書評 パレスチナ/イスラエル論 早尾貴紀著

 

この著者の『ユダヤとイスラエルのあいだ』に続いて購読した。第Ⅰ部は前著で触れていた「ディアスポラ」について深堀している。この中で、早尾は、この言葉は「国民国家という一体性からの「逸脱」であることを指し示す。」として、ヘーゲル左派、アーレントらの民族論や国家論を批判的に解説している。

そして、早尾が評価している、イラン・パぺというユダヤ人で反シオニストの歴史家が、シオニストがパレスチナのアラブ人を殺害・追放する行為を「エスニック・クレンジング」だとして批判していることを紹介し、イスラエル建国後、3割程度しかいなかったユダヤ人の割合(現在は約8割)を極大化するために、ユダヤ教徒のアラブ人の中東から移民を導入したにもかかわらず、シオニストが彼らを「人種としてのユダヤ人」だという主張をしたことを批判している。

そう言いながら、イスラエルでは、ヨーロッパ系移民が「アシュケナジーム」として国内の主導権を握っている中で、中東から移民した人たちは「ミズラヒーム」と呼ばれて下層におかれ、イスラエル国内に人種格差があるとのことで、二枚舌的なシオニストの現状にも目を開かされる。

また、イスラエル建国後のパレスチナの惨状に触れ、「皮肉なことに、かつてはもっぱらユダヤ人の離散状況について語られてきた「ディアスポラ」は、現在、パレスチナ人の措かれている状況を概念化するのにひじょうに適している」と、ここでも「ディアスポラ」の概念がユダヤ人の専売特許ではないという皮肉を述べている。

さらに、建国前からアーレントらが唱えていた、「バイナショナリズム」のオスロ合意による変遷、サイードのバイナショナリズムとディアスポラにかかる引用しながら、「ディアスポラ的思考は、(ジャン・)ジュネとサイードを媒介としながら、「アイデンティティの根源的な他者性」にまで至りつく」としている。

第Ⅱ部では、ユダヤ人やアラブ人の映像作品等を紹介しながら、シオニズム等の批判、反シオニズムの評価が述べられている。

第Ⅲ部では、パレスチナの一般に知れていない、これまでの経過や現状が詳しく述べられている。一例をあげる。ユダヤ系アメリカ人、サラ・ロイの著書の引用によると、1995年に結ばれた暫定自治協定=「オスロⅡ」の内容は、ガザ地区やヨルダン川西岸地区はパレスチナ人の地域とされていても、行政権と自治権がともにパレスチナ側にあるA地区、行政権のみのB地区、どちらもイスラエルが握るC地区という区分分けがされていて、B・C地区は合計83%を占めているとのことだ。現在のガザ地区への軍事侵攻を考えると、ほとんどの地域がイスラエルの管理下に置かれることになりそうだ。一昨年のハマス(早尾は「ハマース」としている)の越境攻撃以前から頻繁に起こされていたイスラエルのパレスチナ人への迫害・虐殺も詳しく述べられていて、パレスチナの人びとの切迫感、絶望感がひしひしと伝わってくる。

日本ではあまり報じられていないことだが、2006年のパレスチナ総選挙でハマスが政権を取っても、イスラエルと日本を含む欧米諸国はその内閣を承認せず、ファタハを支援したため、ハマスはファタハとの連立内閣を組んだのに、イスラエルはファタハに銃や弾丸を大量に供与して内戦を促して、ファタハにヨルダン川西岸地区を容易に制圧させたことから、パレスチナはヨルダン川西岸地区とガザ地区に分断され、そのガザ地区に対し、イスラエルは経済活動等を不当に制限する「反開発」政策を進めているそうだ。このようなイスラエルのガザ地区への締め付けがあったことも、上記の越境攻撃の原因として認識しなければならないことだろう。それにしても、自国のために、同じ民族を分断し対立させるという卑劣な行為をしたイスラエルという国は、恐ろしいほど非情な国だろう。

このような状況に対し、早尾は(ロイ以外の)「多くの研究者たちは分析能力に欠けるのか倫理に欠けるのか、あるいは政治的になることを避けているのか(沈黙によってイスラエルの占領を容認することも充分に政治的だと思うが)。ともあれ、ロイが、事後的にしたり顔で解説を加えたり、慌てふためくような研究者などとは一線を画して、リスクを冒しても然るべきタイミングで踏み込んだ発言をしていることが確認できる。」と述べていて、彼の苛立ちやロイを擁護したくなる気持ちがひしひしと伝わってくる。

