書評 隠された奴隷制 著/植村邦彦

 

 奴隷制というと、まずアメリカ合衆国のかつての黒人奴隷制が思い浮かぶが、現代の賃金労働者も奴隷であるという論旨の著書だ。しかもこのような言説は、ルソーやマルクスも唱えていて、決して最近生まれたものではないということが、述べられている。ただ、ルソーの場合は、政治的隷属に主眼があったそうだが・・・

 そして、このアメリカでの奴隷制がイギリス(イングランド)の産業革命の資本蓄積を生み、アメリカでの黒人奴隷制度がなければヨーロッパにおける資本主義は生まれなかった、という言説が、マルクスなどを引用しながら述べられている。浅学のため、この関連については全く考慮外だった。

 論旨に戻ると、賃金労働者は制度的には自由に職業を選択し、生活の糧を得ているように思えるが、経営者に操られ、職を失わないために隷属せざるを得ないので、やはり奴隷なのだということだ。

 アダム・スミスやヘーゲルは自由な賃金労働者を賛美しただけだったが、ジョン・フランシス・ブレイやマルクスがこれを批判したことが述べられた後、20世紀後半に起きた社会主義国の自壊による冷戦の終結後に盛んになった「新自由主義的反革命」により、特に日本で、「個人の自助努力」、「自己責任」、「自己啓発」などといった「強制された自発性」により労働者の奴隷化が進み、その結果が「過労死」の激増となったという。

 私は、過労自殺のニュースに触れるたびに、なぜその人はその職場をから離脱するのでなく、自殺に至ったのかという疑問が頭から離れなかったが、納得のいく論旨だった。なるほど、彼ら、彼女らは、自分の能力が足りないせいと思い込まされていたから、不当な労働時間を拒否できなかったのだ。

最近、人間が家畜化していくという危機が少なからず叫ばれているが、これは上記のような「隠された奴隷制」による結果であるように思えてくる。

 著者は、このような状況下の賃金労働者に、熊沢誠の表現を借り、「「会社のため」ではなく、「自分の生活のため」に働くのだという確固とした意志」を持ち、定時に帰るために上司の指示を断る行動を呼びかけている。そして、「「自己責任」という呪文」の正体を見抜くべきことを呼びかけている。

書評 イスラエル=アメリカの新植民地主義 著/ハミッド・ダバシ 訳/早尾貴紀

 

この著者は、「イランのサイード」と称されている在米イラン人の中東・イスラーム研究者で批評家でもあるとのこと。訳者によれば、本書はロンドン拠点の中東ニュースサイト「ミドルイースト・アイ」に連載している記事の、2023年10月7日のガザ一斉蜂起の後に発表したものの集成版だそうだ。

 「新植民地主義」とは耳慣れない言葉だが、植民地にされた国等の現地人が奴隷のように働かされる旧来の典型的な「植民地」に対して、「入植者植民地」と著者が呼んでいる、植民地にした国の国民等が先住民を排除して自ら入植する植民地のことを意味しているようだ。

そして、著者はイスラエルという国自体が「入植者植民地」であるとしている。訳者・早尾の解説にはアメリカ合衆国、南アフリカ共和国、アルゼンチン日本の北海道などもその例だとしているが、その意味ではアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、かつて日本が中国を侵略してつくった満州なども「入植者植民地」だといえそうだが、著者はイスラエルと、イスラエルと一体のようになっているアメリカを名指しして批判の的にしている。

連載記事であるため、ガザ一斉蜂起以来の出来事について詳細に述べている一方で、著者は、イスラエルの大統領が、「この戦争はイスラエルとハマースの間の戦争だけではない。この戦争は、真に、本当に、西洋文明を救うための、西洋文明の価値観を守るための戦争なのだ」と述べていたことを取り上げ、「大統領は全く正しい。・・・この作戦は現在大量虐殺として広く認識されているこれはまさに、最も野蛮な「西洋文明」の表れである」という根本的な批判をしている。

