斎藤幸平 著 『人新世の「資本論」』について
「人新世」とはノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため地質学的に見て、地球は新たな年代に突入し、人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくしたという意味で名付けた年代とのことだ。
このことと、マルクスが19世紀に書いた「資本論」との関係を説明するために書かれた形になっている。(このことについては後で触れる。)
マルクスは『資本論』で「資本主義的生産は、すべての富の源泉すなわち土地および労働者を同時に破壊することによってのみ社会的生産過程の技術および結合を発展させる。」といっているようだが、私たちが「労働者の破壊」にばかり注目していたことを斎藤は見直すべきだという。
彼は、「経済成長が続いて、その恩恵が多くの人にまで分配されるような状況が続いていたあいだは、人々は満足し、社会は安定していた。ところが経済成長が困難になり、経済格差が拡大し、環境問題も深刻化している、それが「人新世」の時代である。」という。
また彼は、「旧来の南北問題を含め、資本主義の歴史を振り返れば、先進国における豊かな生活の裏側では、さまざまな悲劇が繰り返されてきた。いわば資本主義の矛盾がグローバル・サウスに凝縮されているのである。」、 「自動車の鉄、ガソリン、洋服の綿花、牛丼の牛肉にしても、その「遠い」ところから日本に届く、グローバル・サウスからの労働力の搾取と自然資源の収奪なしに、私たちの豊かな生活は不可能だからである。」、「グローバル・サウスの人々の生活条件の悪化は資本主義の前提条件であり、南北の支配従属関係は、例外的事態ではなく、平常運転なのである。」、と述べ、「ところが資本主義のグローバル化が地球の隅々まで及んだために、新たに収奪の対象となる「フロンティア」が消滅してしまった。そうした利潤獲得のプロセスが限界に達したということだ。利潤率が低下した結果、資本蓄積や経済成長が困難になり、「資本主義の終焉」が謳われるまでになっている。」、そして、「もう一方の本質の側面、それが地球環境である。資本主義による収奪の対象は周辺部の労働力だけでなく、地球環境全体なのだ。資源、エネルギー、食料も先進国との「不等価な交換」によってグローバル・サウスから奪われていくのである。人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる収奪の対象とみなす。このことが本書の基本的主張のひとつをなす。」という。
要するに、先進国で信じられていた資本主義の肯定的な評価は、後進国を犠牲にしてきた先進国の、それも一時的な現象でしかなく、資本主義のグローバル化は先進後進を問わず、その限界を露呈し、地球環境の危機までもたらしたということだろう。
そして、「脱成長」の必要性を説き、ピケティを含む、経済成長をしながらこれらの問題に対処しようとするすべての説を否定し、そのための選択肢としてはラディカルに資本主義批判を摂取し、<コモン>を基盤とする「コミュニズム」しかないと結論する。
後半は、「気候市民議会」、「フィアレス・シティ」、「ミニュシバリズム」、「気候正義」などの新しい社会運動を紹介し、このような運動が上記の解決に繋がるという期待を表明している。
最初にこの本を読んだとき私は、現在の資本主義の危機についてマルクスが見通していたかのようにやたらに称揚している論調に疑問を持った。それは再読した今回も同様で、自説を権威づけるためのようにも感じる。
また、彼は「コスモポリタン的な理念」の「啓蒙主義」の必要性の擁護を批判し、アナーキズムが国家を拒否するとしてこれも批判する。無政府を批判するのは解るが、国家は拒否してもいいのではないだろうか。私は現在のような国家とは歴史的には過渡的な形態でしかないが,政府は必要だと思っている。
そして、グローバル化により結果的に成長が困難になってきた現在においても、脱成長が必要だという主張の整合性の説明が足りないと思う。(例えば、これまでのような成長は困難でも成長の余地はあるが、その余地も止めるべきだというような。)
そうは思いつつも、私はこの人の主張を基本的に支持している。そして彼が情熱を込めて、社会が大きく変わるために必要だという「3.5%」の一人でありたいと思っている。