「台湾有事は日本の存立危機」とは米国の策略(2025年11月30日)

 11月26日の信濃毎日新聞の「今日の視覚」で内田樹は「台湾有事は戦争か内戦か」と題して、台湾有事は少なからぬ米国人にとっては南北戦争のような内戦であると述べている。

しかし、高市首相は台湾有事が中国との戦争であるかのように捉え、それに日本が巻き込まれる事態になるかのような発言をした。これに中国が怒るのは当然ではないか。様々な中国の報復措置の是非はともかく、日中共同声明で台湾を中国の領土だと認めながら、台湾を武力統一することが内戦ではないとし、日本が無関係どころかそれ自体が日本の危機だというのは二枚舌である。

なぜ高市首相はこんな発言をしたのだろうか。それは中国の勢力が自国を凌駕しつつある状況に危機意識を高めた米国は、単独で中国に軍事的に対抗するのが困難になってきたので、日本にそれを補完させるためにかねてからずっと、上記ように認識するようにさせてきたからだ。それに従うこと自体情けないことだが、それでもそれは表立って言ってはならないことだったのだ。強いふりをすることにばかり気を取られている愚かな人間が日本政府を代表するようになったこと自体が「存立危機事態」ではないだろうか。少なからぬ米国人が台湾有事を内戦のように捉えているにもかかわらず、米国のこのように卑劣な策略をする国である。そもそも、台湾が第2次大戦後80年も統一されないのは米国が手厚い援助をしているからだ。

そもそも、戦前から、中国に利権を持とうとした米国が、蒋介石の国民党を援助し、日本に抵抗させてきたが、日本の敗戦後、国民党軍が共産党軍に敗れ、台湾に敗走して樹立したのが台湾政府であり、米国はソ連との冷戦のためにこの状態を維持しようとしてきた。冷戦終結後はこの必要性がなくなったが、中国対策として、台湾が米国にとって有益な存在であることに変わりはない。だから米国は日本を利用してこの状況を維持しようしている。自民党政府が進めた集団的自衛権の容認、安保法制改定、軍事費割合の増などはそれを唯々諾々と受け入れた政策だ。

このように自国中心的な米国は、台湾有事になってもおそらく手を出さないだろう。台湾はかなり抵抗するだろうが中国は勝利するだろう。

万が一、米国が軍事的に干渉する事態になったときのことを考えると、確かに日本に存立危機事態になる可能性はある。なぜなら、米国の攻撃拠点は沖縄をはじめとする軍事基地であり、中国はそれらの基地を真っ先に攻撃するはずだからだ。

米国が手を出さないのに、米国にそそのかされた日本が台湾有事に巻き込まれる事態になることが最悪のケースだ。そうなっても、米国は日米安保条約を守ろうとせず、日本を救おうとはしないだろう。

台湾の人々には気の毒だが、日本に台湾独立を守る大義はない。そそのかされて台湾有事にかかわってしまうことが「存立危機事態」を招くのだ。米国の自国中心主義的策略を見抜き、米国依存から脱することが日本の安全を確保する現実的な道に他ならない。



書評 たまたま、この世界に生まれて 半世紀後の『アメリカ哲学』講義 著/鶴見俊輔

 鶴見俊輔は、60年安保やベトナム反戦運動などを主導した戦後知識人として有名な哲学者だ。まちライブラリーで見つけたこの著書の、メインタイトル、サブタイトルに興味を惹かれて読んでみた。

この著者は、1950年に『アメリカの哲学』という著書を発行していて、2007年に発行された今回の著書は、1950年当時からのアメリカ哲学つまりプラグマティズムについて開かれた4回の講義、というより7人の受講者との談話会を記録したものなので、このサブタイトルとなったようだ。

私はプラグマティズムにかねてから疑問を持っており、その批判論を読んでみたかったが、その意味では期待を裏切られた著書だった。

しかし、鶴見の境遇、人間性、彼が交流してきた知識人たちの言説などが率直に語られていて、その意味では収穫があった著書だった。

母方の祖父は明治・大正時代の政治家・後藤新平で父も政治家という家族の中で育った鶴見は多感な少年だったのだろう、中学校を2回退学するという、自称「不良少年」だったとのこと。しかしその後、日本の共通一次テストのようなUSA(鶴見はアメリカという国名は曖昧だからということでUSAとしている)の試験に合格してハーヴァード大学に入学という驚くべき経歴を記すことになる。同大学では「点取り虫」で「一番病」にかかっていたという。さらにその後は、1941年の日米開戦により捕虜収容所に入れられながら大学を卒業し、日米交換船での帰国たとのことだ。その後の文筆活動については割愛するが、結婚後、鬱病に苦しんだ時期もあったとのこと。

さて、鶴見のプラグマティズムの定義はという講義参加者の質問に鶴見は、「今の主張を実験として確かめてみたらという実験計画が、言葉の意味だ」、「概念というのは自分が考えている実験計画なんだ。」とし、「プラグマティズムは言葉の意味を行動に形にしてとらえる方法」、「(プラグマティズムは)特殊と普遍を切り離さないっていうやり方・・・カントにはない」等と述べているが、いずれも断片的で総体的なプラグマティズム解説にはなっていない。

