ロシアのウクライナ侵略問題6

 ロシアとウクライナの問題はいまだ解決の見通しがつかないでいる。

これは武器等の面で不利なウクライナに欧米諸国が武器を援助し、ロシアと均衡を保っているのだから、ある意味では当然だといえるだろう。こうしている間に両軍の兵士やウクライナの非戦闘員の死傷者は確実に増え続けている。欧米側には支援疲れが出始めてからもプロパガンダにより引くに引けず、政府に不平や批判さえ向けられている。

こんな中、ゼレンスキー大統領が9月17日放送の米CBSテレビのインタビューで、ウクライナが敗北すればロシアはポーランドやバルト3国に迫り、第3次世界大戦に発展しかねないと警告し、さらに「プーチンを食い止めるか、世界大戦を始めるか、全世界が選ばなければならない」と述べたとのこと(9月19日信濃毎日新聞より)。

このような彼の論理により、この1年半余り多少の差はあるが全世界がこの戦争に巻き込まれ、悪影響を受けてきている。冷たいようでも基本的には2国間の問題であることを忘れてはならない。現在の世界は2度の世界大戦を経ても、依然として弱肉強食の世界である。現在の国連は強国間の妥協の産物でしかない。第3次世界大戦は核の脅威により起きていないだけだ。

もうゼレンスキー大統領の意向に動かされていてはならない。彼の言う2者択一はあり得ない。ロシアは負けそうになったらその段階で核を使うかもしれないからだ。

世界を守るためにウクライナ人が実際に戦い死ぬことにより「最も高い代償を払っている」というのは詭弁でしかない。これ以上彼の論理に振り回されることはやめ、ウクライナにも不満はあっても、佐藤優氏の提案のような方法により停戦させることが早急に必要だ。

ロシアのウクライナ侵略問題5 (佐藤優氏の戦争解決案)

 案の定、ウクライナ戦争は終わりが見えない。

先月、週刊現代6月17日号に佐藤優氏が「ロシア・ウクライナ戦争 正しい理解の仕方」というタイトルで、欧米的な風潮や日本の論調を批判しながら適切な分析をしている。

彼曰く。この戦争はアメリカが自国への被害を防ぎつつ、ロシアを弱体化させるために管理された戦争であり、ウクライナは勝利できないと。ロシア軍は壊滅されそうになると、アメリカに戦略核を発射するからだと。

そして、驚いたのは、私が考えていたのと同様な戦争の終わらせ方をここで最後に述べていることだ。

それは、即時に停戦し、国連等がクリミア半島を含めたロシア占領地域で住民投票を実施し、その結果により帰属を決定するという提案です。

ウクライナを援助しながら代理戦争をして正義を主張している大方の風潮の中で、このどこからも提案されていないことを、反発を恐れずに表明してくれた佐藤氏を評価するとともに、この提案を強く支持します。

この提案に付け加えるとすれば、言うまでもないことですが、住民投票は現在各地に避難している元住民にも選挙権を与えたうえで実施するべきだということです。

それから、このようなことができなければ国連は無用の長物であり、ここで積極的に動き、その存在価値を見せるべきだと思います。

そしてこの解決案が成功すれば、スコットランド等、世界各地で紛争がある特定地域の独立問題の解決策にできると思います。

家族観とは?2 家族観は変わり続けている

  岸田首相たちが「家族観」が変わることをタブーのように言っているが、家族観は歴史と共に変わり続けている。

 社会的に家族を援助する制度がなかった時代、家族はその成員間で助け合わなければ暮らしていくことができなかった。若い成員は、自らのために食料を狩猟・採集・生産・料理すると共に、働けなくなった老人を扶養し、介護を担い、幼児を自分たちのようになれるように養育することは当たり前だった。