この著者は冒頭に「日本の読者へ」として、長崎市長が2024年の平和祈念式典にイスラエルの代表を招待しなかったことに抗議して米英をはじめにG7各国が参加しなかったことを取り上げていて、ここに欧米がイスラエルに寄り添った姿勢であることが明確に表れている。確かに、このような惨劇を止めようとするどころか、アメリカが莫大な援助を惜しまないことや、イスラエルの報復行為を支持してきたヨーロッパ諸国の対応をみれば、世界中に植民地主義を広めた西欧文明の「野蛮さ」に改めて気づかされる。(これは敗戦までの日本にも伝染したことを忘れてはならない。)

そして、「今や全世界が「西洋文明」の野蛮さに直面させられている。それは政治的な側面においてだけでない。私たちは西洋の神学や哲学のDNAに組み込まれた不道徳と残虐さの腐った根を暴き出さなければならない。」と主張している。これに関連しては、別に「ヘーゲルの人種差別的哲学がヨーロッパのシオニズムに与えた影響」という言説が掲載されている。早尾も、訳者あとがきにおいて、「カントやヘーゲルの名前で知られるヨーロッパ近代の「理性」の哲学は、「普遍」を装いながら、実のところ、理性をヨーロッパ人に特権的なものとみなし、ヨーロッパの非ヨーロッパに対する優越を前提にし、かつその優越意識を強化・正当化するものであった。」とし、現代まで継承されていると述べている。

さらに、著者は、「シオニズムはユダヤ教よりもはるかにキリスト教による植民地プロジェクト」である、キリスト教は入植者植民主義的であるとも述べている。確かに、宣教師が植民に果たした役割を考えればうなずける言説だと思う。もちろん、アメリカ国民の4分の1とも3分の1ともいわれているキリスト教福音派についても触れられている。

この著書全般に、イスラエルの批判は勿論だが、アメリカへの批判も激しく述べられていて、それはトランプ、共和党ばかりでなく、バイデン、ハリス、H・クリントン、オバマなどの民主党にも及んでいて、アメリカの中東に対する政策は党を問わないとしている。

イスラエルによるガザ地区の虐殺行為があまりにも執拗なため、フランスなどのヨーロッパ諸国やイスラエル建国の張本人であるイギリスまでもがこの秋に相次いでパレスチナを国家として承認しても、アメリカは姿勢を改めようとしない。いや、アメリカは改められないのだということがこの著書で納得がいく。

「台湾有事は日本の存立危機」とは米国の策略(2025年11月30日)

 11月26日の信濃毎日新聞の「今日の視覚」で内田樹は「台湾有事は戦争か内戦か」と題して、台湾有事は少なからぬ米国人にとっては南北戦争のような内戦であると述べている。

しかし、高市首相は台湾有事が中国との戦争であるかのように捉え、それに日本が巻き込まれる事態になるかのような発言をした。これに中国が怒るのは当然ではないか。様々な中国の報復措置の是非はともかく、日中共同声明で台湾を中国の領土だと認めながら、台湾を武力統一することが内戦ではないとし、日本が無関係どころかそれ自体が日本の危機だというのは二枚舌である。

なぜ高市首相はこんな発言をしたのだろうか。それは中国の勢力が自国を凌駕しつつある状況に危機意識を高めた米国は、単独で中国に軍事的に対抗するのが困難になってきたので、日本にそれを補完させるためにかねてからずっと、上記ように認識するようにさせてきたからだ。それに従うこと自体情けないことだが、それでもそれは表立って言ってはならないことだったのだ。強いふりをすることにばかり気を取られている愚かな人間が日本政府を代表するようになったこと自体が「存立危機事態」ではないだろうか。少なからぬ米国人が台湾有事を内戦のように捉えているにもかかわらず、米国のこのように卑劣な策略をする国である。そもそも、台湾が第2次大戦後80年も統一されないのは米国が手厚い援助をしているからだ。