一方、プラグマティズムの弱点について、「プラグマティックな思想を受け入れる人は妥協しやすい。・・・逆風が吹いているときプラグマティズムの側は、それに対する抵抗を貫くことが相当に難しい。」と述べているが、その理由は説明していない。別の個所で「プラグマティズムは、哲学として特別に強い一本の心が通った思想じゃないんですよ。」と述べているが、それがその理由に当たるのかもしれない。

プラグマティズムの日本への影響にも触れていて、(西田幾多郎は)「座禅を組んでは、ウィリアム・ジェイムズの著作を読んだ。こうして彼はジェイムズの『根本的経験論』に触れ」たが、これは認識論なのだが、西田は「価値で色づけられた概念として読ん」で、それが純粋経験として西田に理解された、というエピソードには興味を惹かれた。その解釈はともかく、京都学派の「近代の超克」論議も、プラグマティズムと同様、近代西欧哲学批判という潮流から生まれたのであろうという認識を確かめた。

プラグマティズムとは離れて、「キリスト教会は本体論的な証明があって、神は完全だから、存在を含んでいるって言うんです。・・・それは日本の国体論と違うとは言えないでしょう。案外、日本の国体概念も岩倉ミッション(岩倉遣外使節)がヨーロッパに行って、そこから密輸してきたのかもしれない。キリスト教国家の特性を日本で採用したから、ああいう形になった。」、と述べている。あくまで推論なのだろうが鋭い発想をする鶴見に感心した。

書評 誰が世界を支配しているのか? 著 ノーム・チョムスキー 訳 大地 舜・榊原美奈子

 この本は、2018年に刊行された単行本の文庫版で、原著作は2016年。2017年版に向けたあとがきがある。いずれにしても8年以上経過しているが、「2025年の世界になっても基本がまったく変わっていない。ノーム・チョムスキーの慧眼は、2025年の世界を見通していたことがわかる。」という訳者あとがきに、同感だ。

 現在進行中の、ロシアのウクライナ侵攻の原因となった経緯が述べられ、「まやかしの」オスロ合意を起因としてガザでの残虐な行為が頻発していたこと、「EIプロジェクト」などヨルダン川西岸地区の今後問題になることなどを指摘している。また2017年はトランプ米大統領の1期目にあったので、トランプ現象やヨーロッパの右傾化にも触れている。

 さらに、この本には、主に米国が第2次世界大戦後に行った数々の戦争、侵略、世界各地で民主的に成立した政府を転覆するなどの陰謀について丹念に述べられていて、歴史書としても貴重な著作だと思う。

 この中で、公開された米国政府の機密情報を追って、公表された偽善的なスローガンと全く異なる政府要人の本音を暴露している。著者は米国の衰退が「第二次世界大戦の終わりから始まっている。」と述べているが、それにもかかわらず、米国はその現実を認めることができず、「世界を支配」しているという幻想が保たれるように体面を繕い続けてきたことを解説していて、その幻想が、現在さすがに怪しくなってきたため、トランプが米国を再び「偉大な国」にすると叫んでいることにつながることがよくわかる。

著者の透徹した観察は、米国の良心を象徴するようなケネディやオバマの裏面にも触れ、米国の悪徳さは指導者の個性ではなく、米国全体の問題であることを明確にしている。

それでは、「世界を支配している」のは米国だという主張かと思いそうになったが、著者はアダム・スミスの、「新らしい時代の精神:富を得よ。己以外のことは忘れろ」という言が「支配者たちの邪悪な処世訓」で、現代の支配者は「多国籍企業や巨大な金融機関、超巨大小売業者などだ。」としていて、国家、政府ではないという。このため米国では二大政党のどちらも企業や超富裕層の資本家の意向に左右されているため、国民の不満が充満するようになったと分析している。著者はマルクスのように資本主義を明確に批判していないが、マルクスと同様な認識なのだと思う。

最後に、著者は、「一つだけ(非常に残念な)実例」といいながら、米国民の地球温暖化に対する意識が高まらない理由は、「イエス・キリストの再臨を信じる人が多いからだ。米国人の約四〇パーセントが、イエスは二〇五〇年までに地上に戻ってくると信じている。だから今後数十年間に深刻な気候災害の脅威があっても、それは問題とは思わないのだ。」と述べている。この言説は浅学なため初耳だが、ありうる話だと思う。キリスト教福音派の信者がキリストの二〇五〇年再臨について信じていることは確かなようだ。

米国のガザ和平提案に隠されている「グレイ・トラスト計画」  プーチン・ロシアより悪辣なトランプ・アメリカを許すな!(2025年10月2日)

