書評 ナルシズム 天才と狂気の心理学 著/中西信男

 本棚に眠っていた本で、1987年に初版が出たが、私は翌年の第二版を購入していたので40年近く前に読んだようだ。正確には「ナルチシズム」だが「ナルシズム」でもいいそうだ。ナルシズムは誰もが陥りやすい普遍的心理であると思うが、このテーマの本を検索してみると意外に少ないので再読してみようと思ったわけだ。

 読んでみると、やはり現在では炎上してしまいそうな言説が述べられていると感じる。例えば、「同性愛というのは自己から異性へと性愛の対象を移していく過程で、自己とよく似た性器をもった同性を性愛の対象とするわけで、自己愛的性格の人はしばしば同性愛的空想や行為を示す」と断定的に語っている(なお、ここで「自己愛的性格の人」とは「ナルシスト」のことを指している)。著者はこの言説をフロイトから引用しているように表現しているが、私は著者独自の見解ではないかと思う。

  この著書では、レオナルド・ダ・ヴィンチ、岸田劉生、北大路魯山人、トーマス・マン、ヒトラー、三島由紀夫たちの有名人のナルシストぶりの描写や、フロイトとコフートのナルシズム論が主に語られていて、ナルシズム自体の分析はあまりされていない。私としては、ナルシズムのいわば底なし沼のような構造分析をしてほしいのだが、この著書は叶えてくれなかった。

 不満ばかり書いてしまったが、現代のパフォーマンス隆盛、賞賛願望、米国文化における「肥大化した自我のかたまりのようなナルシストの存在」などを40年前から指摘していることは評価したい。

書評 ノット・ライク・ディス トランスジェンダーと身体の哲学 著/藤高和輝

 私には一般に流布している、トランスジェンダーといわれる人たちの主張が理解できない。なぜ生まれた時に、哺乳動物としての特徴の「雄/雌」により、「男/女」とされたことを受け入れられないのかについて、当事者から聞いてみたかったのがこの本を読もうとした理由だったのだが、結論からいうとそれは叶えられなかった。(この本にも記されているように、「男/女」の判断が明確にできない例が少なからずあることについては知っていたが、それについては別途考えることとしたい。)

 著者は、序章において、「トランスの身体性を記述しなおす理論的試みである。・・・人口に広く膾炙しているトランスジェンダーに対する病理学的な認識図式を批判し、オルタナティブな理論的枠組みを提示することが本書の主要な狙いである。それはまた、「身体とは何か」という問いをトランス的観点から思考する試みである」、「それは「トランスにとっての身体とは何か」という問いに応えるものであると同時に、トランス的観点から、誰もが生きているこの私の身体とは何かを再考する試みでもある。」と述べている。

 著者はまず、デカルトの「心身二元論」では身体が「意識が乗り越えるべき「否定的なもの」であるということにな」り、身体は「ただ意識の要求や理想を満たし反映するためだけに存在する「モノ」としての身体ということになる」としていると述べる。またトランスジェンダーの存在を「病理」「異常」「特殊」とみなす病理学的図式を批判しながら、「ジェンダーとは生物学的に決定されているとする本質主義の議論を批判」し、「ジェンダーとは社会的に構築されるものであるとみなす」「構築主義的図式」を批判的に再定式する言説を展開する。そのなかで、構築主義者たちの、「性自認」は「性他認」という議論を「心理の場所が「私」から「他者」へと移譲されてしまう」と批判している。

そこで著者は、「<私の身体>はテーブルの上にあるコップ」と異なり、「<私の身体>はつねに私とともにある」とし、<私の身体>の居場所を理論化しようとした、メルロ=ポンティの哲学に注目する。そして彼が、「身体イメージ」の概念を強調しているとし、「この観点から考えるならば、性別違和とは、「心」と「体」の間ではなく、「身体イメージ」と「物質的身体」のあいだに生じるといえるのではないか。」と述べる。そして、「トランスにとっての「真理の場所」―それは、「モノ」としての身体でも、心でもなく、社会という<他者>でもなく、身体イメージ、すなわち、私にとって感じられる身体にあるのではないだろうか。」と続ける。

そこで著者は、「本書の基盤になっている主張は、・・・あなたが感じる者こそ、真理であ」り、「自称すれば誰でも性別を変えることができる」とトランスフォーブ(=トランスジェンダー嫌悪者(森中・注))が言う「セルフID論」では決してない」と述べ、トランスジェンダーを擁護する。

