信彦自戒録 8 自分の非を認めたくない気持ちに囚われて悩んでいると思ったら

タイトルに、「自分の非を認めたくない気持ちに囚われて悩んでいると思ったら」、と書いたが、実はそこに至るまでが大変で、そこに至れば悩みは半分解決反省している。自分が「まずい」と思うようなことをしたとき、反射的にする行為は、「そんなことはしていない」と思うようにすることだろう。そうすることが難しいとしたら、「なかったことにすればいい」、「自分が忘れればいい」という心理操作をするようになる。

しかし、「まずい」と思った行為が重い行為であればあるほど、自分の良心は忘れてくれないので悩んでしまうことになる。

自分自身のことで悩んでいるとき、そのようなジレンマに陥っていないかどうかを素直に見つめることができれば解決の道が開ける。そうすれば、「まずかった」と思う理由が見つかり、それを反省する気持ちになれる。反省し、そのようなことをしないようにしようと決意すれば、ジレンマから解放される。

その際、障害となるのが、自分が非違行為をする人間だと決めつけられてしまうことを避けたいという気持ちだ。このような気持ちは成長すればするほど強くなるが、これは人間認識の基本的な間違いである。人間は正しい人間と間違った人間に分けられるなどということはない。人間という存在は弱い存在で、誰しも間違ったことをする可能性はあり、尊敬されているような人物でも、そのようなことを絶対にしないように自分をコントロールすることは困難なのだ。個々の人間に当否があるのではなく、個々の行為に当否があるのだ。他者に悪い人間と決めつけられることを恐れるのは、そのような認識がなく、自分自身が非違行為をした人を軽蔑してもいい人と決めつけているから、その反対にそう思われたくないのだ。そういう自分の考え方から離れればいいのだ。

このことを理解していれば素直に反省でき、悩みから解放され、こんなことなら逃げずに早く自分の非を認めればよかったと思うようになる。 

要は子供のときのように、悪いことをしたと思ったら、素直に反省し、必要なら謝ればいいわけだが、謝る頻度が減るほど成長しているような気になってしまい、自分の非を認められなくなっている大人は多い。素直になることは大人になるほど難しくなる。


信彦自戒録7 自己嫌悪とは?

 

岸田秀は『ものぐさ精神分析』において、「「自己嫌悪とは、つまり、「架空の自分」が「現実の自分」を嫌悪している状態である。」、「自己嫌悪は、その社会的承認と自尊心が「架空の自分」にもとづいている者にのみ起こる現象である。」と述べている。

私は、自己嫌悪とは、自分が行った嫌悪する行為を客観化できない結果、そのような行為を繰り返してしまい悩んでいる人が、その自分を嫌うことにより、本当の自分(これが岸田の言う「架空の自分」か)は、その自分とは違っていると思おうとする心理だと思っている。

これは自己嫌悪に限らない心理で、肉親や他人を嫌悪する場合にも言えることだ。近親憎悪はその典型だ。自分と似ていると感じることを否定するために「嫌う」のだ。嫌悪することにより、その他者と自分は違うと思おうとするのだ。自己嫌悪する人は似ている他者をも「嫌う」。

岸田の言は、そのような心理に陥る人が「架空の自分」にもとづいているということなのだろうか?

出自を知る権利は必須か?

 


  

  最近、第三者から精子提供された人工授精が非公表で行われていたことをめぐる報道があり、これに関して、識者から、「出自を知る権利」が守られるべきだという論調ばかりが述べられているが、果たして、出自を知っていることに、どんな意味があるのだろうか。

  出自を知っている人間にそんなことを言う権利はないと言われそうだが、それでは、それを絶対に知ることができない子は本当に可哀そうな子なのだろうか。不幸を背負って一生を過ごさなければならないのだろうか。そんなことはないはずだし、そうであってはならないのではないだろうか。もし、そうであれば、自分の子ではないという親の告白はその子を不幸にすることであり、その告白は許されないことになる。匿名出産も許されないことになり、子殺しや母子心中にさえ波及する。