 このような社会では、老人がそのようにされないと社会不安につながるため、「親孝行」というモラルが重んじられた。子の養育についても、「親の責任」を背負わされた。 

 農業社会から工業社会への変遷により、大家族が分解して核家族が主流となり、女性の社会進出も進み、親の扶養や介護が困難になったため、現在の年金制度や介護保険制度で老人扶養や介護の機能を代替し、保育所、児童養護施設は子の養育の機能を代替するようになった。また、外食産業、レトルト食品や冷凍食品の普及、種々の家事の外部化も盛んになっており、かつての主婦の役割はかなり軽減されている。現代社会の変遷は家族機能の社会化が一つの特徴だ。

 以上のような社会の変化に伴い、家族形態や家族の機能は変遷を重ねている。だから当然、「家族観」も変わり続けている。変わってはいけない「家族観」というものがあるのだろうか。変わってはいけないものは大多数の人が論議し合意形成した「理念」(例えば憲法)のようなものだろう。それでさえ、必要ならまたその作業をして変えなければならないことはあるだろう。

 少なくとも彼らが言う「家族観」とはそのようなものではないだろう。是非知りたいものだ。

家族観とは?1 同性婚を巡って

 2023年2月1日には岸田首相が、昨日(2023年2月3日)は首相秘書官が、同性婚について、法制化された場合は、「社会や家族観が変わってしまう」というようなことを言っていたそうだ。このようなことはこのブログでも取り上げた「匿名出産」に関しても与党議員から述べられていた。

 私は結婚制度そのものに疑問を持っているので、同性婚法制化について賛同しているわけではありません。それについては別の機会に述べるつもりですが、上記の発言について皆さんはどうお感じになりますか?

 この発言は当面、この問題がクローズアップされるのを避けたいという逃げの言い訳だと思いますが、これが決め台詞のようになり、放置されると、彼らの「家族観」がどんなものかが分からないまま正当化されてしまうことでしょう。

 家族観とは家族についての各個人の捉え方で、そこには歴史的認識や現状認識、現状についての肯定的または否定的考え方、理想像などいろいろな要素が含まれています。ですから、それは多様であり、現在、社会的に共有されている「家族観」というものがあるとは思えません。彼らが、そのような「家族観」が現在存在しているというのならそれがどのようなものなのか、ぜひ知りたいと思います。そして、それがどの程度社会で共有されているのかについて、世論調査をしてみるべきだと思います。そのうえで、上記に述べた理想像まで含めて国民的に議論することが必要な問題だと思います。そのいい機会であるのに、野党からもマスコミからも民間団体からもそのような動きがないのはなぜでしょう。日本はそのような議論が全くできていない国だと思いますが、それは野党やマスコミにも責任があるのではないでしょうか。これからでも彼らに明確にさせるべきです。

 彼らが明確な考えなくそう言っているとしたら、頑迷に伝統を守っていればいいと自ら考えているか、そのような支持層の反発を恐れているだけの政治家であり、そもそも政治を担う資格のない人たちであることが明らかになるはずです。それはこの問題に限りません。野党の皆さんは、与党政治家のスキャンダルを責めるばかりでなく、このような基本的なことをするべきではないでしょうか。

ロシアのウクライナ侵略問題 4(IOCの方針変更)

  1月25日にIOCが、国際スポーツ大会から除外されているロシアとベラルーシの選手の復帰を検討すると発表したところ、26日、ウクライナの青年スポーツ相が、パリオリンピックをボイコットする可能性をフェイスブックで示唆したという。27日にはゼレンスキー大統領が、IOCがロシア選手が中立を条件にしたとしても、そんなことはありえないという意味の演説をしたそうだ。

 このような行為が、両国国民の敵愾心を煽り、戦争を泥沼化させる一因となるのだ。これまでのウクライナの動きは友好国にまで広がり、日本では演奏会でロシア人作曲の楽曲の演奏を避けることまで起こった。

 昨年の北京冬期パラリンピックの際、IPCがその両国の選手の参加を除外したことが間違いの元だった。戦争は国家間で起こされることだ。戦争は誰もが避けたいことであるのに、このような時、国家に扇動され、そのことを忘れてしまい、国家の方針に無批判に同調してしまうことは、これまで何度も繰り返されてきた。