早尾は、このような状況を述べながら、日本の思想状況についても批判していて、「イスラエルであれ日本であれ、それぞれユダヤ人中心主義と日本人中心主義を解体するには、徹底した歴史認識から出発するほかない。イラン・パぺから私たちが学ぶべき教訓はここにある。」と、この著書を結んでいる。

書評 ユダヤとイスラエルのあいだ 早尾貴紀著

 

この本を「再読」した。本箱の中で眠っていた本で、2008年の初版なのでその頃読んだ

らしい。アーレントの「世界喪失こそ、ユダヤ民族が離散において被ったものです。(中

略)あらゆる社会的な結びつきの外に立っているというこのこと、一切の先入観から離れて

いるというこのことはとても美しいものだったのです。」という言説等を書き抜いていた

が、かすかな記憶しかないので読み直し、この著作が現在でも時代遅れになっていないので

驚いた。何より評価できることは、アーレントの言説を極めて客観的に分析し批判的に捉え

ていることだ。アーレントはアイヒマン論争の際、「ユダヤ人への愛」など感じたことはな

い、私がユダヤ人であるからこそ「ユダヤ人への愛」は疑わしいものに見える等と宣言した

ことは有名で、出自に客観的だと一般には評価されているが、私はマルクスやフロイトに比

べればユダヤ人であることから自由だとは言えないと思っていた。この著者は、アーレント

が同化主義者もシオニストも反ユダヤ主義と闘うことをやらずにすませたと批判している

が、反ユダヤ主義を批判するなら、ヨーロッパなどでその活動はなされるべきだとして、パ

レスチナへの移民運動を支援した彼女はシオニストであると言わざるをえないと述べてい

る。

それから、最初に述べたアーレントの「世界喪失」や「離散」等の言説に似た、ボヤーリン

兄弟がユダヤ教文化の神髄は「ディアスポラ」にあり、国家なき離散状態で育んできた思想

文化にあるという言説、バーリンが、ユダヤ人が察知されないうちに、ものごとの傾向性を

見抜く等の能力、洞察力、未来までも分析する眼力を、自らが置かれてきた状況のために獲

得せざるをえなかったという歴史的特性を持っているという言説などが紹介されている。こ

れらの本来のユダヤ性はシオニズムとは異なるという言説だ。しかし、これらは、人間性は

属する国家がない状態で目覚めるという普遍性ではなく、ユダヤ人ならではの能力、という

かたちで語られており、ユダヤ人はやはり他の民族や人種とは異なる民族だという思想、選

民という意識から生じたものであろう。この「ディアスポラ」については、サイードが、ユ

ダヤ人の特徴としてのみ見る必要はない。」と語ったことや、「ディアスポラ」自体、近代

シオニズム思想においてギリシャ語から翻訳されたという説が紹介されているが、著者自身

がこのことをどう捉えているのかを述べて欲しかった。

このほか、フロイトがモーセはエジプト人だったという仮説でユダヤ性を分析しようとした

こと、ガンジーがパレスチナは地理的な領域ではなく、ユダヤ人の心の中にあると語ったこ

とや、サイードがユダヤ性は差異のイデオロギーだと批判したことの紹介、さらにハマスの

姿勢の説明などもあり、2008年当時の著書だが、最近のパレスチナ問題を考えるうえで

充分参考になる。

ユダヤ人が「選民」の呪縛から自由になれば反ユダヤ主義はなくなる ~パレスチナ問題の根本的解決のためになされなければならないこと

 ハマスのミサイル攻撃や人質拘束への報復として行われているイスラエルのガザ侵攻は常軌を逸している。ユダヤロビーに操られているアメリカやホロコーストへの罪責意識に囚われているドイツなどがイスラエル支持をやめられないのをいいことに、イスラエルは報復どころか、金輪際パレスチナからの攻撃がなされないようにするための仕上げを着々と進めている。

この非情さ、苛烈さに世界中から非難の声が上がっていることに対し、イスラエル等のユダヤ人から「反ユダヤ主義」という非難が返されている。こんなことをする国はナチのホロコーストを非難することはできないはずなのに、ホロコーストにつながった「反ユダヤ主義」を、いまだにタブーとして利用し反論する態度は陳腐になりつつあり、そのタブー意識はヨーロッパにおいても、若い世代ほど持ち合わせていないので、このままでは、かつてとは異なった形での「反ユダヤ主義」が起こることになりそうだ。