 アメリカが、パレスチナのガザ地区に関する「グレイト・トラスト計画」を構想していることは、あまり報道されていないが、驚くべき計画だ。これは、ワシントンポスト紙がリークしたもので、その主な内容は、イスラエルにガザ地区からパレスチナ人を追い出させ、アメリカがガザ地区を10年間管理下に置き、リゾート開発や工場をアメリカの企業の工場を造るという、いかにも資本主義的な考え方を優先するアメリカの計画だ。その計画名は出さないが、トランプ大統領がガザのリゾート化について、「ガザをリビエラのようにする」と、かねてから語っており、その計画は決して絵空事ではない。

このようなことを紛争の当事者の地域において構想するなどということは、悪辣非道さにおいて、ウクライナを侵略しているロシアのプーチン大統領をはるかに超えるのではないだろうか。決して支持できるわけではないが、ロシアにはウクライナ領内のロシア人の権利を守ろうとするナショナリスティックな理由がある。これに対し、アメリカには他国で金儲けをしようとする欲得ずくの動機しかない。これは世界中で問題視し、制裁などを加えるなどして絶対に食い止めなければならない問題ではないだろうか。

ところが、この問題はほとんど注視されていない。9月23日にトランプ大統領はアラブ諸国首脳との会合で、ガザの戦闘終結や戦後統治に関する計画を提示したと米ニュースサイトが報じた。この際、トランプ大統領が「21項目の計画」を提示したというが、ハマスの人質全員の解放、イスラエル軍の段階的な撤収、戦後のガザ統治からのハマス排除、アラブ諸国の治安部隊への関与や復興に向けた資金援助などの他には具体的に何をどう説明したかは不明だ。アラブ側は計画支持の条件として、イスラエルがヨルダン川西岸やガザを併合しないこと、ガザを占領しないこと、ユダヤ人入植地を建設しないことを要求したところ、トランプ大統領は西岸を併合しないと答えたのみだったようだ。

このトランプ大統領の答えは、西岸のユダヤ人入植とガザの占領と併合は許すということ、つまりガザに関しては上記の「グレイト・トラスト計画」を進める方針を貫くことを言外に物語っている。

926日、BS-TBSは報道1930において、「グレイト・トラスト計画」について報道していた。しかしこの報道について日本国内での反響がほとんどないのはどういう訳だろう。

(余談だが、この番組の主要テーマはパレスチナの国家承認を日本政府がなぜ見送ったかということがテーマだったが、ゲストのパックン(パトリック、ハーラン氏)が、日本政府が見送った原因は、日本国内でこの問題に関する国民の声が上がっていないからだと指摘していたが、その通りだと私も思う。欧米にばかり関心を持ち、中東で何が起きても日本に直接利害がなければ「対岸の火事」、「他人事」にしてしまう日本人の内向き姿勢、自民党総裁選挙にばかりかまけているマスコミの軽薄さが悲しい。)

この後、929日にトランプ大統領がホワイトハウスでイスラエルのネタニヤフ首相に「20項目」の和平計画を説明したという報道がされた(減った1項目はカタールへの攻撃禁止に関するもので、この問題は解決済みになったため除外されたようだ)。この20項目には「グレイト・トラスト計画」があいまいな表現で挿入されていることに注目することが必要だ。

20項目」の中にある、「ガザの再建と活性化を図るトランプ経済開発計画は、中東で繁栄する現代の奇跡的な都市の誕生に貢献した専門家パネルを招集し、策定される。多くの思慮深い投資提案や刺激的な開発アイディアが善意ある国際グループから提案されており、雇用、機会、ガザの将来への希望を創出するこれらの投資を誘致・促進するために安全保障と統治枠組みを統合することが検討される。」という項目がそれだ。

この甘美な夢を語るような表現にごまかされてはならない。アラブ諸国首脳との会談を経て、イスラエルのガザ地区占領や併合についてはあきらめることにした関係で、別の項目で、ガザからのパレスチナ人の追放と、アメリカによる10年間の管理などのあからさまな措置はさすがにやめたようだが、トランプが主導する開発、投資などを唱っていることは明確だ。ガザ地区パレスチナ人の土地所有権などに代わる債権のようなものを与えるようなことが「グレイト・トラスト計画」にあるが、正当な価値が保障されるわけはないだろう。

この提案の、ハマスを徹底的に排除する一方、一般のパレスチナ人には寛容に扱うというスタンスには、太平洋戦争終結の際、アメリカが日本軍幹部や右翼的思想家などのみに罪を負わせ、一般の日本国民は彼らの被害者であるかのように扱って日本人を懐柔して、現在に至るまで日本を追随国家にし、搾取してきた成功体験が影響しているように感じるのは私だけだろうか。

アメリカには停戦のためと言いながら、以上のような欲深い狙いがあることを指摘し告発することが必要だ。そして、その活動にはパレスチナの国家承認で盛り上げた機運以上の盛り上げが必要だ。その抑止力が弱いまま、この悪辣な和平提案をパレスチナが受け入れなければ、アメリカはイスラエルにガザをほしいままにさせ、それを利用して「グレイト・トラスト計画」を進めることになるからだ。