そもそも、戦前から、中国に利権を持とうとした米国が、蒋介石の国民党を援助し、日本に抵抗させてきたが、日本の敗戦後、国民党軍が共産党軍に敗れ、台湾に敗走して樹立したのが台湾政府であり、米国はソ連との冷戦のためにこの状態を維持しようとしてきた。冷戦終結後はこの必要性がなくなったが、中国対策として、台湾が米国にとって有益な存在であることに変わりはない。だから米国は日本を利用してこの状況を維持しようしている。自民党政府が進めた集団的自衛権の容認、安保法制改定、軍事費割合の増などはそれを唯々諾々と受け入れた政策だ。

このように自国中心的な米国は、台湾有事になってもおそらく手を出さないだろう。台湾はかなり抵抗するだろうが中国は勝利するだろう。

万が一、米国が軍事的に干渉する事態になったときのことを考えると、確かに日本に存立危機事態になる可能性はある。なぜなら、米国の攻撃拠点は沖縄をはじめとする軍事基地であり、中国はそれらの基地を真っ先に攻撃するはずだからだ。

米国が手を出さないのに、米国にそそのかされた日本が台湾有事に巻き込まれる事態になることが最悪のケースだ。そうなっても、米国は日米安保条約を守ろうとせず、日本を救おうとはしないだろう。

台湾の人々には気の毒だが、日本に台湾独立を守る大義はない。そそのかされて台湾有事にかかわってしまうことが「存立危機事態」を招くのだ。米国の自国中心主義的策略を見抜き、米国依存から脱することが日本の安全を確保する現実的な道に他ならない。



書評 たまたま、この世界に生まれて 半世紀後の『アメリカ哲学』講義 著/鶴見俊輔

 鶴見俊輔は、60年安保やベトナム反戦運動などを主導した戦後知識人として有名な哲学者だ。まちライブラリーで見つけたこの著書の、メインタイトル、サブタイトルに興味を惹かれて読んでみた。

この著者は、1950年に『アメリカの哲学』という著書を発行していて、2007年に発行された今回の著書は、1950年当時からのアメリカ哲学つまりプラグマティズムについて開かれた4回の講義、というより7人の受講者との談話会を記録したものなので、このサブタイトルとなったようだ。

私はプラグマティズムにかねてから疑問を持っており、その批判論を読んでみたかったが、その意味では期待を裏切られた著書だった。

しかし、鶴見の境遇、人間性、彼が交流してきた知識人たちの言説などが率直に語られていて、その意味では収穫があった著書だった。

母方の祖父は明治・大正時代の政治家・後藤新平で父も政治家という家族の中で育った鶴見は多感な少年だったのだろう、中学校を2回退学するという、自称「不良少年」だったとのこと。しかしその後、日本の共通一次テストのようなUSA(鶴見はアメリカという国名は曖昧だからということでUSAとしている)の試験に合格してハーヴァード大学に入学という驚くべき経歴を記すことになる。同大学では「点取り虫」で「一番病」にかかっていたという。さらにその後は、1941年の日米開戦により捕虜収容所に入れられながら大学を卒業し、日米交換船での帰国たとのことだ。その後の文筆活動については割愛するが、結婚後、鬱病に苦しんだ時期もあったとのこと。

さて、鶴見のプラグマティズムの定義はという講義参加者の質問に鶴見は、「今の主張を実験として確かめてみたらという実験計画が、言葉の意味だ」、「概念というのは自分が考えている実験計画なんだ。」とし、「プラグマティズムは言葉の意味を行動に形にしてとらえる方法」、「(プラグマティズムは)特殊と普遍を切り離さないっていうやり方・・・カントにはない」等と述べているが、いずれも断片的で総体的なプラグマティズム解説にはなっていない。