そもそもパレスチナの問題は、1948年のイスラエル建国に至るシオニズムから始まっている。ガンジーは「聖書の概念でのパレスチナは地理的な領域ではまったくありません。パレスチナはユダヤ人の心に中にあるのです。」とある書簡で語っているが、何千年も前に無くなった国の民が、現実にそこに住んでいる人々を排除して、その民族の国家を再興しようとし、それを支援する国家が存在したということは二十世紀の最大級の汚点だろう。

このような国は全世界から制裁されるべきではないのか。また上記のような支援国家も制裁されるべきではないのか。アメリカやドイツの支援をやめさせるために、両国との経済関係を完全に断つことは困難でも、一部の関係を断つことは検討されるべきではないのだろうか。しかし、そのような動きは全く見られない。

この状況を憂いたイスラエル内外のユダヤ人から、現在のイスラエルを産んだシオニズムは、ユダヤ教に反しているというような言説が述べられている。ユダヤ教は暴力を嫌っており、シオニズムは間違っているというわけだが、この論理だけでは、ユダヤ人すべてが政府の政策を支持しているわけではないという言い訳にしかならず、シオニズムが起こる前の、ヨーロッパの伝統的なユダヤ人迫害や差別などの反ユダヤ主義が起きた理由については問題外になってしまう。そこで、ここでは、これまでの「反ユダヤ主義」等を産んだ、ユダヤ人の「選民意識」について考えてみよう。

始めに断っておくが、ここではユダヤ人と言われるすべての人について述べているわけではない。私は人間を属性で判断することは間違いだと思っている。人間はそれぞれ個性を持って生きている。だから複数の人に属性をこじつけ、その属性で個々の人の判断をすることは間違いである。現に、後で述べるように、ユダヤ的でないユダヤ人が少なくないことを知っている。ここで「ユダヤ人」としているのは、自らユダヤ人という集団意識を持ちながら生きてきた(生きている)ユダヤ人のことであり、いわば、人間ではなく「ユダヤ人」という概念について述べているわけだ。

さて、そもそも何千年前に流浪の民となっても連帯感を持ち続け、行き着いた地域の人々になじまず、ユダヤ教信者でなくても「ユダヤ人」としてのアイデンティティを保とうとすれば、その地域の人々からうさん臭く感じられそうだということを理解せず、その相手を悪者にし、自分たちは善良な被害者、受難者という立場になり、マゾヒスティックに選民意識を抱いているから反ユダヤ主義が生まれるのではないだろうか。こんなことを述べると、私が「反ユダヤ主義者」、差別者などと非難されそうだが、このことはタブーにされているだけで、そのような状況では、そのように感じる人がほとんどではないだろうか。

私はそれが当然だとは言わない。自分たちとは異なる慣習を守る人やその集団を、単になじめないからと、うさん臭い目で見ることは愚かなことだ。しかし、だからといってその相手を単に悪者とすることも愚かなのではないだろうか。不当な行為を受けたと感じた時、なぜそのような行為をするのかを相手に尋ねれば、自らの行為の相手にとっての受け止め方を理解することができるだろうし、自分の行為の説明をすればわかり合うことも可能なはずだ。そのような基本的なコミュニケーションを阻むのが選民意識ではないのだろうか。人間は弱く、人見知りになりがちで、上記のような現象が起こりがちであるということをお互いに認め合えばいいのに、「選民意識」が強いと、自分たちこそ正当だと思い込むから差別や紛争になったりする。

シオニズムを批判している著名なユダヤ人たちの中に、「ディアスポラこそユダヤ人の特性」という類の言説を述べる人たちがいる。このようなユダヤ人も、ユダヤ人がディアスポラを経験して普遍的な思想を生み出す能力を身に着けられたことを、「ユダヤ人ならでは」、とその経過を特権化している。それも選民意識であり選民的意識から脱していない。

ディアスポラがもたらしたものについては、パレスチナ人思想家のエドワード・サイードが、「ユダヤ人だけの特徴だと言う必要はない」、「膨大な人口、避難民、亡命者、国籍離脱者と移民が氾濫するこの時代において、自分の共同体の内と外の両側に同時に生きる人びとの、ディアスポラな放浪と未決のコスモポリタンな意識にもまた、そうしたことが探し出せるはず」と述べているように、ユダヤ人のディアスポラも歴史の中で生じた現象に過ぎない。

そもそも、人類に「選ばれた民」など存在しない。「選民」という観念は、厳めしそうだが、その起こりは極めて幼稚な妄想なのではないだろうか。「選民」とは、「実存」の感覚を自分の殻に閉じ込め、自分は特別な存在(人間)であるかのように思う自己幻想が、伝統、慣習、宗教等が同じ民族に広がった原始的な共同幻想なのではないだろうか。

