ハマスのミサイル攻撃や人質拘束への報復として行われているイスラエルのガザ侵攻は常軌を逸している。ユダヤロビーに操られているアメリカやホロコーストへの罪責意識に囚われているドイツなどがイスラエル支持をやめられないのをいいことに、イスラエルは報復どころか、金輪際パレスチナからの攻撃がなされないようにするための仕上げを着々と進めている。
この非情さ、苛烈さに世界中から非難の声が上がっていることに対し、イスラエル等のユダヤ人から「反ユダヤ主義」という非難が返されている。こんなことをする国はナチのホロコーストを非難することはできないはずなのに、ホロコーストにつながった「反ユダヤ主義」を、いまだにタブーとして利用し反論する態度は陳腐になりつつあり、そのタブー意識はヨーロッパにおいても、若い世代ほど持ち合わせていないので、このままでは、かつてとは異なった形での「反ユダヤ主義」が起こることになりそうだ。
そもそもパレスチナの問題は、1948年のイスラエル建国に至るシオニズムから始まっている。ガンジーは「聖書の概念でのパレスチナは地理的な領域ではまったくありません。パレスチナはユダヤ人の心に中にあるのです。」とある書簡で語っているが、何千年も前に無くなった国の民が、現実にそこに住んでいる人々を排除して、その民族の国家を再興しようとし、それを支援する国家が存在したということは二十世紀の最大級の汚点だろう。
このような国は全世界から制裁されるべきではないのか。また上記のような支援国家も制裁されるべきではないのか。アメリカやドイツの支援をやめさせるために、両国との経済関係を完全に断つことは困難でも、一部の関係を断つことは検討されるべきではないのだろうか。しかし、そのような動きは全く見られない。
この状況を憂いたイスラエル内外のユダヤ人から、現在のイスラエルを産んだシオニズムは、ユダヤ教に反しているというような言説が述べられている。ユダヤ教は暴力を嫌っており、シオニズムは間違っているというわけだが、この論理だけでは、ユダヤ人すべてが政府の政策を支持しているわけではないという言い訳にしかならず、シオニズムが起こる前の、ヨーロッパの伝統的なユダヤ人迫害や差別などの反ユダヤ主義が起きた理由については問題外になってしまう。そこで、ここでは、これまでの「反ユダヤ主義」等を産んだ、ユダヤ人の「選民意識」について考えてみよう。
始めに断っておくが、ここではユダヤ人と言われるすべての人について述べているわけではない。私は人間を属性で判断することは間違いだと思っている。人間はそれぞれ個性を持って生きている。だから複数の人に属性をこじつけ、その属性で個々の人の判断をすることは間違いである。現に、後で述べるように、ユダヤ的でないユダヤ人が少なくないことを知っている。ここで「ユダヤ人」としているのは、自らユダヤ人という集団意識を持ちながら生きてきた(生きている)ユダヤ人のことであり、いわば、人間ではなく「ユダヤ人」という概念について述べているわけだ。
さて、そもそも何千年前に流浪の民となっても連帯感を持ち続け、行き着いた地域の人々になじまず、ユダヤ教信者でなくても「ユダヤ人」としてのアイデンティティを保とうとすれば、その地域の人々からうさん臭く感じられそうだということを理解せず、その相手を悪者にし、自分たちは善良な被害者、受難者という立場になり、マゾヒスティックに選民意識を抱いているから反ユダヤ主義が生まれるのではないだろうか。こんなことを述べると、私が「反ユダヤ主義者」、差別者などと非難されそうだが、このことはタブーにされているだけで、そのような状況では、そのように感じる人がほとんどではないだろうか。
私はそれが当然だとは言わない。自分たちとは異なる慣習を守る人やその集団を、単になじめないからと、うさん臭い目で見ることは愚かなことだ。しかし、だからといってその相手を単に悪者とすることも愚かなのではないだろうか。不当な行為を受けたと感じた時、なぜそのような行為をするのかを相手に尋ねれば、自らの行為の相手にとっての受け止め方を理解することができるだろうし、自分の行為の説明をすればわかり合うことも可能なはずだ。そのような基本的なコミュニケーションを阻むのが選民意識ではないのだろうか。人間は弱く、人見知りになりがちで、上記のような現象が起こりがちであるということをお互いに認め合えばいいのに、「選民意識」が強いと、自分たちこそ正当だと思い込むから差別や紛争になったりする。