一方、プラグマティズムの弱点について、「プラグマティックな思想を受け入れる人は妥協しやすい。・・・逆風が吹いているときプラグマティズムの側は、それに対する抵抗を貫くことが相当に難しい。」と述べているが、その理由は説明していない。別の個所で「プラグマティズムは、哲学として特別に強い一本の心が通った思想じゃないんですよ。」と述べているが、それがその理由に当たるのかもしれない。

プラグマティズムの日本への影響にも触れていて、(西田幾多郎は)「座禅を組んでは、ウィリアム・ジェイムズの著作を読んだ。こうして彼はジェイムズの『根本的経験論』に触れ」たが、これは認識論なのだが、西田は「価値で色づけられた概念として読ん」で、それが純粋経験として西田に理解された、というエピソードには興味を惹かれた。その解釈はともかく、京都学派の「近代の超克」論議も、プラグマティズムと同様、近代西欧哲学批判という潮流から生まれたのであろうという認識を確かめた。

プラグマティズムとは離れて、「キリスト教会は本体論的な証明があって、神は完全だから、存在を含んでいるって言うんです。・・・それは日本の国体論と違うとは言えないでしょう。案外、日本の国体概念も岩倉ミッション(岩倉遣外使節)がヨーロッパに行って、そこから密輸してきたのかもしれない。キリスト教国家の特性を日本で採用したから、ああいう形になった。」、と述べている。あくまで推論なのだろうが鋭い発想をする鶴見に感心した。

書評 誰が世界を支配しているのか? 著 ノーム・チョムスキー 訳 大地 舜・榊原美奈子

 この本は、2018年に刊行された単行本の文庫版で、原著作は2016年。2017年版に向けたあとがきがある。いずれにしても8年以上経過しているが、「2025年の世界になっても基本がまったく変わっていない。ノーム・チョムスキーの慧眼は、2025年の世界を見通していたことがわかる。」という訳者あとがきに、同感だ。

 現在進行中の、ロシアのウクライナ侵攻の原因となった経緯が述べられ、「まやかしの」オスロ合意を起因としてガザでの残虐な行為が頻発していたこと、「EIプロジェクト」などヨルダン川西岸地区の今後問題になることなどを指摘している。また2017年はトランプ米大統領の1期目にあったので、トランプ現象やヨーロッパの右傾化にも触れている。

 さらに、この本には、主に米国が第2次世界大戦後に行った数々の戦争、侵略、世界各地で民主的に成立した政府を転覆するなどの陰謀について丹念に述べられていて、歴史書としても貴重な著作だと思う。

 この中で、公開された米国政府の機密情報を追って、公表された偽善的なスローガンと全く異なる政府要人の本音を暴露している。著者は米国の衰退が「第二次世界大戦の終わりから始まっている。」と述べているが、それにもかかわらず、米国はその現実を認めることができず、「世界を支配」しているという幻想が保たれるように体面を繕い続けてきたことを解説していて、その幻想が、現在さすがに怪しくなってきたため、トランプが米国を再び「偉大な国」にすると叫んでいることにつながることがよくわかる。

著者の透徹した観察は、米国の良心を象徴するようなケネディやオバマの裏面にも触れ、米国の悪徳さは指導者の個性ではなく、米国全体の問題であることを明確にしている。

それでは、「世界を支配している」のは米国だという主張かと思いそうになったが、著者はアダム・スミスの、「新らしい時代の精神:富を得よ。己以外のことは忘れろ」という言が「支配者たちの邪悪な処世訓」で、現代の支配者は「多国籍企業や巨大な金融機関、超巨大小売業者などだ。」としていて、国家、政府ではないという。このため米国では二大政党のどちらも企業や超富裕層の資本家の意向に左右されているため、国民の不満が充満するようになったと分析している。著者はマルクスのように資本主義を明確に批判していないが、マルクスと同様な認識なのだと思う。

