書評 結婚の社会学 著/阪井裕一郎 

 この著者は私が数年前に読んだエリザベス・ブレイクの『最小の結婚』の共訳者のひとりだった。そのため、特に後半でこの著書の引用が多くなっている。

  読んでいて、タイトルの『結婚の社会学』から想像した内容とずれを感じる部分がかなりあったが、あとがきを読むと、このタイトルは編集者から提案されたものだったとのことで合点がいった。

冒頭でこの著書は、最近の欧米で家族をめぐる大きな変化が起きていることを解説している。具体的には、婚姻制度以外の共同生活をカップルが増加し、同時に、出産・子育てが婚姻制度からどんどん分離しているという。

それから、現在、国連加盟国の中で夫婦同姓を法定しているのはわが国だけになっているそうだが、最近わが国でも、国会で夫婦別姓について議論が交わされるようになったことに関し、日本では1898年に民法で一戸籍一氏が確立するまで、明治政府は妻の氏については、慣習にしたがって実家の氏に固執していたという歴史に言及している。

そのような状況だったのに、不平等条約を改正するために、欧米、特にドイツの法律を模倣して同姓にせざるを得なかったとのこと。当時、これに対し、「儒教道徳を重んじ、別姓を伝統としてきた旧武士層から多くの反発が噴出」したそうだ。現在の同姓制度支持者が「「伝統の破壊」や「西洋への追随」とみなす夫婦別姓に対する批判と真逆の構図ですね。」という皮肉が面白い。

また、開国のころ、日本に来た西洋人たちが日本の男色文化を非難したため、日本の指導者たちがそれを「不道徳」とみなすようになっていた、とアメリカの歴史学者が著書に記していたとのこと。

これらは、明治維新以来、欧米を真似ようと必死だった日本が、変わりつつある欧米に追い付けなくなり、迷子のようになっている現在の日本を象徴している。当時の欧米の勢いに押され、その相手を客観的に分析せずに、ひたすら真似をすればいいという安易な姿勢が貫かれていることがここにも表れているに過ぎない。「和魂洋才」という掛け声が掛け声でしかなかったことを物語っている。

ことの是非はともかく、当時の我が国の伝統を守り、欧米の真似をしなければ、夫婦同姓問題は起こらなかったことになる。現在の、同性愛者等の差別意識を温存しながら、LGBTQの主張に流されるという迷走も、いまだに日本人の明治以来の西洋コンプレックスが続いていることが表れている。

後半の第5章の「セクシュアル・マイノリティと結婚」では、セクシュアリティとジェンダーについての詳しい解説とともに同性婚が欧米に限らず認められるようになっていることや、同時にパートナーシップ制度も普及していて、異性同士でも結婚の代わりにそちらを選ぶことができるようになってきた国々の状況を記している。

第6章の「結婚の未来」では、アイルランドで高齢の男性と中年の男性が、ケアと財産相続を交換条件にしようとする際、贈与税を避けるために結婚したという、これまで誰も考えなかったようなエピソードが語られ、こうなるとそもそも結婚とは何かということになる。

フランスで1999年に制定されたPACSというパートナーシップ制度は同性愛カップルのためだったが、異性カップルも法律婚の代わりに選択できるばかりか、性的関係、恋愛関係に限定されず、友人同士でも契約でき、ベルギーでは兄弟でも利用可能とのこと。このため著者は、「近年、世界では友人と家族を明確に線引きすることの正当性が揺らいでおり、社会の在り方を問い直す動きが高まっています。欧米の社会学でも、90年代後半から「友人の家族化/家族の友人化」や「選び取る家族」という新しい概念が注目されている」と述べている。そして、エリザベス・ブレイクが『最小の結婚』で、結婚でしか手に入らない法的権利を多くの人に保障するべきだと主張していることや、キスレフが恋愛より排他的でない友情を重んじることにより一人で同時に複数のルートでサポート関係を構築する社会を構想していることを紹介している。

