書評 1 『人新世の「資本論」』

 斎藤幸平 著 『人新世の「資本論」』について

「人新世」とはノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため地質学的に見て、地球は新たな年代に突入し、人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくしたという意味で名付けた年代とのことだ。

このことと、マルクスが19世紀に書いた「資本論」との関係を説明するために書かれた形になっている。(このことについては後で触れる。)

マルクスは『資本論』で「資本主義的生産は、すべての富の源泉すなわち土地および労働者を同時に破壊することによってのみ社会的生産過程の技術および結合を発展させる。」といっているようだが、私たちが「労働者の破壊」にばかり注目していたことを斎藤は見直すべきだという。

彼は、「経済成長が続いて、その恩恵が多くの人にまで分配されるような状況が続いていたあいだは、人々は満足し、社会は安定していた。ところが経済成長が困難になり、経済格差が拡大し、環境問題も深刻化している、それが「人新世」の時代である。」という。

また彼は、「旧来の南北問題を含め、資本主義の歴史を振り返れば、先進国における豊かな生活の裏側では、さまざまな悲劇が繰り返されてきた。いわば資本主義の矛盾がグローバル・サウスに凝縮されているのである。」、 「自動車の鉄、ガソリン、洋服の綿花、牛丼の牛肉にしても、その「遠い」ところから日本に届く、グローバル・サウスからの労働力の搾取と自然資源の収奪なしに、私たちの豊かな生活は不可能だからである。」、「グローバル・サウスの人々の生活条件の悪化は資本主義の前提条件であり、南北の支配従属関係は、例外的事態ではなく、平常(、、、、)運転(、、、、)なのである。」、と述べ、「ところが資本主義のグローバル化が地球の隅々まで及んだために、新たに収奪の対象となる「フロンティア」が消滅してしまった。そうした利潤獲得のプロセスが限界に達したということだ。利潤率が低下した結果、資本蓄積や経済成長が困難になり、「資本主義の終焉」が謳われるまでになっている。」、そして、「もう一方の本質の側面、それが地球環境である。資本主義による収奪の対象は周辺部の労働力だけでなく、地球環境全体なのだ。資源、エネルギー、食料も先進国との「不等価な交換」によってグローバル・サウスから奪われていくのである。人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる収奪の対象とみなす。このことが本書の基本的主張のひとつをなす。」という。

要するに、先進国で信じられていた資本主義の肯定的な評価は、後進国を犠牲にしてきた先進国の、それも一時的な現象でしかなく、資本主義のグローバル化は先進後進を問わず、その限界を露呈し、地球環境の危機までもたらしたということだろう。

そして、「脱成長」の必要性を説き、ピケティを含む、経済成長をしながらこれらの問題に対処しようとするすべての説を否定し、そのための選択肢としてはラディカルに資本主義批判を摂取し、<コモン>を基盤とする「コミュニズム」しかないと結論する。

後半は、「気候市民議会」、「フィアレス・シティ」、「ミニュシバリズム」、「気候正義」などの新しい社会運動を紹介し、このような運動が上記の解決に繋がるという期待を表明している。

最初にこの本を読んだとき私は、現在の資本主義の危機についてマルクスが見通していたかのようにやたらに称揚している論調に疑問を持った。それは再読した今回も同様で、自説を権威づけるためのようにも感じる。ヒントをマルクスが残したノート等から得たとしても、彼自身の思想として主張してもいいのではないかと思う。

また、彼は「コスモポリタン的な理念」の「啓蒙主義」の必要性の擁護を批判し、アナーキズムが国家を拒否するとしてこれも批判する。無政府を批判するのは解るが、国家は拒否してもいいのではないだろうか。私は現在のような国家とは歴史的には過渡的な形態でしかないが,政府は必要だと思っている

そして、グローバル化により結果的に成長が困難になってきた現在においても、脱成長が必要だという主張の整合性の説明が足りないと思う。(例えば、これまでのような成長は困難でも成長の余地はあるが、その余地も止めるべきだというような。)

そうは思いつつも、私はこの人の主張を基本的に支持している。そして彼が情熱を込めて、社会が大きく変わるために必要だという「3.5%」の一人でありたいと思っている。


信彦自戒録 5

 「失敗をなかったことにしようとすることの誤り」


 なんらかの失敗をした時、反射的にその事実から逃れたくなる心理は誰にもある。

「自分はそのような馬鹿なことはしない」などと他人の失敗を他人事としてしか受け止めない、自己中心的な自己意識が強いとそのような行動になってしまう。その反射で逃避すると、取り返しがつかなくなる。