それから著者は、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』で、「セックスとは自然的事実ではなく、むしろ異性愛規範によって部分的に形成されたものであると指摘」していることを紹介しているが、この辺までは何とか理解できる。

しかし、著者の論は、「身体の形」は物質的であるだけではなく、想像的なもの」という言説に展開し、トランスには、「この「身体の形」が私のものではないもの」として、・・・「ここに在る」という経験であり、したがって、この「身体の形」を「私のもの」として「引き受ける」ことの困難性がそこにはある。」と述べている。要するに、トランス女性は、自分の男性の陰茎や陰嚢、トランス男性は膣や胸のふくらみなどがあることを「引き受けられない」というわけだが、この言説を「シスジェンダー」の人たちがそのまま理解するのは正直に言って無理があるのではないだろうか。ここにほしいのは、感覚の絶対化ではなく相対化だ。なぜそのように感じるのかを自ら考えてほしいのだ。

著者は、「性別違和」は「シスジェンダー」の「性別役割拒否」とは異なると言う。それはわかるが、「性別違和」はこれまでの社会の性別に関する固定観念と無縁だといえるだろうか?トランスの人たちは、「男らしさ」「女らしさ」というような観念から自由なのだろうか?「女になりたい」「男になりたい」というとき、その「女」とは、その「男」とはどのような意味を含んでいるのだろうか?トランスの人たちは、自己の人間性よりも、性差にとらわれすぎていないだろうか?この問いは、バトラーたちの議論を読んでも解けなかった。

 私は人間として生まれ、与えられた自分の境遇や身体を引き受けるというのは、すべての人に共通する課題だと思っている。私自身、いわゆる「色覚障害」を背負っている。しかし、個々の色覚の感度は一律ではなく、障害というのは、色覚の感度に一定の基準を定め、その基準以下の色覚を便宜的に「異常」としたに過ぎないのだとは思っているが、運転免許の資格、各種のカラー図表、色分けなどで「色覚障害者」はほとんど無視されていて、程度の差はあるが、このことも生きにくい社会の一要素であることは確かだと思っている。

 それでも、この障害も、私が与えられたその障害は私の身体の一要素でしかなく、他の多様な要素とともに私に与えられているのだから、それをもって「自分の身体を受け入れない」ということはできないと思っている。そして、障害者は皆、「自分の身体を受け入れない」ということはできないのだろうとも思っている。

だから、トランスの人たちが、障害者や差別される人種の問題をどのように考えているのかを問いたかったのだ。この著書の中で、あるトランスの人が、彼らの運動は障害者運動と無縁だった。障害者運動などに学ぶ必要があると主張していることが紹介されている。しかしそれだけで、トランスの人たちはあまりそのような問題には関心がないようであり、これには不満がある。

黒人運動のような人種差別反対運動や障害者運動を学べば、トランスの人たちの社会認識は、決して新しい認識ではないことがわかるはずだ。被差別人種や障害者なかの多くの人たちは、「パス (トランスの人が、志向する性別であるかのように演じること(森中・注))さえできずにいることを理解するべきだ。

「身体への愛は自然には発生しない」と著者は述べる。そして、「多くのトランスの人たちはそれぞれの仕方で自らの身体と折り合いをつけながら・・・生きている。自らの身体と折り合いをつける、その愛の技法は、ある身体を「おぞましいもの」として排除する<いま・ここ>の社会的世界とは別の世界の可能性を先取りしているのである。いわば、この世界がトランスの人たちから愛の技法を学ぶべきなのだ。」と声高に主張しているが、いつまで待ってもそんな社会が実現するはずはないと思う。

だが、そのような社会の偏見を客観的に批判できていれば、「身体への愛」を生じさせるまで至らなくても、私たちは生まれついた身体を自然に受け入れることができるはずだと思う。生まれ出た社会のせいで生きにくさを感じるから、与えられた身体を「愛することができない」としたら、それは自分の身体を他者や社会の見る「眼差し」で見ているからではないだろうか。自分の身体を他者の「眼差し」で見てはならないのではないだろうか。

黒人の差別反対運動で「Black Is Beautiful」という、従来の白人中心の美の基準を覆し、黒人としての誇りや文化、肌の色を肯定する強力なメッセージを生み出していることに学ばなければならないのではないだろうか。