また、マーサ・A・ファインマンが、「「家族という社会的・法的カテゴリーが、中核に結婚関係があるかないかに依存してはいけない」(『ケアの絆』)」、と主張し、さらに、「「出産や育児といった子どもをめぐる再生産については「明らかに重要な社会的利益」であり、「私たちが本当に子どもの福祉に配慮するなら、オルタナティブな関係にも結婚と同様に社会的な援助や支援を与える政策をめざすべき」だと述べていることを紹介している。これは、子育てを家族でという固定観念から離れ、社会全体で支えようという、もっともな主張であろう。

世界の動向を知ることができた貴重な著書であったが、最後に著者は、主に我が国内において、子育て支援の議論が、子どもを持つ人と持たない人の分断を生んでいるとして、「結婚している人を支援すれば、独身の人が損をする」「子どもを持つ人を優遇すれば、子どもを持たない人が損をする」などの応酬がみられることについて、「我々を縛っている損得勘定の常識を問い直すことが重要」といわば啓蒙的な批判をして結んでいるが、これには賛同できない。日本人が欧米先進国の仲間入りができているという安心感を持ち、学ばなくなっていることは確かだが、実際にこのような分断はこの議論から生じているわけではない。立場により有利であったり不利であったりする構造は有史以来、緩和されたことはまだほんの一部に止まっている。それどころか常に強者は権利保持に努め、拡大のチャンスをうかがっていて、それは新自由主義の普及により急激に拡大している。そのような社会の分断情況に触れずに済ませてしまっていることは残念だった。

書評 「家族」を超えて生きる 著/山本智子

 この著書は、副題にあるように、西成区(大阪市)の障害者施設でスーパーバイザーをしている臨床発達心理士の精神障害者を支援する現場からの報告である。

著者は、この著書の序文を寄せた精神科医の成田善弘が、親役割を果たさなくなった家族の中で、育つ子どもが青年期以降、不適応状態を示すことがあり、診察室の中で「自分は悪くない。悪いのは家族だ」と訴えることがあるが、自分を「被害者」だと規定すれば、自分の内なる欲動や空想に気づく必要や、自分が変化する必要がなくなる。ここには「悪しきものは自分の内部にあるのでなく外部からくる」という古代の精神病観に似た思想が見え隠れすると指摘していることを紹介し、「これは・・・親との関係の中で苦しみ、長い時間が掛かったけれどもその苦しさがどこから来ているのかを見つめることによって、「誰が被害者でも加害者でもない。そこで起こっていた家族力動がおかしかったのだ」ということに気づき、楽になっていったことと重なるように思う。」と述べている。

この著書には主に5人の精神障害者を支援する過程が述べられている。被援助者たちは、母親が統合失調症の母子家庭、母親が再婚した家庭、厳しい養父母の家庭、親戚の家庭という環境で育っている。残りの1例は実父母の家庭だが、母親に抱擁を拒否されたことがあるという。彼ら、彼女らは、それぞれ、世間的に理想とはいえない家庭で育ち、それが精神障害になった原因だと自ら思い込んでいるようだ。著者はその思い込みが自分を縛っていることを面談によって明らかにしていく。被援助者がそのような面談や援助チームの支援を経て立ち直っていく過程には感心させられる。

ここには「普通の家庭」という幻想が人々を苦しめている現代社会が描かれている。多くの人がそのような家庭を基準にしているため、そこから外れた家庭の子供たちは精神的な変調をきたすと、序文のように、「普通」でなくなった家族のせいにし、精神病に対する社会的なスティグマも作用して「セルフスティグマ」に陥ることも重なり、自己を客観的に見られなくなっているようだ。それを解きほぐしていくには、さぞかし丹念な努力が必要なことだろう。

援助チームのメンバーには、「家族を超える」という発想が生まれている。考えてみれば、家族とは夫婦関係を除けば、お互いに選んで結ばれたのではない偶然の集団であり、親子は人格で結ばれた関係ではない。母性愛、父性愛などを特別に大切な愛とすること自体が神話だといえるだろう。

家業中心の社会から賃金労働が中心になった現在、一定の社会的な援助がなされるようにはなったが、家族単位の自助が依然として原則であること自体は変わっていない。その原則が「普通」の家族に貫かれている。その状態を維持するために意図的に様々な幻想が創られ、いまだに多くの人びとは「親孝行」、「母性愛・父性愛」、「仲睦まじい家庭」などのモラルに疑問を持たない。母の日のカーネーションはかつて問題となったが、なぜかすっかり忘れられている。このような孤児、ひとり親など、子供に関係なく生じる事態を例外としてしまう社会は人間的な社会とはいえないのではないだろうか。