実際の例は少ないが、ひき逃げはその典型だ。事故を起こした瞬間、予測できなかった事態を受け止められず、「そんな気がしただけだ」、「これは白昼夢だ」、「妄想だ」などと思いたい誘惑に駆られることが絶対にないと言い切れる人はどれだけいるだろうか。むしろそんな人ほど逃げてしまうかもしれない。暫くしてから冷静になり、いけないことをしてしまったという反省をして自首する人もいるが、あくまで否定し続ければなかったことにできるかもしれないという気持ちになる人も多い。しかし、目撃者や他の自動車のドライブレコーダーなどから事実を認めざるを得なくなり、有罪になることが殆どだと思いたいが、中には証拠不十分で無罪になる場合もあるだろう。有罪になっても事実を認めない人もいるだろう。

有罪でも無罪でも、罪に問われない日常的な人間関係上の失敗でも、自分の良心は偽れない。良心を偽ってしまうといつも不安になり、それからの人生を暗いものにしてしまう。そのことに気づき、謝罪をするべき相手がいる場合はその人に謝罪するべきなのだ。謝罪しても許されない場合もあるが、それでもいい。そうしなければ、生きている意味はないのだから。

民主主義と専制主義 3

   民主主義が中産階級あってのものにすぎないのだったとすれば、「余裕があれば良識もある」ということを語っただけで、「理想を実現した」ことにはほど遠いことになります。要するに民主主義とは形式上の政治形態であり、ポピュリズムも民主主義がもたらした現象なのではないでしょうか。

 現在の世界情況を見ていると、民主主義国よりも、善政をしている名君がいる国の方がましかもしれないなどと思いたくなりますが、それも危険です。

 イギリスの首相だったウィンストン・チャーチルは、「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」と語ったという。現在の世界はその状況から一歩も前進していない。

 だからといって、最近、市民に平等な選挙権を与えることを改める必要があるなどと言う学者(ジェイソン・ブレナン等)がいますが、それにも疑問があります。合理的であっても差別をすることは許されません。

 今言えることは、すべての市民の意見が(多数決により)反映されることがよい政治に繋がると考えて来たことが間違いではないかということです。そのために政治に関心のない人まで血縁・縁・利権・利害・買収などのために投票に動員され、利己的な欲求を惹きつける巧妙な演説をする立候補者が当選してしまうのです。ですから投票率を上げることに意味はありません。政府や自治体は選挙の啓発活動をやめるべきです。

 そのために、選挙運動は選挙公報、立候補者が参加する公開討論会などに限り、前記のようなことをさせようとするその他の個別の選挙運動は禁止するべきでしょう。そうすれば選挙資金もあまり必要ありません。志を持った人がそれを気にせずに立候補できます。そして政治に関心のある人だけが投票すればいいのです。

  しかし、このような改革に支持が広がっても、上記のような選挙活動で政権を握っている政府等に制度を変えさせることはかなり困難です。上記のような選挙活動を却って強化し、改革を防ごうとすることでしょう。これをどのようにして克服するか。それがかなりの難問となります。

 

民主主義と専制主義 2

 

的場昭弘が「「19世紀」でわかる世界史講義」において、説明している民主主義について以下に引用します。

「近代国民国家は、民主主義の条件はそろえたが、それを守る基礎を欠いています。政治に参加できるのは、結局、経済的に豊かな者だけなのです。だから近代国家は、宿命として常に経済成長し、豊かな人々、中産階級を維持することが重要です。中産階級が崩壊すると、民主主義は機能しなくなります。すなわち、資本主義は常に綱渡り的に民主主義を実現するしかないということになります、カネの切れ目が縁の切れ目、民主社会は専制へと容易に変貌するのです。この資本主義と民主主義はヨーロッパが世界に流布させた文明ですが、それは極めて脆い条件の上にできているのです。」

「にわか勉強でルソーやロック思想を理解することはできるとしても、それをそれぞれの国の中に具体的に浸透させていくなど考えられません。そこに至るには、西欧的な市民社会が形成されなければならないし、資本主義が発展しなければならないからです。そうした物的条件がそろわない限り、民主主義思想を実現することはないのです。」

「そうした国民国家の論理は資本主義の性格にもぴったり合っています。持てる者と持たざる者の明確な差異が現れる。近代民主主義と資本主義は、排除と選別の論理によって発展しています。この論理をつくり上げたのは西欧の国々であり、彼らはアジアやアフリカに対してこの価値観を当然のように押し付けてきます。」

「日本の明治150年の近代化が果たして正しかったのかという問題が、突きつけられています。アジアを棄てた日本(「脱亜論」などで)が、いまだに欧米に向いていて、疑似ヨーロッパを体現している。しかし、実際には欧米から相手にされていない。そう考えれば、福沢諭吉の考えは早計だったと言わざるを得ません。」

イギリス、フランス、アメリカなどの一部の国でしか民主主義思想を実現できず、その国々でさえ中間階級が崩壊して民主主義が機能しなくなっているのですから、民主主義などどこにもないということになりそうです。現在のそれらの国の政治状況は明らかにこのことを表しています。

