書評 人間モーセと一神教 フロイト(フロイド)著 土井正徳・吉田正己訳  日本教文社 改訂版フロイド選集8宗教論より

  私はフロイト(この本ではフロイドとしているが、ここでは一般的な日本語読み表記とする)自身の出自であるユダヤ人についてどう考えていたのかをかねてから知りたいと思っていた。最近、早尾貴紀の著書で、サイードの『フロイトと非-ヨーロッパ人』という著書に、フロイトの『モーセと一神教』(モーセはモーゼとも読まれている)という論考についての論評があることを知り、その両方を読もうと思った。先に前者を読むことになったが、ふと考えると、後者は50年ほど前に買いそろえていた、日本教文社の『フロイド選集』に入っているかもしれないと気が付いた。そしたら案の定、この第8巻に収録されていた。

読み始めて驚いたのは、昭和45年の初版(私が読んだのは翌年発行の第4版、改訂前の版は昭和29年頃の発行らしい)だが、旧漢字のオンパレードで、仮名遣いも、吃音の「つ」が小文字になっていなかったことなどだ。旧漢字はほとんど読めたので、それほど苦にならなかいことは幸いだったが、このころの出版物の状況を再認識した。

『モーセと一神教』(この選集では『人間モーセと一神教』)は、最後に書かれた「モーセとその民および一神教」の前書きに説明されているが、別々の時期に書かかれた3つの論文がそのまま整理されずに掲載されていて、読みにくい論考だった。

さて本題に入ろう。先に上記で述べたようにサイードの論評を読んでいたため、フロイトが述べたい趣旨はある程度想像できていた。サイードが引用していた、「ある民族が同胞のうちでもっとも偉大な人物として誇っている人間に妄評を加えて片づけてしまおうということは・・・」という有名な一節は冒頭に述べられていて、改めてフロイトがこの論考に臨んだ決意の重さを実感する。

フロイトのこの著書は「モーセはおそらく高貴なエジプト人であって、伝説によってユダヤ人にされているものにちがいない。」と結論されていて、サイードは、フロイトがこう断定することにより、ユダヤ人の独善的なアイデンティティに異議を挟んだことを評価しているが、この前後には、この説の根拠の説明が続いていて、サイードが、「そうした観察や引証は、ときには途轍もなくうんざりするような繰り返しさえ帯びておりました。」と述べているとおりで、あまり興味を惹く内容ではなかった。

そしてフロイトは専門の精神分析理論をユダヤ教に適用し、その父殺しの理論でユダヤ教の始祖としたモーセをユダヤ人が殺したことにより原罪を背負うことになったとしているなどの主張を随処で展開しているが、それにも少々うんざりした。

私が注目したのは、反ユダヤ主義の原因となったヨーロッパでの伝統的なユダヤ人ぎらいをユダヤ人側の姿勢にあるという指摘をしていることだ。最初に、ユダヤ人が集団として暮らすという風習を指摘している。これは、私もかねてからそう思っていたことであり、これを当のユダヤ人フロイトが語ったということで確信を持つことができた。そして、「集団の共同感情は、それを充足するために、外部の少数者に対して敵意をさしむけることが必要」だからユダヤ人迫害が始まったとしている。

それから注目した点は、ユダヤ教とキリスト教の関係を述べている部分だ。フロイトによれば、ユダヤ教は原父の宗教であり、潜伏していた原父が回帰したことが、ユダヤ教を進歩させただけにとどまらず、キリスト教を誕生させてしまったという。モーセ殺害という悲劇に関するような部分も回帰し、増大しつつあった罪意識がユダヤ民族を含む全文化世界を覆ってしまったとのこと。モーセの虐殺に関する悔恨によって、この民に救済と約束された世界支配をもたらす救世主が再来する願望的空想もあって、この中で生まれて処刑されたユダヤ民族のキリストがその後継者となったという。ローマ系ユダヤ人パウロは、このような背景を基にして、ユダヤ教から選民意識や割礼の風習を廃止したためにこの新宗教(キリスト教)が普遍性をもった世界宗教となりえたとも述べている。この辺の論旨を私なりに解釈すると、キリスト教はユダヤ教を改革して生まれた、いわば「新ユダヤ教」だと言っているように感じるのだが飛躍しすぎだろうか。

それは、「新たな教えを受けいれたのはユダヤ民族のごく一部だけであった。この教えを拒否した人たちは、今日でもなおユダヤ人と呼ばれている。彼らはこの分離によって、以前にも増してますますはっきりと他のものたちから区別されている。彼らは・・・新たな宗教共同体から、彼らこそ神を殺害したのだという非難を聞かねばならなかった。」という指摘にも表れていて、ユダヤ教が新・旧に分裂したと言っているように感じる。

そして逆にキリスト教信者となったヨーロッパ人は、神はまたもや救世主をユダヤ人の中から選んだとして、「つまり本当に彼らは正しかったのだ、彼らこそ神の選んだ民族である、と。」と、ユダヤ人の不遜を是認せざるを得ないような心理になり、「そのかわりに生じたことは、イエスキリストによる救済が単に彼らのユダヤ人ぎらいを強化したにすぎなかった」という。それは、今日でもまだ克服されていないとし、さらに、ユダヤ人の割礼の風習はいまわしい、無気味な印象を与えるものだとして、それまでのユダヤ人ぎらいが新たな局面を迎えたことを指摘する。ヨーロッパの反ユダヤ主義のもととなった、キリスト教徒の心理を分析したこの指摘は鋭く、さすがフロイトだと感心する。

それからフロイトは「ユダヤ人たちはとくに自己に対する強い信念を持ち、自分たちがすぐれて高貴であり、他民族にまさったものだと考えていることは疑う余地もない。(中略)彼らは実際に自分たちが神から選ばれた民であると自認し、神のそばに立っていると信じている。」と述べ、このような選民意識についての分析も行っている。  