優性思想や選民的意識はアングロサクソン系アメリカ人、中華思想の漢民族、ナチスドイツのアーリア系民族など各地にみられ、日本にも太平洋戦争以前には神国思想などが興隆した。しかしユダヤ人以外の民族は、その民族に勢いがあるときに限られている。そして、ユダヤ人以外の民族は、出身国から離れると自己の民族性を徐々に失っていくが、アメリカにおけるユダヤ(イスラエル)・ロビーの活動は活発で、ガザ侵攻問題の解決を困難にしているばかりか、アメリカが軍事支援をやめないように圧力をかけ、ヨーロッパにおいても様々な自民族援助が行われているように、ユダヤ人の選民意識による結束力は特別だ。ユダヤ人がこのような意識から脱することは不可能に見えてしまう。

しかし、ユダヤ人のなかには、選民意識やユダヤ性を感じさせないマルクス、フロイトなど、いまだに世界中に強い影響力を持っている人物がいることは有名で、先に述べたような普遍的な思想を生み出す能力を身に着けられた例とされている。フロイトは自らのユダヤ性を認めているが、それに縛られた言説は自制されていると言えるだろう。

私は、私自身も影響を受けた、このような人物がユダヤ人から輩出されたことを、かねてから不思議に思っていた。ユダヤ人が特別、優秀な民族だからだという答えは「ユダヤ人選民論」に逆戻りになる。それを排除して考えると、このような結論になる。

ユダヤ人の選民意識は特別根強いから、これを客観化し、脱するという困難を克服するためには、人間という存在の意味を特別深く考え理解しなければならなかった。そのために彼らは、民族等の属性などを始めとするあらゆる既成概念を相対化しなければならなかった。それを実践した彼らは民族等を超えた思想や理論を獲得することができ、その思想や理論は広く普及し、現代に至っている。

このように言うと、「そのような特別な人しかユダヤ性を克服できないのではないか」と思われがちだが、そんなことはない。彼らはそういうことができるという範を示してくれたのだから、それに倣えばいいのだ。先駆者としてそれを実践することは大変なことだが、後の人はそれをはじめから経験する必要はなく、いわば模倣すればいいのだから誰にでもできる。要するに「選民」という意識は思い込みに過ぎないということが理解されればいいのだ。

ヨーロッパにおいて、ユダヤ人以外の社会に同化したユダヤ人は多いようだ。ユダヤ人性に客観的と言われていても、そこから逃れられていないアーレントは、同化主義者をシオニストと同様に、「反ユダヤ主義の教義に逃れた」と批判したようだが、必ずしもそのような消極的動機ではなく、ユダヤ人という出自にこだわらず、素直な気持ちで同化した人は少なくないのではないだろうか。むしろそのような同化こそ進むべきだったのではないだろうか。

民族、人種、国籍、性別等の違いなど、生まれながらの属性は、たまたま備わってしまったのであり、それに意味はない。属性を恥じたり、誇ったりするのは愚かな心理でしかない。この理解が広がり、みな等しく「人間」であり、そのことに比べたら属性は些細な事だということが認められなければならない。

「自民族性から自由に」、ということは人類共通の課題だが、「選民」という観念に縛りつかれているために現在最も苦しんでいるユダヤ人が、まず取り組む必要があるのではないだろうか。ユダヤ人が自身のために「選民」の呪縛から自由になれば「反ユダヤ主義」はなくなるだろう。ユダヤ人が真っ先に選民意識や民族性から脱し、他の民族にそれが広がれば、人類は国家という共同幻想からも脱し、世界の分断がなくなる未来が開けるだろう。


信彦自戒録 8 自分の非を認めたくない気持ちに囚われて悩んでいると思ったら

タイトルに、「自分の非を認めたくない気持ちに囚われて悩んでいると思ったら」、と書いたが、実はそこに至るまでが大変で、そこに至れば悩みは半分解決反省している。自分が「まずい」と思うようなことをしたとき、反射的にする行為は、「そんなことはしていない」と思うようにすることだろう。そうすることが難しいとしたら、「なかったことにすればいい」、「自分が忘れればいい」という心理操作をするようになる。