出自を知らなくても、この世に生まれた同じ人間という意味では何の引け目を感じる必要はないはずだ。出自を知らないために苦しんでいる人にはそう言ってやればいいのではないだろうか。そもそも、出自とは、これまでの社会が、子を産んだ男女が家族を形成し養育することを標準としてきたために、たまたま明らかだった事実に過ぎないのではないだろうか。出自が明らなことが尊いということも神話に過ぎないのではないだろうか。

信彦自戒録6

 とっさに出た行為こそ自分だ

 不意にしてしまった行為に、「あれは本心ではない」とか「ついやってしまったことで自分らしくない行為だった」などと言い訳をすることがよく見られる。

 政治家の失言報道などでよく見聞きする現象だ。この場合は「つい報道されることに不注意に本音を言ってしまった」という失敗を反省しているだけで、その行為について反省をしていないことがほとんどだ。

 それとは別に、上記のようなことをしてしまう自己を本気で反省している場合もあるかもしれない。しかし反省していてもその行為をしないとは限らない。その行為を悔いているのだから、もうしないはずだと思っても、その行為をした時の自分の心理的な癖を冷静に振り返ることから逃げていると、いくら悔いていても繰り返すことになる。その行為を反射的にしてしまう癖が自分にあるのだということを受け入れ、そのうえでどういう行為をとるべきだったのかを具体的にきちんと考え、その実践を繰り返すことにこそ、自分を変える糸口がある。

このブログを始めた理由

 私がこのブログを始めたのは、この世界があまりにも理不尽な状況になりつつあると感じたからです。

 私は、人間は他者を自己と同じ存在であると感じられるからこそ人間なのだと思っています。人間が動物と異なるといえるのは、そのことにこそあるのだと思います。

 言葉を持ち、知能を持ち、自然をコントロールするだけだったら「高等な生物」であるにすぎません。現在の人間世界はこのようなものでしかありません。

 利己的でないと生きにくく、殺人、窃盗などの行為こそ近代国家内では規制されているものの、国家間はいまだに無法状態に近いのではないでしょうか。国連などの国際組織は大国の妥協の産物でしかないため、大国間の利害が一致しないと機能しません。諸国民がナショナリズムに無自覚である現状は目を覆いたくなります。

 スポーツ、芸術、文学、学問という人間が生み出した人間らしい分野もでさえ、ナショナリズム、商業主義、名誉欲、偽善が幅を利かせ、文化、文明は魅力を失ってきています。

 地球環境の危機がせまり、 AIはより資本に寄与するようになり、労働者は働く場を失い貧富の差がさらに広がることは目に見えています。

 地球上の全生物まで巻き込んだ危機が迫っているのに、「これではいけない」という声が常にかき消されてしまう現在の世界には絶望しそうになります。人間は「ソドムとゴモラ」で語られたような懲らしめを受けないと反省をしないのだと思いたくなりますが、その時ではもう遅いのかもしれません。

 わたしはそのようなことになる前に、少しでも早く人間がこのような状況を反省し、本当に人間らしい世界を創る方向に向かうことを願ってこのブログをはじめました。

 まず、最初に述べた、「人間は他者を自己と同じ存在であると感じられるからこそ人間なのだ」ということを確認することから始めたいと思っています。

 多くの人は、映画、小説などで人間の心のつながりに涙したり、感動したりすることでしょう。人間には他者と喜びや悲しみを共感すること、困っている他人を思いやることができます。そのことは日本でも「情けは人のためならず」、「人のふり見て我がふりなおせ」、「明日は我が身」、「他人事ではない」等と昔から格言として言い伝えられていました。このような格言は、他者も同じ人間だという認識があるから生まれた言葉だと思います。