この著書に取り上げられた事例には救われる気持ちを持てるが、この背後には多くの救えなかった例があることだろう。それはこの地域以外の全国、いや全世界に限りなく存在していることだろう。そもそも、このような援助が不要な社会であるべきなのではないだろうか。どんな環境に生まれた子供でも、ひけめや、生活上の苦難を被ることなく生きていくことができる社会を実現するためには、人間は「家族を超える」必要があること、今後も「家族」が存在するとしても、親子関係は血縁関係でしかないことが一般の人々にも自覚されていなくてはならないのではないだろうか。

書評 西洋の敗北 著/エマニュエル・トッド 訳/大野 舞

 書名や「日本と世界に何が起きるのか」という副題を見て、どんな本かと思って読んでみたら、ロシアのウクライナ進攻をめぐる評論だった。副題は、日本人向けにまえがきとあとがきが書いてあるためで、売れる本にするため出版社の作戦なのだろう。

ということで、ウクライナ戦争はロシアが西洋側に勝利するという結論になる解説が大半であったが、そのなかにも、参考になることは多かった。また疑問のある言説も多かった。

まず、プロテスタンティズムの(カトリック側から見た)特質についてだが、「プロテスタントの信者は、誰もが聖書にアクセスできなければならない」ので、信者を識字化させたという。そしてその能力は技術と経済の発展を可能にし、「意図せずして、非常に優秀な労働力を形成した」という。また、予定説を信じるようになり、「選ばれし者と地獄に落ちる者がいる」、「つまり、「人間は平等ではない」という人間観を共有している」、その不平等主義は「洗礼によって原罪から清められた人間はみな平等である」というカトリック(あるいは正教会)の根本的な考えに対立した」、「その結果として、人種差別が最も激しく、最も強固な形で現れたのがプロテスタンティズムの国だった」、さらには「これは基本的な人権をすべての人に認めるわけではない、というプロテスタンティズムの本質的な帰結なのである」とまでいう。ここまでプロテスタンティズムへの批判をするトッドの母国で主流のカトリシズムはどうなのだろうかと思いつつ、一応、受け入れた。

これは、「国家」や「国民」という概念の起源論にまで及び、誰もが聖書にアクセスできるようにするためには、聖書が土着の言語に訳されるべきということになったためで、プロテスタンティズムがそれらを生んだという説を述べる。確かにそれは一理あると思える。ただ、その概念はフランス革命が起源ではないとし、「プロテスタンティズムは、聖書を読みすぎたことで、「我こそは神に選ばれし者」という自己意識に至った人を出現させたのだ」とまでいうので、ここでも、「フランスはどうだったのか?」と言いたくなる。

この後もキリスト教の崩壊と思想の退化についての言説が延々と続く。トッド曰く、キリスト教崩壊の段階は、「活動期」段階から「ゾンビ」段階を経て、現在の「ゼロ」段階に至ったとのこと。現在は、東欧とイタリア以外ではキリスト教は消滅しているという。ほんとうにそこまでいっているといえるかどうかは疑問だが、ヨーロッパのキリスト教信者がかなり減っていることは確かだろう。

さて、ヨーロッパでは、その「ゾンビ」段階ではキリスト教的な慣習は残っていたが、「宗教を代替する信仰」として、ナショナリズムや国民国家を生み出されたという。しかし、この段階では、拘束力のある社会道徳や集団のために犠牲となる能力は残っていたが、現在の「ゼロ」段階は国民国家が解体され、グローバル化が生じた状態だという。この段階に至ると、道徳的精神がなくなり、これがもたらした「虚無」感がニヒリズムを生んだという。現在、ウクライナに代理戦争をさせることに疑問をもたないのは、「道徳ゼロ状態」を現しているという。そんなヨーロッパが、間接的にでも、ウクライナ戦争に参戦したことは自殺行為のようなものだという。