アラブ側の首脳が、上記のような危機感をもたずに先の会合が終わったとすれば、アラブ側の認識は甘く、パレスチナへの関わり方は冷淡で、イスラエルやアメリカの方針を黙認するつもりのように思える。アラブ諸国さえもアメリカに追随しパレスチナを見捨てるつもりだろうか。

930日、カタール、エジプト、トルコの3国がハマスに、アメリカの示したガザの和平計画は「最前の取引」だとして受け入れを迫ったという報道がされている。ホロコーストになる事態を防ぐためにはやむを得ないということならわかるが、アメリカの巧妙な詐欺的言辞を信じてそのような行為をし、ハマスが受け入れざるを得ず、停戦になったとしても、アメリカ主導の開発が進んだ結果、ガザ地域パレスチナ人が被る損失を償う覚悟をするべきだろう。

書評 アーリヤ人の誕生 著/長田俊樹

  謎めいた、この本の題名に惹かれて購入した。著者は一般的にアーリアと言われている言葉をアーリヤとしている。

 かねてから、インド人にアーリア系の人種がいるということと、ヒトラーがドイツ民族をアーリア系とし、優秀な民族だと持参していたことがどうも理解できずにいたので、アーリア人とは何だろうと、引っかかっていた。

 かつて世界の主な言語が、インド・ヨーロッパ語族、ウラル・アルタイ語族、セム・ハム語族にグループ化されていて、インド語(と言っても単一の言語ではないが)が、ヨーロッパ諸語と同じ起源を持っているようだという知識は持っていた。この本を読むと、インドの古語であり、現在でも使われているサンスクリット語がヨーロッパ人にヨーロッパ諸語と類似していることが発見され、当初はサンスクリット語そのものが印欧祖語だとする説が有力だったそうだ。その後、その説は否定され、言語学界は、今は存在しない印欧祖語を「再建」する研究に入り、「再建された語彙を手がかりとした言語的古生物学を生んだ。その言語的古生物学の成果から、印欧祖語の話し手、つまり「アーリヤ人」の宗教や文化に関心がいき、「アーリヤ人種説」を生んでいく。」とのことで、いわば「アーリヤ人」とは想像上の概念だったようだ。「アーリヤ人」とは、それが派生して現存している人種のように誤解されたということになり合点がいった。

 ところで、この著書には、「新インド学入門」という副題がつけられている。彼はこれまでの「インド学」がサンスクリット語の研究など、現代のインドを対象としていないのに対し、インドの少数民族のムンダ人の集落で暮らしながら、ムンダ語の専門家となり、現代インドの諸問題に目を向けて、「新インド学」を標榜している。その中で、ムンダ人は、ヒンドゥ教徒が高潔崇高とされているインド社会で、無知蒙昧な民といわれ差別されていること、そのムンダ人が、他者(他民族)を「ディク」と言って警戒しているのに、「都会で教育を受けたムンダ人たちは、もはや「ディク」は他者ではなく、「自己」変革の理想のモデル」なのである。」というインド社会の矛盾を指摘している。この現象を「西洋」を「他者」とみる視点と、「西洋」を「自己」変革の理想的なモデルという視点が同居している日本との類似性を指摘している言説に、鋭い観察眼を感じた。

 補章に、最近の人文系学問が理系偏重の圧力に押され、危機にあることが書かれている。この著者のような優れた研究者が軽んじられる傾向にさらされていることはある程度認識していたが、この補章のように具体的な組織の動きには改めて驚いてしまう。資本主義に利用されてばかりの理系偏重の学会等に、どのような対応ができるだろうかと考えさせられる。

日本政府はアメリカの要請に屈せずパレスチナ国家を承認せよ 4(2025年9月24日)

 22日に国連本部でパレスチナ問題の解決に向けて開かれた国際会議において、ヨーロッパ各国、カナダ、オーストラリアなどの国々がパレスチナの国家承認を表明する中で、日本を代表して出席した岩屋外務大臣は、承認を見送る理由を、「承認するか否かではなく、いつするか」という問題であると述べたとのこと。

さらに、今後の情勢の変化を常に注視しつつ、更に重大な関心を持って総合的な検討を行っていく旨述べ、仮に今後イスラエルが「二国家解決」実現への道を閉ざす更なる行動に踏み出す場合には、我が国として、新たな対応を取ることになると付け加えたとのこと。

これは、これまで報道されていた理由と異なっている。これは、アメリカと同じ理由にすると日本のアメリカに対する属国的な立場があまりにも明確になることを恐れ、はぐらかしたか、結論を先延ばしにしたためではないだろうか。当日出席しなかった、石破首相も同様な発言をしていることを見ると、岩屋外務大臣はこのような内容で口裏合わせをして出国したのだろう。このような理由付けはほとんど議論の経過はなさそうなので、思いついたもっともらしいものだと思われる。