 しかし、現実には上記のような格言やモラルを守っているようなふりをしながら、他者を利用して得をしようとする人が蔓延っていて、そうされまいという警戒をしていないと、だまされたり、損害を被ったりしてしまいます。そのような場合、それが違法行為でない限りはどうにもなりません。さらに騙された人たちは「お人好し」と馬鹿にされるような社会に私たちは生きています。美しい物語に感動しても、ほとんどの人は、あれは「創作だから」として、一時の感傷を味わえればそれで満足し、また現実の生活に戻ってしまいます。差別的な言動をする人を描いたドラマを見て、その登場人物を非難しても、自分が当事者になると登場人物と同じことをする人がほとんどかもしれません。

 ここでモラルの向上を訴えることは、この社会のゆがんだ構造等を隠蔽することになりかねません。そして、モラルを守らない、大切にしない人を非難しても不毛な結果しか期待できません。

 なぜこうなるのでしょう。なぜ、人間として生きるということが、他者と自分を同じように扱うことだということを認識できないのでしょう。これでは人間世界は人間らしい世界にはなりません。

 主な原因は、多くの人が競争社会を受け入れざるを得ず、貧乏くじを引かないように損得にこだわり、人よりいい生活を得ることにばかり心を奪われ、成功者はその立場が失われることを恐れ、負け組になりつつある人たちは成功者に憧れることにより現実から逃れようと、ほとんどの人がかなえられない幻想にしがみついています。

 そして、そのどちらの立場の親たちも、自分の子どもを成功者にするため、当然のように学業の成績競争を強いています。何の疑問もなくそれを受け入れた子供たちは、挫折しなければ、自分たちもそのような大人、親になることは必然です。ですから、これは永続する風潮になることでしょう。

 競争が生活に直結するような社会はこのような社会になってしまうのです。この社会構造が変わっても、上記のようなエゴや猜疑心が消えるわけではありませんが、そのような人間の弱さをむき出しにさせるのが競争社会なのだと思います。ですから、社会構造を分析しながら、現在の私たちの現実生活上の心理や行動を振り返って客観化し、人間という存在を皆さんと共に考えていきたいと思っています。

 疑問に感じる記述の指摘、反論等をお寄せください。気軽に互いに認識を高め合う議論をしましょう。

 


ロシアのウクライナ侵略問題 7

 私はこのブログにおいて、最初からこの戦争は即時停戦するべきと述べてきた。

しかし、ゼレンスキー大統領は兵士や国民の命よりもウクライナという国のナショナリズムを重んじ、欧米よりの国家像を盾に、欧米や日本の国会に、自国を援助することこそ正義であるように働きかけてきた。

米国を代表とするそれらの国は、ゼレンスキー大統領の主張に乗せられ、代理戦争をやらせ続けた。しかし、私が当初から予測した通り、いくら支援してもウクライナが目指す勝利には程遠い戦局が続いていた。

今日(2024年1月29日)、やっと米国はこれまでのウクライナの領土を奪還することは困難であるという認識を表明し、新たな侵攻を抑止する支援する方針に変更することにしたという報道がされている。

これをウクライナが受け入れるだろうか。これまでのゼレンスキー大統領の言動からはかなり困難が予想できる。戦局が不利であることを認めさせることさえ難しそうだ。

そもそも、起きてしまった戦争を停戦させるには、戦力が拮抗している状況下でなければ当事国間で妥協することは難しい。当事国間の戦力、国力等について冷静に分析し、友好国が長期的には不利である場合は、早期に停戦させるようにするべきなのだ。

不利な状況になってから停戦をしようとした場合、有利な側に足元を見られ、屈辱的な協定にならざるを得ないことは明らかだ。だから、ここまで来てからこのような方針転換をしようとする米国政府の態度はお粗末というしかない。大統領選挙対策も絡んでいるような見方もあり、情けなくなってくる。そして、そんなアメリカに追随しているばかりの日本はもっと情けない。

いずれにしても、この戦争の結末はウクライナという国にとって無残なことになりそうだが、人命がなにより大事なので、ゼレンスキー大統領を失脚させることになったとしても、停戦になることを祈るばかりだ。