しかし、「まずい」と思った行為が重い行為であればあるほど、自分の良心は忘れてくれないので悩んでしまうことになる。

自分自身のことで悩んでいるとき、そのようなジレンマに陥っていないかどうかを素直に見つめることができれば解決の道が開ける。そうすれば、「まずかった」と思う理由が見つかり、それを反省する気持ちになれる。反省し、そのようなことをしないようにしようと決意すれば、ジレンマから解放される。

その際、障害となるのが、自分が非違行為をする人間だと決めつけられてしまうことを避けたいという気持ちだ。このような気持ちは成長すればするほど強くなるが、これは人間認識の基本的な間違いである。人間は正しい人間と間違った人間に分けられるなどということはない。人間という存在は弱い存在で、誰しも間違ったことをする可能性はあり、尊敬されているような人物でも、そのようなことを絶対にしないように自分をコントロールすることは困難なのだ。個々の人間に当否があるのではなく、個々の行為に当否があるのだ。他者に悪い人間と決めつけられることを恐れるのは、そのような認識がなく、自分自身が非違行為をした人を軽蔑してもいい人と決めつけているから、その反対にそう思われたくないのだ。そういう自分の考え方から離れればいいのだ。

このことを理解していれば素直に反省でき、悩みから解放され、こんなことなら逃げずに早く自分の非を認めればよかったと思うようになる。 

要は子供のときのように、悪いことをしたと思ったら、素直に反省し、必要なら謝ればいいわけだが、謝る頻度が減るほど成長しているような気になってしまい、自分の非を認められなくなっている大人は多い。素直になることは大人になるほど難しくなる。


信彦自戒録7 自己嫌悪とは?

 

岸田秀は『ものぐさ精神分析』において、「「自己嫌悪とは、つまり、「架空の自分」が「現実の自分」を嫌悪している状態である。」、「自己嫌悪は、その社会的承認と自尊心が「架空の自分」にもとづいている者にのみ起こる現象である。」と述べている。

私は、自己嫌悪とは、自分が行った嫌悪する行為を客観化できない結果、そのような行為を繰り返してしまい悩んでいる人が、その自分を嫌うことにより、本当の自分(これが岸田の言う「架空の自分」か)は、その自分とは違っていると思おうとする心理だと思っている。

これは自己嫌悪に限らない心理で、肉親や他人を嫌悪する場合にも言えることだ。近親憎悪はその典型だ。自分と似ていると感じることを否定するために「嫌う」のだ。嫌悪することにより、その他者と自分は違うと思おうとするのだ。自己嫌悪する人は似ている他者をも「嫌う」。

岸田の言は、そのような心理に陥る人が「架空の自分」にもとづいているということなのだろうか?

出自を知る権利は必須か?

 


  

  最近、第三者から精子提供された人工授精が非公表で行われていたことをめぐる報道があり、これに関して、識者から、「出自を知る権利」が守られるべきだという論調ばかりが述べられているが、果たして、出自を知っていることに、どんな意味があるのだろうか。

  出自を知っている人間にそんなことを言う権利はないと言われそうだが、それでは、それを絶対に知ることができない子は本当に可哀そうな子なのだろうか。不幸を背負って一生を過ごさなければならないのだろうか。そんなことはないはずだし、そうであってはならないのではないだろうか。もし、そうであれば、自分の子ではないという親の告白はその子を不幸にすることであり、その告白は許されないことになる。匿名出産も許されないことになり、子殺しや母子心中にさえ波及する。

出自を知らなくても、この世に生まれた同じ人間という意味では何の引け目を感じる必要はないはずだ。出自を知らないために苦しんでいる人にはそう言ってやればいいのではないだろうか。そもそも、出自とは、これまでの社会が、子を産んだ男女が家族を形成し養育することを標準としてきたために、たまたま明らかだった事実に過ぎないのではないだろうか。出自が明らなことが尊いということも神話に過ぎないのではないだろうか。

信彦自戒録6

 とっさに出た行為こそ自分だ

 不意にしてしまった行為に、「あれは本心ではない」とか「ついやってしまったことで自分らしくない行為だった」などと言い訳をすることがよく見られる。

 政治家の失言報道などでよく見聞きする現象だ。この場合は「つい報道されることに不注意に本音を言ってしまった」という失敗を反省しているだけで、その行為について反省をしていないことがほとんどだ。

 それとは別に、上記のようなことをしてしまう自己を本気で反省している場合もあるかもしれない。しかし反省していてもその行為をしないとは限らない。その行為を悔いているのだから、もうしないはずだと思っても、その行為をした時の自分の心理的な癖を冷静に振り返ることから逃げていると、いくら悔いていても繰り返すことになる。その行為を反射的にしてしまう癖が自分にあるのだということを受け入れ、そのうえでどういう行為をとるべきだったのかを具体的にきちんと考え、その実践を繰り返すことにこそ、自分を変える糸口がある。