 国家は敵国を打ち負かすために、敵国のみならず、敵国の国民、文化などにも敵愾心を持たせ、軍隊等の士気が高揚させようとする。上記のウクライナの青年スポーツ相の示唆は、自国選手の気持ちを尊重するように装いながら、そのような狙いを含んでいることは明らかだ。戦意や士気が高まることは戦死者や戦傷者が増加することに繋がってしまう。

 このような時、国民同士が意図していなかった憎しみ合いに至ってしまうことを避けるために、国民は自国の方針を客観化して、少なくとも無批判の同調をしてはならないのだ。

 ゼレンスキー大統領は否定するが、政府を支持していないロシア選手もいるはずだ。ウクライナの代表選手はロシア選手との対戦を嫌がるかもしれない。しかし、そのような場合、主催者側は同じ競技をする人間として他国の選手と同様に接するように説得するべきなのだ。そしてそれが戦争を激化させないことに繋がることも伝えるべきなのだ。決して、棄権を恐れてはならないのだ。主催者側がそのように毅然とした態度でいることが大事なのだ。

 ロシアの国家主義により戦争をしかけられたウクライナが、それに対応するスタンスが国家主義でしかなければ、ロシアを批判することはできない。ウクライナはロシアという国家と戦わざるを得ないが、ロシア国民を敵にしないように、さらに言えば味方にするような姿勢でいるべきだ。そして、ウクライナ国民もロシア国民も同じ人間であり、分かり合えることを信じて接するべきなのだ。

 現在開催中の全豪オープンなどへの両国選手の出場が許可されているので、IOCが除外を再検討しようとするのは無理もないことだ。ただ、気になるのは、IOCがその方針変更の検討を始める動機が、オリンピックの商業主義的な盛り上げにあるとすると、ウクライナとその国民への説得力を持てないだろうということだ。ゼレンスキー大統領に偽善的と言われたが、今後の経過にIOCの良識が問われる。

書評 1 『人新世の「資本論」』

 斎藤幸平 著 『人新世の「資本論」』について

「人新世」とはノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため地質学的に見て、地球は新たな年代に突入し、人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくしたという意味で名付けた年代とのことだ。

このことと、マルクスが19世紀に書いた「資本論」との関係を説明するために書かれた形になっている。(このことについては後で触れる。)

マルクスは『資本論』で「資本主義的生産は、すべての富の源泉すなわち土地および労働者を同時に破壊することによってのみ社会的生産過程の技術および結合を発展させる。」といっているようだが、私たちが「労働者の破壊」にばかり注目していたことを斎藤は見直すべきだという。

彼は、「経済成長が続いて、その恩恵が多くの人にまで分配されるような状況が続いていたあいだは、人々は満足し、社会は安定していた。ところが経済成長が困難になり、経済格差が拡大し、環境問題も深刻化している、それが「人新世」の時代である。」という。

また彼は、「旧来の南北問題を含め、資本主義の歴史を振り返れば、先進国における豊かな生活の裏側では、さまざまな悲劇が繰り返されてきた。いわば資本主義の矛盾がグローバル・サウスに凝縮されているのである。」、 「自動車の鉄、ガソリン、洋服の綿花、牛丼の牛肉にしても、その「遠い」ところから日本に届く、グローバル・サウスからの労働力の搾取と自然資源の収奪なしに、私たちの豊かな生活は不可能だからである。」、「グローバル・サウスの人々の生活条件の悪化は資本主義の前提条件であり、南北の支配従属関係は、例外的事態ではなく、平常(、、、、)運転(、、、、)なのである。」、と述べ、「ところが資本主義のグローバル化が地球の隅々まで及んだために、新たに収奪の対象となる「フロンティア」が消滅してしまった。そうした利潤獲得のプロセスが限界に達したということだ。利潤率が低下した結果、資本蓄積や経済成長が困難になり、「資本主義の終焉」が謳われるまでになっている。」、そして、「もう一方の本質の側面、それが地球環境である。資本主義による収奪の対象は周辺部の労働力だけでなく、地球環境全体なのだ。資源、エネルギー、食料も先進国との「不等価な交換」によってグローバル・サウスから奪われていくのである。人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる収奪の対象とみなす。このことが本書の基本的主張のひとつをなす。」という。

