原爆被害は米国に賠償させるべき

 日本政府に戦争被害を保障させるべきだという論理は、半ば定説化されている。その理由は、「日本政府にはこのような悲惨な結果を招いた責任がある」ということなのだろうが、これは、連合国側の責任回避のために日本に押し付けられた論理そのものではないだろうか。それは、広島の原爆慰霊碑に記された「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」という文章にも表れている。

2024年のノーベル平和賞を日本被団協が受賞したことは素晴らしいことだったが、「今頃やっと?」というのが私のその時の正直な感想だった。

12月10日、日本被団協の代表委員の一人の田中熙巳さんは、授賞式の挨拶において、「生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害を再び繰り返すことのないようにと、2つの基本要求を掲げて運動を展開してきました。1つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張にあらがい、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという運動。2つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、速やかに廃絶しなければならない、という運動です。」、「1994年12月、2法を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(被爆者援護法)」が制定されましたが、何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきています。もう一度繰り返します。原爆で亡くなった死者に対する償いは日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたい。」と訴えていた。TBSが作成した、『受忍の国 報道1930劇場版』がBS―TBSで8月13日に放送されていたが、その冒頭に、このことが紹介されていた。

この映画において、受忍論とは、最高裁が1968年の判決で示した、戦争の被害は国民が等しく耐え忍ぶべきだという考え方で、東京大空襲の被災者や、広島、長崎の被爆者を含む民間人被災者は国に補償を求めてきたが、国はこの判決を根拠に拒否し、一方では、旧軍人・軍属や遺族には恩給など総額約60兆円を支払ってきたことの不当性をとりあげている。

さて、田中さんのこの訴えは、他の国の人たちにどのように受け取られただろうか。彼の訴えは「もっともであり、日本政府は不当な政府だ」と思われただろうか。米国が「歴史上未曽有の非人道的な被害」を生じさせたのに、なぜ日本政府にこの被害の補償を求めるのかとは思われなかっただろうか。

国内では、このスピーチに「なぜ自分の国の恥をさらすのか」と抗議が殺到したという。自国批判をすべて非難するような輩は別としても、国内では、田中氏の日本政府批判は定説となっているからといって、このような異論をすべて排除していてはならないのではないだろうか。

現にユーチューブに@速鴨下さんから提出されている、「私は何故賠償をアメリカに求めないのか不思議でならない、と言うのはこれはあきらかに国際法違反だからです、アメリカの責任を問わないのはおかしいです」という意見に被団協では、どう対応しているのだろうか。回答をしたのであれば、それを公表するべきではないだろうか。

これは、原爆被害についての意見だが、日本各所への絨毯爆撃などの空襲にも同じことが言えそうだ。これはウクライナへのロシアの空襲など比較にならないほどの規模で行われていた大量殺戮だった。(米国など西側諸国はロシアの攻撃を「国際法違反」だと非難するが、それらの国がかつて行ったことを棚に上げた欺瞞的な態度だが。)だからこの補償も米国に求めるべきかもしれないが、我が国も中国に同様な攻撃をしているにもかかわらず、中国はその賠償を我が国に求めないとしていることを考えると困難だろう。

この映画では、ドイツが戦争被害者への補償をしているのに、空襲で被害を受けた85歳の女性をいまだ毎週国会の前に立たせる日本の「戦後」とは一体何だろうかとも問うている。確かにその点で日本政府は冷酷かもしれない。そうすると、この被害についてはドイツと同等の補償を日本政府に求めることは、当を得たことかとは思う。

しかし、「原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならない」という論理で、他の被害と同様に日本政府に損害賠償を求めるとすると、「歴史上未曽有の非人道的な被害」を生じさせた特別な責任は、他の戦争被害の中に埋もれてしまう恐れがある。また、原爆投下攻撃は当然の結果のようにさえ受け取られる恐れさえある。原爆被害については「歴史上未曽有」で予測不可能だったのであるから、米国に損害賠償を求めることについては正当性を主張できるし、他の西側諸国さえ賛成を得られるかもしれない。しかして私は、広島、長崎の原爆被害の損害賠償については米国に求めるべきであると思う。

