書評 神経症的な美しさ アウトサイダーが見た日本 著/モリス・バーマン 訳/込山宏太

 この著書の「日本語版への序」によれば、この著書のタイトル中の「美しさ」とは、著者が経験した合気道、囲碁、俳句、座禅などの日本の「伝統に表現されている精神的な態度すべては、日本の芸術家たちの偉大なる工芸の伝統とともに、西洋の私たちが・・・大いに必要としているものである。」からだ。「神経症的な」とは、ペリーの来航と太平洋戦争敗戦後の占領という米国による武力行使によってもたらされた日本の「二重苦」や、急激な近代化により生じた日本人の魂のねじれを指しているようだ。

 また、著者は、ペリー来航以来、日本は「西洋を乗り越えるために、西洋の技能やテクノロジーを獲得する競争が始まった。その速度は近代史(あるいは近代化の歴史)において類例のないものであった。」、「米国や西洋の帝国主義的列強に倣って、日本は近代世界において対等な関係の構築を目指す道を選んだが、それは古来の伝統やアイデンティティに大きな犠牲を強いるものであった。」と述べ、やがて、詰め込んだ西洋の知や西洋式の帝国主義が「満州事変や真珠湾、ヒロシマへと至る」原因だったとする。

 この指摘は基本的に正しいものであろう。米国人でありながら、米国がたどった歴史や現在の状況に批判的であり、こういう人がどのように日本や日本人を捉えるのかに興味をもったが、この著書の膨大な日本描写は、上記の「ねじれ」の日本文化への影響との関係を踏まえておらず、米国と異なって、伝統が長らく保持されている日本を美化していて、通俗的で、自身で「異国趣味」という欧米人の傾向を批判しているにもかかわらず、所詮「異国趣味」的な言説にすぎないと感じる。日本人を批判しながら、その欠陥が米国人にもあるという認識をした言説を述べる際に、「私たちは日本人に他ならない」という言に、日本人蔑視と自虐意識を感じるのは私だけだろうか。

 著作の意図はどこにあるのかと、どうしても考えてしまう。そもそも、著者が冒頭で「神経症的」と表現している日本の精神状況は、むしろ分裂的であり、いわば「統合失調症的」といった方がいいのではないだろうか。「美しさ」などは「アウトサイダー」が、表面的に眺めた印象でしかないか、この本を日本人向けに売るために「おだてよう」という意図を感じる。特に、最終章の「ポスト資本主義をモデルとしての日本?」という副題のもとで、近代化の歴史が浅いために、いまだに資本主義化されていない産業技術などを評価する言説を展開するが、本気で書いているのかどうかと思ってしまう。

 それにしても、それが欠けていると自己規定する米国人が評価する「伝統」とは何だろう。私には、日本は、家業が根強く残っているからに過ぎないように思える。「統合失調症」的で、アイデンティティを失っている日本人は、日本文化を自分自身で評価できないでいるのに、米国人などに評価されて、それが儲かる伝統家業になり、「日本人が誇るべき日本の伝統として残る」としたら、日本はペリー、占領に次ぐ第三波の影響を受けることになるかもしれない。