書評 ものぐさ精神分析[増補新版] 著/岸田秀

 元のこの本は1977年に発行され、ベストセラーになってから増補された古い本だが、この著者が今年5月に亡くなり話題になっていたので読んでみた。読み始めてからすぐに、発行当時に読まなかったことを悔やんだくらい現在でも刺激的な本だ。

岸田は、巻末の「わたしの原点」で自分自身が精神的な問題を抱えて育ち、フロイド(フロイト)の精神分析を学びながら自身を分析して、強迫神経症、幻覚症状、鬱病などを克服してきたことを語っている。強迫症状のなかで、強迫的な禁止という症状が母に植えつけられたことに気がついてから個人的な問題を解決し、鬱病は日本人の精神構造などの社会的な問題は解決に取り組むために、日本近代の歴史、アメリカの歴史、人類の歴史へと向かったとのこと。なるほど、この本が歴史から性に関する分析まで、広範にわたった言説が述べられている理由、また理論が極めて実践的な理由がこれで納得できた。

独特のユニークな文体で述べる注目すべき言説の中で、最初の「日本近代を精神分析する」が秀逸だ。そこで彼は、ペリーの来航以来、日本の対応について開国論と尊王攘夷論が対立したまま、結局、開港派が権力を握り、攘夷派が阻害されて開港派の外的自己が公認となり、攘夷派の内的自己が抑制されたため、日本は精神分裂症質者にされ、やがてこの構造が壊れて内的自己が暴発して発病し、英に宣戦布告してしまったと言う。敗戦すると、外的自己が内的自己を抑制する従来の体制にもどったため、日本が精神分裂症質者である状態は変わらないままだと指摘する。

細かいことは別として、日本の近代をこのように捉えれば、自民党が対米従属をしたまま、「内的自己」として生き続ける右派の圧力を恐れ、国際的に批判されても皇室の男系男子による継承や靖国神社参拝などをする心理を納得しやすい。

だからここから、この分裂を解決するには、「内的自己」を非難すればいいものではないというヒントを得ることができる。それは「内的自己」と向き合い、この分裂を生じさせた欧米の批判がまず必要なのだ、ということなのだろう。もちろんそれは、岸田が述べるように、中国やインドは「植民地化の危険は冒しても、集団のアイデンティティをあくまで守る道」を選んだのに、日本は、「恥も外聞もなく欧米諸国の技術にとびつき」、「外的適応を達成する道」を選び、横暴な欧米を模倣するように中国や朝鮮などを侵略し植民地化をするというという行為に流された、安易な軽薄さの自覚、反省を踏まえなければならないが。

次に取り上げたいのは、「ナルチシズム論」だ。彼はこのなかで、「本来なら、現実的自己(以下、現実我と呼ぶ)の保存のために使われるべきナルチドーが、非現実的自己(以下、幻想我という)の保存の方向へ逸脱する。わたしは、ナルチシズムを幻想我の保存の方向にナルチドーが向けられている状態であると定義する。それと対比して、ナルチドーが現実我の保存に向けられている状態がエゴイズムである。」と述べる。(なお、「ナルチドー」とは彼の造語のようで、リビドーが性本能のエネルギーを指しているので、個体保存本能のエネルギーを仮に「ナルチドー」としたとのこと。)

このような言説は初めて知ったので、今後、私なりに検討してみたいと思っているが、なるほどと思わされたのは、このナルチシズムが、自己陶酔に止まらず、他者に投影されるという指摘だ。 

彼は、「ナルチシズムは、自己と対象の区別が成立する以前に形成されたものであるから、自己と対象の混同をその本質的条件の一つとして含んでいる。幻想我は容易に他者と混同される。この条件を利用して、幻想我と現実我の葛藤を解決する方法もある。対象を幻想我と同一視し、対象にナルチシズムを投影するのである。」と述べ、「テレビの画面では、連日連夜、幻想我の代表選手である仮面ライダー・・・水戸黄門や銭形平次が、善玉(現実我)をみじめな状態に突き落とし、不当に虐待している」悪玉(現実原則)をやっつけているが、十年一日のごとき同工異曲の物語が決して飽きられることがない。人びとはこれほどまでに、幻想我の実現をはばんでいる現実の世界を恨んでいるのである。」と論を展開している。この「対象を幻想我と同一視し、対象にナルチシズムを投影する」という表現は見事だと感じる。

要するに、テレビや映画、小説などのヒーローへの憧れは、ナルチシズムと結びついていて、自己とそのヒーローを同一視する混同することから生じ、これはヒーロー以外にもアイドルや偉人にも同じことが言えるということなのだろうと私は理解した。有名な他者を同じ人間として見ようとせず、特別視、特別扱いする愚かさが明確に見えてくるではないか。かねてからのアメリカンドリームや最近のトランプ現象にみるように、現代社会は幻想を幻想と捉えられない状況に陥っているが、その分析に有効な言説だと思う。

彼は、神や、何らかの主義、理想、理念などもナルチシズムの対象となると述べていて、「はて?」と思わせるが、それらの観念自体が崇拝の対象になりやすく、そうなっている場合のことを言いたいのであろう。私は、それは典型的にはナショナリズムや郷土愛などに現れていると思う。さらには誇りもナルチシズムにすぎないと思う。

ほとんどの論旨に同感だが、一つだけ納得できない言説がある。それは、「何のために親は子を育てるのか」の中で、人間の育児本能はこわれているので、子を育てることは親には大変な負担であり、子を育てないということもできるため、育児行動を根拠づける何らかの人為的観念をつくりあげなければ人類の存続は不可能であった。」とし、生き残った部族は、その思想に頼って育児行動を続け、それが母権制や家父長制などの社会制度となったという言説である。そして彼は、父殺しと近親相姦の二大タブーに、子捨てのタブーが加えられて、この三大タブーが家族制度を支える柱だったと言う。確かに、生んだ子どもは自分たちで責任をとれという社会規範があったから子捨てをかなり防いでいた面はあるが、これまでの社会は、子に扶養されなければ生きていけないという社会だったので、大半の人たちは子を産もうとしてきたのではないだろうか。

人間の子育て本能が壊れていることは確かだろうが、子育ては負担でも、有り余るメリットがあるから厭わず、むしろ懸命に育てたのではないだろうか。だから、義務付けなければ子育てを放棄するというのは、このようなことを忘れ、「人間の本能が壊れている」という論理に支配されすぎた言説ではないのだろうか。そして、子こそ親を扶養することが重荷だったので、親孝行という道徳が必要だったのではないだろうか。・・・その社会も年金制度や介護保険などにより変わりつつあり、「子を産まない」という選択をする男女も増えているが。

彼の言説には、引用文書などがあまり示されず(だから「ものぐさ」と自称しているのかもしれない)、乱暴な面もあるが、他にも注目すべき言説が数多く掲載されており、今後もっと広く読まれるべき書籍だと思う。