そして、今度は、「EUの軍事的な自殺幇助に死を与えるという」新たな役割を担うことになったアメリカの「貧困化」の話題となり、アメリカは新自由主義により、1945年当時、世界の工業生産の45%を占めていた工業生産が、今日では17%まで落ち込んでいて、中国は2020年に28.7%に増加しており、同盟国間の貿易赤字は2930億ドルで、中国に対しては3500億ドルの赤字だそうだ。このようなデータは参考になる。

アメリカのプロテスタンティズムの消滅についても言及している。1990年代に福音派が終わったという説は支持できないが、アメリカにおいては、反科学的なメンタリティと病的なナルシシズムにより、「神は(信者に)要求する存在ではなく、信者をおだて、心理的あるいは物質的なボーナスを与える存在になってしまった」という。

欧米で、出生率の低下がみられることは宗教性の退化を示す最も確実な方法だという説は支持できない。現に、欧米よりも顕著な日本や韓国の出生率の低さは宗教性の低下のせいとは言えないだろう。仮説ではあるが私見を述べれば、老齢年金制度が整った社会で起きている現象であり、この社会では子育ても社会で担わないと、子育ては経済的に割に合わない行為になるからだと考えている。

なぜかここで突然、トランスジェンダーについてのトッドの考え方が述べられる。トッドは、ジェンダーを自分の好みに従って変えることに反対であるという。このことは支持するが、性染色体を変えることができないのに、それができると主張することは「虚偽を肯定することで、典型的なニヒリスト的行為である。」、「虚偽を社会の心理として押し付けたいという欲求」を非難する理由については支持できない。ニヒリストなどという道徳的な非難には違和感があるし、私見を述べるならば、人間の性別は、人間も一種の動物でしかなく、その肉体の束縛のもとでしか生きられないという限界を認めざるを得ないということを人間も受け入れるべきだと考えているからだ。それは身体的な性別が男女に分けられない人がそのまま社会的に受け入れられなければならないということを含め、社会的なジェンダーとは別の問題だと考えている。

終盤になると、トッドは得意の統計的手法で、1965年に、「「高等教育を受けた人口が25%以上」という閾値にアメリカが達し(ヨーロッパは約1世代分後れで)」、「即座にあらゆるレベルでの知的衰退」をしたという分析を述べる。それは、「教育こそが切り札の一つだったプロテスタンティズムの消滅が起因していて、それが福音主義を普及させたという。

本書には、ほかにもこのような統計的手法にもとづく言説があるが、その統計数値が意味することや、どのように社会に影響を与えるのか説明がないのはおかしい。知的衰退についていえば、アメリカ人の知的水準は変わっているとは思えない。少なくとも、第2次大戦後は娯楽しか求めていなかったのではないかと思っている。それは、アメリカの文学作品や映画を見れば明らかだ。その原因は、資本主義が絶頂期だったせいだと考えている。

トッドは、アメリカは、新自由主義や自身が進めたグローバル化により、自己の覇権を失いつつあるとして、それは世界通貨としてのドルを生み出して金銭的な富を得ており、ドルはコストゼロで生産でき、それ以外のすべての経済活動は採算の合わない、魅力的でないものになるからだという。そのようなシステムを担う銀行家やロビイストがアメリカにおける最高の職業になっているという。

そのような欧米の状況の中では、欧米のいう「その他の世界(欧米とその友好国以外の国」にとって、西洋はもはや尊敬に値する勝者ではなくなり、西洋の傲慢さに世界が苛立ちを募らせていることがロシアにとっての切り札となり、ロシアの経済制裁が効果を出すことができないのだという。「その他の世界」は、中国、インド、ブラジルなどの大国を含み、圧倒的な多数者だからだと述べている。

トッドの言説を俯瞰すると、世界の動向を機敏に察していることは確かだが、その原因としての宗教の社会的影響や伝統的な家族形態に囚われすぎているように思える。確かに西洋はキリスト教を離れて分析できない。しかし、科学的な知識の普及や哲学により、徐々にではあるが確実に西洋人はキリスト教から自由になりつつあると思っている(ただ、アメリカの福音派を含む宗教の動向については読めないが)。だから、上記のように、キリスト教の衰退が現在の欧米の劣化の主原因のような言説には説得力を感じられないのだろう。トッドは自己の手法で有名となったことに溺れてしまい、その手法を通した表面的な世界がしか見えていないのではないだろうか。