ガザのホロコーストを残虐に進めるイスラエルへ圧力を与えようと、パレスチナの国家承認で盛り上がってきた機運に水を差すような判断をし、「イスラエルが国家解決実現への道を閉ざす更なる行動に踏み出」すまで「注視」するということは、いったいどこまでガザの人びとが殺されてしまうのを黙認するのだろう。その時は、少なくともガザ地区はイスラエルの完全な支配下になっていることだろう。

いずれにしても、日本はそのように世界中に表明したのだから、日本が適切な時期に適切な行動を示さなければ、日本はアメリカに逆らえない国という位置づけが明白となり、国家としての自立性が厳しく問われるだろうし、そのような日本政府を支えている日本人自身を問うべきだろう。

日本政府はアメリカの要請に屈せずパレスチナ国家を承認せよ 3(2025年9月20日)

 岩見外相が昨日、記者会見で、正式にパレスチナの国家承認を見送ることにしたとを述べ、その際、22日に開かれる予定の、国連のパレスチナ問題解決のための国際会議に日本政府は欠席する方針を改め、自らが代表として参加するとも発表したとのこと。欠席では、アメリカに逆らえないことがあまりにも明白になってしまうからなのだろう。果たして参加して、日本独自の理由説明ができるだろうか。記者会見の際に、18日付で記した、「承認するとイスラエルが態度を硬化させ、パレスチナのガザの情勢が一層悪化する」というアメリカの懸念を、その理由としているようだが、そのままに理由付けを説明したら、欠席したほうがましだったということになりそうだ。22日からの会議での論議の経過、結果を注目しよう。

日本政府はアメリカの要請に屈せずパレスチナ国家を承認せよ 2

 

案の定、パレスチナの国家承認に関し、自民党政権はアメリカの要請には抵抗できないことが報道されている。

承認するとイスラエルが態度を硬化させ、パレスチナのガザの情勢が一層悪化するという、理由とは言えない理由のアメリカの主張に逆らうことを恐れる卑屈な態度と言わざるを得ない。22日に開かれる予定の、国連のパレスチナ問題解決のための国際会議には欠席するという。今や、イスラエルとアメリカは孤立しつつあり、世界がパレスチナの惨状を打開するために、パレスチナの国家承認に動き出している時に、ただアメリカにつき従っている状態では恥ずかしくて参加できないのだろう。

マスコミの皆さんは、この件で日本政府が忘れてはならない恥ずべき判断をしたことを国民に周知し、国民間でこれについての大きな論議が巻き起こるようにしてほしい。

国会においては徹底的に論議してほしい。その際、野党はこれまでのように与党を安易に非難する論調に流れず、与党の、国家承認がガザ情勢を悪化させるという理由付けについて、明確な説明を徹底的に求めてほしい。説明の疑問点を深く冷静に追求すれば、理由付けが支離滅裂であることが誰にもわかるはずだ。適切な問いかけは、相手にも疑問となる理由を再検討させるかもしれない。例えば、アメリカを怖がることが妄想のようなものであることが共有できるかもしれない。

それから、上記のような日本政府の行動を許しているのは我々有権者だということを改めて自覚することが必要だ。こんななかで、自民党は次期総裁選にばかり熱中しているが、誰が次期総裁になるにしても、自民党に投票することはパレスチナ・ガザ地区の虐殺に加担することに他ならないことだ。次の総選挙までに、イスラエルはさらなる虐殺を尽くし、ガザ地区制圧は完了しているかもしれないが、日本の有権者は最低限、投票行動でイスラエルの虐殺行為を許さないことを示してほしい。

書評 家族、この不条理な脚本 著/キム・ジヘ 訳/尹 怡景(ユン・イキョン)

 

この著書には、「家族神話を解体する7章」というサブタイトルが付けられていて、「家族神話」は私が取り組もうとしているテーマなので読んでみたくなった。

 家族制度について、韓国は日本と似た状況にあり実情を述べながら、ヨーロッパの家族状況にも触れていて、ファミリーの語源のラテン語・ファミリアは、妻子や奴隷を含む、「家長に属する所有物を意味」していて、現代の家族とは異なっていた、とか、ジョン・スチュアート・ミルが、「結婚こそ、イギリスの法律におけるただ一つの現実的奴隷制度」と述べていたという興味深い挿話もあった。

 韓国では、日本の植民地時代に制度化された家制度や戸主制度の影響が最近まで残っていたが、世界的な潮流になってきている同性婚などを主張する人々が増えつつあり、伝統的な家族制度が揺らいでいるとのこと。

 これと日本より深刻な少子化問題を結びつけて、同性婚を憂慮する層があるが、これについては、同性婚に寛容な国では逆に出生率が高いというデータを示し、反論している。さらに、「もしかしたら、これらの国では、人がどのように生まれたかには関係なく、平等な生活を保障するための社会づくりを進めてきたという意味ではないだろうか。」と述べているが、ここは想像ではなく、子育てを社会化している具体的な制度調査や判断が欲しかった。