このブログを始めた理由

 私がこのブログを始めたのは、この世界があまりにも理不尽な状況になりつつあると感じたからです。

 私は、人間は他者を自己と同じ存在であると感じられるからこそ人間なのだと思っています。人間が動物と異なるといえるのは、そのことにこそあるのだと思います。

 言葉を持ち、知能を持ち、自然をコントロールするだけだったら「高等な生物」であるにすぎません。現在の人間世界はこのようなものでしかありません。

 利己的でないと生きにくく、殺人、窃盗などの行為こそ近代国家内では規制されているものの、国家間はいまだに無法状態に近いのではないでしょうか。国連などの国際組織は大国の妥協の産物でしかないため、大国間の利害が一致しないと機能しません。諸国民がナショナリズムに無自覚である現状は目を覆いたくなります。

 スポーツ、芸術、文学、学問という人間が生み出した人間らしい分野もでさえ、ナショナリズム、商業主義、名誉欲、偽善が幅を利かせ、文化、文明は魅力を失ってきています。

 地球環境の危機がせまり、 AIはより資本に寄与するようになり、労働者は働く場を失い貧富の差がさらに広がることは目に見えています。

 地球上の全生物まで巻き込んだ危機が迫っているのに、「これではいけない」という声が常にかき消されてしまう現在の世界には絶望しそうになります。人間は「ソドムとゴモラ」で語られたような懲らしめを受けないと反省をしないのだと思いたくなりますが、その時ではもう遅いのかもしれません。

 わたしはそのようなことになる前に、少しでも早く人間がこのような状況を反省し、本当に人間らしい世界を創る方向に向かうことを願ってこのブログをはじめました。

 まず、最初に述べた、「人間は他者を自己と同じ存在であると感じられるからこそ人間なのだ」ということを確認することから始めたいと思っています。

 多くの人は、映画、小説などで人間の心のつながりに涙したり、感動したりすることでしょう。人間には他者と喜びや悲しみを共感すること、困っている他人を思いやることができます。そのことは日本でも「情けは人のためならず」、「人のふり見て我がふりなおせ」、「明日は我が身」、「他人事ではない」等と昔から格言として言い伝えられていました。このような格言は、他者も同じ人間だという認識があるから生まれた言葉だと思います。

 しかし、現実には上記のような格言やモラルを守っているようなふりをしながら、他者を利用して得をしようとする人が蔓延っていて、そうされまいという警戒をしていないと、だまされたり、損害を被ったりしてしまいます。そのような場合、それが違法行為でない限りはどうにもなりません。さらに騙された人たちは「お人好し」と馬鹿にされるような社会に私たちは生きています。美しい物語に感動しても、ほとんどの人は、あれは「創作だから」として、一時の感傷を味わえればそれで満足し、また現実の生活に戻ってしまいます。差別的な言動をする人を描いたドラマを見て、その登場人物を非難しても、自分が当事者になると登場人物と同じことをする人がほとんどかもしれません。

 ここでモラルの向上を訴えることは、この社会のゆがんだ構造等を隠蔽することになりかねません。そして、モラルを守らない、大切にしない人を非難しても不毛な結果しか期待できません。

 なぜこうなるのでしょう。なぜ、人間として生きるということが、他者と自分を同じように扱うことだということを認識できないのでしょう。これでは人間世界は人間らしい世界にはなりません。

 主な原因は、多くの人が競争社会を受け入れざるを得ず、貧乏くじを引かないように損得にこだわり、人よりいい生活を得ることにばかり心を奪われ、成功者はその立場が失われることを恐れ、負け組になりつつある人たちは成功者に憧れることにより現実から逃れようと、ほとんどの人がかなえられない幻想にしがみついています。

 そして、そのどちらの立場の親たちも、自分の子どもを成功者にするため、当然のように学業の成績競争を強いています。何の疑問もなくそれを受け入れた子供たちは、挫折しなければ、自分たちもそのような大人、親になることは必然です。ですから、これは永続する風潮になることでしょう。

 競争が生活に直結するような社会はこのような社会になってしまうのです。この社会構造が変わっても、上記のようなエゴや猜疑心が消えるわけではありませんが、そのような人間の弱さをむき出しにさせるのが競争社会なのだと思います。ですから、社会構造を分析しながら、現在の私たちの現実生活上の心理や行動を振り返って客観化し、人間という存在を皆さんと共に考えていきたいと思っています。

