書評 人間モーセと一神教 フロイト(フロイド)著 土井正徳・吉田正己訳  日本教文社 改訂版フロイド選集8宗教論より

  私はフロイト(この本ではフロイドとしているが、ここでは一般的な日本語読み表記とする)自身の出自であるユダヤ人についてどう考えていたのかをかねてから知りたいと思っていた。最近、早尾貴紀の著書で、サイードの『フロイトと非-ヨーロッパ人』という著書に、フロイトの『モーセと一神教』(モーセはモーゼとも読まれている)という論考についての論評があることを知り、その両方を読もうと思った。先に前者を読むことになったが、ふと考えると、後者は50年ほど前に買いそろえていた、日本教文社の『フロイド選集』に入っているかもしれないと気が付いた。そしたら案の定、この第8巻に収録されていた。

読み始めて驚いたのは、昭和45年の初版(私が読んだのは翌年発行の第4版、改訂前の版は昭和29年頃の発行らしい)だが、旧漢字のオンパレードで、仮名遣いも、吃音の「つ」が小文字になっていなかったことなどだ。旧漢字はほとんど読めたので、それほど苦にならなかいことは幸いだったが、このころの出版物の状況を再認識した。

『モーセと一神教』(この選集では『人間モーセと一神教』)は、最後に書かれた「モーセとその民および一神教」の前書きに説明されているが、別々の時期に書かかれた3つの論文がそのまま整理されずに掲載されていて、読みにくい論考だった。

さて本題に入ろう。先に上記で述べたようにサイードの論評を読んでいたため、フロイトが述べたい趣旨はある程度想像できていた。サイードが引用していた、「ある民族が同胞のうちでもっとも偉大な人物として誇っている人間に妄評を加えて片づけてしまおうということは・・・」という有名な一節は冒頭に述べられていて、改めてフロイトがこの論考に臨んだ決意の重さを実感する。

フロイトのこの著書は「モーセはおそらく高貴なエジプト人であって、伝説によってユダヤ人にされているものにちがいない。」と結論されていて、サイードは、フロイトがこう断定することにより、ユダヤ人の独善的なアイデンティティに異議を挟んだことを評価しているが、この前後には、この説の根拠の説明が続いていて、サイードが、「そうした観察や引証は、ときには途轍もなくうんざりするような繰り返しさえ帯びておりました。」と述べているとおりで、あまり興味を惹く内容ではなかった。

そしてフロイトは専門の精神分析理論をユダヤ教に適用し、その父殺しの理論でユダヤ教の始祖としたモーセをユダヤ人が殺したことにより原罪を背負うことになったとしているなどの主張を随処で展開しているが、それにも少々うんざりした。

私が注目したのは、反ユダヤ主義の原因となったヨーロッパでの伝統的なユダヤ人ぎらいをユダヤ人側の姿勢にあるという指摘をしていることだ。最初に、ユダヤ人が集団として暮らすという風習を指摘している。これは、私もかねてからそう思っていたことであり、これを当のユダヤ人フロイトが語ったということで確信を持つことができた。そして、「集団の共同感情は、それを充足するために、外部の少数者に対して敵意をさしむけることが必要」だからユダヤ人迫害が始まったとしている。

それから注目した点は、ユダヤ教とキリスト教の関係を述べている部分だ。フロイトによれば、ユダヤ教は原父の宗教であり、潜伏していた原父が回帰したことが、ユダヤ教を進歩させただけにとどまらず、キリスト教を誕生させてしまったという。モーセ殺害という悲劇に関するような部分も回帰し、増大しつつあった罪意識がユダヤ民族を含む全文化世界を覆ってしまったとのこと。モーセの虐殺に関する悔恨によって、この民に救済と約束された世界支配をもたらす救世主が再来する願望的空想もあって、この中で生まれて処刑されたユダヤ民族のキリストがその後継者となったという。ローマ系ユダヤ人パウロは、このような背景を基にして、ユダヤ教から選民意識や割礼の風習を廃止したためにこの新宗教(キリスト教)が普遍性をもった世界宗教となりえたとも述べている。この辺の論旨を私なりに解釈すると、キリスト教はユダヤ教を改革して生まれた、いわば「新ユダヤ教」だと言っているように感じるのだが飛躍しすぎだろうか。