曰く、ユダヤ教の神の像を作ることの禁止は、「抽象的と呼ばれる観念に対して感覚的知覚が無視されていることを意味する。すなわち感性に対する精神性の勝利、厳密に言うならば、心理学的に必然的な結果をともなった衝動放棄を意味するものである。」効果をもったとして、モーセ信仰の禁止によって「神は精神性の高度の段階にまで高められ、神=観念のその後の変更のために道が開かれたのであるが」、この禁止はもう一つの別の作用として、「精神性におけるこうした進歩はすべて、個人の自尊心を高め、個人に誇りをもたせて感性の束縛のなかにとどまっている他の人たちに対して優越を抱かせるようになるという結果を生ずる。」、「外的要求にもとづく行動放棄はただ不快であるにすぎないが、内的理由、つまり超自我への服従にもとづく衝動放棄は・・・自我にたいして快感利得というものを、いわば代償満足にひとしいものを得させることになる。自我を高められたと感じ衝動放棄を価値ある行為であるかのように誇るであろう。」とのことで、《思考の全能》という心理効果の説明を含めて、明快な分析であると思える一方で、このような記述はフロイト自身を含めたユダヤ人を賛美しているようにも感じさせる。このような一面は、イェルシャルミが、「「フロイト・・・といえども、かかるユダヤ人の性格上の特徴を継承し共有することは避けられない」と信じていたらしい」(サイード『フロイトと非-ヨーロッパ人』より)と述べていたことを裏付けているような気がする。

また、ユダヤ教から生まれた「イスラム教の発展が停頓するにいたったのは、ユダヤ人の場合の教祖の虐殺が引き起こした変化が欠けていたからだ。」として、「東洋の宗教(どの宗教を指しているか不明だがおそらくイスラム教を含んだ)は合理主義的に見えるが、祖先崇拝であり、停頓する」という指摘や、東洋の宗教を未開民族の宗教と同一視し、神経症と関連させる言説があり、サイードはこれに直接触れていないが、『フロイトと非-ヨーロッパ人』で語っている、フロイトのヨーロッパ人としての限界がここにも表れていると感じる。

そんな疑問点もある著書だったが、「ユダヤ性」についてユダヤ人自身がどのように捉えているのかを知るためには欠かせない、貴重な著書だと思う。

書評 極限の思想 ニーチェ 道徳批判の哲学 城戸 淳(著)

 

 私はニーチェの著書に何度も挑戦しているが読み通したことがない。箴言の連続で読者にわかりやすい解説がないためだ。だからといって、そのような著書を読まずに解説本を先に読むことにも抵抗があったため、魅力を感じながら遠い存在だった。しかしどうしても彼が考えていることを知りたいと思い、この解説本を購入した。 結論から言うと、購入して正解だった。ニーチェの言説を鋭く、しかもわかりやすく解説している。なんとなくイメージしていたニーチェの道徳批判の意義を明確にできたと感じている。 あわせて感心したのは、ありがちなニーチェ崇拝にならず、ニーチェの言説の問題点等を指摘していることだ。曰く、「ニーチェには、批判的観察によって原理を発見すると、その原理を絶対化して、その貫徹を要求しだすという、いわば過剰解釈のねじれた論理がある。力への意思も、もともとは虚栄心やルサンチマンを分析するための心理的概念装置だったものが、いつのまにか積極的に崇拝され、ディオニソス的宇宙像の形而上学装置になってしまった。」

 また、次のようなニーチェの道徳批判のポイント、「(道徳的価値観が世界を覆いつくしている)この二千年の出発点にあるのはキリスト教である。キリスト教こそは、「まさにユダヤ的な価値への誘惑にして迂回路」であり、「復讐の真に多いなる政治の秘めた黒魔術」であるとニーチェはいう。」、「いかなる返済の努力も決して届きえないような無限の債務など、はたしてありうるだろうか。この問いに「逆説的で恐るべき窮余の策によって答えたのが、「キリスト教の天才的悪戯」であった。原始キリスト教団、あるいは『アンチクリスト』によればその首謀者であるパウロは、イエスの十字架での刑死という不慮の出来事に意味を与えるべく、神が人間の罪を贖うために身代わりで死んだと再解釈したのである。」、などの指摘は明快だ。

 著者がニーチェを「戦慄すべき道徳性の分析家」として評価しながら客観的に批判できるのは、あとがきに卒論でニーチェに取り組んだのちにカントを研究したときに、「ニーチェのある側面は、カントの前で色褪せて見えるようになった。」ということにあるようだ。そして次第に彼は、「ニーチェの方法論の核心にはカント的な超越論哲学の伝統があるはずだ」という予感は確信になっていたという。このような研究経緯を率直に述べていることに好感を持った。

書評 「最小の結婚」 エリザベス・ブレイク(著)  久保田 裕之他(訳)

 

私は男性だが、母の卑屈な生き方を見ながら育ち、その原因が女性の社会的立場が弱いことであることを認識するようになり、その後も女性差別の問題を考えてきたため、この本のテーマはとても興味深かった。人間関係を男女という性別に左右されずに、また伝統的なモラルから自由にしたい彼女のリベラリズムには基本的に賛成する。

著者のエリザベス・ブレイクの現在の結婚制度に対する批判は、私の考えてきたこととほとんど一致していた。

彼女はアメリカ人で、主にアメリカの状況について述べているが、意外にも女性の社会的立場の弱さ等については日本と大差ない状況だと思った(それだから一致したのだが・・・また西欧はもう少し違っていると思うが)。