要するに、先進国で信じられていた資本主義の肯定的な評価は、後進国を犠牲にしてきた先進国の、それも一時的な現象でしかなく、資本主義のグローバル化は先進後進を問わず、その限界を露呈し、地球環境の危機までもたらしたということだろう。

そして、「脱成長」の必要性を説き、ピケティを含む、経済成長をしながらこれらの問題に対処しようとするすべての説を否定し、そのための選択肢としてはラディカルに資本主義批判を摂取し、<コモン>を基盤とする「コミュニズム」しかないと結論する。

後半は、「気候市民議会」、「フィアレス・シティ」、「ミニュシバリズム」、「気候正義」などの新しい社会運動を紹介し、このような運動が上記の解決に繋がるという期待を表明している。

最初にこの本を読んだとき私は、現在の資本主義の危機についてマルクスが見通していたかのようにやたらに称揚している論調に疑問を持った。それは再読した今回も同様で、自説を権威づけるためのようにも感じる。ヒントをマルクスが残したノート等から得たとしても、彼自身の思想として主張してもいいのではないかと思う。

また、彼は「コスモポリタン的な理念」の「啓蒙主義」の必要性の擁護を批判し、アナーキズムが国家を拒否するとしてこれも批判する。無政府を批判するのは解るが、国家は拒否してもいいのではないだろうか。私は現在のような国家とは歴史的には過渡的な形態でしかないが,政府は必要だと思っている

そして、グローバル化により結果的に成長が困難になってきた現在においても、脱成長が必要だという主張の整合性の説明が足りないと思う。(例えば、これまでのような成長は困難でも成長の余地はあるが、その余地も止めるべきだというような。)

そうは思いつつも、私はこの人の主張を基本的に支持している。そして彼が情熱を込めて、社会が大きく変わるために必要だという「3.5%」の一人でありたいと思っている。


信彦自戒録 5

 「失敗をなかったことにしようとすることの誤り」


 なんらかの失敗をした時、反射的にその事実から逃れたくなる心理は誰にもある。

「自分はそのような馬鹿なことはしない」などと他人の失敗を他人事としてしか受け止めない、自己中心的な自己意識が強いとそのような行動になってしまう。その反射で逃避すると、取り返しがつかなくなる。

実際の例は少ないが、ひき逃げはその典型だ。事故を起こした瞬間、予測できなかった事態を受け止められず、「そんな気がしただけだ」、「これは白昼夢だ」、「妄想だ」などと思いたい誘惑に駆られることが絶対にないと言い切れる人はどれだけいるだろうか。むしろそんな人ほど逃げてしまうかもしれない。暫くしてから冷静になり、いけないことをしてしまったという反省をして自首する人もいるが、あくまで否定し続ければなかったことにできるかもしれないという気持ちになる人も多い。しかし、目撃者や他の自動車のドライブレコーダーなどから事実を認めざるを得なくなり、有罪になることが殆どだと思いたいが、中には証拠不十分で無罪になる場合もあるだろう。有罪になっても事実を認めない人もいるだろう。

有罪でも無罪でも、罪に問われない日常的な人間関係上の失敗でも、自分の良心は偽れない。良心を偽ってしまうといつも不安になり、それからの人生を暗いものにしてしまう。そのことに気づき、謝罪をするべき相手がいる場合はその人に謝罪するべきなのだ。謝罪しても許されない場合もあるが、それでもいい。そうしなければ、生きている意味はないのだから。

民主主義と専制主義 3

   民主主義が中産階級あってのものにすぎないのだったとすれば、「余裕があれば良識もある」ということを語っただけで、「理想を実現した」ことにはほど遠いことになります。要するに民主主義とは形式上の政治形態であり、ポピュリズムも民主主義がもたらした現象なのではないでしょうか。