最後に、著者は、「一つだけ(非常に残念な)実例」といいながら、米国民の地球温暖化に対する意識が高まらない理由は、「イエス・キリストの再臨を信じる人が多いからだ。米国人の約四〇パーセントが、イエスは二〇五〇年までに地上に戻ってくると信じている。だから今後数十年間に深刻な気候災害の脅威があっても、それは問題とは思わないのだ。」と述べている。この言説は浅学なため初耳だが、ありうる話だと思う。キリスト教福音派の信者がキリストの二〇五〇年再臨について信じていることは確かなようだ。

米国のガザ和平提案に隠されている「グレイ・トラスト計画」  プーチン・ロシアより悪辣なトランプ・アメリカを許すな!(2025年10月2日)

 アメリカが、パレスチナのガザ地区に関する「グレイト・トラスト計画」を構想していることは、あまり報道されていないが、驚くべき計画だ。これは、ワシントンポスト紙がリークしたもので、その主な内容は、イスラエルにガザ地区からパレスチナ人を追い出させ、アメリカがガザ地区を10年間管理下に置き、リゾート開発や工場をアメリカの企業の工場を造るという、いかにも資本主義的な考え方を優先するアメリカの計画だ。その計画名は出さないが、トランプ大統領がガザのリゾート化について、「ガザをリビエラのようにする」と、かねてから語っており、その計画は決して絵空事ではない。

このようなことを紛争の当事者の地域において構想するなどということは、悪辣非道さにおいて、ウクライナを侵略しているロシアのプーチン大統領をはるかに超えるのではないだろうか。決して支持できるわけではないが、ロシアにはウクライナ領内のロシア人の権利を守ろうとするナショナリスティックな理由がある。これに対し、アメリカには他国で金儲けをしようとする欲得ずくの動機しかない。これは世界中で問題視し、制裁などを加えるなどして絶対に食い止めなければならない問題ではないだろうか。

ところが、この問題はほとんど注視されていない。9月23日にトランプ大統領はアラブ諸国首脳との会合で、ガザの戦闘終結や戦後統治に関する計画を提示したと米ニュースサイトが報じた。この際、トランプ大統領が「21項目の計画」を提示したというが、ハマスの人質全員の解放、イスラエル軍の段階的な撤収、戦後のガザ統治からのハマス排除、アラブ諸国の治安部隊への関与や復興に向けた資金援助などの他には具体的に何をどう説明したかは不明だ。アラブ側は計画支持の条件として、イスラエルがヨルダン川西岸やガザを併合しないこと、ガザを占領しないこと、ユダヤ人入植地を建設しないことを要求したところ、トランプ大統領は西岸を併合しないと答えたのみだったようだ。

このトランプ大統領の答えは、西岸のユダヤ人入植とガザの占領と併合は許すということ、つまりガザに関しては上記の「グレイト・トラスト計画」を進める方針を貫くことを言外に物語っている。

926日、BS-TBSは報道1930において、「グレイト・トラスト計画」について報道していた。しかしこの報道について日本国内での反響がほとんどないのはどういう訳だろう。

(余談だが、この番組の主要テーマはパレスチナの国家承認を日本政府がなぜ見送ったかということがテーマだったが、ゲストのパックン(パトリック、ハーラン氏)が、日本政府が見送った原因は、日本国内でこの問題に関する国民の声が上がっていないからだと指摘していたが、その通りだと私も思う。欧米にばかり関心を持ち、中東で何が起きても日本に直接利害がなければ「対岸の火事」、「他人事」にしてしまう日本人の内向き姿勢、自民党総裁選挙にばかりかまけているマスコミの軽薄さが悲しい。)

この後、929日にトランプ大統領がホワイトハウスでイスラエルのネタニヤフ首相に「20項目」の和平計画を説明したという報道がされた(減った1項目はカタールへの攻撃禁止に関するもので、この問題は解決済みになったため除外されたようだ)。この20項目には「グレイト・トラスト計画」があいまいな表現で挿入されていることに注目することが必要だ。