 疑問に感じる記述の指摘、反論等をお寄せください。気軽に互いに認識を高め合う議論をしましょう。

 


ロシアのウクライナ侵略問題 7

 私はこのブログにおいて、最初からこの戦争は即時停戦するべきと述べてきた。

しかし、ゼレンスキー大統領は兵士や国民の命よりもウクライナという国のナショナリズムを重んじ、欧米よりの国家像を盾に、欧米や日本の国会に、自国を援助することこそ正義であるように働きかけてきた。

米国を代表とするそれらの国は、ゼレンスキー大統領の主張に乗せられ、代理戦争をやらせ続けた。しかし、私が当初から予測した通り、いくら支援してもウクライナが目指す勝利には程遠い戦局が続いていた。

今日(2024年1月29日)、やっと米国はこれまでのウクライナの領土を奪還することは困難であるという認識を表明し、新たな侵攻を抑止する支援する方針に変更することにしたという報道がされている。

これをウクライナが受け入れるだろうか。これまでのゼレンスキー大統領の言動からはかなり困難が予想できる。戦局が不利であることを認めさせることさえ難しそうだ。

そもそも、起きてしまった戦争を停戦させるには、戦力が拮抗している状況下でなければ当事国間で妥協することは難しい。当事国間の戦力、国力等について冷静に分析し、友好国が長期的には不利である場合は、早期に停戦させるようにするべきなのだ。

不利な状況になってから停戦をしようとした場合、有利な側に足元を見られ、屈辱的な協定にならざるを得ないことは明らかだ。だから、ここまで来てからこのような方針転換をしようとする米国政府の態度はお粗末というしかない。大統領選挙対策も絡んでいるような見方もあり、情けなくなってくる。そして、そんなアメリカに追随しているばかりの日本はもっと情けない。

いずれにしても、この戦争の結末はウクライナという国にとって無残なことになりそうだが、人命がなにより大事なので、ゼレンスキー大統領を失脚させることになったとしても、停戦になることを祈るばかりだ。

ロシアのウクライナ侵略問題6

 ロシアとウクライナの問題はいまだ解決の見通しがつかないでいる。

これは武器等の面で不利なウクライナに欧米諸国が武器を援助し、ロシアと均衡を保っているのだから、ある意味では当然だといえるだろう。こうしている間に両軍の兵士やウクライナの非戦闘員の死傷者は確実に増え続けている。欧米側には支援疲れが出始めてからもプロパガンダにより引くに引けず、政府に不平や批判さえ向けられている。

こんな中、ゼレンスキー大統領が9月17日放送の米CBSテレビのインタビューで、ウクライナが敗北すればロシアはポーランドやバルト3国に迫り、第3次世界大戦に発展しかねないと警告し、さらに「プーチンを食い止めるか、世界大戦を始めるか、全世界が選ばなければならない」と述べたとのこと(9月19日信濃毎日新聞より)。

このような彼の論理により、この1年半余り多少の差はあるが全世界がこの戦争に巻き込まれ、悪影響を受けてきている。冷たいようでも基本的には2国間の問題であることを忘れてはならない。現在の世界は2度の世界大戦を経ても、依然として弱肉強食の世界である。現在の国連は強国間の妥協の産物でしかない。第3次世界大戦は核の脅威により起きていないだけだ。

もうゼレンスキー大統領の意向に動かされていてはならない。彼の言う2者択一はあり得ない。ロシアは負けそうになったらその段階で核を使うかもしれないからだ。

世界を守るためにウクライナ人が実際に戦い死ぬことにより「最も高い代償を払っている」というのは詭弁でしかない。これ以上彼の論理に振り回されることはやめ、ウクライナにも不満はあっても、佐藤優氏の提案のような方法により停戦させることが早急に必要だ。

ロシアのウクライナ侵略問題5 (佐藤優氏の戦争解決案)

 案の定、ウクライナ戦争は終わりが見えない。

先月、週刊現代6月17日号に佐藤優氏が「ロシア・ウクライナ戦争 正しい理解の仕方」というタイトルで、欧米的な風潮や日本の論調を批判しながら適切な分析をしている。

彼曰く。この戦争はアメリカが自国への被害を防ぎつつ、ロシアを弱体化させるために管理された戦争であり、ウクライナは勝利できないと。ロシア軍は壊滅されそうになると、アメリカに戦略核を発射するからだと。