この著者は、家族において、「生計の維持について責任を負う人が必要」ということは、「生物的な性としての男性の存在が必要ということではない」として、「家族神話の解体」を試みたり、いまだに「家族の失敗」をした人たちだけが社会保障の対象であることを不当としたりしているが、家族という制度は、人びとがやむを得ずに形成したに過ぎず、神話はそれを維持するために作られたものに過ぎない。だから、現在の家族に対する考え方を批判してもあまり意味がないと思う。むしろ、家族というものはそのようなものだと受け入れ、そのうえであるべき社会、性等を考えるべきだろう。

 その意味で、最後に、ヨーロッパから広がりつつある同性婚について、「家族の意味を更新すべき時代に、同性婚を求める主張によって、むしろ既存の家族制度を再び延命させるのではないかという懸念」があると述べていることには同感だ。男女間に生まれた子を、その当事者に養育を義務付けるために現代まで続いてきた婚姻制度やそれに付随した諸制度を絶対化し、同性間にも適用しろという要求は、安易な平等主義ではないだろうか。人間にはパートナーガ必要だとすれば、婚姻制度は廃止し、著者がここで述べている「民事連帯契約」や「同居」制度を採用すればいいのではないだろうか。

日本政府はアメリカの要請に屈せずパレスチナ国家を承認せよ

 

パレスチナのガザ地区に対するイスラエルの暴虐極まりない攻撃は、20世紀のナチによるユダヤ人虐殺に匹敵する民族浄化行為と言えるだろう。これに対し、世界は言わば黙認しているかのような状況であり、忸怩たる気持でいっぱいになる。

 なぜ、イスラエルのユダヤ人は自分たちにされたことを、パレスチナ人にしているとは思えないのだろう。なぜ、アメリカはこれをやめさせようともせず、支持するのだろう。

 このような状況があまりにも悲惨なため、わずかながら世界がようやく動きはじめた。それはフランスを皮切りにイギリスも、パレスチナを国家として承認する方針となり、国連常任理事国で承認するつもりがないのはアメリカのみとなり、G7の一員であるカナダも同様な方針を表明し、ドイツ、イタリアも前向きなようだ。今や、イスラエルにNOを言えないアメリカを孤立させ、危機感を持たせる好機となった。

 そのような動きでパレスチナ問題が解決できるわけではない。国境をどの範囲にするか、はたしてパレスチナの暫定自治政府が正式な国家として機能できるかなど、解決すべき課題は多いだろう。しかし、どんな形でも、これまでの固定的な状況が動き始めたことを大事にしなければならないのではないだろうか。

日本政府もこのような中で、パレスチナの国家承認の教義を始めたようだが、案の定、アメリカがこれを見送るよう要請したという。その理由は「和平実現を後退させる」という訳が分からないもので、アメリカがユダヤロビーや福音派に逆らえないからに過ぎないだろう。

アメリカはそのような要請を上記の国々にはしていないようだ。少なくともそのような報道はされていないと思う。そうだとすると、今更ながら、アメリカが日本を自国の意向を忖度する、扱いやすい国、もっと言えば属国のように捉えていることが改めて明確に表れている。このような関係のために日本が不利益を被るだけならまだしも(それだけでも国民は怒りを覚え、惨めな気持ちにさせられるが)、パレスチナを犠牲にしてアメリカの「いい子」から自立した判断をしないならば、もはや独立国ではない。また国際的にも許されない行為だ。

日本政府がこの件でアメリカの意向に屈することは、イスラエルによるガザ地区のホロコーストを容認することに他ならない。日本政府は奴隷根性から脱し、パレスチナを国家承認せよ。

書評 スピノザ 「変性の哲学者」の思想世界 著/加藤 節

 

スピノザについては、『エチカ』という著書を書いた哲学者として、その名前を知っている程度だったが、ユダヤ協会から破門にされたユダヤ人であることを知り、ユダヤ性から自由になろうとしたユダヤ人としては最初期に生きた人と言えそうなので、このスピノザの解説書から読んでみることにした。

 破門の理由は、「魂の不死性とユダヤ教の律法の真実性を否認し、「哲学的な」神しか存在しないと主張した」とのこと。これは彼が23歳のときで、「肺疾患という宿痾に長く苦しんだ末に44歳という若さでその一生を閉じた」という。

 その理由はともかく、スピノザは典型的なユダヤ人としての育てられたが、17歳から家業の貿易業を手伝うようになり、父親が亡くなったため22歳からその家業を引き継いだそうで、その経験が、「ユダヤ教以外の多様な信仰や思想を持つ「賢き商人」と呼ばれた教養ある人々との接触と、ユダヤ教徒のように律法に拘束されることなく、富や利益の蓄積によって社会的地位の向上を図る人間の赤裸々な姿の認識をもたらした」とのこと。ここから、スピノザが、ユダヤ教の世界観の相対性を自覚するようになり、キリスト教世界の学問や自然科学を研究するためラテン語学校に入学し、マキャヴェッリやホッブス、デカルト等の影響を受けるようになったことが破門に至った経過のようだ。