20項目」の中にある、「ガザの再建と活性化を図るトランプ経済開発計画は、中東で繁栄する現代の奇跡的な都市の誕生に貢献した専門家パネルを招集し、策定される。多くの思慮深い投資提案や刺激的な開発アイディアが善意ある国際グループから提案されており、雇用、機会、ガザの将来への希望を創出するこれらの投資を誘致・促進するために安全保障と統治枠組みを統合することが検討される。」という項目がそれだ。

この甘美な夢を語るような表現にごまかされてはならない。アラブ諸国首脳との会談を経て、イスラエルのガザ地区占領や併合についてはあきらめることにした関係で、別の項目で、ガザからのパレスチナ人の追放と、アメリカによる10年間の管理などのあからさまな措置はさすがにやめたようだが、トランプが主導する開発、投資などを唱っていることは明確だ。ガザ地区パレスチナ人の土地所有権などに代わる債権のようなものを与えるようなことが「グレイト・トラスト計画」にあるが、正当な価値が保障されるわけはないだろう。

この提案の、ハマスを徹底的に排除する一方、一般のパレスチナ人には寛容に扱うというスタンスには、太平洋戦争終結の際、アメリカが日本軍幹部や右翼的思想家などのみに罪を負わせ、一般の日本国民は彼らの被害者であるかのように扱って日本人を懐柔して、現在に至るまで日本を追随国家にし、搾取してきた成功体験が影響しているように感じるのは私だけだろうか。

アメリカには停戦のためと言いながら、以上のような欲深い狙いがあることを指摘し告発することが必要だ。そして、その活動にはパレスチナの国家承認で盛り上げた機運以上の盛り上げが必要だ。その抑止力が弱いまま、この悪辣な和平提案をパレスチナが受け入れなければ、アメリカはイスラエルにガザをほしいままにさせ、それを利用して「グレイト・トラスト計画」を進めることになるからだ。

アラブ側の首脳が、上記のような危機感をもたずに先の会合が終わったとすれば、アラブ側の認識は甘く、パレスチナへの関わり方は冷淡で、イスラエルやアメリカの方針を黙認するつもりのように思える。アラブ諸国さえもアメリカに追随しパレスチナを見捨てるつもりだろうか。

930日、カタール、エジプト、トルコの3国がハマスに、アメリカの示したガザの和平計画は「最前の取引」だとして受け入れを迫ったという報道がされている。ホロコーストになる事態を防ぐためにはやむを得ないということならわかるが、アメリカの巧妙な詐欺的言辞を信じてそのような行為をし、ハマスが受け入れざるを得ず、停戦になったとしても、アメリカ主導の開発が進んだ結果、ガザ地域パレスチナ人が被る損失を償う覚悟をするべきだろう。

書評 アーリヤ人の誕生 著/長田俊樹

  謎めいた、この本の題名に惹かれて購入した。著者は一般的にアーリアと言われている言葉をアーリヤとしている。

 かねてから、インド人にアーリア系の人種がいるということと、ヒトラーがドイツ民族をアーリア系とし、優秀な民族だと持参していたことがどうも理解できずにいたので、アーリア人とは何だろうと、引っかかっていた。

 かつて世界の主な言語が、インド・ヨーロッパ語族、ウラル・アルタイ語族、セム・ハム語族にグループ化されていて、インド語(と言っても単一の言語ではないが)が、ヨーロッパ諸語と同じ起源を持っているようだという知識は持っていた。この本を読むと、インドの古語であり、現在でも使われているサンスクリット語がヨーロッパ人にヨーロッパ諸語と類似していることが発見され、当初はサンスクリット語そのものが印欧祖語だとする説が有力だったそうだ。その後、その説は否定され、言語学界は、今は存在しない印欧祖語を「再建」する研究に入り、「再建された語彙を手がかりとした言語的古生物学を生んだ。その言語的古生物学の成果から、印欧祖語の話し手、つまり「アーリヤ人」の宗教や文化に関心がいき、「アーリヤ人種説」を生んでいく。」とのことで、いわば「アーリヤ人」とは想像上の概念だったようだ。「アーリヤ人」とは、それが派生して現存している人種のように誤解されたということになり合点がいった。