ロシアのウクライナ侵略問題6

 ロシアとウクライナの問題はいまだ解決の見通しがつかないでいる。

これは武器等の面で不利なウクライナに欧米諸国が武器を援助し、ロシアと均衡を保っているのだから、ある意味では当然だといえるだろう。こうしている間に両軍の兵士やウクライナの非戦闘員の死傷者は確実に増え続けている。欧米側には支援疲れが出始めてからもプロパガンダにより引くに引けず、政府に不平や批判さえ向けられている。

こんな中、ゼレンスキー大統領が9月17日放送の米CBSテレビのインタビューで、ウクライナが敗北すればロシアはポーランドやバルト3国に迫り、第3次世界大戦に発展しかねないと警告し、さらに「プーチンを食い止めるか、世界大戦を始めるか、全世界が選ばなければならない」と述べたとのこと(9月19日信濃毎日新聞より)。

このような彼の論理により、この1年半余り多少の差はあるが全世界がこの戦争に巻き込まれ、悪影響を受けてきている。冷たいようでも基本的には2国間の問題であることを忘れてはならない。現在の世界は2度の世界大戦を経ても、依然として弱肉強食の世界である。現在の国連は強国間の妥協の産物でしかない。第3次世界大戦は核の脅威により起きていないだけだ。

もうゼレンスキー大統領の意向に動かされていてはならない。彼の言う2者択一はあり得ない。ロシアは負けそうになったらその段階で核を使うかもしれないからだ。

世界を守るためにウクライナ人が実際に戦い死ぬことにより「最も高い代償を払っている」というのは詭弁でしかない。これ以上彼の論理に振り回されることはやめ、ウクライナにも不満はあっても、佐藤優氏の提案のような方法により停戦させることが早急に必要だ。

ロシアのウクライナ侵略問題5 (佐藤優氏の戦争解決案)

 案の定、ウクライナ戦争は終わりが見えない。

先月、週刊現代6月17日号に佐藤優氏が「ロシア・ウクライナ戦争 正しい理解の仕方」というタイトルで、欧米的な風潮や日本の論調を批判しながら適切な分析をしている。

彼曰く。この戦争はアメリカが自国への被害を防ぎつつ、ロシアを弱体化させるために管理された戦争であり、ウクライナは勝利できないと。ロシア軍は壊滅されそうになると、アメリカに戦略核を発射するからだと。

そして、驚いたのは、私が考えていたのと同様な戦争の終わらせ方をここで最後に述べていることだ。

それは、即時に停戦し、国連等がクリミア半島を含めたロシア占領地域で住民投票を実施し、その結果により帰属を決定するという提案です。

ウクライナを援助しながら代理戦争をして正義を主張している大方の風潮の中で、このどこからも提案されていないことを、反発を恐れずに表明してくれた佐藤氏を評価するとともに、この提案を強く支持します。

この提案に付け加えるとすれば、言うまでもないことですが、住民投票は現在各地に避難している元住民にも選挙権を与えたうえで実施するべきだということです。

それから、このようなことができなければ国連は無用の長物であり、ここで積極的に動き、その存在価値を見せるべきだと思います。

そしてこの解決案が成功すれば、スコットランド等、世界各地で紛争がある特定地域の独立問題の解決策にできると思います。

家族観とは?2 家族観は変わり続けている

  岸田首相たちが「家族観」が変わることをタブーのように言っているが、家族観は歴史と共に変わり続けている。

 社会的に家族を援助する制度がなかった時代、家族はその成員間で助け合わなければ暮らしていくことができなかった。若い成員は、自らのために食料を狩猟・採集・生産・料理すると共に、働けなくなった老人を扶養し、介護を担い、幼児を自分たちのようになれるように養育することは当たり前だった。