「グローバル化が中間層を分解させ、ポピュリズム社会になる」ということは、宮台真司が各所で語っている持論で、民主主義の危機だと説いています。

これまでアメリカが世界のリーダーでいられたのは豊富な援助資金をばらまいてきたからであり、バイデン米大統領のいう「民主主義」が理解されたわけではないのです。まさに「カネの切れ目が縁の切れ目」なのに、それを自覚できないのは滑稽でしかありません。


民主主義と専制主義 1

最近のアメリカとロシア、中国の対立は見苦しいほどに感じる。アメリカのバイデン大統領はアメリカ側の諸国は民主主義国で正義、ロシアや中国は専制主義で悪だと盛んに主張するが、そんな幼稚な論理で国際的なリーダーを演じても虚しさを感じさせる。これに同調するのはこれまで親米的だった日本やヨーロッパ諸国だけで広がる展望はない。

というのは、ロシアは制度上は国民が平等の投票権を持つ民主主義国家であるし、中国も民主主義を否定していないからだ。ロシアの選挙では権力による不正が行われているという疑いがあるというのなら、その根拠を明らかにし、その不正を非難すればいいわけだ。

中国の政治体制はその意味で民主主義ではないが、中国は自国こそ民主主義だと主張する。多数決ならそれが正義だということなら、それはたやすくポピュリズムに陥り、その結果、最近ではトランプ大統領が、かつてはヒトラー首相が誕生したこと、日本では殆どの期間、経済的利権最優先の政治しか存在しないことを考えると、全国民に平等な選挙権を与えた多数決による国家体制が、中国の国家体制よりも優れていると言えるのかどうか疑問になる。

中国の膨張主義的な面は抑制させなければならないが、これは一面ではこれまでのアメリカの帝国主義と似ており、そのような振舞に対する抵抗かもしれない。アメリカは第2次大戦後特に、共産圏以外の世界中を自国の好きなままにコントロールしてきた。最近のアメリカのなりふり構わない中国に対する攻撃的な言動は、経済的な行き詰まりから、それが叶わなくなってきたための焦りを強く感じる。

中国に方針転換をさせるためには、中南米諸国への露骨な干渉、ハワイ併合、フィリピン植民地化、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガン戦争、勝敗が明確になってから日本に核兵器でダメ押しをした行為等を含む上記の態度を反省することが前提になることをアメリカは知らなければならない。


安倍元総理国葬についての大澤真幸氏の寄稿

 2022年9月30日の信濃毎日新聞に社会学者の大澤真幸氏が寄稿している。

まず、「この国葬は、日本人の国民の記憶に明確な痕跡を残すことなく、忘れられていく予感がする」と述べていることには同感だ。

しかし、その根拠の「国葬の是非をめぐる世論の極端な分断にある」、「単一の主体を立ち上げるのに失敗した」という理由付けには納得がいかない。分断された状況があれば、それは忘れがたい記憶になるのではないだろうか。

さらに「今回の国葬をめぐる世論の分裂に、通常の政治的意見の対立とは異なる深刻なものを感じている。」、「普通は意見が対立していても、人は互いに反対派の気持ちや論拠に対しても一定の共感や理解をもっている。」が、今回は「このような反対派への共感が極端に薄かった」という感覚には大きな違和感がある。少なくとも日本の政治関しては、ずっと今回のような状況であったと私は思っている。彼のいう「普通」の状態とは、いつどのような状況において存在したのだろうか。それが存在したとすれば、なぜ無くなったのかを分析しなければないのではないだろうか。具体的な説明ができないのならただのノスタルジーかと思わざるを得ない。

そして、安倍晋三という政治家がなぜ憲政史上最長になりえたかという自ら設定した疑問に対し、また「わが国の議会制民主主義の中にほとんど反映されていない不可視の分裂が国民の中にあった」という結論のようなことを述べているが、「不可視」で済ませていてはならないのではないだろうか。

「最長」の疑問に関しては、私が先にこのブログで述べたように、自民党の中の最大派閥を巧妙に取り仕切っていたこと、党内にそんな安倍晋三より有力な人材がいなかったというレベルの低い結論をくださなくてはならないだけだ。わが国の議会制民主主義とは、理念などそっちのけの自民党を地縁や利権等のために支持してしまう日本国民の民度の低さで説明するしかないのではないだろうか。



ロシアのウクライナ侵略問題 3

 9月21日、ロシアはウクライナの反撃に対抗するために、予備役の動員を発令したところ、ロシア全国各地で抗議デモが行われ、国外脱出をする動きも出ているとのことだ。

先に私はロシアは軍事大国だと述べたが、予想以上にウクライナ軍の反抗が強く、既成の軍では劣勢になったようだ。予備役徴集がどれほど効果があるかはわからないが、計画通りにロシア軍が増強されれば、戦争の惨禍はますます激しくなるだろう。

この際、第三国がするべきことは、ウクライナへの更なる兵器等の供与ではない。これはますますウクライナ軍兵士を死に追いやることにつながる。今後ウクライナ軍兵士をいくら増やしても、人口の多いロシアには及ばないだろう。