 ところで、この著書には、「新インド学入門」という副題がつけられている。彼はこれまでの「インド学」がサンスクリット語の研究など、現代のインドを対象としていないのに対し、インドの少数民族のムンダ人の集落で暮らしながら、ムンダ語の専門家となり、現代インドの諸問題に目を向けて、「新インド学」を標榜している。その中で、ムンダ人は、ヒンドゥ教徒が高潔崇高とされているインド社会で、無知蒙昧な民といわれ差別されていること、そのムンダ人が、他者(他民族)を「ディク」と言って警戒しているのに、「都会で教育を受けたムンダ人たちは、もはや「ディク」は他者ではなく、「自己」変革の理想のモデル」なのである。」というインド社会の矛盾を指摘している。この現象を「西洋」を「他者」とみる視点と、「西洋」を「自己」変革の理想的なモデルという視点が同居している日本との類似性を指摘している言説に、鋭い観察眼を感じた。

 補章に、最近の人文系学問が理系偏重の圧力に押され、危機にあることが書かれている。この著者のような優れた研究者が軽んじられる傾向にさらされていることはある程度認識していたが、この補章のように具体的な組織の動きには改めて驚いてしまう。資本主義に利用されてばかりの理系偏重の学会等に、どのような対応ができるだろうかと考えさせられる。

日本政府はアメリカの要請に屈せずパレスチナ国家を承認せよ 4(2025年9月24日)

 22日に国連本部でパレスチナ問題の解決に向けて開かれた国際会議において、ヨーロッパ各国、カナダ、オーストラリアなどの国々がパレスチナの国家承認を表明する中で、日本を代表して出席した岩屋外務大臣は、承認を見送る理由を、「承認するか否かではなく、いつするか」という問題であると述べたとのこと。

さらに、今後の情勢の変化を常に注視しつつ、更に重大な関心を持って総合的な検討を行っていく旨述べ、仮に今後イスラエルが「二国家解決」実現への道を閉ざす更なる行動に踏み出す場合には、我が国として、新たな対応を取ることになると付け加えたとのこと。

これは、これまで報道されていた理由と異なっている。これは、アメリカと同じ理由にすると日本のアメリカに対する属国的な立場があまりにも明確になることを恐れ、はぐらかしたか、結論を先延ばしにしたためではないだろうか。当日出席しなかった、石破首相も同様な発言をしていることを見ると、岩屋外務大臣はこのような内容で口裏合わせをして出国したのだろう。このような理由付けはほとんど議論の経過はなさそうなので、思いついたもっともらしいものだと思われる。

ガザのホロコーストを残虐に進めるイスラエルへ圧力を与えようと、パレスチナの国家承認で盛り上がってきた機運に水を差すような判断をし、「イスラエルが国家解決実現への道を閉ざす更なる行動に踏み出」すまで「注視」するということは、いったいどこまでガザの人びとが殺されてしまうのを黙認するのだろう。その時は、少なくともガザ地区はイスラエルの完全な支配下になっていることだろう。

いずれにしても、日本はそのように世界中に表明したのだから、日本が適切な時期に適切な行動を示さなければ、日本はアメリカに逆らえない国という位置づけが明白となり、国家としての自立性が厳しく問われるだろうし、そのような日本政府を支えている日本人自身を問うべきだろう。

日本政府はアメリカの要請に屈せずパレスチナ国家を承認せよ 3(2025年9月20日)

