書評 ポストヨーロッパ 著/ユク・ホイ 訳/原島大輔

 日本人以外の東洋人?(中国人?ウィキペディアには「香港出身の哲学者」とされている)によるヨーロッパ文明批判の書籍なので興味を持った。

日本語版へのまえがきに、本書が日本思想に深く取り組んでいることや日本滞在時に日本人研究者と交流し、「それまでにないほどの洞察を」得ることができたことが述べられている。

なるほど、彼はこの著書で、第二次大戦中の日本に起きた「近代の超克」運動や京都学派、西田幾多郎、竹内好などの言説を正面から受け止め、批判的に評価している。

彼はかなり、ハイデガーの影響を受けていて、この「ポストヨーロッパ」論を、ハイデガー独特の「故郷喪失」、「(サイバネティクスによって画定された)哲学の終わり」、「惑星化」、「総かり立て体制」等の概念に触れながら展開しているため、後期のハイデガーの著作を読んでいないとわかりにくいが、訳者解題やウィキペディア等を参考にしながら読んでみた。

著者が注目しているのは、ヨーロッパ哲学がテクノロジカルな思考であることで、それがヨーロッパ哲学をグローバルにしたということであるようだ。それだけだと解説にすぎないが、著者は、それは理論的な先進性によるものではなく、海軍力の先進性がヨーロッパを非ヨーロッパ地域と比べて武力において優位に立たせたからだったからだと述べている。これは非ヨーロッパ人ならではの鋭い批判的分析でありわかりやすい。著者は、ポストヨーロッパ哲学はテクノロジーを抜本的に改革しなければならないという。そして西谷啓治がこのことを理解せず、近代科学を拒否したことが「近代の超克」プロジェクトが失敗した理由の大部分を負っているという。

以下、哲学論は正直いってよくわからないので、歴史認識を中心にこの著作を紹介し、私なりの理解や批判を述べる。

私が注目したのは、日本がヨーロッパと競争するために、極度に圧縮された近代化の過程を踏まざるを得なかったことで「方向喪失」に陥ってしまい、京都学派の思想家たちが、ヨーロッパ内の近代批判を認識しながら、日本中心の世界秩序を論じるようになり、それが他のアジア諸国を侵略することを正当化するために利用された、という言説である。そう、維新政府は日本をヨーロッパに追いつかせるために、政府主導で産業を興し、社会の制度を輸入してきたため、日本は官製国家でしかなく(これはいまだに続いている)、国民は封建的な従属性を受け継いだままで、政府が巧妙にプロパガンダで国民を操る状況から思想家も自由ではなかったのだ。

そして著者は、現代の消費社会は上記のようなテクノロジー万能的な哲学から生じ、「知性的過程を短絡」させ、ショッピング、ヴィデオゲーム、SNSの中毒現象を増殖させ、欲動に支配された経済は人間を脱個体化し、個人は自分自身を愛し損ね、それゆえ他者を愛する能力も失うと述べ、ポストヨーロッパ哲学はアメリカ的消費経済と対決しなければならないという。

この論文全般には、人間がこれまで「故郷」に自己のアイデンティティを求めてきたため、その思想がナショナリズムや人種主義などにとらわれてきたこと、その故郷がグローバル化、惑星化により失われてきて(「故郷喪失」)、よりどころがなくなったことが現代の精神的な危機の原因であることが述べられている。

著者は、これを解決するためには、故郷を取り戻すことではなく、故郷喪失を肯定し、「思想家が国民国家を乗り越えるためには故郷喪失者になるしかない」という。そして彼は、コーダ(終章?)「ニーチェの後に、善きヨーロッパ人」の最後に、「出生が意味するのは国籍ではなく、むしろこの惑星上への偶有的な被投性、そしてそれによってひとが生きてこの惑星を共有する権利を獲得するということである。この偶有性はまた必然的な初期設定としての欠陥をも意味する。ひとはそれを通じて特殊な歴史と場所から与えられた特定の資源の継承をするのである。」という存在論を述べている。これこそ、由来はヨーロッパであっても、人間(地球人)は、どこの国民でもなく、そしてすべての属性から自由に生きようという、すべての人間を結ぶ認識だと思う。

この著書は理解しがたい面もあるが、私が期待したとおり、日本人以外の非ヨーロッパ人によるヨーロッパ文明批判として満足できるものだったが、無視できない30頁以上に亘る訳者解題がある。前半の「本書にいたるホイの仕事について」で字義のとおりの説明があり、「本書について」は訳者独自の考え方が述べられている。この中で訳者は、「本書のとりわけ日本語版の読者がホイの問いに応えるためには、まずもって前世紀の日本における「近代の超克」にそれぞれの立場から対決することが求められているように私には思われる。」として、加藤典洋の『敗戦後論』の「よごれ」をとりあげ、「よごれとは侵略戦争という悪をなして敗れたということである。戦争を通過した私たちは二度と過去に回帰することが不可能な仕方でよごれた。このことに向き合わない限り自己に向けても他者に向けても哀悼と謝罪が可能な主体がいつまでも構築できない。この状態でいくら哀悼と謝罪をしたところでどこまでも形だけのものにしかなりえない。このねじれとよごれを抑圧した自己欺瞞ゆえに私たちはいわば人格が外向きと内向きの自己に分裂しており、これを克服して一個の人格を回復しなければ先に進めない。」といいながら、なぜ分裂していているのか、どう人格を回復させるのかを述べていない。これではこの問題が単にモラルにしか及ばず、かねてから「自虐的」といわれていた言説と変わらない。

