書評 「家族」を超えて生きる 著/山本智子

 この著書は、副題にあるように、西成区(大阪市)の障害者施設でスーパーバイザーをしている臨床発達心理士の精神障害者を支援する現場からの報告である。

著者は、この著書の序文を寄せた精神科医の成田善弘が、親役割を果たさなくなった家族の中で、育つ子どもが青年期以降、不適応状態を示すことがあり、診察室の中で「自分は悪くない。悪いのは家族だ」と訴えることがあるが、自分を「被害者」だと規定すれば、自分の内なる欲動や空想に気づく必要や、自分が変化する必要がなくなる。ここには「悪しきものは自分の内部にあるのでなく外部からくる」という古代の精神病観に似た思想が見え隠れすると指摘していることを紹介し、「これは・・・親との関係の中で苦しみ、長い時間が掛かったけれどもその苦しさがどこから来ているのかを見つめることによって、「誰が被害者でも加害者でもない。そこで起こっていた家族力動がおかしかったのだ」ということに気づき、楽になっていったことと重なるように思う。」と述べている。

この著書には主に5人の精神障害者を支援する過程が述べられている。被援助者たちは、母親が統合失調症の母子家庭、母親が再婚した家庭、厳しい養父母の家庭、親戚の家庭という環境で育っている。残りの1例は実父母の家庭だが、母親に抱擁を拒否されたことがあるという。彼ら、彼女らは、それぞれ、世間的に理想とはいえない家庭で育ち、それが精神障害になった原因だと自ら思い込んでいるようだ。著者はその思い込みが自分を縛っていることを面談によって明らかにしていく。被援助者がそのような面談や援助チームの支援を経て立ち直っていく過程には感心させられる。

ここには「普通の家庭」という幻想が人々を苦しめている現代社会が描かれている。多くの人がそのような家庭を基準にしているため、そこから外れた家庭の子供たちは精神的な変調をきたすと、序文のように、「普通」でなくなった家族のせいにし、精神病に対する社会的なスティグマも作用して「セルフスティグマ」に陥ることも重なり、自己を客観的に見られなくなっているようだ。それを解きほぐしていくには、さぞかし丹念な努力が必要なことだろう。

援助チームのメンバーには、「家族を超える」という発想が生まれている。考えてみれば、家族とは夫婦関係を除けば、お互いに選んで結ばれたのではない偶然の集団であり、親子は人格で結ばれた関係ではない。母性愛、父性愛などを特別に大切な愛とすること自体が神話だといえるだろう。

家業中心の社会から賃金労働が中心になった現在、一定の社会的な援助がなされるようにはなったが、家族単位の自助が依然として原則であること自体は変わっていない。その原則が「普通」の家族に貫かれている。その状態を維持するために意図的に様々な幻想が創られ、いまだに多くの人びとは「親孝行」、「母性愛・父性愛」、「仲睦まじい家庭」などのモラルに疑問を持たない。母の日のカーネーションはかつて問題となったが、なぜかすっかり忘れられている。このような孤児、ひとり親など、子供に関係なく生じる事態を例外としてしまう社会は人間的な社会とはいえないのではないだろうか。

この著書に取り上げられた事例には救われる気持ちを持てるが、この背後には多くの救えなかった例があることだろう。それはこの地域以外の全国、いや全世界に限りなく存在していることだろう。そもそも、このような援助が不要な社会であるべきなのではないだろうか。どんな環境に生まれた子供でも、ひけめや、生活上の苦難を被ることなく生きていくことができる社会を実現するためには、人間は「家族を超える」必要があること、今後も「家族」が存在するとしても、親子関係は血縁関係でしかないことが一般の人々にも自覚されていなくてはならないのではないだろうか。