ただ、彼女は社会学者ではなく哲学者であるため、「結婚の際の愛の誓い」の問題等について滔々と分析し述べているのだが、これには閉口した。これにはアメリカもクリスチャンの伝統が強い国であるためで、日本人で無宗教の私にはこんなことは当たり前であり、このようにこの問題にこだわることに違和感が強かった。

私は現在の結婚制度は、性行為により子を産んだ男女にその養育責任を負わせる社会的機能を法律制度にした歴史から考えて、最近日本でも同性婚を認めることが先進的なような風潮になってきていることに疑問を持っていたが、このことへの批判がこの本にも述べられていて自信を持った。

「最小の結婚」は子供の養育責任を切り離すことが重要なポイントとしている。これについても私は同意見だが、彼女は社会に責任を持たせるべきといいながら、一夫一妻以外の関係者による養育などをその例にしている。そのような関係の養育者がいない場合もあるのだから、子供の全生活についてケアをする現在の児童養護施設を一般化の児童を対象にするようなことが必要だろう。このような具体的な言及がないことに哲学者の限界を感じた。

最後に「最小の結婚」の意味については疑問符がある。 

著者はケアを提供する関係を、埋葬の権利等の承認権と在留資格などの支援する権利等があるだけの結婚という制度にすることを提唱しているが、はたしてこれに意味があるのかは保留としたい。この意義を述べている論理はあまり説得力がない。彼女も結婚制度廃止論者ともっと論議する必要があると思う。

そして、この結婚は一夫多妻、一妻多夫、同性愛関係、ポリアモリー等すべての成人間の関係を含むということなので、網のような形の関係図が社会にもたらされ、その中に孤立した人間がポツポツと存在するというイメージになるのだろうか。そして、個々の人に直接関係を結んでいる人の同心円とその中の人同士の関係が一つの家族になるのだろうか。

書評 フロイトと非-ヨーロッパ人 エドワード・サイード著 長原 豊訳

 

 この本のことを早尾貴紀の『ユダヤとイスラエルのあいだ』で知り、読まなくてはと思った。そこではサイードはフロイトを評価しながら、疑問を一部に述べていたことが紹介されていたが、表題の本を読み始めると、いきなりフロイトを批判する言説の連続で、サイードはなぜこんなにフロイトを責めなくてはならないのかというのが第一印象だった。

 曰く。「ヨーロッパという制約を超えた他の文化へのフロイトの配慮には屈曲したものがあった」、「彼は、例えばインドや中国の文化に言及しておりますが、(中略)関連する主題を専門とするヨーロッパの研究者たちがおこなう比較考証にとって興味を惹く限りで、なされたにすぎません。」、「ひとたび文化という視点から見ると、フロイトが非-ヨーロッパ的な人びとや物語にたいする魅惑された程度は、古代ギリシャ、ローマまたイスラエルの人びとや物語にたいする彼の好奇心を超え出るものではなかったのです。」等等。

 しかしサイードは、「フロイトが、結果的にですが、非-ヨーロッパ的原始とヨーロッパ的文明を分断する障壁を乗り越え不能なものとして打ち立てるのではなく、明示的とは言えませんが、それを拒絶している」、フロイトが『一民族が同胞中の最大の存在として讃えている人物の出自がその民族にはない、とそのつながりを否認する』という「真理のためにそうした離れ業に打って出るのであり」、「またそれが『国民的利益と見做されていること』より重要なのだとも考えていた」、「「全民族の利害を、同じ考えを持つ信仰者たちの共同体や歴史の内部における固有の場から宗教の起源を外して考えてみるといった、もっと重要な事柄のもとに従属させる意欲の発露なのです。」等と述べていて、読み進むうちにサイードは、ユダヤ人でありながらそのアイデンティティを問い続けたフロイトを評価するからこそ、批判せざるを得なかったのだろうと思うようになった。そして、フロイトでさえ超えられなかった限界が、現代のパレスチナの状況を招いていることに無関係ではないことを、当事者として痛切に感じるからこそ、このように述べざるを得なかったのだろうとも思った。

 それにしてもユダヤ教が改めて根強いことを痛感するとともに、それを否定してもなお残るとイェルシャルミが言う「ユダヤ人的精神構造」、ドイッチャーの言う「非-ユダヤ人的ユダヤ人(スピノザ、マルクス、ハイネ、フロイト)」らが、「「ユダヤ人として、「ユダヤ人や非-ユダヤ人の伝統主義やナショナリズムから自由になったユダヤ人ほど、等しき者たちのインターナショナルな社会」を(説く資格のある者はほかにないと)主張したことがあったにせよ、彼らは「究極的な人間の連帯を確信していた」と述べ」ていることに表れている「ユダヤ人だけの特徴」という主張には絶望してしまいそうだ。しかし、サイードは、「こうしたことがユダヤ人だけの特徴だという必要はない」、「膨大な人口移動、避難民、亡命者、国籍離脱者と移民が氾濫するこの時代において、自分の共同体の内と外の両側に同時に生きる人びとの、ディアスポラの流浪とコスモポリタンな意識にもまた、そうしたことが探し出せるはずです。」と述べ、「アイデンティティについてのフロイトの未決感が非常に実り多い事例であるのと同様、彼がそのためにかくも骨を折った条件が、現実には、彼がうすうす感じ取っていた以上に、非-ヨーロッパ世界では一般的だからです。」と締めくくっている。

 思うに、ヨーロッパでは、ユダヤ教やキリスト教の伝統が根強いために、「神」や神的なものから自由になりにくいのだろう。振り返って、日本などの信仰心が薄い国が、サイードが言うような条件に当てはまるのかと考えると、決してそうは言えないのはなぜだろうか。


書評 パレスチナ/イスラエル論 早尾貴紀著

 

