スラヴォイ・ジジェクについては、名前を記憶していた程度の知識しかなく、それは私が哲学そのものにはあまり興味がないせいだが,この著書の表題に興味を惹かれて購読した。従って、ここに記した私の見解は、あくまでこの著書についてである。読んでみて正直言ってがっかりした。そもそも、この著書は著者が書き下ろそうとしたものではなさそうだ。12章に亘って述べられていることは相互に関連がない表面的な評論でしかなく、いわば「随筆」のような印象を受けるのは私だけだろうか。個々の章の中にも、私たちが進歩という神話を相対化するために必要とされる問題点などを、この著書は語っていないのではないだろうか。そもそも新書版で表題のような重いテーマを十全に著述することは不可能であり、表題につられて購読することが間違いだったのかもしれない。「入門書」としても適切な構成とは思えない。おそらく、出版社がなんでもいいからジジェクに書いてもらえば売れるだろうというような発想で企画したのではないだろうか。
物足りなさは、斎藤幸平の主張を論評している第2章に特に現れている。ジジェクは、マルクスが、「資本主義による自然界の無慈悲な搾取が人類の存続すら脅かしているという点へ注目するようになった」と、斎藤が解釈していることを評価するが、「最近の動向をみると、世界資本主義は基本的な構造のレベルで変わってきているため、そもそも引き続きこれを資本主義と呼ぶべきかどうかも疑わしい。斎藤はこれを無視しているように思える。」と批判し、ギリシャの政治家、ヤニス・パルファキスが、資本主義は死に、「テクノ封建制」となったとしていることを挙げながら、「斎藤の批評が前提としている資本主義の概念は引き続き有効なのだろうか。」と、疑念を述べている。
これに続けて、ジジェクは、資本主義は「人間の本性」に合致していて、機敏で変幻自在であり、「人間の欲望の基本的な逆説を取り入れて機能する、初めてにして唯一の社会秩序」なので、斎藤の「脱成長」モデルの欲望を抑えることで成立する論理では「ダメだ」と言い切る。しかし、そのような資本主義の特性は周知のことではないだろうか。それを根拠に、「斎藤が思い描くような未来社会は望ましいものだろうか。つまり、それは過半数の人びとが満足するかどうかという、単純な意味において望ましいものだろうか。」と述べ、斎藤の言説が近いという「仏教経済学」の批判に移り、仏教経済学の目標とする「中庸」を実践に移すと、必ずではないがとしながら、「しばしばソフトファシズムに陥ってしまう。」という。
この章のまとめに、ジジェクは、「現代の諸問題の本当の原因は、結局のところ何なのか。」として述べていることに注目すると、「生活世界への没入を支える座標系を解除するという、困難な作業がここにある。世界の背景をなす座標系への基本的な信頼、すなわち大文字の「知恵」を頼ろうとしても、それはもはや生命の危機を引き起こすものでしかない。」、「ここでは、資本の自律的な回路と伝統的な知恵の両方から切り離された化学が求められている。科学が自立するときがようやく来たのだ。」という、あいまいな結論しか示されていない。「大文字の「知恵」」という言葉の意味が不明だが、斎藤の批判をするのなら、それで終わらせるのは無責任ではないだろうか。
物足りなさは他の章にも続く。「加速主義は・・・プロセスにかんする認識が甘い」、「リベラルな多文化主義(新右派とムスリム原理主義の共通の標的)」の偽善は、「超自我」が働いているからだなどという言説はもっとていねいな説明が必要だと思う。
それから、「本来の欧州中心主義者は、2022年にイランを震撼させた、マフサ・アミニの死を受けて勃発した女性の抗議運動の波に合流すべきであり、「本来の「欧州中心主義者」は、こうした運動こそを欧州そのものより欧州的なものとして完全に支持すべき」という主張がされているが、「本来の欧州中心主義者」とはどのような人たちなのだろう。ジジェク自身が現在批判されている欧州中心主義から脱していないことになるのではないだろうか。
読者に対して呼びかけもしている。「地球規模の惨事の到来は必然だ。・・・惨事の到来を阻止するための行動を起こす必然もある。・・・行動を起こさせなくさせるような怠慢は許されないからだ。」、「「(破局まで)まだ時間はある。・・・」などと言うのではなく、破局を不可避のものとして受け入れ、星に刻まれた運命を解呪するための行動を起こすべきだ。」と述べているが、説得力を感じない。
冒頭に出版社の批判をしたが、いかにも資本主義的な企画に乗って、このような中途半端な著作をしてしまったジジェクも批判されるべきではないだろうか。訳者の早川も斎藤幸平に関する言及や、第11章に述べられている、役所広司が主演した『PERFECT DAYS』論に、「疑問なしとは言えない。」と異例な論評をしている。