 スピノザは、破門を機に、「最高善」の獲得を目指す倫理学に向かい、そのための通路をどこまでも人間の「認識」を求め、その「倫理学に政治学を抱合させる方向を辿った」とのこと。

「認識」については、著者によれば、当時、自然科学が発展する中で、「認識対象としての自然の非人格的な実体への還元」には、「プロテスタンティズムとりわけカルヴィニズムが果たした被造物崇拝の徹底的な否定」が被造物を「即物的自然へ還元して科学的認識の客体を析出し」た一方、「造物主としての神の全能性を証明」しようとしたことの影響があったそうだが、「スピノザの倫理学を支える支点としての「認識」の対象は、自然科学が対象とする第一の自然ではなく、どこまでも、「精神」および「神」と合一した「全自然」以外のものではありえなかった」とのこと。

「近代哲学の父とも評されるデカルトの自然と精神とを二つの実体とみなす世界の二元論的構成」には、現在批判がされているが、スピノザの上記のような論理はその中でどのように位置づけられるのだろうか。

それはともかく、「倫理学としてのスピノザの哲学は、彼の有名な命題、「神即自然」に集約される汎神論の範疇に属するもの」だとのこと。

以下、スピノザの「意識」、「延長」、「思惟」、「感情」、「三種類の知(表象知、理性知、直観)」、「三つの「人間の条件(この中で、「協議し、傾聴し、討論する」ことを最重要視した)」などの概念が開設されているが、ここでは触れない。

今日の私たちが認識しておくべきことに絞るとすれば、「倫理学」の章においては、上記の「神即自然」だが、「政治学」の章においては、デカルトの「私は思惟する、ゆえに私は存在する」という命題を、スピノザは、「私は思惟しつつ存在する」という「単一命題」として理解し」ていたとし、これは「あきらかに一元論的思考様式」だという。それから、当時の哲学者(スコラ哲学者)へのスピノザの批判は、キリスト教による原罪観念などの神学的人間解釈を清算し、「人間の自然状態」を神学的非難から守ろうとする明確な意図があったとのことだ。

具体的な政治論は、伝統的な「三政体論(民主制、貴族制、君主制)」を踏襲していたが、「神政政治」や「王権神授説」に特に批判的で、彼の「社会契約説」は、「政治権力の支配の正当性根拠を人間の同意に求めるもの」で、「所与の政治共同体に倫理的生活を可能にする「変性」を目的として求める意味を蔵して」いたという。

「聖書批判の展開」の章においては、「「表象知」に依拠する「預言」は、それ自体においては何らの確実性も内に含むことができない」もの」だと批判し、「奇跡」とすることは「無知」だからだと指摘し、「真の宗教」論を提案するなど、大胆な主張をしたという。しかし、彼の主張も、「十七世紀のヨーロッパにおいて、時代の正統的なキリスト教信仰とされるものに抗して「信仰の新しい理念を宣言」し、「宗教の新しい形式を具体化しようとした」どの思想家の企図も、聖書解釈を通して「キリスト教の新しい表現を見いだそうとする努力」以外の形態をとりえなかった」ように、「政治的な最高権力への反逆を信仰者の義務として課するものではなかったとのことだ。

 そんな中でもスピノザは、「神の子」として神格化された「イエスキリスト」について、「「神の子」たるこの神的な「知性」は、「神の知恵」として人間イエスの「肉体」の中にではなく、神と「精神対精神」で交わったイエスキリストの「精神」の中に最も多く「表現」されている」としたほか、「聖書を「人間の言葉」で書かれた歴史的文献に還元したうえで、・・・聖書に疑うことが許されない「神の言葉」としての「真理の認識体系」を与える一切の立場を否定し、・・・「宗教を解釈し、宗教に関して判断する最高の権能は各人の下になければならない」と言ったそうだ。

 要するに、スピノザは、ドグマと化しているキリスト教の教えを相対化した先駆者だが、「真の宗教」論を唱え、自ら無神論者ではないと主張し、宗教否定にまでは行きつかなかった哲学者と言えるのではないだろうか。その彼にとって「神」とは何だったのだろうか。この著書には、スピノザの哲学的言説が詳しく述べられているが、その現代的な意味づけ、位置づけなどの解説が欲しいと思った。

書評 消費される階級 著/酒井順子

 

現在の社会の風潮と変遷、矛盾などを分かりやすく、鋭く解説する随筆集だ。私たちがなんとなく感じていることを明確に分析している。

多くの古くて新しいテーマが扱われているが、この中の「反ルッキズム時代の容姿磨き」を興味深く読んだ。著者は、現在の美を追求する活動が、「昭和時代よりずっと先鋭化している」とし、かつては、「自分が他人からどう見えるか気にしている」ことは、恥ずかしいこととされていたが、ネット上に自分の姿を晒すようになったせいで、その見栄えが問われるようになったために、美しく自分を見せる行為が当然とされるようになったからだと解説する。そして、美しい容姿を追求することが、「自分を高めるための努力を怠らない人」と肯定されるようになったと言う。そのため、「外見はどうであっても、内面が美しければそれでいいのです」とは言っていられなくなったと言う。