 このような社会では、老人がそのようにされないと社会不安につながるため、「親孝行」というモラルが重んじられた。子の養育についても、「親の責任」を背負わされた。 

 農業社会から工業社会への変遷により、大家族が分解して核家族が主流となり、女性の社会進出も進み、親の扶養や介護が困難になったため、現在の年金制度や介護保険制度で老人扶養や介護の機能を代替し、保育所、児童養護施設は子の養育の機能を代替するようになった。また、外食産業、レトルト食品や冷凍食品の普及、種々の家事の外部化も盛んになっており、かつての主婦の役割はかなり軽減されている。現代社会の変遷は家族機能の社会化が一つの特徴だ。

 以上のような社会の変化に伴い、家族形態や家族の機能は変遷を重ねている。だから当然、「家族観」も変わり続けている。変わってはいけない「家族観」というものがあるのだろうか。変わってはいけないものは大多数の人が論議し合意形成した「理念」(例えば憲法)のようなものだろう。それでさえ、必要ならまたその作業をして変えなければならないことはあるだろう。

 少なくとも彼らが言う「家族観」とはそのようなものではないだろう。是非知りたいものだ。

家族観とは?1 同性婚を巡って

 2023年2月1日には岸田首相が、昨日(2023年2月3日)は首相秘書官が、同性婚について、法制化された場合は、「社会や家族観が変わってしまう」というようなことを言っていたそうだ。このようなことはこのブログでも取り上げた「匿名出産」に関しても与党議員から述べられていた。

 私は結婚制度そのものに疑問を持っているので、同性婚法制化について賛同しているわけではありません。それについては別の機会に述べるつもりですが、上記の発言について皆さんはどうお感じになりますか?

 この発言は当面、この問題がクローズアップされるのを避けたいという逃げの言い訳だと思いますが、これが決め台詞のようになり、放置されると、彼らの「家族観」がどんなものかが分からないまま正当化されてしまうことでしょう。

 家族観とは家族についての各個人の捉え方で、そこには歴史的認識や現状認識、現状についての肯定的または否定的考え方、理想像などいろいろな要素が含まれています。ですから、それは多様であり、現在、社会的に共有されている「家族観」というものがあるとは思えません。彼らが、そのような「家族観」が現在存在しているというのならそれがどのようなものなのか、ぜひ知りたいと思います。そして、それがどの程度社会で共有されているのかについて、世論調査をしてみるべきだと思います。そのうえで、上記に述べた理想像まで含めて国民的に議論することが必要な問題だと思います。そのいい機会であるのに、野党からもマスコミからも民間団体からもそのような動きがないのはなぜでしょう。日本はそのような議論が全くできていない国だと思いますが、それは野党やマスコミにも責任があるのではないでしょうか。これからでも彼らに明確にさせるべきです。

 彼らが明確な考えなくそう言っているとしたら、頑迷に伝統を守っていればいいと自ら考えているか、そのような支持層の反発を恐れているだけの政治家であり、そもそも政治を担う資格のない人たちであることが明らかになるはずです。それはこの問題に限りません。野党の皆さんは、与党政治家のスキャンダルを責めるばかりでなく、このような基本的なことをするべきではないでしょうか。

ロシアのウクライナ侵略問題 4(IOCの方針変更)

  1月25日にIOCが、国際スポーツ大会から除外されているロシアとベラルーシの選手の復帰を検討すると発表したところ、26日、ウクライナの青年スポーツ相が、パリオリンピックをボイコットする可能性をフェイスブックで示唆したという。27日にはゼレンスキー大統領が、IOCがロシア選手が中立を条件にしたとしても、そんなことはありえないという意味の演説をしたそうだ。

 このような行為が、両国国民の敵愾心を煽り、戦争を泥沼化させる一因となるのだ。これまでのウクライナの動きは友好国にまで広がり、日本では演奏会でロシア人作曲の楽曲の演奏を避けることまで起こった。