 現在の世界情況を見ていると、民主主義国よりも、善政をしている名君がいる国の方がましかもしれないなどと思いたくなりますが、それも危険です。

 イギリスの首相だったウィンストン・チャーチルは、「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」と語ったという。現在の世界はその状況から一歩も前進していない。

 だからといって、最近、市民に平等な選挙権を与えることを改める必要があるなどと言う学者(ジェイソン・ブレナン等)がいますが、それにも疑問があります。合理的であっても差別をすることは許されません。

 今言えることは、すべての市民の意見が(多数決により)反映されることがよい政治に繋がると考えて来たことが間違いではないかということです。そのために政治に関心のない人まで血縁・縁・利権・利害・買収などのために投票に動員され、利己的な欲求を惹きつける巧妙な演説をする立候補者が当選してしまうのです。ですから投票率を上げることに意味はありません。政府や自治体は選挙の啓発活動をやめるべきです。

 そのために、選挙運動は選挙公報、立候補者が参加する公開討論会などに限り、前記のようなことをさせようとするその他の個別の選挙運動は禁止するべきでしょう。そうすれば選挙資金もあまり必要ありません。志を持った人がそれを気にせずに立候補できます。そして政治に関心のある人だけが投票すればいいのです。

  しかし、このような改革に支持が広がっても、上記のような選挙活動で政権を握っている政府等に制度を変えさせることはかなり困難です。上記のような選挙活動を却って強化し、改革を防ごうとすることでしょう。これをどのようにして克服するか。それがかなりの難問となります。

 

民主主義と専制主義 2

 

的場昭弘が「「19世紀」でわかる世界史講義」において、説明している民主主義について以下に引用します。

「近代国民国家は、民主主義の条件はそろえたが、それを守る基礎を欠いています。政治に参加できるのは、結局、経済的に豊かな者だけなのです。だから近代国家は、宿命として常に経済成長し、豊かな人々、中産階級を維持することが重要です。中産階級が崩壊すると、民主主義は機能しなくなります。すなわち、資本主義は常に綱渡り的に民主主義を実現するしかないということになります、カネの切れ目が縁の切れ目、民主社会は専制へと容易に変貌するのです。この資本主義と民主主義はヨーロッパが世界に流布させた文明ですが、それは極めて脆い条件の上にできているのです。」

「にわか勉強でルソーやロック思想を理解することはできるとしても、それをそれぞれの国の中に具体的に浸透させていくなど考えられません。そこに至るには、西欧的な市民社会が形成されなければならないし、資本主義が発展しなければならないからです。そうした物的条件がそろわない限り、民主主義思想を実現することはないのです。」

「そうした国民国家の論理は資本主義の性格にもぴったり合っています。持てる者と持たざる者の明確な差異が現れる。近代民主主義と資本主義は、排除と選別の論理によって発展しています。この論理をつくり上げたのは西欧の国々であり、彼らはアジアやアフリカに対してこの価値観を当然のように押し付けてきます。」

「日本の明治150年の近代化が果たして正しかったのかという問題が、突きつけられています。アジアを棄てた日本(「脱亜論」などで)が、いまだに欧米に向いていて、疑似ヨーロッパを体現している。しかし、実際には欧米から相手にされていない。そう考えれば、福沢諭吉の考えは早計だったと言わざるを得ません。」

イギリス、フランス、アメリカなどの一部の国でしか民主主義思想を実現できず、その国々でさえ中間階級が崩壊して民主主義が機能しなくなっているのですから、民主主義などどこにもないということになりそうです。現在のそれらの国の政治状況は明らかにこのことを表しています。

「グローバル化が中間層を分解させ、ポピュリズム社会になる」ということは、宮台真司が各所で語っている持論で、民主主義の危機だと説いています。

これまでアメリカが世界のリーダーでいられたのは豊富な援助資金をばらまいてきたからであり、バイデン米大統領のいう「民主主義」が理解されたわけではないのです。まさに「カネの切れ目が縁の切れ目」なのに、それを自覚できないのは滑稽でしかありません。