それは、「新たな教えを受けいれたのはユダヤ民族のごく一部だけであった。この教えを拒否した人たちは、今日でもなおユダヤ人と呼ばれている。彼らはこの分離によって、以前にも増してますますはっきりと他のものたちから区別されている。彼らは・・・新たな宗教共同体から、彼らこそ神を殺害したのだという非難を聞かねばならなかった。」という指摘にも表れていて、ユダヤ教が新・旧に分裂したと言っているように感じる。

そして逆にキリスト教信者となったヨーロッパ人は、神はまたもや救世主をユダヤ人の中から選んだとして、「つまり本当に彼らは正しかったのだ、彼らこそ神の選んだ民族である、と。」と、ユダヤ人の不遜を是認せざるを得ないような心理になり、「そのかわりに生じたことは、イエスキリストによる救済が単に彼らのユダヤ人ぎらいを強化したにすぎなかった」という。それは、今日でもまだ克服されていないとし、さらに、ユダヤ人の割礼の風習はいまわしい、無気味な印象を与えるものだとして、それまでのユダヤ人ぎらいが新たな局面を迎えたことを指摘する。ヨーロッパの反ユダヤ主義のもととなった、キリスト教徒の心理を分析したこの指摘は鋭く、さすがフロイトだと感心する。

それからフロイトは「ユダヤ人たちはとくに自己に対する強い信念を持ち、自分たちがすぐれて高貴であり、他民族にまさったものだと考えていることは疑う余地もない。(中略)彼らは実際に自分たちが神から選ばれた民であると自認し、神のそばに立っていると信じている。」と述べ、このような選民意識についての分析も行っている。  

曰く、ユダヤ教の神の像を作ることの禁止は、「抽象的と呼ばれる観念に対して感覚的知覚が無視されていることを意味する。すなわち感性に対する精神性の勝利、厳密に言うならば、心理学的に必然的な結果をともなった衝動放棄を意味するものである。」効果をもったとして、モーセ信仰の禁止によって「神は精神性の高度の段階にまで高められ、神=観念のその後の変更のために道が開かれたのであるが」、この禁止はもう一つの別の作用として、「精神性におけるこうした進歩はすべて、個人の自尊心を高め、個人に誇りをもたせて感性の束縛のなかにとどまっている他の人たちに対して優越を抱かせるようになるという結果を生ずる。」、「外的要求にもとづく行動放棄はただ不快であるにすぎないが、内的理由、つまり超自我への服従にもとづく衝動放棄は・・・自我にたいして快感利得というものを、いわば代償満足にひとしいものを得させることになる。自我を高められたと感じ衝動放棄を価値ある行為であるかのように誇るであろう。」とのことで、《思考の全能》という心理効果の説明を含めて、明快な分析であると思える一方で、このような記述はフロイト自身を含めたユダヤ人を賛美しているようにも感じさせる。このような一面は、イェルシャルミが、「「フロイト・・・といえども、かかるユダヤ人の性格上の特徴を継承し共有することは避けられない」と信じていたらしい」(サイード『フロイトと非-ヨーロッパ人』より)と述べていたことを裏付けているような気がする。

また、ユダヤ教から生まれた「イスラム教の発展が停頓するにいたったのは、ユダヤ人の場合の教祖の虐殺が引き起こした変化が欠けていたからだ。」として、「東洋の宗教(どの宗教を指しているか不明だがおそらくイスラム教を含んだ)は合理主義的に見えるが、祖先崇拝であり、停頓する」という指摘や、東洋の宗教を未開民族の宗教と同一視し、神経症と関連させる言説があり、サイードはこれに直接触れていないが、『フロイトと非-ヨーロッパ人』で語っている、フロイトのヨーロッパ人としての限界がここにも表れていると感じる。

そんな疑問点もある著書だったが、「ユダヤ性」についてユダヤ人自身がどのように捉えているのかを知るためには欠かせない、貴重な著書だと思う。