この本のことを早尾貴紀の『ユダヤとイスラエルのあいだ』で知り、読まなくてはと思った。そこではサイードはフロイトを評価しながら、疑問を一部に述べていたことが紹介されていたが、表題の本を読み始めると、いきなりフロイトを批判する言説の連続で、サイードはなぜこんなにフロイトを責めなくてはならないのかというのが第一印象だった。
曰く。「ヨーロッパという制約を超えた他の文化へのフロイトの配慮には屈曲したものがあった」、「彼は、例えばインドや中国の文化に言及しておりますが、(中略)関連する主題を専門とするヨーロッパの研究者たちがおこなう比較考証にとって興味を惹く限りで、なされたにすぎません。」、「ひとたび文化という視点から見ると、フロイトが非-ヨーロッパ的な人びとや物語にたいする魅惑された程度は、古代ギリシャ、ローマまたイスラエルの人びとや物語にたいする彼の好奇心を超え出るものではなかったのです。」等等。
しかしサイードは、「フロイトが、結果的にですが、非-ヨーロッパ的原始とヨーロッパ的文明を分断する障壁を乗り越え不能なものとして打ち立てるのではなく、明示的とは言えませんが、それを拒絶している」、フロイトが『一民族が同胞中の最大の存在として讃えている人物の出自がその民族にはない、とそのつながりを否認する』という「真理のためにそうした離れ業に打って出るのであり」、「またそれが『国民的利益と見做されていること』より重要なのだとも考えていた」、「「全民族の利害を、同じ考えを持つ信仰者たちの共同体や歴史の内部における固有の場から宗教の起源を外して考えてみるといった、もっと重要な事柄のもとに従属させる意欲の発露なのです。」等と述べていて、読み進むうちにサイードは、ユダヤ人でありながらそのアイデンティティを問い続けたフロイトを評価するからこそ、批判せざるを得なかったのだろうと思うようになった。そして、フロイトでさえ超えられなかった限界が、現代のパレスチナの状況を招いていることに無関係ではないことを、当事者として痛切に感じるからこそ、このように述べざるを得なかったのだろうとも思った。
それにしてもユダヤ教が改めて根強いことを痛感するとともに、それを否定してもなお残るとイェルシャルミが言う「ユダヤ人的精神構造」、ドイッチャーの言う「非-ユダヤ人的ユダヤ人(スピノザ、マルクス、ハイネ、フロイト)」らが、「「ユダヤ人として、「ユダヤ人や非-ユダヤ人の伝統主義やナショナリズムから自由になったユダヤ人ほど、等しき者たちのインターナショナルな社会」を(説く資格のある者はほかにないと)主張したことがあったにせよ、彼らは「究極的な人間の連帯を確信していた」と述べ」ていることに表れている「ユダヤ人だけの特徴」という主張には絶望してしまいそうだ。しかし、サイードは、「こうしたことがユダヤ人だけの特徴だという必要はない」、「膨大な人口移動、避難民、亡命者、国籍離脱者と移民が氾濫するこの時代において、自分の共同体の内と外の両側に同時に生きる人びとの、ディアスポラの流浪とコスモポリタンな意識にもまた、そうしたことが探し出せるはずです。」と述べ、「アイデンティティについてのフロイトの未決感が非常に実り多い事例であるのと同様、彼がそのためにかくも骨を折った条件が、現実には、彼がうすうす感じ取っていた以上に、非-ヨーロッパ世界では一般的だからです。」と締めくくっている。
思うに、ヨーロッパでは、ユダヤ教やキリスト教の伝統が根強いために、「神」や神的なものから自由になりにくいのだろう。振り返って、日本などの信仰心が薄い国が、サイードが言うような条件に当てはまるのかと考えると、決してそうは言えないのはなぜだろうか。