上記のような私の意見はともかく、このようなことを広く活発に論議できないだろうか。米国による損害賠償の実現性は困難であろう。しかし、被爆者はますます減少しているのに、主たる被爆者団体の被団協がこれまでの主張に対する反論に耳を貸さずに、被爆生存者が存在しなくなる時期が来れば、その活動が弱体化し、近い将来、消滅してしまうことは目に見えている。

私は、被団協のような活動は、被爆者がいなくなっても核廃絶のためには必要だと思う。そのような活動が存続し、広がりを持つためには、これまでの定説化している主張について、国民的に、いや国際的に、オープンに論議し、見直していくことが必要なのではないだろうか。

書評 ものぐさ精神分析[増補新版] 著/岸田秀

 元のこの本は1977年に発行され、ベストセラーになってから増補された古い本だが、この著者が今年5月に亡くなり話題になっていたので読んでみた。読み始めてからすぐに、発行当時に読まなかったことを悔やんだくらい現在でも刺激的な本だ。

岸田は、巻末の「わたしの原点」で自分自身が精神的な問題を抱えて育ち、フロイド(フロイト)の精神分析を学びながら自身を分析して、強迫神経症、幻覚症状、鬱病などを克服してきたことを語っている。強迫症状のなかで、強迫的な禁止という症状が母に植えつけられたことに気がついてから個人的な問題を解決し、鬱病は日本人の精神構造などの社会的な問題は解決に取り組むために、日本近代の歴史、アメリカの歴史、人類の歴史へと向かったとのこと。なるほど、この本が歴史から性に関する分析まで、広範にわたった言説が述べられている理由、また理論が極めて実践的な理由がこれで納得できた。

独特のユニークな文体で述べる注目すべき言説の中で、最初の「日本近代を精神分析する」が秀逸だ。そこで彼は、ペリーの来航以来、日本の対応について開国論と尊王攘夷論が対立したまま、結局、開港派が権力を握り、攘夷派が阻害されて開港派の外的自己が公認となり、攘夷派の内的自己が抑制されたため、日本は精神分裂症質者にされ、やがてこの構造が壊れて内的自己が暴発して発病し、英に宣戦布告してしまったと言う。敗戦すると、外的自己が内的自己を抑制する従来の体制にもどったため、日本が精神分裂症質者である状態は変わらないままだと指摘する。

細かいことは別として、日本の近代をこのように捉えれば、自民党が対米従属をしたまま、「内的自己」として生き続ける右派の圧力を恐れ、国際的に批判されても皇室の男系男子による継承や靖国神社参拝などをする心理を納得しやすい。

だからここから、この分裂を解決するには、「内的自己」を非難すればいいものではないというヒントを得ることができる。それは「内的自己」と向き合い、この分裂を生じさせた欧米の批判がまず必要なのだ、ということなのだろう。もちろんそれは、岸田が述べるように、中国やインドは「植民地化の危険は冒しても、集団のアイデンティティをあくまで守る道」を選んだのに、日本は、「恥も外聞もなく欧米諸国の技術にとびつき」、「外的適応を達成する道」を選び、横暴な欧米を模倣するように中国や朝鮮などを侵略し植民地化するというという行為に流された、安易な軽薄さの自覚、反省を踏まえなければならないが。

次に取り上げたいのは、「ナルチシズム論」だ。彼はこのなかで、「本来なら、現実的自己(以下、現実我と呼ぶ)の保存のために使われるべきナルチドーが、非現実的自己(以下、幻想我という)の保存の方向へ逸脱する。わたしは、ナルチシズムを幻想我の保存の方向にナルチドーが向けられている状態であると定義する。それと対比して、ナルチドーが現実我の保存に向けられている状態がエゴイズムである。」と述べる。(なお、「ナルチドー」とは彼の造語のようで、リビドーが性本能のエネルギーを指しているので、個体保存本能のエネルギーを仮に「ナルチドー」としたとのこと。)

