れられながら大学を卒業し、日米交換船での帰国たとのことだ。その後の文筆活動については割愛するが、結婚後、鬱病に苦しんだ時期もあったとのこと。

さて、鶴見のプラグマティズムの定義はという講義参加者の質問に鶴見は、「今の主張を実験として確かめてみたらという実験計画が、言葉の意味だ」、「概念というのは自分が考えている実験計画なんだ。」とし、「プラグマティズムは言葉の意味を行動に形にしてとらえる方法」、「(プラグマティズムは)特殊と普遍を切り離さないっていうやり方・・・カントにはない」等と述べているが、いずれも断片的で総体的なプラグマティズム解説にはなっていない。

一方、プラグマティズムの弱点について、「プラグマティックな思想を受け入れる人は妥協しやすい。・・・逆風が吹いているときプラグマティズムの側は、それに対する抵抗を貫くことが相当に難しい。」と述べているが、その理由は説明していない。別の個所で「プラグマティズムは、哲学として特別に強い一本の心が通った思想じゃないんですよ。」と述べているが、それがその理由に当たるのかもしれない。

プラグマティズムの日本への影響にも触れていて、(西田幾多郎は)「座禅を組んでは、ウィリアム・ジェイムズの著作を読んだ。こうして彼はジェイムズの『根本的経験論』に触れ」たが、これは認識論なのだが、西田は「価値で色づけられた概念として読ん」で、それが純粋経験として西田に理解された、というエピソードには興味を惹かれた。その解釈はともかく、京都学派の「近代の超克」論議も、プラグマティズムと同様、近代西欧哲学批判という潮流から生まれたのであろうという認識を確かめた。

プラグマティズムとは離れて、「キリスト教会は本体論的な証明があって、神は完全だから、存在を含んでいるって言うんです。・・・それは日本の国体論と違うとは言えないでしょう。案外、日本の国体概念も岩倉ミッション(岩倉遣外使節)がヨーロッパに行って、そこから密輸してきたのかもしれない。キリスト教国家の特性を日本で採用したから、ああいう形になった。」、と述べている。あくまで推論なのだろうが鋭い発想をする鶴見に感心した。