そして、驚いたのは、私が考えていたのと同様な戦争の終わらせ方をここで最後に述べていることだ。

それは、即時に停戦し、国連等がクリミア半島を含めたロシア占領地域で住民投票を実施し、その結果により帰属を決定するという提案です。

ウクライナを援助しながら代理戦争をして正義を主張している大方の風潮の中で、このどこからも提案されていないことを、反発を恐れずに表明してくれた佐藤氏を評価するとともに、この提案を強く支持します。

この提案に付け加えるとすれば、言うまでもないことですが、住民投票は現在各地に避難している元住民にも選挙権を与えたうえで実施するべきだということです。

それから、このようなことができなければ国連は無用の長物であり、ここで積極的に動き、その存在価値を見せるべきだと思います。

そしてこの解決案が成功すれば、スコットランド等、世界各地で紛争がある特定地域の独立問題の解決策にできると思います。

家族観とは?2 家族観は変わり続けている

  岸田首相たちが「家族観」が変わることをタブーのように言っているが、家族観は歴史と共に変わり続けている。

 社会的に家族を援助する制度がなかった時代、家族はその成員間で助け合わなければ暮らしていくことができなかった。若い成員は、自らのために食料を狩猟・採集・生産・料理すると共に、働けなくなった老人を扶養し、介護を担い、幼児を自分たちのようになれるように養育することは当たり前だった。

 このような社会では、老人がそのようにされないと社会不安につながるため、「親孝行」というモラルが重んじられた。子の養育についても、「親の責任」を背負わされた。 

 農業社会から工業社会への変遷により、大家族が分解して核家族が主流となり、女性の社会進出も進み、親の扶養や介護が困難になったため、現在の年金制度や介護保険制度で老人扶養や介護の機能を代替し、保育所、児童養護施設は子の養育の機能を代替するようになった。また、外食産業、レトルト食品や冷凍食品の普及、種々の家事の外部化も盛んになっており、かつての主婦の役割はかなり軽減されている。現代社会の変遷は家族機能の社会化が一つの特徴だ。

 以上のような社会の変化に伴い、家族形態や家族の機能は変遷を重ねている。だから当然、「家族観」も変わり続けている。変わってはいけない「家族観」というものがあるのだろうか。変わってはいけないものは大多数の人が論議し合意形成した「理念」(例えば憲法)のようなものだろう。それでさえ、必要ならまたその作業をして変えなければならないことはあるだろう。

 少なくとも彼らが言う「家族観」とはそのようなものではないだろう。是非知りたいものだ。

家族観とは?1 同性婚を巡って

 2023年2月1日には岸田首相が、昨日(2023年2月3日)は首相秘書官が、同性婚について、法制化された場合は、「社会や家族観が変わってしまう」というようなことを言っていたそうだ。このようなことはこのブログでも取り上げた「匿名出産」に関しても与党議員から述べられていた。

 私は結婚制度そのものに疑問を持っているので、同性婚法制化について賛同しているわけではありません。それについては別の機会に述べるつもりですが、上記の発言について皆さんはどうお感じになりますか?

 この発言は当面、この問題がクローズアップされるのを避けたいという逃げの言い訳だと思いますが、これが決め台詞のようになり、放置されると、彼らの「家族観」がどんなものかが分からないまま正当化されてしまうことでしょう。

 家族観とは家族についての各個人の捉え方で、そこには歴史的認識や現状認識、現状についての肯定的または否定的考え方、理想像などいろいろな要素が含まれています。ですから、それは多様であり、現在、社会的に共有されている「家族観」というものがあるとは思えません。彼らが、そのような「家族観」が現在存在しているというのならそれがどのようなものなのか、ぜひ知りたいと思います。そして、それがどの程度社会で共有されているのかについて、世論調査をしてみるべきだと思います。そのうえで、上記に述べた理想像まで含めて国民的に議論することが必要な問題だと思います。そのいい機会であるのに、野党からもマスコミからも民間団体からもそのような動きがないのはなぜでしょう。日本はそのような議論が全くできていない国だと思いますが、それは野党やマスコミにも責任があるのではないでしょうか。これからでも彼らに明確にさせるべきです。

 彼らが明確な考えなくそう言っているとしたら、頑迷に伝統を守っていればいいと自ら考えているか、そのような支持層の反発を恐れているだけの政治家であり、そもそも政治を担う資格のない人たちであることが明らかになるはずです。それはこの問題に限りません。野党の皆さんは、与党政治家のスキャンダルを責めるばかりでなく、このような基本的なことをするべきではないでしょうか。