民主主義と専制主義 1

最近のアメリカとロシア、中国の対立は見苦しいほどに感じる。アメリカのバイデン大統領はアメリカ側の諸国は民主主義国で正義、ロシアや中国は専制主義で悪だと盛んに主張するが、そんな幼稚な論理で国際的なリーダーを演じても虚しさを感じさせる。これに同調するのはこれまで親米的だった日本やヨーロッパ諸国だけで広がる展望はない。

というのは、ロシアは制度上は国民が平等の投票権を持つ民主主義国家であるし、中国も民主主義を否定していないからだ。ロシアの選挙では権力による不正が行われているという疑いがあるというのなら、その根拠を明らかにし、その不正を非難すればいいわけだ。

中国の政治体制はその意味で民主主義ではないが、中国は自国こそ民主主義だと主張する。多数決ならそれが正義だということなら、それはたやすくポピュリズムに陥り、その結果、最近ではトランプ大統領が、かつてはヒトラー首相が誕生したこと、日本では殆どの期間、経済的利権最優先の政治しか存在しないことを考えると、全国民に平等な選挙権を与えた多数決による国家体制が、中国の国家体制よりも優れていると言えるのかどうか疑問になる。

中国の膨張主義的な面は抑制させなければならないが、これは一面ではこれまでのアメリカの帝国主義と似ており、そのような振舞に対する抵抗かもしれない。アメリカは第2次大戦後特に、共産圏以外の世界中を自国の好きなままにコントロールしてきた。最近のアメリカのなりふり構わない中国に対する攻撃的な言動は、経済的な行き詰まりから、それが叶わなくなってきたための焦りを強く感じる。

中国に方針転換をさせるためには、中南米諸国への露骨な干渉、ハワイ併合、フィリピン植民地化、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガン戦争、勝敗が明確になってから日本に核兵器でダメ押しをした行為等を含む上記の態度を反省することが前提になることをアメリカは知らなければならない。


安倍元総理国葬についての大澤真幸氏の寄稿

 2022年9月30日の信濃毎日新聞に社会学者の大澤真幸氏が寄稿している。

まず、「この国葬は、日本人の国民の記憶に明確な痕跡を残すことなく、忘れられていく予感がする」と述べていることには同感だ。

しかし、その根拠の「国葬の是非をめぐる世論の極端な分断にある」、「単一の主体を立ち上げるのに失敗した」という理由付けには納得がいかない。分断された状況があれば、それは忘れがたい記憶になるのではないだろうか。

さらに「今回の国葬をめぐる世論の分裂に、通常の政治的意見の対立とは異なる深刻なものを感じている。」、「普通は意見が対立していても、人は互いに反対派の気持ちや論拠に対しても一定の共感や理解をもっている。」が、今回は「このような反対派への共感が極端に薄かった」という感覚には大きな違和感がある。少なくとも日本の政治関しては、ずっと今回のような状況であったと私は思っている。彼のいう「普通」の状態とは、いつどのような状況において存在したのだろうか。それが存在したとすれば、なぜ無くなったのかを分析しなければないのではないだろうか。具体的な説明ができないのならただのノスタルジーかと思わざるを得ない。

そして、安倍晋三という政治家がなぜ憲政史上最長になりえたかという自ら設定した疑問に対し、また「わが国の議会制民主主義の中にほとんど反映されていない不可視の分裂が国民の中にあった」という結論のようなことを述べているが、「不可視」で済ませていてはならないのではないだろうか。

「最長」の疑問に関しては、私が先にこのブログで述べたように、自民党の中の最大派閥を巧妙に取り仕切っていたこと、党内にそんな安倍晋三より有力な人材がいなかったというレベルの低い結論をくださなくてはならないだけだ。わが国の議会制民主主義とは、理念などそっちのけの自民党を地縁や利権等のために支持してしまう日本国民の民度の低さで説明するしかないのではないだろうか。