確かに、容姿に限らず、「インスタ映え」などと、見栄えを競う風潮が当然とされるようになっている。この変化見逃さずに捉えていることは鋭い。彼女の言う通り、ネット上に自分の姿を晒すようになったことはそのきっかけかもしれない。しかし、だからといって、なぜ見栄えを気にする愚かさを感じなくなったのだろう。それでは、化粧品や美容整形を含む美容産業は儲からないので、これらの産業から巧妙に仕向けられてからではないだろうか。その辺まで分析してほしくなるが、これは随筆であり、その分析まで求めることには無理があるかもしれない。

それから、「モテなくてもいいけど、出会いたい」というテーマでは、戦前の主流だった見合い結婚が1960年代末に恋愛結婚に逆転された歴史が語られている。それは結婚相手は自分で探すことになっただけで、恋愛と言っても、「自然の出会い」を成立させるために、様々な権謀術数や手練手管が使用されていたこと、「誰かと愛し合いたい」「パートナーが欲しい」という要求が、「モテたい」ということにしかならず、晩婚化、非婚化が進んだこと、それにも無理があるためマッチングアプリが生まれ、その存在感が高まっていると述べている。これも風潮を明確に認識している文章だと思うが、社会的な背景までは突っ込んでいない。やはりそういう不満にも無理があるかもしれない。

書評 西洋化の限界 著/ジョン・T・ダヴィダン 中嶋啓雄/監訳

 

註等を含めると400頁を超える大作で、魅惑的な表題の著書だが、得るところがほとんどなかった。

サブタイトルが、「アメリカと東アジアの知識人が近代性を創造する」、第二章のテーマが「一八九〇年代から一九一〇年代にかけてのアメリカ的思想における近代性の発展」とされていることに、違和感があったが、読み進めるうちに、この著者は日本や中国の思想家たちを表面的にしか捉えられないこと、プラグマティズムを礼賛している軽薄な学者であることが明確になっていった。

この著者は、一九世紀後半から始まった西欧近代思想への批判についての認識がなく、そこから派生したプラグマティズムに疑問を持たずに、日本や中国の知識人の思想を分析してこの論文を著している。だからそれらのあらさがしをすることにしかならない。そもそも知識人は社会のなかで特定の階層に属しているので、その思想分析をしただけでは、それぞれの国の文化や社会の構造は見えてこないのに、その主張さえ理解しようとしないのだから、アメリカ人から見た東アジアの知識人の主張の劣等性を指摘する言説に終始してしまうのだ。

彼は、第一次世界大戦の結果、「西洋の帝国は縮小し、アメリカを除く西洋は経済的に弱体化した。」、「ヨーロッパと太平洋における圧倒的な勝利は、アメリカ人たちが西洋化された近代性に大きな夢を持つことを可能にしたのである。」という文章が挿入されているが、ここには彼がアメリカの国勢と思想の優位性を混同していることが明確に表れている。

彼は、「中国は西洋化に失敗した。」と切り捨て、これに比して日本の西洋化を認めている。ここには日本人の欧米コンプレックスが大きく影響していることに無頓着で、中国人にはその影響がなかった原因等についての考察がないことは、このテーマを取り上げた言説においては致命的な欠陥だ。

結局、この著者は欧米人にわかりやすい福澤諭吉や丸山眞男はある程度評価しているが、竹内好や魯迅たちの思想を理解できずに済ましていた。まして、日本の思想家の転向などの問題には到底行きつかない。

「西洋化の取り組みは、帝国主義の古いイデオロギーや、西洋文明の優位性とされていたものとの関連性から、強力な反対に遭遇した。」と述べながら、その反省をしているわけでもなく、西谷啓治らの京都学派の学者が「近代」と「西洋化」を混同しているとしながら、それぞれの定義をしていないため、この著書において自らがそれらを混同しているなど、論理が極めてお粗末だ。

結びにおいて、「西洋化の限界」とはアメリカ人が想定したよりも彼ら(東アジアの思想家)は多様で、自らの伝統に関心があり、西洋を模倣することに関心が低かったと、思い違いを反省しているかと思うと、ロストウらの理論が「合衆国に後れをとっている非西洋諸国についての完全な説明とそれらの国々が追いつくことができる方法の処方箋として開花した」と述べ、それが短い間でしかの究極の理論だったという理由を検討しないで、「実際には諸国家をアメリカ式の近代性に迅速に変換することができなかった」と淡々と語るなど、この著者は読者に伝えようとしていることがあるとは思えない。「近代性の解放主義的傾向は、学者や一般の人々の間で劇的に拡大した。」、人間は未だ解放と合理的な問題解決の能力があり、この事実を受け入れるならば、私たちは近代性を救うことができる。」という言説は虚しく付け足しされている。