この著者の『ユダヤとイスラエルのあいだ』に続いて購読した。第Ⅰ部は前著で触れていた「ディアスポラ」について深堀している。この中で、早尾は、この言葉は「国民国家という一体性からの「逸脱」であることを指し示す。」として、ヘーゲル左派、アーレントらの民族論や国家論を批判的に解説している。

そして、早尾が評価している、イラン・パぺというユダヤ人で反シオニストの歴史家が、シオニストがパレスチナのアラブ人を殺害・追放する行為を「エスニック・クレンジング」だとして批判していることを紹介し、イスラエル建国後、3割程度しかいなかったユダヤ人の割合(現在は約8割)を極大化するために、ユダヤ教徒のアラブ人の中東から移民を導入したにもかかわらず、シオニストが彼らを「人種としてのユダヤ人」だという主張をしたことを批判している。

そう言いながら、イスラエルでは、ヨーロッパ系移民が「アシュケナジーム」として国内の主導権を握っている中で、中東から移民した人たちは「ミズラヒーム」と呼ばれて下層におかれ、イスラエル国内に人種格差があるとのことで、二枚舌的なシオニストの現状にも目を開かされる。

また、イスラエル建国後のパレスチナの惨状に触れ、「皮肉なことに、かつてはもっぱらユダヤ人の離散状況について語られてきた「ディアスポラ」は、現在、パレスチナ人の措かれている状況を概念化するのにひじょうに適している」と、ここでも「ディアスポラ」の概念がユダヤ人の専売特許ではないという皮肉を述べている。

さらに、建国前からアーレントらが唱えていた、「バイナショナリズム」のオスロ合意による変遷、サイードのバイナショナリズムとディアスポラにかかる引用しながら、「ディアスポラ的思考は、(ジャン・)ジュネとサイードを媒介としながら、「アイデンティティの根源的な他者性」にまで至りつく」としている。

第Ⅱ部では、ユダヤ人やアラブ人の映像作品等を紹介しながら、シオニズム等の批判、反シオニズムの評価が述べられている。

第Ⅲ部では、パレスチナの一般に知れていない、これまでの経過や現状が詳しく述べられている。一例をあげる。ユダヤ系アメリカ人、サラ・ロイの著書の引用によると、1995年に結ばれた暫定自治協定=「オスロⅡ」の内容は、ガザ地区やヨルダン川西岸地区はパレスチナ人の地域とされていても、行政権と自治権がともにパレスチナ側にあるA地区、行政権のみのB地区、どちらもイスラエルが握るC地区という区分分けがされていて、BC地区は合計83%を占めているとのことだ。現在のガザ地区への軍事侵攻を考えると、ほとんどの地域がイスラエルの管理下に置かれることになりそうだ。一昨年のハマス(早尾は「ハマース」としている)の越境攻撃以前から頻繁に起こされていたイスラエルのパレスチナ人への迫害・虐殺も詳しく述べられていて、パレスチナの人びとの切迫感、絶望感がひしひしと伝わってくる。

日本ではあまり報じられていないことだが、2006年のパレスチナ総選挙でハマスが政権を取っても、イスラエルと日本を含む欧米諸国はその内閣を承認せず、ファタハを支援したため、ハマスはファタハとの連立内閣を組んだのに、イスラエルはファタハに銃や弾丸を大量に供与して内戦を促して、ファタハにヨルダン川西岸地区を容易に制圧させたことから、パレスチナはヨルダン川西岸地区とガザ地区に分断され、そのガザ地区に対し、イスラエルは経済活動等を不当に制限する「反開発」政策を進めているそうだ。このようなイスラエルのガザ地区への締め付けがあったことも、上記の越境攻撃の原因として認識しなければならないことだろう。それにしても、自国のために、同じ民族を分断し対立させるという卑劣な行為をしたイスラエルという国は、恐ろしいほど非情な国だろう。

このような状況に対し、早尾は(ロイ以外の)「多くの研究者たちは分析能力に欠けるのか倫理に欠けるのか、あるいは政治的になることを避けているのか(沈黙によってイスラエルの占領を容認することも充分に政治的だと思うが)。ともあれ、ロイが、事後的にしたり顔で解説を加えたり、慌てふためくような研究者などとは一線を画して、リスクを冒しても然るべきタイミングで踏み込んだ発言をしていることが確認できる。」と述べていて、彼の苛立ちやロイを擁護したくなる気持ちがひしひしと伝わってくる。

早尾は、このような状況を述べながら、日本の思想状況についても批判していて、「イスラエルであれ日本であれ、それぞれユダヤ人中心主義と日本人中心主義を解体するには、徹底した歴史認識から出発するほかない。イラン・パぺから私たちが学ぶべき教訓はここにある。」と、この著書を結んでいる。

書評 ユダヤとイスラエルのあいだ 早尾貴紀著

 