今なすべきことは、ロシア国民と連帯し、反戦運動や国外脱出を支援することだ。最近はあまり目立たなくなったが、ウクライナ侵略開始直後、オリンピックなどのスポーツ大会でのロシアやベラルーシ選手排除、欧米や日本でのコンサートでロシア人が作曲した曲の除外、ロシア語案内の非表示等ロシア人差別が始まったが、このような差別はロシア人をロシアという国家から切り離せない人間にしてしまう行為だ。スポーツにおいて、ロシア人選手と対戦したくないという選手がいたら、その大会の主催者はその選手を説得し、対戦させるべきなのだ。

今日、フィンランドが増えてきたロシア人の入国を拒否する措置を発表した。自国の「国際関係を危うくする」ためにこのようなことをすることは許されない。

EU各国はロシア制裁措置のためにロシアからの航空便をすべて禁止しているため、欧州連合(EU)加盟国への最後の直接の陸路が閉鎖されることになったようだ。ロシア国民の国外脱出が増えてきた現在において、ロシア人を受け入れないロシア制裁は、ロシア人の西欧人敵視を強めさせ、上記と同様にロシア人をロシアという国家と一体化させることにつながりる。これは期せずしてプーチン一派の望んでいる方向に向かわせることになるのだ。

今回のことは日米戦争当時にアメリカの日本人移民が強制収容された問題と根は同じだ。「国家」と「国民」は一体ではない。「国民」とは制度上の属性であり、その前に人間なのだ。私たちはそれをわきまえずに差別することが愚かであることをこれまでに学んできたはずだ。ロシア人を同じ人間として対応し、ロシアという国家を単に非難せず、彼らが客観的に自国の政府の行為を批判できるように呼びかけ続け、応じた人をできる限り支援するような行為にこそ人類の展望が開けるのだ。

ただ、現在のロシアで反戦運動をすることは危険を伴うことで、予備役抗議デモにおいても多数の逮捕者が出ている。私は第三国の人たちもその限度を理解し、それをわきまえながら呼びかけるべきだと思う。

続「内密出産」

私は7月31日付のこのブログで「政府が現行法の範囲での対応であっても「違法ではない」という見解を示した(同年2月25日参院予算委員会・後藤厚生労働大臣)ことを機に、慈恵病院のような産院や支援者がつぎつぎと現れ、募金等によりその資金が確保され、全国どの都道府県でも匿名かどうかに関わらず出産支援が受けられるようになることを期待しています。」と述べました。

昨日(2022年9月29日)、東京で開設予定の産院が、慈恵病院と同様に、親が育てられない子どもを匿名でも預かる「赤ちゃんポスト」を都内に設置する構想を進めていることがニュースで報じられました

国のこのためのガイドライン(指針)を近く発出する動きがあり、このことを踏まえて決断ができたようです。これに続き、少なくとも各都道府県に1カ所はこのような産院や病院ができるといいと思います。

ただ、これにはかなりの人的な負担、費用負担が必要です。そのために意思は有っても実施に踏み切れない産院や病院があると思います。ですから、上記にもあるように、その費用を援助する仕組みが必要です。支援基金を設立され、そこに多くの募金が集まり、資金援助体制ができることも必要なことだと思います。

妊娠してしまったけれど育てられない女性のために、出産支援施設がどんどん増え続けると共に、女性の権利を支援・保護する団体の皆さんが支援資金を含む支援制度の確立に乗り出してくれることを期待します。

安倍元総理国葬について

 2022年9月27日、国葬に多くの抗議が上がったのにもかかわらず、2022年9月27日、安倍元総理の国葬が予定通り実施された。実施を発表した以上、やめるわけにはいかないことは誰にでもわかることだろう。しかし、大事なことは、このようなことを空しい気持ちで忘れるという、これまでの繰り返しをいつまでもしていてはならないということだ。それこそ現在の為政者が認識している国民の姿そのものなのだから。

まず、岸田首相が述べた国葬実施の理由とその背景はしっかり記憶しなければならない。

もっとも重要な理由は、「憲政史上最長の在任期間」ということだったが、これは国民が直接そうしたわけではなく、自民党に、代わりになる人材がいなかったということを表しているに過ぎない。事件後も安倍派は党内最大派閥を保っており、このことが国葬とせざるを得ない大きな理由でもあるわけだ。いわば、自民党内の内部事情で国民の税金を使ったということであり、国葬に対する世論調査にもそんな国民の実感が現れていた。

森友学園、加計学園、桜を見る会など疑惑は数知れず、とぼけて否定すればいいという姿勢を貫き、自殺者まで出ているのに何の責任もとらず、むしろ部下に責任を押し付け、「忖度」という言葉をはやらせたようなあからさまな官僚支配をしてきた偽善的で傲慢な人間に日本の方向を決めさせてきたことは、そんな自民党に投票してきた国民自身の問題でもある。