このような言説は初めて知ったので、今後、私なりに検討してみたいと思っているが、なるほどと思わされたのは、このナルチシズムが、自己陶酔に止まらず、他者に投影されるという指摘だ。 

彼は、「ナルチシズムは、自己と対象の区別が成立する以前に形成されたものであるから、自己と対象の混同をその本質的条件の一つとして含んでいる。幻想我は容易に他者と混同される。この条件を利用して、幻想我と現実我の葛藤を解決する方法もある。対象を幻想我と同一視し、対象にナルチシズムを投影するのである。」と述べ、「テレビの画面では、連日連夜、幻想我の代表選手である仮面ライダー・・・水戸黄門や銭形平次が、善玉(現実我)をみじめな状態に突き落とし、不当に虐待している」悪玉(現実原則)をやっつけているが、十年一日のごとき同工異曲の物語が決して飽きられることがない。人びとはこれほどまでに、幻想我の実現をはばんでいる現実の世界を恨んでいるのである。」と論を展開している。この「対象を幻想我と同一視し、対象にナルチシズムを投影する」という表現は見事だと感じる。

要するに、テレビや映画、小説などのヒーローへの憧れは、ナルチシズムと結びついていて、自己とそのヒーローを同一視する混同することから生じ、これはヒーロー以外にもアイドルや偉人にも同じことが言えるということなのだろうと私は理解した。有名な他者を同じ人間として見ようとせず、特別視、特別扱いする愚かさが明確に見えてくるではないか。現代人は現実に絶望的になっているので、幻想にしか生きられない様相になっている。かねてからのアメリカンドリームや最近のトランプ現象,大谷翔平現象にみるように、現代社会は幻想を幻想と捉えられない状況に陥っているが、その分析に有効な言説だと思う。

彼は、神や、何らかの主義、理想、理念などもナルチシズムの対象となると述べていて、「はて?」と思わせるが、それらの観念自体が崇拝の対象になりやすく、そうなっている場合のことを言いたいのであろう。私は、それは典型的にはナショナリズムや郷土愛などに現れていると思う。さらには誇りもナルチシズムにすぎないと思う。

ほとんどの論旨に同感だが、一つだけ納得できない言説がある。それは、「何のために親は子を育てるのか」の中で、人間の育児本能はこわれているので、子を育てることは親には大変な負担であり、子を育てないということもできるため、育児行動を根拠づける何らかの人為的観念をつくりあげなければ人類の存続は不可能であった。」とし、生き残った部族は、その思想に頼って育児行動を続け、それが母権制や家父長制などの社会制度となったという言説である。そして彼は、父殺しと近親相姦の二大タブーに、子捨てのタブーが加えられて、この三大タブーが家族制度を支える柱だったと言う。確かに、生んだ子どもは自分たちで責任をとれという社会規範があったから子捨てをかなり防いでいた面はあるが、これまでの社会は、子に扶養されなければ生きていけないという社会だったので、大半の人たちは子を産もうとしてきたのではないだろうか。

人間の子育て本能が壊れていることは確かだろうが、子育ては負担でも、有り余るメリットがあるから厭わず、むしろ懸命に育てたのではないだろうか。だから、義務付けなければ子育てを放棄するというのは、このようなことを忘れ、「人間の本能が壊れている」という論理に支配されすぎた言説ではないのだろうか。そして、子こそ親を扶養することが重荷だったので、親孝行という道徳が必要だったのではないだろうか。・・・その社会も年金制度や介護保険などにより変わりつつあり、子を産まないという選択をする男女も増えているが。

彼の言説には、引用文書などがあまり示されず(だから「ものぐさ」と自称しているのかもしれない)、乱暴な面もあるが、他にも「自己嫌悪の効用」など、注目すべき言説が数多く掲載されており、今後もっと広く読まれるべき書籍だと思う。