 昨年の北京冬期パラリンピックの際、IPCがその両国の選手の参加を除外したことが間違いの元だった。戦争は国家間で起こされることだ。戦争は誰もが避けたいことであるのに、このような時、国家に扇動され、そのことを忘れてしまい、国家の方針に無批判に同調してしまうことは、これまで何度も繰り返されてきた。

 国家は敵国を打ち負かすために、敵国のみならず、敵国の国民、文化などにも敵愾心を持たせ、軍隊等の士気が高揚させようとする。上記のウクライナの青年スポーツ相の示唆は、自国選手の気持ちを尊重するように装いながら、そのような狙いを含んでいることは明らかだ。戦意や士気が高まることは戦死者や戦傷者が増加することに繋がってしまう。

 このような時、国民同士が意図していなかった憎しみ合いに至ってしまうことを避けるために、国民は自国の方針を客観化して、少なくとも無批判の同調をしてはならないのだ。

 ゼレンスキー大統領は否定するが、政府を支持していないロシア選手もいるはずだ。ウクライナの代表選手はロシア選手との対戦を嫌がるかもしれない。しかし、そのような場合、主催者側は同じ競技をする人間として他国の選手と同様に接するように説得するべきなのだ。そしてそれが戦争を激化させないことに繋がることも伝えるべきなのだ。決して、棄権を恐れてはならないのだ。主催者側がそのように毅然とした態度でいることが大事なのだ。

 ロシアの国家主義により戦争をしかけられたウクライナが、それに対応するスタンスが国家主義でしかなければ、ロシアを批判することはできない。ウクライナはロシアという国家と戦わざるを得ないが、ロシア国民を敵にしないように、さらに言えば味方にするような姿勢でいるべきだ。そして、ウクライナ国民もロシア国民も同じ人間であり、分かり合えることを信じて接するべきなのだ。

 現在開催中の全豪オープンなどへの両国選手の出場が許可されているので、IOCが除外を再検討しようとするのは無理もないことだ。ただ、気になるのは、IOCがその方針変更の検討を始める動機が、オリンピックの商業主義的な盛り上げにあるとすると、ウクライナとその国民への説得力を持てないだろうということだ。ゼレンスキー大統領に偽善的と言われたが、今後の経過にIOCの良識が問われる。

書評 1 『人新世の「資本論」』

 斎藤幸平 著 『人新世の「資本論」』について

「人新世」とはノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため地質学的に見て、地球は新たな年代に突入し、人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくしたという意味で名付けた年代とのことだ。

このことと、マルクスが19世紀に書いた「資本論」との関係を説明するために書かれた形になっている。(このことについては後で触れる。)

マルクスは『資本論』で「資本主義的生産は、すべての富の源泉すなわち土地および労働者を同時に破壊することによってのみ社会的生産過程の技術および結合を発展させる。」といっているようだが、私たちが「労働者の破壊」にばかり注目していたことを斎藤は見直すべきだという。

彼は、「経済成長が続いて、その恩恵が多くの人にまで分配されるような状況が続いていたあいだは、人々は満足し、社会は安定していた。ところが経済成長が困難になり、経済格差が拡大し、環境問題も深刻化している、それが「人新世」の時代である。」という。

また彼は、「旧来の南北問題を含め、資本主義の歴史を振り返れば、先進国における豊かな生活の裏側では、さまざまな悲劇が繰り返されてきた。いわば資本主義の矛盾がグローバル・サウスに凝縮されているのである。」、 「自動車の鉄、ガソリン、洋服の綿花、牛丼の牛肉にしても、その「遠い」ところから日本に届く、グローバル・サウスからの労働力の搾取と自然資源の収奪なしに、私たちの豊かな生活は不可能だからである。」、「グローバル・サウスの人々の生活条件の悪化は資本主義の前提条件であり、南北の支配従属関係は、例外的事態ではなく、平常(、、、、)運転(、、、、)なのである。」、と述べ、「ところが資本主義のグローバル化が地球の隅々まで及んだために、新たに収奪の対象となる「フロンティア」が消滅してしまった。そうした利潤獲得のプロセスが限界に達したということだ。利潤率が低下した結果、資本蓄積や経済成長が困難になり、「資本主義の終焉」が謳われるまでになっている。」、そして、「もう一方の本質の側面、それが地球環境である。資本主義による収奪の対象は周辺部の労働力だけでなく、地球環境全体なのだ。資源、エネルギー、食料も先進国との「不等価な交換」によってグローバル・サウスから奪われていくのである。人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる収奪の対象とみなす。このことが本書の基本的主張のひとつをなす。」という。