この本を「再読」した。本箱の中で眠っていた本で、2008年の初版なのでその頃読んだ

らしい。アーレントの「世界喪失こそ、ユダヤ民族が離散において被ったものです。(中

略)あらゆる社会的な結びつきの外に立っているというこのこと、一切の先入観から離れて

いるというこのことはとても美しいものだったのです。」という言説等を書き抜いていた

が、かすかな記憶しかないので読み直し、この著作が現在でも時代遅れになっていないので

驚いた。何より評価できることは、アーレントの言説を極めて客観的に分析し批判的に捉え

ていることだ。アーレントはアイヒマン論争の際、「ユダヤ人への愛」など感じたことはな

い、私がユダヤ人であるからこそ「ユダヤ人への愛」は疑わしいものに見える等と宣言した

ことは有名で、出自に客観的だと一般には評価されているが、私はマルクスやフロイトに比

べればユダヤ人であることから自由だとは言えないと思っていた。この著者は、アーレント

が同化主義者もシオニストも反ユダヤ主義と闘うことをやらずにすませたと批判している

が、反ユダヤ主義を批判するなら、ヨーロッパなどでその活動はなされるべきだとして、パ

レスチナへの移民運動を支援した彼女はシオニストであると言わざるをえないと述べてい

る。

それから、最初に述べたアーレントの「世界喪失」や「離散」等の言説に似た、ボヤーリン

兄弟がユダヤ教文化の神髄は「ディアスポラ」にあり、国家なき離散状態で育んできた思想

文化にあるという言説、バーリンが、ユダヤ人が察知されないうちに、ものごとの傾向性を

見抜く等の能力、洞察力、未来までも分析する眼力を、自らが置かれてきた状況のために獲

得せざるをえなかったという歴史的特性を持っているという言説などが紹介されている。

れらの本来のユダヤ性はシオニズムとは異なるという言説だ。しかし、これらは、人間性は

属する国家がない状態で目覚めるという普遍性ではなく、ユダヤ人ならではの能力、という

かたちで語られており、ユダヤ人はやはり他の民族や人種とは異なる民族だという思想、選

民という意識から生じたものであろう。この「ディアスポラ」については、サイードが、ユ

ダヤ人の特徴としてのみ見る必要はない。」と語ったことや、「ディアスポラ」自体、近代

シオニズム思想においてギリシャ語から翻訳されたという説が紹介されているが、著者自身

がこのことをどう捉えているのかを述べて欲しかった。

このほか、フロイトがモーセはエジプト人だったという仮説でユダヤ性を分析しようとした

こと、ガンジーがパレスチナは地理的な領域ではなく、ユダヤ人の心の中にあると語ったこ

とや、サイードがユダヤ性は差異のイデオロギーだと批判したことの紹介、さらにハマスの

姿勢の説明などもあり、2008年当時の著書だが、最近のパレスチナ問題を考えるうえで

充分参考になる。

ユダヤ人が「選民」の呪縛から自由になれば反ユダヤ主義はなくなる ~パレスチナ問題の根本的解決のためになされなければならないこと

 ハマスのミサイル攻撃や人質拘束への報復として行われているイスラエルのガザ侵攻は常軌を逸している。ユダヤロビーに操られているアメリカやホロコーストへの罪責意識に囚われているドイツなどがイスラエル支持をやめられないのをいいことに、イスラエルは報復どころか、金輪際パレスチナからの攻撃がなされないようにするための仕上げを着々と進めている。

この非情さ、苛烈さに世界中から非難の声が上がっていることに対し、イスラエル等のユダヤ人から「反ユダヤ主義」という非難が返されている。こんなことをする国はナチのホロコーストを非難することはできないはずなのに、ホロコーストにつながった「反ユダヤ主義」を、いまだにタブーとして利用し反論する態度は陳腐になりつつあり、そのタブー意識はヨーロッパにおいても、若い世代ほど持ち合わせていないので、このままでは、かつてとは異なった形での「反ユダヤ主義」が起こることになりそうだ。

そもそもパレスチナの問題は、1948年のイスラエル建国に至るシオニズムから始まっている。ガンジーは「聖書の概念でのパレスチナは地理的な領域ではまったくありません。パレスチナはユダヤ人の心に中にあるのです。」とある書簡で語っているが、何千年も前に無くなった国の民が、現実にそこに住んでいる人々を排除して、その民族の国家を再興しようとし、それを支援する国家が存在したということは二十世紀の最大級の汚点だろう。

このような国は全世界から制裁されるべきではないのか。また上記のような支援国家も制裁されるべきではないのか。アメリカやドイツの支援をやめさせるために、両国との経済関係を完全に断つことは困難でも、一部の関係を断つことは検討されるべきではないのだろうか。しかし、そのような動きは全く見られない。

この状況を憂いたイスラエル内外のユダヤ人から、現在のイスラエルを産んだシオニズムは、ユダヤ教に反しているというような言説が述べられている。ユダヤ教は暴力を嫌っており、シオニズムは間違っているというわけだが、この論理だけでは、ユダヤ人すべてが政府の政策を支持しているわけではないという言い訳にしかならず、シオニズムが起こる前の、ヨーロッパの伝統的なユダヤ人迫害や差別などの反ユダヤ主義が起きた理由については問題外になってしまう。そこで、ここでは、これまでの「反ユダヤ主義」等を産んだ、ユダヤ人の「選民意識」について考えてみよう。

始めに断っておくが、ここではユダヤ人と言われるすべての人について述べているわけではない。私は人間を属性で判断することは間違いだと思っている。人間はそれぞれ個性を持って生きている。だから複数の人に属性をこじつけ、その属性で個々の人の判断をすることは間違いである。現に、後で述べるように、ユダヤ的でないユダヤ人が少なくないことを知っている。ここで「ユダヤ人」としているのは、自らユダヤ人という集団意識を持ちながら生きてきた(生きている)ユダヤ人のことであり、いわば、人間ではなく「ユダヤ人」という概念について述べているわけだ。

さて、そもそも何千年前に流浪の民となっても連帯感を持ち続け、行き着いた地域の人々になじまず、ユダヤ教信者でなくても「ユダヤ人」としてのアイデンティティを保とうとすれば、その地域の人々からうさん臭く感じられそうだということを理解せず、その相手を悪者にし、自分たちは善良な被害者、受難者という立場になり、マゾヒスティックに選民意識を抱いているから反ユダヤ主義が生まれるのではないだろうか。こんなことを述べると、私が「反ユダヤ主義者」、差別者などと非難されそうだが、このことはタブーにされているだけで、そのような状況では、そのように感じる人がほとんどではないだろうか。