 ここで断わっておくが、この書評はトランスジェンダーの人の説にかなり批判的なものになっているが、私は、トランスの人を攻撃したいわけではない。ただ、本書のような断定的に「違和を感じる」と言うだけでなく、当事者が自らその根本的な理由をシスジェンダーにもわかるように考え、率直に説明してほしいのだ。感覚を客観化することこそ、人間同士が分かり合う前提だと思うからだ。

私は、人間は、生まれた時に「与えられた」身体を変えることはできないのだから、誰しもそれを受け入れて生きればいいのだと思っている。そして、すべての人が、「生まれて良かった」とまで思わないまでも、「生まれない方が良かった」という人がいる社会、世界にはしたくないとも思う。そのためには、身体の問題に関して言えば、男女の区別、障害の有無・程度・種類、人種等を含め、個々に全く同じ身体はないのに、社会は便宜的な標準を定め優劣をつけたがるもので、それを正当化するために様々な偏見を伴う言説が生じ、差別が生まれることは「人間の弱さ」のせいなのだということを認識し、決して非難をせずに、わかりやすく批判し、不当な扱いをされたら抗議するということを実践することが必要だと思う。そうしていれば、与えられた身体のことで苦しまずに生きられ、決して他者の眼差しで自分の身体を見つめることなく、堂々と生きることができると思う。そうしていれば、この世界は「学ぶべき」と声高に叫ばなくても、「学ぶようになる」のだと信じている。

 

 

書評 神経症的な美しさ アウトサイダーが見た日本 著/モリス・バーマン 訳/込山宏太

 この著書の「日本語版への序」によれば、この著書のタイトル中の「美しさ」とは、著者が経験した合気道、囲碁、俳句、座禅などの日本の「伝統に表現されている精神的な態度すべては、日本の芸術家たちの偉大なる工芸の伝統とともに、西洋の私たちが・・・大いに必要としているものである。」からだ。「神経症的な」とは、ペリーの来航と太平洋戦争敗戦後の占領という米国による武力行使によってもたらされた日本の「二重苦」や、急激な近代化により生じた日本人の魂のねじれを指しているようだ。

 また、著者は、ペリー来航以来、日本は「西洋を乗り越えるために、西洋の技能やテクノロジーを獲得する競争が始まった。その速度は近代史(あるいは近代化の歴史)において類例のないものであった。」、「米国や西洋の帝国主義的列強に倣って、日本は近代世界において対等な関係の構築を目指す道を選んだが、それは古来の伝統やアイデンティティに大きな犠牲を強いるものであった。」と述べ、やがて、詰め込んだ西洋の知や西洋式の帝国主義が「満州事変や真珠湾、ヒロシマへと至る」原因だったとする。

 この指摘は基本的に正しいものであろう。米国人でありながら、米国がたどった歴史や現在の状況に批判的であり、こういう人がどのように日本や日本人を捉えるのかに興味をもったが、この著書の膨大な日本描写は、上記の「ねじれ」の日本文化への影響との関係を踏まえておらず、米国と異なって、伝統が長らく保持されている日本を美化していて、通俗的で、自身で「異国趣味」という欧米人の傾向を批判しているにもかかわらず、所詮「異国趣味」的な言説にすぎないと感じる。日本人を批判しながら、その欠陥が米国人にもあるという認識をした言説を述べる際に、「私たちは日本人に他ならない」という言に、日本人蔑視と自虐意識を感じるのは私だけだろうか。

 著作の意図はどこにあるのかと、どうしても考えてしまう。そもそも、著者が冒頭で「神経症的」と表現している日本の精神状況は、むしろ分裂的であり、いわば「統合失調症的」といった方がいいのではないだろうか。「美しさ」などは「アウトサイダー」が、表面的に眺めた印象でしかないか、この本を日本人向けに売るために「おだてよう」という意図を感じる。特に、最終章の「ポスト資本主義をモデルとしての日本?」という副題のもとで、近代化の歴史が浅いために、いまだに資本主義化されていない産業技術などを評価する言説を展開するが、本気で書いているのかどうかと思ってしまう。

 それにしても、それが欠けていると自己規定する米国人が評価する「伝統」とは何だろう。私には、日本は、家業が根強く残っているからに過ぎないように思える。「統合失調症」的で、アイデンティティを失っている日本人は、日本文化を自分自身で評価できないでいるのに、米国人などに評価されて、それが儲かる伝統家業になり、「日本人が誇るべき日本の伝統として残る」としたら、日本はペリー、占領に次ぐ第三波の影響を受けることになるかもしれない。