要するに、先進国で信じられていた資本主義の肯定的な評価は、後進国を犠牲にしてきた先進国の、それも一時的な現象でしかなく、資本主義のグローバル化は先進後進を問わず、その限界を露呈し、地球環境の危機までもたらしたということだろう。

そして、「脱成長」の必要性を説き、ピケティを含む、経済成長をしながらこれらの問題に対処しようとするすべての説を否定し、そのための選択肢としてはラディカルに資本主義批判を摂取し、<コモン>を基盤とする「コミュニズム」しかないと結論する。

後半は、「気候市民議会」、「フィアレス・シティ」、「ミニュシバリズム」、「気候正義」などの新しい社会運動を紹介し、このような運動が上記の解決に繋がるという期待を表明している。

最初にこの本を読んだとき私は、現在の資本主義の危機についてマルクスが見通していたかのようにやたらに称揚している論調に疑問を持った。それは再読した今回も同様で、自説を権威づけるためのようにも感じる。ヒントをマルクスが残したノート等から得たとしても、彼自身の思想として主張してもいいのではないかと思う。

また、彼は「コスモポリタン的な理念」の「啓蒙主義」の必要性の擁護を批判し、アナーキズムが国家を拒否するとしてこれも批判する。無政府を批判するのは解るが、国家は拒否してもいいのではないだろうか。私は現在のような国家とは歴史的には過渡的な形態でしかないが,政府は必要だと思っている

そして、グローバル化により結果的に成長が困難になってきた現在においても、脱成長が必要だという主張の整合性の説明が足りないと思う。(例えば、これまでのような成長は困難でも成長の余地はあるが、その余地も止めるべきだというような。)

そうは思いつつも、私はこの人の主張を基本的に支持している。そして彼が情熱を込めて、社会が大きく変わるために必要だという「3.5%」の一人でありたいと思っている。


信彦自戒録 5

 「失敗をなかったことにしようとすることの誤り」


 なんらかの失敗をした時、反射的にその事実から逃れたくなる心理は誰にもある。

「自分はそのような馬鹿なことはしない」などと他人の失敗を他人事としてしか受け止めない、自己中心的な自己意識が強いとそのような行動になってしまう。その反射で逃避すると、取り返しがつかなくなる。

実際の例は少ないが、ひき逃げはその典型だ。事故を起こした瞬間、予測できなかった事態を受け止められず、「そんな気がしただけだ」、「これは白昼夢だ」、「妄想だ」などと思いたい誘惑に駆られることが絶対にないと言い切れる人はどれだけいるだろうか。むしろそんな人ほど逃げてしまうかもしれない。暫くしてから冷静になり、いけないことをしてしまったという反省をして自首する人もいるが、あくまで否定し続ければなかったことにできるかもしれないという気持ちになる人も多い。しかし、目撃者や他の自動車のドライブレコーダーなどから事実を認めざるを得なくなり、有罪になることが殆どだと思いたいが、中には証拠不十分で無罪になる場合もあるだろう。有罪になっても事実を認めない人もいるだろう。

有罪でも無罪でも、罪に問われない日常的な人間関係上の失敗でも、自分の良心は偽れない。良心を偽ってしまうといつも不安になり、それからの人生を暗いものにしてしまう。そのことに気づき、謝罪をするべき相手がいる場合はその人に謝罪するべきなのだ。謝罪しても許されない場合もあるが、それでもいい。そうしなければ、生きている意味はないのだから。