私はそれが当然だとは言わない。自分たちとは異なる慣習を守る人やその集団を、単になじめないからと、うさん臭い目で見ることは愚かなことだ。しかし、だからといってその相手を単に悪者とすることも愚かなのではないだろうか。不当な行為を受けたと感じた時、なぜそのような行為をするのかを相手に尋ねれば、自らの行為の相手にとっての受け止め方を理解することができるだろうし、自分の行為の説明をすればわかり合うことも可能なはずだ。そのような基本的なコミュニケーションを阻むのが選民意識ではないのだろうか。人間は弱く、人見知りになりがちで、上記のような現象が起こりがちであるということをお互いに認め合えばいいのに、「選民意識」が強いと、自分たちこそ正当だと思い込むから差別や紛争になったりする。

シオニズムを批判している著名なユダヤ人たちの中に、「ディアスポラこそユダヤ人の特性」という類の言説を述べる人たちがいる。このようなユダヤ人も、ユダヤ人がディアスポラを経験して普遍的な思想を生み出す能力を身に着けられたことを、「ユダヤ人ならでは」、とその経過を特権化している。それも選民意識であり選民的意識から脱していない。

ディアスポラがもたらしたものについては、パレスチナ人思想家のエドワード・サイードが、「ユダヤ人だけの特徴だと言う必要はない」、「膨大な人口、避難民、亡命者、国籍離脱者と移民が氾濫するこの時代において、自分の共同体の内と外の両側に同時に生きる人びとの、ディアスポラな放浪と未決のコスモポリタンな意識にもまた、そうしたことが探し出せるはず」と述べているように、ユダヤ人のディアスポラも歴史の中で生じた現象に過ぎない。

そもそも、人類に「選ばれた民」など存在しない。「選民」という観念は、厳めしそうだが、その起こりは極めて幼稚な妄想なのではないだろうか。「選民」とは、「実存」の感覚を自分の殻に閉じ込め、自分は特別な存在(人間)であるかのように思う自己幻想が、伝統、慣習、宗教等が同じ民族に広がった原始的な共同幻想なのではないだろうか。

優性思想や選民的意識はアングロサクソン系アメリカ人、中華思想の漢民族、ナチスドイツのアーリア系民族など各地にみられ、日本にも太平洋戦争以前には神国思想などが興隆した。しかしユダヤ人以外の民族は、その民族に勢いがあるときに限られている。そして、ユダヤ人以外の民族は、出身国から離れると自己の民族性を徐々に失っていくが、アメリカにおけるユダヤ(イスラエル)・ロビーの活動は活発で、ガザ侵攻問題の解決を困難にしているばかりか、アメリカが軍事支援をやめないように圧力をかけ、ヨーロッパにおいても様々な自民族援助が行われているように、ユダヤ人の選民意識による結束力は特別だ。ユダヤ人がこのような意識から脱することは不可能に見えてしまう。

しかし、ユダヤ人のなかには、選民意識やユダヤ性を感じさせないマルクス、フロイトなど、いまだに世界中に強い影響力を持っている人物がいることは有名で、先に述べたような普遍的な思想を生み出す能力を身に着けられた例とされている。フロイトは自らのユダヤ性を認めているが、それに縛られた言説は自制されていると言えるだろう。

私は、私自身も影響を受けた、このような人物がユダヤ人から輩出されたことを、かねてから不思議に思っていた。ユダヤ人が特別、優秀な民族だからだという答えは「ユダヤ人選民論」に逆戻りになる。それを排除して考えると、このような結論になる。

ユダヤ人の選民意識は特別根強いから、これを客観化し、脱するという困難を克服するためには、人間という存在の意味を特別深く考え理解しなければならなかった。そのために彼らは、民族等の属性などを始めとするあらゆる既成概念を相対化しなければならなかった。それを実践した彼らは民族等を超えた思想や理論を獲得することができ、その思想や理論は広く普及し、現代に至っている。

このように言うと、「そのような特別な人しかユダヤ性を克服できないのではないか」と思われがちだが、そんなことはない。彼らはそういうことができるという範を示してくれたのだから、それに倣えばいいのだ。先駆者としてそれを実践することは大変なことだが、後の人はそれをはじめから経験する必要はなく、いわば模倣すればいいのだから誰にでもできる。要するに「選民」という意識は思い込みに過ぎないということが理解されればいいのだ。

ヨーロッパにおいて、ユダヤ人以外の社会に同化したユダヤ人は多いようだ。ユダヤ人性に客観的と言われていても、そこから逃れられていないアーレントは、同化主義者をシオニストと同様に、「反ユダヤ主義の教義に逃れた」と批判したようだが、必ずしもそのような消極的動機ではなく、ユダヤ人という出自にこだわらず、素直な気持ちで同化した人は少なくないのではないだろうか。むしろそのような同化こそ進むべきだったのではないだろうか。

民族、人種、国籍、性別等の違いなど、生まれながらの属性は、たまたま備わってしまったのであり、それに意味はない。属性を恥じたり、誇ったりするのは愚かな心理でしかない。この理解が広がり、みな等しく「人間」であり、そのことに比べたら属性は些細な事だということが認められなければならない。

「自民族性から自由に」、ということは人類共通の課題だが、「選民」という観念に縛りつかれているために現在最も苦しんでいるユダヤ人が、まず取り組む必要があるのではないだろうか。ユダヤ人が自身のために「選民」の呪縛から自由になれば「反ユダヤ主義」はなくなるだろう。ユダヤ人が真っ先に選民意識や民族性から脱し、他の民族にそれが広がれば、人類は国家という共同幻想からも脱し、世界の分断がなくなる未来が開けるだろう。


信彦自戒録 8 自分の非を認めたくない気持ちに囚われて悩んでいると思ったら

タイトルに、「自分の非を認めたくない気持ちに囚われて悩んでいると思ったら」、と書いたが、実はそこに至るまでが大変で、そこに至れば悩みは半分解決反省している。自分が「まずい」と思うようなことをしたとき、反射的にする行為は、「そんなことはしていない」と思うようにすることだろう。そうすることが難しいとしたら、「なかったことにすればいい」、「自分が忘れればいい」という心理操作をするようになる。