私はかねてから日本のアジア侵略は、日本人が欧米の帝国主義的な政策に反感や危機感を持っていたにもかかわらず、それと同じことをアジア各国にしてしまうという卑劣な行為であったと考えている。そしてその反省は、欧米への反感等にとどまり、欧米批判に至らなかったということを踏まえたものでなければならないと考えている。日本人の人格が分裂しているのは、東京裁判により、欧米批判を意識的にも無意識的にも抑圧させられていることに原因があると思っている。「鬼畜米英」と叫んだことや戦前の右翼思想すべてを否定してしまうことは間違いなのだ。欧米の大航海時代からの侵略は当時の日本人の脅威であったのであり、このことを抜きに過去の批判を安易にしてはならない。欧米にこのことについて反省させ、アジア諸国への謝罪をするならば、欧米とともに謝罪するべきなのだ。

この著書において著者ホイが、軍事力で地球中を荒らしまくった欧米批判を展開しているのに、これを翻訳しながら、この訳者はそれをどう読んだのだろうか。ホイは、ヨーロッパ中心主義がヨーロッパのみならず、「惑星的」に普及していることを読者に訴えているにも関わらず、それが理解されにくいことが、訳者の言説でも明確になってしまっている。

 

書評 トランスクリティーク カントとマルクス 著/柄谷行人

 著者の柄谷氏自身が、この著書について「難しい本」だとインタビューじんぶん堂企画室)で語っているとおりの難解な本だが、彼は、カントやマルクスの著書についてのポイントをついた引用をし、具体例を挙げながら、彼独特の解釈もあるとは思うが、丁寧な腑に落ちる解説をしてくれているので、なんとか読み通すことができた。しかし、内容が濃いため、脳が煮詰まり、続けて読めるのは2時間がせいぜいだった。 

正直言って、カントの著書は全く読んだことがないのでピンと来なかった。マルクスについては、『共産党宣言』、『ヘーゲル法哲学批判序説』、『ドイツ・イデオロギー』等の小冊子のみで、『資本論』については断片的な解説しか読んでいなかったが、彼の『資本論』の解釈は納得でき、参考になるものだった。

さて、この著書は注まで含めると500頁を超える大著であるため、ここで全体について触れることはできない。以下、私なりに理解したマルクス解説について述べる。

結論からいうと、資本主義の仕組みの労働者搾取だけでなく、交換過程に注目するべきであり、そうすれば、これまでのマルクス主義者による資本主義の捉え方では抜け出すことができなかった、資本=ネーション(共同体、集団)=ステート(国家)という三位一体のリングの出口を見出すことができる、ということを彼はいいたかったのだと思う。これを彼は、マルクスが『資本論』で、「産業資本の剰余価値は、たんに労働者を働かせることによってではなく、(総体としての)労働者が作ったものを労働者自身が買い戻すことにおける差額から得られる」と述べていることを引用しながら導き出している。労働者からの搾取ばかりを問題とした労働運動のみの抵抗運動は結局、資本の力に対抗できず、社会的な広がりを期待することもできないため行き詰まる宿命にあるのだという。

 

このことが、エンゲルス以降のマルクス主義者には理解されなかったから、ソ連の様な集権主義的な社会主義国家が生まれ、その後、衰退したのだろう。この辺を読んでいると、アレントの『革命論』におけるマルクス批判が極めて表面的なことをつくづく感じる。

そして柄谷氏は、この交換過程への注目から、「アソシエーション」という思想をもとに、労働者が「買わない」ということにより資本を脅かすことができる消費者運動を、労働運動と連携させることが有効な資本経済への対抗運動となると述べ、具体的には協同組合で生産、消費を管理すれば資本主義を揚棄することができるという展望を述べている。

彼の、交換過程への注目や「アソシエーション」への言及、消費者運動と労働運動の連携については目新しいものを感じる。しかし協同組合による資本主義揚棄は頷けない。現在、消費者協同組合は存在するが、資本に対抗する運動母体になるようには見えない。生産協同組合はこれまで西欧等で生まれたがほとんど消滅しているようだ。柄谷氏は、1990年代以降、「世界商品」が、巨大な資本による耐久消費財生産から、情報産業に移行しつつあるので、今後、生産協同組合がそれを担える状況が生まれているとしているが、そもそも、そのような運動は起きるような気配はない。

柄谷氏の言説は、20世紀初頭だったら有効だったかもしれない。経済的に悲惨な状況が過去に比べて軽減されている現在、社会民主主義的な改革が一定程度浸透している現在、どのような人々がそのような運動を起こすのだろうか。この状況は社会民主主義を批判しても打開できない。     現在の危機は、地球環境問題や人間が、消費や娯楽の奴隷のようにされていることにあるのではないだろうか。彼は、資本主義的商品経済の限界として、自然環境と人間を自ら作り出せないこととしている。これについては「後に述べるように」とあるので探したが、具体的な言及は見つからなかった。私の読み方が足りないのかもしれないが、残念だった。

今、必要なことは、目に見えにくいが確実に人類を滅亡させるようなこの危機を、多くの人々に気づかせることではないのだろうか。それがなければ資本への対抗運動は起きないだろう。

もうひとつ気になることがある。それは斎藤幸平氏にもいえることだが、柄谷氏も多くのマルクス研究者と同じように、「マルクスは○○といっている」という論理に囚われていることだ。マルクスが偉大な思想家であることに、私も異論はない。しかし、あくまで優れた一人の思想家として捉え、その優れた考え方を学ぶというスタンスを保持するべきだ。そうでないと、マルクスの崇拝者でしかないか、自分の考えをマルクスに権威づけてもらうようなことになってしまう。要は、自分が現在感じていることを表現するべきなのではないだろうか。そうすれば、今、ここにいる人々に響く言論になるのではないだろうか。