国葬実施の他の理由は、「内政、外交で大きな実績」、「国際社会から大きな評価」、「蛮行による死去に国内外から哀悼の意」ということで具体性がない。

最後の理由について言えば、「蛮行」により殺されるような「愚行」をしていたことを考えると笑止千万としか言いようがない。事件以来、旧統一教会による被害が次々と明らかにされ、全国的な問題となったため、狙撃犯が旧統一教会の信者二世から密かに英雄視されているのではないかと思われる中、そのことに一定の責任がありそうな安倍元総理の国葬が行われるといういびつな状況になったことを私たちは今後もずっと忘れてはならない。


旧統一教会の問題について

 安倍元総理の暗殺の動機となった旧統一教会の問題がクローズアップされ、宗教をめぐる議論が提起されているが、宗教はこのブログテーマと関連する大きな事柄だ。「存在」をめぐる不可思議で不安な感覚は、ユダヤ教の聖書(キリスト教の旧約聖書)のように「神が創った」と言えばわかりやすく、そう信じて不安が解消される人も多いだろう。それから、生きていく上での苦悩に対し、宗教者が「神の教え」をアドバイスすることで多くの人が救われたという気持ちになることだろう。その意味で宗教が社会に役立っていることは認める。私も素晴らしいと考えている内容の(神のではない)「教え」は数知れない。

しかし、宗教はその救済を与えるだけでなく、その人の依存心を利用して信者とさせ、その宗教への継続的な関係を求める。その宗教なしでも自立していけるようには決してせず、そのような信者を増やそうとする。そこに「人間」は存在せず、「信者」だけが存在する。私は、これが宗教の本質だと思う。信者が多くなると社会への影響力がついてきて、教祖やその後継者に野心があるとあらぬ方向に向かいがちだ。旧統一教会がそうだとは言わないが、中にはその野心のために創られた宗教さえありそうだ。

私はあえて存在の不安をいつも抱えながら生きてこそ、本当の人間同士の共感が得られるのだと思う。悩む人にアドバイスしてやることは必要だ。その際、その人が今後も悩むことがあっても自分自身で解決できるようにするべきなのだ。

ロシアのウクライナ侵略問題2

 最近、ロシアが愛国教育を強化し、国旗掲揚や国歌斉唱を学校に義務付けたというニュースが流れていた。日本の戦前教育を思わせる政策で、戦後は植民地の独立運動以外にそのような動きはあまり聞こえていなかったので、私は当初、このような動きはアナクロニズムだと感じたが、ロシアの歴史やナショナリズムについて考え合わせると、今回のウクライナ侵略の問題の原因も見えたように思われてきた。

歴史的にはロシアは帝政の時代から社会主義革命によって、国際主義的な国家(体制)のソビエト社会主義共和国連邦の一国になった。そのため多くのヨーロッパ諸国が、専制的な君主制国家を国民主体の近代国家に変革し、均一の文化や民族などの一体感を味わうナショナリズムを謳歌したのに対し、ロシアはそのような段階を経ていない。

ロシアの帝政時代の状況については、ベネディクト・アンダーソン「定本 想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行」に詳しく述べられている。

(P148)「一八世紀のサンクトペテルブルグの宮廷語はフランス語であり。一方の地方貴族の多くはドイツ語を使っていた。ナポレオンの侵略の後セルゲイ・ウバーロフ伯は一八三二年の公式報告書の中で、王国が専制、正教、ナツォナルノスト(ナショナリティ、国民性)の三原則を基礎とすべきことを提案した。これら三原則のうち、最初の二原則むかしからのものであったのに対し、第三の原則はきわめて新しく(中略)そして「国民」の半分がまだ農奴で、また半分以上がロシア語以外言語を母語としていた時代には少々時期尚早であった。」

(同P149)アレクサンドル三世の治世(1881~94)になってはじめてロシア化は王朝の公の政策となったが、それは帝国領内においてウクライナ、フィン(筆者注・フィンランド)、ラトヴィアその他のナショナリズムが出現したずっと後のことだった。

(同P149)1887年、ロシア語が、バルト海地方すべての国立学校において最低学年から授業の言語として義務付けられ、やがてそれは私立学校へも適用された。

またロシア革命について同書は、

(同P149)そしてシートンワトソンは、以下のようなことまで主張する。つまり1905年の革命は、「労働者、農民、急進的知識人の専制に対する革命であったばかりでなく、非ロシア人のロシア化に対する革命でもあった。二つの反乱はもちろん関連していた。実際、社会革命は、ポーランド人労働者、ラトヴィア農民、グルジア農民を主役として、非ロシア地域で最も激烈であった。」

つまり、ロシアでは帝政時代末期に「上からの」ロシア化の政策を始めたようだが、帝政下であったためにロシアナショナリズムは国民的なレベルには至らなかったのではないだろうか。

これは仮説だが、私はナショナリズムとは、エゴイズムの共同化でしかないにもかかわらず、国家としての一体感を味わったことが、良い結果(大英帝国の繁栄、日本の近代化、植民地だった国家の独立等)であれ悪い結果(日本やドイツの第2次世界大戦の敗戦等)であれ、その国民がアイデンティティを確立するために一度は経験しなければならない、言わば必要悪または通過儀礼のようなものだと思っている。

