書評 キリスト教ナショナリズム 談/森本あんり、渡辺靖

 キリスト教の牧師でもあり、国際基督教大学名誉教授の森本氏と、慶応大学SFC教授の渡辺靖氏の対談を掲載した書籍だ。両氏とも米国に滞在経験があり、森本氏は自身がプロテスタント主流の長老派に属していて、短期間ではあるが米国でも牧師を務めたことがあるクリスチャンだ。二人が語る米国の宗教の状況は、それを実経験した語りとなっていて、加藤善之氏の『福音派』とは異なった視点で、福音派についても語られている。

この本のタイトルの「キリスト教ナショナリズム」という言葉は、周知の言葉のような気がするが、考えてみるとあまり使われていない言葉だ。渡辺氏によると、これは「アメリカを「キリスト教国家」として再構築しようとする運動」だという。それで「ナショナリズム」といえるのだろうかとは思うが、そのまま受け入れて読み進めた。

ある分類統計によると、「キリスト教ナショナリスト」は、積極的ではないが共感する人まで含めると、米国人の約30%、約8千万人存在するとのこと。このうち福音派は約半数の4000万人で、福音派で「キリスト教ナショナリスト」ではない人は約2000万人だという(この統計調査の頃でも米国の総人口は3億人を超えているので、実数には少々疑問在り)。キリスト教ナショナリストは白人が多数を占めているがそれ以外の人種にも賛同者がいて、共和党支持者の56%が該当するという。加藤の著書には福音派を「キリスト教ナショナリスト」とはしていなかったが、この対談では、福音派を「キリスト教ナショナリスト」の一部として扱っている。

この対談では、米国の現在の教会の動向を知ることができる。まず、20世紀の米国においては、カリスマ的テレビ伝

道師が主導し、経済的に繁栄する巨大商業モデルが盛んだったが、今世紀、伝道師の信用失墜やグローバル化する社会で国家のアイデンティティが揺らいでいると感じさせられていることから、それが政治活動モデルに変わり、「キリスト教ナショナリズム」が生まれたとしている。なにしろ、そのまえから2000人以上が集まるメガチャーチが2000近くあるということは変わっていないようだ。従来の教会と違うメガチャーチはとっつきやすくて手軽な存在になっているとのこと。

教会は信者獲得のためにマーケティングに敏感で、ビジネススクール出身者が地域住民の意識や生活スタイルを調査し、巧妙な誘い文句を発信するというテクニックを駆使する、「産業」のような存在で、教会同士どころかスポーツや娯楽産業とも競争しているのだという。これについて渡辺氏は、「アメリカはやはり資本主義の国ですから、宗教と結びつけばそういった展開もありうるだろうと思います。」と述べている。なるほど、私たちもテレビで見たことがあるあのような熱狂に、そんな裏の実態があることにあきれるとともに、資本主義の恐ろしさを改めて認識せざるを得ない。

それから、福音派の教義にも触れている。これを代表する「ディスぺンセーション主義」によると、「千年王国の時代」が到来する前兆としてイスラエルの回復が起き、世界が破局的な状況に至るとキリストが再臨し、千年の至福の時代が始まるとされていて、実際にイスラエルの建国が起こったためその教義が広まったようだ。ユダヤ教のイスラエルとキリスト教の終末論が合作となった教義のようだ。渡辺氏はそれを、「「シオン」をめぐる語彙がユダヤ教では宗教的伝統として、キリスト教ではそれがさらに終末論に特化した想像力として働いてきた」と表現している。そんな教義が生まれているのはともかく、それを信じる米国人は、まさに狂信者としか思えない。

さて、そもそも私は、ヨーロッパではキリスト教の信者がかなり減っているのに、米国で信者活動があのように盛んなのはなぜだろうという素朴な疑問を持っていたが、渡辺氏は、「ヨーロッパでは、宗教は常に政治権力と結びついてきたために、権威主義や抑圧の象徴として嫌厭されるようになった。その結果、かなり厳格な政教分離を求めるようになったが、アメリカではもともと教会が国家から切り離されていたので、かえって宗教が社会道徳の源泉として尊敬された」と、トクヴィルが指摘していたと語り、「宗教をあえて国家の前面に出さなかったことで、むしろ宗教自体の存在感が増すことになった」と解釈し、森氏に同意を求め、同氏もそれを肯定している。

トクヴィルの指摘はなるほどと思わせるが、そこには大事な視点が欠けていると私は思う。米国人はヨーロッパにおいて確立した政教分離の成立過程を抜きにして、その結果を受け入れただけで、同じころヨーロッパで生まれた宗教批判の哲学を回避し、プラグマティズムのような、宗教を批判できない哲学しか生まれなかったため、一般市民は幼稚なままで人間として成長できず、先祖返りするようにキリスト教に頼らざるを得ない現象が起きたのではないだろうか、と私は考えている。

なお、森本氏による、ボーイスカウトが、19世紀に米国の学校が女性教師ばかりになったために、「女性化した男の子を男性化しようとする運動」であったことや、YMCAもマッチョイズム的反動思想から生まれた挿話などは興味深かった。

また、米国で、「大学を出たくらいでは、中流階級の親と同じ暮らしをできるかどうかさえ心許なくな」っていることや、大学のリベラルが「行き過ぎ」だという不満がたかまり、「リベラル疲れ」が起きていることや、「リバタリアン」という伝統的一派の存在とキリスト教ナショナリズムとの関係、最近のピーター・ティールのような「テック・リバタリアン」への言及も参考になった。

最後に森本氏は、「権威主義が一度決めたことを絶対視するのに対し、民主主義は自己修正を続けることで生き延びる。建国250周年を迎えたアメリカが、そして日本が、この原点に立ち返れるかどうか。それが問われていると思います。」と結んでいるが、この本に現れている米国の状態から考えて、とってつけたような言明のようにしか思えない。