ロシアのウクライナ侵略問題 3

 9月21日、ロシアはウクライナの反撃に対抗するために、予備役の動員を発令したところ、ロシア全国各地で抗議デモが行われ、国外脱出をする動きも出ているとのことだ。

先に私はロシアは軍事大国だと述べたが、予想以上にウクライナ軍の反抗が強く、既成の軍では劣勢になったようだ。予備役徴集がどれほど効果があるかはわからないが、計画通りにロシア軍が増強されれば、戦争の惨禍はますます激しくなるだろう。

この際、第三国がするべきことは、ウクライナへの更なる兵器等の供与ではない。これはますますウクライナ軍兵士を死に追いやることにつながる。今後ウクライナ軍兵士をいくら増やしても、人口の多いロシアには及ばないだろう。

今なすべきことは、ロシア国民と連帯し、反戦運動や国外脱出を支援することだ。最近はあまり目立たなくなったが、ウクライナ侵略開始直後、オリンピックなどのスポーツ大会でのロシアやベラルーシ選手排除、欧米や日本でのコンサートでロシア人が作曲した曲の除外、ロシア語案内の非表示等ロシア人差別が始まったが、このような差別はロシア人をロシアという国家から切り離せない人間にしてしまう行為だ。スポーツにおいて、ロシア人選手と対戦したくないという選手がいたら、その大会の主催者はその選手を説得し、対戦させるべきなのだ。

今日、フィンランドが増えてきたロシア人の入国を拒否する措置を発表した。自国の「国際関係を危うくする」ためにこのようなことをすることは許されない。

EU各国はロシア制裁措置のためにロシアからの航空便をすべて禁止しているため、欧州連合(EU)加盟国への最後の直接の陸路が閉鎖されることになったようだ。ロシア国民の国外脱出が増えてきた現在において、ロシア人を受け入れないロシア制裁は、ロシア人の西欧人敵視を強めさせ、上記と同様にロシア人をロシアという国家と一体化させることにつながりる。これは期せずしてプーチン一派の望んでいる方向に向かわせることになるのだ。

今回のことは日米戦争当時にアメリカの日本人移民が強制収容された問題と根は同じだ。「国家」と「国民」は一体ではない。「国民」とは制度上の属性であり、その前に人間なのだ。私たちはそれをわきまえずに差別することが愚かであることをこれまでに学んできたはずだ。ロシア人を同じ人間として対応し、ロシアという国家を単に非難せず、彼らが客観的に自国の政府の行為を批判できるように呼びかけ続け、応じた人をできる限り支援するような行為にこそ人類の展望が開けるのだ。

ただ、現在のロシアで反戦運動をすることは危険を伴うことで、予備役抗議デモにおいても多数の逮捕者が出ている。私は第三国の人たちもその限度を理解し、それをわきまえながら呼びかけるべきだと思う。

続「内密出産」

私は7月31日付のこのブログで「政府が現行法の範囲での対応であっても「違法ではない」という見解を示した(同年2月25日参院予算委員会・後藤厚生労働大臣)ことを機に、慈恵病院のような産院や支援者がつぎつぎと現れ、募金等によりその資金が確保され、全国どの都道府県でも匿名かどうかに関わらず出産支援が受けられるようになることを期待しています。」と述べました。

昨日(2022年9月29日)、東京で開設予定の産院が、慈恵病院と同様に、親が育てられない子どもを匿名でも預かる「赤ちゃんポスト」を都内に設置する構想を進めていることがニュースで報じられました

国のこのためのガイドライン(指針)を近く発出する動きがあり、このことを踏まえて決断ができたようです。これに続き、少なくとも各都道府県に1カ所はこのような産院や病院ができるといいと思います。

ただ、これにはかなりの人的な負担、費用負担が必要です。そのために意思は有っても実施に踏み切れない産院や病院があると思います。ですから、上記にもあるように、その費用を援助する仕組みが必要です。支援基金を設立され、そこに多くの募金が集まり、資金援助体制ができることも必要なことだと思います。

妊娠してしまったけれど育てられない女性のために、出産支援施設がどんどん増え続けると共に、女性の権利を支援・保護する団体の皆さんが支援資金を含む支援制度の確立に乗り出してくれることを期待します。