現在のロシアという国家は前世紀末に突然生まれたばかりの国で、上記のような事情により近代国家としてのナショナリズムを経験していないため、かつて兄弟のような関係だった国で反露的なナショナリズムが起きていることに対して、なされるままにされている誇りのない自国にプーチン一派は我慢ができなかったのではないだろうか。特に今回のウクライナ侵略に際しこのことを痛感したのだろう。そのため改めて「近代国民国家」として「上からの」ナショナリズムの提唱を始めたのだろう。これが、プーチン一派だけでなく、今後、ロシア国民にどれだけ支持され、「下からも」ナショナリズム運動が起き、国民一般の感覚になるかどうかが今後の大きな問題となると思われる。アイデンティティーを確立できない不満がどれだけロシア国民に共有されているかということにかかっているのだろう。



信彦自戒録4

「 虚栄を張ること・偽善的行為・装うこと(パフォーマンス)は何のためにもならない」

それらはすべてありのままの自分を偽った、見せかけの行為だ。そのような行為をする理由は、ありのままの自分を他者に示しても注目されなかったり、軽蔑されたり、嫌われたりするような気がするからだ。その反対に羨ましいとか、多くの人から尊敬されたり好かれたりしている人などを表面的にまね、他者にその人のように思われようとする誘惑に負けてしまっている。その結果、その狙いどおりにできたように思えると常習化し、性格に根付いてしまう。

しかし、観察力のある人にはそのことを見透かされる。また、自分が理想と思った姿は他者にとってはそうではないかもしれない。見せかけた行為が成功しても、そのために嫌われたら何とも馬鹿馬鹿しい。

結局、ありのままの自分で行動するしかない。そのほうが、上記のような人より好感を持たれるかもしれない。この場合の好感は狙っては得られない本当の共感だ。ありのままの行為の評判が悪い場合は、その評判について自分なりに考えてみればいい。そして反省するべきだと思ったら、その自分を変え、それをありのままの自分にすればいいのだ。決して新たな偽りの形を編み出してはならない。

その覚悟さえあれば、いつもありのままの自分を保つことができ、楽に生きられるのだ。




信彦自戒録3

 「人間の価値とは」 

人間の価値とは何だろう。家柄・人種・民族等の生まれついた属性でないことは明白だ。また学歴・経歴・社会的地位などのこれまでに獲得した属性でもない。だから、例えばノーベル賞を授与された人であっても、その人がそれに満足してしまっていたり、自慢したりしていたとすればその人にはもう価値はない。

 人間の価値は現在にしかない。人間の価値は現在の一瞬一瞬の行為にしかない。

ロシアのウクライナ侵略問題

 ロシアがウクライナに軍事侵攻を始めてから間もなく半年になる。
この問題への国際間の対処を見ていると、かつての我が国の中国への軍事侵攻と重なってくる。かつて欧米諸国は我が国に対しABCD包囲網を敷いて経済制裁をし、中国へ武器援助をし、直接交戦を避けながら「代理戦争」をした。これは今回のロシアへの対抗策とかなり似た構造だと言える。
この結果は日本が危機を脱するための対米戦争につながり、悲惨な結末になったことは周知のとおりだ。
今回の欧米に日本などが加わった対ロ対抗策はどうなるだろうか。これが成功し、ロシアが矛を収めることは考えられない。ロシアは石油などの資源が豊富で、日本のような資源の面での危機は縁がない。ロシアからの輸入を控えた国の代わりの輸出先さえ確保できるようだ。食料自給率は全般に高く、禁輸されても同様に他の国から輸入することができそうだ。
一方でドイツやポーランド、北欧諸国ではロシアからの天然ガスに依存していたため、ロシアがこれを止めると危機的になりそうだ。
このような状況では、経済制裁は効果がないどころか、逆効果になり、世界的な原油高、物価高さえ起きている。
また、武器援助は効果があるかもしれないが、武器を供与するだけでは、上記の代理戦争のようなもので、両軍の戦死傷者を増やすことにしかならない。ロシアは軍事大国なので、むしろウクライナのほうが甚大な被害を受けることになる。ウクライナ(ゼレンスキー大統領)の求めに応じることがウクライナの国民のためになるとは言えないのだ。(日本が「防衛装備移転三原則」に反するとして武器だけは供与していないようで、このことは結果的には正しいが、それを他国に呼び掛ける気が全くないのは、常々感じる主体性のなさのためで情けないかぎりだ。)
いまはそんなことはやめ、当事国以外のすべての国が現実的な停戦を検討し、働きかけるべき時なのに、アメリカを先頭にロシアを非難することに終始している。ロシアの侵略は当然非難されるべきことだが、非難するだけでは解決はおろか、悲惨な結果になることは明らかだ。国連はほとんど機能せず、そのような声がどこからも聞こえてこない現状に危機を感じる。