シオニズムを批判している著名なユダヤ人たちの中に、「ディアスポラこそユダヤ人の特性」という類の言説を述べる人たちがいる。このようなユダヤ人も、ユダヤ人がディアスポラを経験して普遍的な思想を生み出す能力を身に着けられたことを、「ユダヤ人ならでは」、とその経過を特権化している。それも選民意識であり選民的意識から脱していない。
ディアスポラがもたらしたものについては、パレスチナ人思想家のエドワード・サイードが、「ユダヤ人だけの特徴だと言う必要はない」、「膨大な人口、避難民、亡命者、国籍離脱者と移民が氾濫するこの時代において、自分の共同体の内と外の両側に同時に生きる人びとの、ディアスポラな放浪と未決のコスモポリタンな意識にもまた、そうしたことが探し出せるはず」と述べているように、ユダヤ人のディアスポラも歴史の中で生じた現象に過ぎない。
そもそも、人類に「選ばれた民」など存在しない。「選民」という観念は、厳めしそうだが、その起こりは極めて幼稚な妄想なのではないだろうか。「選民」とは、「実存」の感覚を自分の殻に閉じ込め、自分は特別な存在(人間)であるかのように思う自己幻想が、伝統、慣習、宗教等が同じ民族に広がった原始的な共同幻想なのではないだろうか。
優性思想や選民的意識はアングロサクソン系アメリカ人、中華思想の漢民族、ナチスドイツのアーリア系民族など各地にみられ、日本にも太平洋戦争以前には神国思想などが興隆した。しかしユダヤ人以外の民族は、その民族に勢いがあるときに限られている。そして、ユダヤ人以外の民族は、出身国から離れると自己の民族性を徐々に失っていくが、アメリカにおけるユダヤ(イスラエル)・ロビーの活動は活発で、ガザ侵攻問題の解決を困難にしているばかりか、アメリカが軍事支援をやめないように圧力をかけ、ヨーロッパにおいても様々な自民族援助が行われているように、ユダヤ人の選民意識による結束力は特別だ。ユダヤ人がこのような意識から脱することは不可能に見えてしまう。
しかし、ユダヤ人のなかには、選民意識やユダヤ性を感じさせないマルクス、フロイトなど、いまだに世界中に強い影響力を持っている人物がいることは有名で、先に述べたような普遍的な思想を生み出す能力を身に着けられた例とされている。フロイトは自らのユダヤ性を認めているが、それに縛られた言説は自制されていると言えるだろう。
私は、私自身も影響を受けた、このような人物がユダヤ人から輩出されたことを、かねてから不思議に思っていた。ユダヤ人が特別、優秀な民族だからだという答えは「ユダヤ人選民論」に逆戻りになる。それを排除して考えると、このような結論になる。
ユダヤ人の選民意識は特別根強いから、これを客観化し、脱するという困難を克服するためには、人間という存在の意味を特別深く考え理解しなければならなかった。そのために彼らは、民族等の属性などを始めとするあらゆる既成概念を相対化しなければならなかった。それを実践した彼らは民族等を超えた思想や理論を獲得することができ、その思想や理論は広く普及し、現代に至っている。
このように言うと、「そのような特別な人しかユダヤ性を克服できないのではないか」と思われがちだが、そんなことはない。彼らはそういうことができるという範を示してくれたのだから、それに倣えばいいのだ。先駆者としてそれを実践することは大変なことだが、後の人はそれをはじめから経験する必要はなく、いわば模倣すればいいのだから誰にでもできる。要するに「選民」という意識は思い込みに過ぎないということが理解されればいいのだ。
ヨーロッパにおいて、ユダヤ人以外の社会に同化したユダヤ人は多いようだ。ユダヤ人性に客観的と言われていても、そこから逃れられていないアーレントは、同化主義者をシオニストと同様に、「反ユダヤ主義の教義に逃れた」と批判したようだが、必ずしもそのような消極的動機ではなく、ユダヤ人という出自にこだわらず、素直な気持ちで同化した人は少なくないのではないだろうか。むしろそのような同化こそ進むべきだったのではないだろうか。
民族、人種、国籍、性別等の違いなど、生まれながらの属性は、たまたま備わってしまったのであり、それに意味はない。属性を恥じたり、誇ったりするのは愚かな心理でしかない。この理解が広がり、みな等しく「人間」であり、そのことに比べたら属性は些細な事だということが認められなければならない。
「自民族性から自由に」、ということは人類共通の課題だが、「選民」という観念に縛りつかれているために現在最も苦しんでいるユダヤ人が、まず取り組む必要があるのではないだろうか。ユダヤ人が自身のために「選民」の呪縛から自由になれば「反ユダヤ主義」はなくなるだろう。ユダヤ人が真っ先に選民意識や民族性から脱し、他の民族にそれが広がれば、人類は国家という共同幻想からも脱し、世界の分断がなくなる未来が開けるだろう。