しかし、「まずい」と思った行為が重い行為であればあるほど、自分の良心は忘れてくれないので悩んでしまうことになる。

自分自身のことで悩んでいるとき、そのようなジレンマに陥っていないかどうかを素直に見つめることができれば解決の道が開ける。そうすれば、「まずかった」と思う理由が見つかり、それを反省する気持ちになれる。反省し、そのようなことをしないようにしようと決意すれば、ジレンマから解放される。

その際、障害となるのが、自分が非違行為をする人間だと決めつけられてしまうことを避けたいという気持ちだ。このような気持ちは成長すればするほど強くなるが、これは人間認識の基本的な間違いである。人間は正しい人間と間違った人間に分けられるなどということはない。人間という存在は弱い存在で、誰しも間違ったことをする可能性はあり、尊敬されているような人物でも、そのようなことを絶対にしないように自分をコントロールすることは困難なのだ。個々の人間に当否があるのではなく、個々の行為に当否があるのだ。他者に悪い人間と決めつけられることを恐れるのは、そのような認識がなく、自分自身が非違行為をした人を軽蔑してもいい人と決めつけているから、その反対にそう思われたくないのだ。そういう自分の考え方から離れればいいのだ。

このことを理解していれば素直に反省でき、悩みから解放され、こんなことなら逃げずに早く自分の非を認めればよかったと思うようになる。 

要は子供のときのように、悪いことをしたと思ったら、素直に反省し、必要なら謝ればいいわけだが、謝る頻度が減るほど成長しているような気になってしまい、自分の非を認められなくなっている大人は多い。素直になることは大人になるほど難しくなる。


信彦自戒録7 自己嫌悪とは?

 

岸田秀は『ものぐさ精神分析』において、「「自己嫌悪とは、つまり、「架空の自分」が「現実の自分」を嫌悪している状態である。」、「自己嫌悪は、その社会的承認と自尊心が「架空の自分」にもとづいている者にのみ起こる現象である。」と述べている。

私は、自己嫌悪とは、自分が行った嫌悪する行為を客観化できない結果、そのような行為を繰り返してしまい悩んでいる人が、その自分を嫌うことにより、本当の自分(これが岸田の言う「架空の自分」か)は、その自分とは違っていると思おうとする心理だと思っている。

これは自己嫌悪に限らない心理で、肉親や他人を嫌悪する場合にも言えることだ。近親憎悪はその典型だ。自分と似ていると感じることを否定するために「嫌う」のだ。嫌悪することにより、その他者と自分は違うと思おうとするのだ。自己嫌悪する人は似ている他者をも「嫌う」。

岸田の言は、そのような心理に陥る人が「架空の自分」にもとづいているということなのだろうか?

出自を知る権利は必須か?

 


  

  最近、第三者から精子提供された人工授精が非公表で行われていたことをめぐる報道があり、これに関して、識者から、「出自を知る権利」が守られるべきだという論調ばかりが述べられているが、果たして、出自を知っていることに、どんな意味があるのだろうか。

  出自を知っている人間にそんなことを言う権利はないと言われそうだが、それでは、それを絶対に知ることができない子は本当に可哀そうな子なのだろうか。不幸を背負って一生を過ごさなければならないのだろうか。そんなことはないはずだし、そうであってはならないのではないだろうか。もし、そうであれば、自分の子ではないという親の告白はその子を不幸にすることであり、その告白は許されないことになる。匿名出産も許されないことになり、子殺しや母子心中にさえ波及する。

出自を知らなくても、この世に生まれた同じ人間という意味では何の引け目を感じる必要はないはずだ。出自を知らないために苦しんでいる人にはそう言ってやればいいのではないだろうか。そもそも、出自とは、これまでの社会が、子を産んだ男女が家族を形成し養育することを標準としてきたために、たまたま明らかだった事実に過ぎないのではないだろうか。出自が明らなことが尊いということも神話に過ぎないのではないだろうか。

信彦自戒録6

 とっさに出た行為こそ自分だ

 不意にしてしまった行為に、「あれは本心ではない」とか「ついやってしまったことで自分らしくない行為だった」などと言い訳をすることがよく見られる。

 政治家の失言報道などでよく見聞きする現象だ。この場合は「つい報道されることに不注意に本音を言ってしまった」という失敗を反省しているだけで、その行為について反省をしていないことがほとんどだ。

 それとは別に、上記のようなことをしてしまう自己を本気で反省している場合もあるかもしれない。しかし反省していてもその行為をしないとは限らない。その行為を悔いているのだから、もうしないはずだと思っても、その行為をした時の自分の心理的な癖を冷静に振り返ることから逃げていると、いくら悔いていても繰り返すことになる。その行為を反射的にしてしまう癖が自分にあるのだということを受け入れ、そのうえでどういう行為をとるべきだったのかを具体的にきちんと考え、その実践を繰り返すことにこそ、自分を変える糸口がある。

このブログを始めた理由

 私がこのブログを始めたのは、この世界があまりにも理不尽な状況になりつつあると感じたからです。

 私は、人間は他者を自己と同じ存在であると感じられるからこそ人間なのだと思っています。人間が動物と異なるといえるのは、そのことにこそあるのだと思います。

 言葉を持ち、知能を持ち、自然をコントロールするだけだったら「高等な生物」であるにすぎません。現在の人間世界はこのようなものでしかありません。

 利己的でないと生きにくく、殺人、窃盗などの行為こそ近代国家内では規制されているものの、国家間はいまだに無法状態に近いのではないでしょうか。国連などの国際組織は大国の妥協の産物でしかないため、大国間の利害が一致しないと機能しません。諸国民がナショナリズムに無自覚である現状は目を覆いたくなります。