信彦自戒録2

 「レッテル貼りはやめよう」

 人間が人間であることによる心理は共通に存在するが、個性は千差万別だ。人間は男女、年令層、学歴、家柄、血統、出身地、障害の有無・程度、人種、民族、国籍などの属性で区別されがちだが、その中でも個性は一律ではない。属性に多少の傾向はあっても、その傾向にまったく当てはまらない個人もいる。だから、属性にレッテル貼りをすることは愚かだ。人間は人間という共通点があるだけの各個人だ。

信彦自戒録1

 「人間皆同じ」 

 ・ある時の他人は今の自分、今の他人はある時の自分だ。

 ・人にあることは自分にもある、自分にあることは人にもある。

 ・人にできることは自分にもできる、自分にできることは人にもできる。能力差は結果や他人の評価 

  でしかないのだからそれにとらわれることはない。

こう信じることにより、差別、他人への冷淡さ、これらへの仕返し、自分の怠惰の言い訳を防ぐことができる。

意識しなくても自然にそのことを理解している思いやりのある人もいる


「家族」と「内密出産」下

 

「家族」と「内密出産」

2022719日の信濃毎日新聞の社説に内密出産で生まれた子が特別養子縁組を前提に里親の元で育てられるようになったという経過とともに、政府が内密出産の運用の指針を進めているが、あくまで現行法の範囲内の対応にとどまり、制度化に踏み込む姿勢は見えないということが報告されていました。

そして、この問題を、一病院と自治体に委ねていていい問題ではないと述べ、その問題に悩む女性の支援システムを土台とした制度化の検討に本腰を入れるべきだとの主張をしていることに全面的に賛成します。

ただ、このような問題の制度化には時間がかかります。政府が現行法の範囲での対応であっても「違法ではない」という見解を示した(同年2月25日参院予算委員会・後藤厚生労働大臣)ことを機に、慈恵病院のような産院や支援者がつぎつぎと現れ、募金等によりその資金が確保され、全国どの都道府県でも匿名かどうかに関わらず出産支援が受けられるようになることを期待しています。そのように既成事実化させることが優柔不断な政府を動かし、制度化の方向を決めることにもつながると思います。

なお、私は制度化の論議の中で、子どもの「出自を知る権利」を保証することが重要な条件とされています。そのことを子供のために配慮するよう、母親に伝える必要はあると思いますが、それが絶対条件のようになり、その人が「内密出産」をあきらめざるを得ないようになるまで追い詰めてはならないと思います。

自分の血縁上の両親を知っていなくとも、人間は人間として生まれた人間で、そのことはなんの欠如にもなりません。両親に育てられた子でも、成長するにしたがって社会の中のよき大人を尊重し見習うようになるのです。「出自を知っている」ことが人間として必須の条件であるように考えることも、上記引用のような「神話」かもしれません。このブログのタイトルで述べているように、人間は生まれただけで人間になったのではなく、自分が存在しているという意識を持った時に人間になるのです。その時、自分の属性(男女、生物的な父母、名前、人種、国籍等)は偶然に与えられたものにすぎないのです。いわば私たちは「地球という星に産み落とされた宇宙の孤児」なのですから。

また、今回のように里親、養子縁組ということにならず、養護施設で成人するまで養育されても、その子が「家族の良さがわからない不幸な子ということにはならない社会」になるべきだと思います。「父と母が揃った家庭で育つ」ことを理想とし、モデル化・一般化すると、どうしても差別の問題が伴います。「親は無くとも子は育つ」という諺があります。「家族」、「親子」の既成観念と、この言葉の重さの違いを感じ取りましょう。

最後に、このような問題は人任せにせず、一人一人が自分の考え方を検討していくことによってしか本当の解決は望めません。内密出産のようなことは他人事だと思っている人でも、心の奥で自分の子や孫がそうなることに不安を感じているのではないでしょうか。そう感じながら、自分だけには、自分の子にだけにはそんなことは起きないという極めて幼稚な妄想によって、その不安を打ち消そうとしていませんか。そして、他人事としたいために望まぬ妊娠をした人を差別するような誘惑に負けていませんか。他者に起きたことは自分にも起こりうることと認識できてこそ人間らしい人間です。自分と同じように苦しい事態に陥った人に寄り添う不安のない、温かい社会をみんなで創りませんか。

(了)

 「家族」と「内密出産」

宮台真司、渡辺靖、苅部直の鼎談集『民主主義は不可能なのか?』において、社会人類学者の渡辺らが述べていることが、この問題を考える参考になると思うので、長くなりますが引用します。