 スポーツ、芸術、文学、学問という人間が生み出した人間らしい分野もでさえ、ナショナリズム、商業主義、名誉欲、偽善が幅を利かせ、文化、文明は魅力を失ってきています。

 地球環境の危機がせまり、 AIはより資本に寄与するようになり、労働者は働く場を失い貧富の差がさらに広がることは目に見えています。

 地球上の全生物まで巻き込んだ危機が迫っているのに、「これではいけない」という声が常にかき消されてしまう現在の世界には絶望しそうになります。人間は「ソドムとゴモラ」で語られたような懲らしめを受けないと反省をしないのだと思いたくなりますが、その時ではもう遅いのかもしれません。

 わたしはそのようなことになる前に、少しでも早く人間がこのような状況を反省し、本当に人間らしい世界を創る方向に向かうことを願ってこのブログをはじめました。

 まず、最初に述べた、「人間は他者を自己と同じ存在であると感じられるからこそ人間なのだ」ということを確認することから始めたいと思っています。

 多くの人は、映画、小説などで人間の心のつながりに涙したり、感動したりすることでしょう。人間には他者と喜びや悲しみを共感すること、困っている他人を思いやることができます。そのことは日本でも「情けは人のためならず」、「人のふり見て我がふりなおせ」、「明日は我が身」、「他人事ではない」等と昔から格言として言い伝えられていました。このような格言は、他者も同じ人間だという認識があるから生まれた言葉だと思います。

 しかし、現実には上記のような格言やモラルを守っているようなふりをしながら、他者を利用して得をしようとする人が蔓延っていて、そうされまいという警戒をしていないと、だまされたり、損害を被ったりしてしまいます。そのような場合、それが違法行為でない限りはどうにもなりません。さらに騙された人たちは「お人好し」と馬鹿にされるような社会に私たちは生きています。美しい物語に感動しても、ほとんどの人は、あれは「創作だから」として、一時の感傷を味わえればそれで満足し、また現実の生活に戻ってしまいます。差別的な言動をする人を描いたドラマを見て、その登場人物を非難しても、自分が当事者になると登場人物と同じことをする人がほとんどかもしれません。

 ここでモラルの向上を訴えることは、この社会のゆがんだ構造等を隠蔽することになりかねません。そして、モラルを守らない、大切にしない人を非難しても不毛な結果しか期待できません。

 なぜこうなるのでしょう。なぜ、人間として生きるということが、他者と自分を同じように扱うことだということを認識できないのでしょう。これでは人間世界は人間らしい世界にはなりません。

 主な原因は、多くの人が競争社会を受け入れざるを得ず、貧乏くじを引かないように損得にこだわり、人よりいい生活を得ることにばかり心を奪われ、成功者はその立場が失われることを恐れ、負け組になりつつある人たちは成功者に憧れることにより現実から逃れようと、ほとんどの人がかなえられない幻想にしがみついています。

 そして、そのどちらの立場の親たちも、自分の子どもを成功者にするため、当然のように学業の成績競争を強いています。何の疑問もなくそれを受け入れた子供たちは、挫折しなければ、自分たちもそのような大人、親になることは必然です。ですから、これは永続する風潮になることでしょう。

 競争が生活に直結するような社会はこのような社会になってしまうのです。この社会構造が変わっても、上記のようなエゴや猜疑心が消えるわけではありませんが、そのような人間の弱さをむき出しにさせるのが競争社会なのだと思います。ですから、社会構造を分析しながら、現在の私たちの現実生活上の心理や行動を振り返って客観化し、人間という存在を皆さんと共に考えていきたいと思っています。

 疑問に感じる記述の指摘、反論等をお寄せください。気軽に互いに認識を高め合う議論をしましょう。

 


ロシアのウクライナ侵略問題 7

 私はこのブログにおいて、最初からこの戦争は即時停戦するべきと述べてきた。

しかし、ゼレンスキー大統領は兵士や国民の命よりもウクライナという国のナショナリズムを重んじ、欧米よりの国家像を盾に、欧米や日本の国会に、自国を援助することこそ正義であるように働きかけてきた。

米国を代表とするそれらの国は、ゼレンスキー大統領の主張に乗せられ、代理戦争をやらせ続けた。しかし、私が当初から予測した通り、いくら支援してもウクライナが目指す勝利には程遠い戦局が続いていた。

今日(2024年1月29日)、やっと米国はこれまでのウクライナの領土を奪還することは困難であるという認識を表明し、新たな侵攻を抑止する支援する方針に変更することにしたという報道がされている。

これをウクライナが受け入れるだろうか。これまでのゼレンスキー大統領の言動からはかなり困難が予想できる。戦局が不利であることを認めさせることさえ難しそうだ。

そもそも、起きてしまった戦争を停戦させるには、戦力が拮抗している状況下でなければ当事国間で妥協することは難しい。当事国間の戦力、国力等について冷静に分析し、友好国が長期的には不利である場合は、早期に停戦させるようにするべきなのだ。

不利な状況になってから停戦をしようとした場合、有利な側に足元を見られ、屈辱的な協定にならざるを得ないことは明らかだ。だから、ここまで来てからこのような方針転換をしようとする米国政府の態度はお粗末というしかない。大統領選挙対策も絡んでいるような見方もあり、情けなくなってくる。そして、そんなアメリカに追随しているばかりの日本はもっと情けない。

いずれにしても、この戦争の結末はウクライナという国にとって無残なことになりそうだが、人命がなにより大事なので、ゼレンスキー大統領を失脚させることになったとしても、停戦になることを祈るばかりだ。