渡辺                                                                                               「最近は、男女問わず、晩婚化、全非婚化の流れが強まっています。背景にあるのは何か。男女関係やその役割分担、夫婦観や家族観において、旧態依然としたイメージがあり、それを想像してしまうと萎えてしまう。自分みたいなものが結婚したって、家族を幸せに養えないからとか、配偶者の親の受け入れなど、家族や親族とのしがらみがあると思うと萎えてしまう。根強い家族神話に拘束されて、その前で怖気づいている人も少なくないのではないか。今はそういう結婚観・家族観が転換する時期にある。家族は個人にとって選択肢の一つにすぎない。家族のために自らの自由を放棄するのは馬鹿らしいと考える。単にソーシャルキャピタルの窮屈さを避けているわけではないと思います。」

これに対し社会学者の宮台は                                                「データ的には、年収1250万以上の女は6割以上が結婚せず、男は年収が低いほど結婚できない。要は、女は金がなければ結婚し、男は金がなければ結婚できない。これは「愛よりも金」を示すと同時に、渡辺さんがおっしゃる性別役割分業のオールド・レジームを示します。」と応じています。

(結婚の同様な傾向は。山田昌弘『結婚不要社会』にも述べられています。)

日本は明治以降、欧米のように産業を発展させ、都市化してきたのに、封建的な社会制度を取り入れるという、ちぐはぐな近代化をしてきましたが、敗戦後はこれを民主的な制度に変革せざるを得なくなり、このわずか一世紀半の間に他の国にはほとんど例のない荒波にさらされてきました。このためでもありますが、日本国民の家族観・社会観はこの状況に的確に対応できておらず、精神的に極めて不安定なままだと思います。今はこの状況を踏まえた新しい家族観を構築していくべき時なのです。ただ旧来の家族観を守ることを主張し、このような状況を考えない政治家は、政治家たる資格はありません。 

「出産」は性行為により生じた結果で、「家族」との直接の関係はありません。「家族」と結びつけるということは、性行為によって生まれた子供の養育はその両親に責任を持たせる民法上のルール(第877条第一項 直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。)があるからなのでしょう。しかし、その両親と子は「家族」であるとは限りません。いわゆる「家族」とは結婚しているかどうか、共同生活をしているかどうかは別にしても、継続的な関係がなければならないでしょう。特に両親が未成年の場合、「家族」であることはめったにないでしょう。上記の批判は、「家族」でなければ子を産んではならないという道徳の強制で、そこからはずれた「出産」は捨て子、子殺し、母子心中につながってしまいます。ですから、「出産」と「家族」は別の問題として扱わなければなりません。

「できちゃった婚」という結婚が、最近ごくありふれたことになってきたことはいいことだと思いますが、強姦はいうまでもありませんが、ともにパートナーとして生きようとしないカップルや結婚できない年齢の男女にも子供はできます。

『最小の結婚』においてアメリカの哲学者、エリザベス・ブレイクは

「だが、子どもは、結婚以外の様々な方法で保護されうる。彼ら彼女らは、ひとり親もしくは血のつながっていない親たちによって養育されるかもしれない。問題となるのは、子どもの保護のためにどのような枠組みが配置される必要があるかということであり、その答えは明らかに彼ら彼女らの生物的な両親の結婚ではないのである。」

と述べています。

私たちは、既成の概念、モラル等を客観的に、徹底的に分析し、現在の状況からかけ離れた束縛から脱却し、子どもの養育のためにはどのような社会のしくみが必要かを考えようではないですか。

(下へ続く)

「家族」と「内密出産」

「家族」と「内密出産」上

 最初のテーマとして、「家族」と「内密出産」について考えてみましょう。

「家族」とは誰にも当たり前のようですが、これについては考えれば考えるほど不明確な概念であることが分かります。

「家族」については私が若い時からずっと考えてきたことですが、最近、このことについて考えたきっかけは、「内密出産」あるいは「匿名出産」という出来事が話題になったからです。

「内密出産」はフランスでは200年以上前から、また現在では、ドイツ等、欧米の多くの国で認められており(参照・2019年3月・厚生労働省「妊娠を他者に知られたくない女性に対する 海外の法・制度に関する調査研究 報告書」)ます。しかし日本国内では認められていないため、一部の国会議員が議員立法を目指していますが、保守層からは捨て子助長論等の反対論が多いとのこと。その人たちは、捨てさせなければ解決すると思っているのでしょうか。孤立出産をせざるを得ず、生まれた子を殺すという痛ましい事件が後を絶たないのはこのような社会的圧力が原因なのではないでしょうか。

こういった懸念を解消するためにも、感情的な議論にならないようにするためにも、それらの国の状況を調べたり、専門家の見解を聴き、問題点等を明確にする必要があるでしょう。

また、与党から「伝統的な家族観を壊す」という批判が根強いため実現困難とのこと。「伝統的な家族観を壊す」ということが「内密出産」を認められない理由になるのでしょうか。超党派の生殖補助医療議員連盟がこの問題に取り組んでいるようですが、この論理について議論したのでしょうか。まずそのような主張をする人に、「伝統的な家族観」とは何か、そしてそれが壊れないようにすることにどのような意義があるのか、ということを明確に説明させる必要があると思います。

(中へ続く)