 岩見外相が昨日、記者会見で、正式にパレスチナの国家承認を見送ることにしたとを述べ、その際、22日に開かれる予定の、国連のパレスチナ問題解決のための国際会議に日本政府は欠席する方針を改め、自らが代表として参加するとも発表したとのこと。欠席では、アメリカに逆らえないことがあまりにも明白になってしまうからなのだろう。果たして参加して、日本独自の理由説明ができるだろうか。記者会見の際に、18日付で記した、「承認するとイスラエルが態度を硬化させ、パレスチナのガザの情勢が一層悪化する」というアメリカの懸念を、その理由としているようだが、そのままに理由付けを説明したら、欠席したほうがましだったということになりそうだ。22日からの会議での論議の経過、結果を注目しよう。

日本政府はアメリカの要請に屈せずパレスチナ国家を承認せよ 2

 

案の定、パレスチナの国家承認に関し、自民党政権はアメリカの要請には抵抗できないことが報道されている。

承認するとイスラエルが態度を硬化させ、パレスチナのガザの情勢が一層悪化するという、理由とは言えない理由のアメリカの主張に逆らうことを恐れる卑屈な態度と言わざるを得ない。22日に開かれる予定の、国連のパレスチナ問題解決のための国際会議には欠席するという。今や、イスラエルとアメリカは孤立しつつあり、世界がパレスチナの惨状を打開するために、パレスチナの国家承認に動き出している時に、ただアメリカにつき従っている状態では恥ずかしくて参加できないのだろう。

マスコミの皆さんは、この件で日本政府が忘れてはならない恥ずべき判断をしたことを国民に周知し、国民間でこれについての大きな論議が巻き起こるようにしてほしい。

国会においては徹底的に論議してほしい。その際、野党はこれまでのように与党を安易に非難する論調に流れず、与党の、国家承認がガザ情勢を悪化させるという理由付けについて、明確な説明を徹底的に求めてほしい。説明の疑問点を深く冷静に追求すれば、理由付けが支離滅裂であることが誰にもわかるはずだ。適切な問いかけは、相手にも疑問となる理由を再検討させるかもしれない。例えば、アメリカを怖がることが妄想のようなものであることが共有できるかもしれない。

それから、上記のような日本政府の行動を許しているのは我々有権者だということを改めて自覚することが必要だ。こんななかで、自民党は次期総裁選にばかり熱中しているが、誰が次期総裁になるにしても、自民党に投票することはパレスチナ・ガザ地区の虐殺に加担することに他ならないことだ。次の総選挙までに、イスラエルはさらなる虐殺を尽くし、ガザ地区制圧は完了しているかもしれないが、日本の有権者は最低限、投票行動でイスラエルの虐殺行為を許さないことを示してほしい。

書評 家族、この不条理な脚本 著/キム・ジヘ 訳/尹 怡景(ユン・イキョン)

 

この著書には、「家族神話を解体する7章」というサブタイトルが付けられていて、「家族神話」は私が取り組もうとしているテーマなので読んでみたくなった。

 家族制度について、韓国は日本と似た状況にあり実情を述べながら、ヨーロッパの家族状況にも触れていて、ファミリーの語源のラテン語・ファミリアは、妻子や奴隷を含む、「家長に属する所有物を意味」していて、現代の家族とは異なっていた、とか、ジョン・スチュアート・ミルが、「結婚こそ、イギリスの法律におけるただ一つの現実的奴隷制度」と述べていたという興味深い挿話もあった。

 韓国では、日本の植民地時代に制度化された家制度や戸主制度の影響が最近まで残っていたが、世界的な潮流になってきている同性婚などを主張する人々が増えつつあり、伝統的な家族制度が揺らいでいるとのこと。

 これと日本より深刻な少子化問題を結びつけて、同性婚を憂慮する層があるが、これについては、同性婚に寛容な国では逆に出生率が高いというデータを示し、反論している。さらに、「もしかしたら、これらの国では、人がどのように生まれたかには関係なく、平等な生活を保障するための社会づくりを進めてきたという意味ではないだろうか。」と述べているが、ここは想像ではなく、子育てを社会化している具体的な制度調査や判断が欲しかった。

この著者は、家族において、「生計の維持について責任を負う人が必要」ということは、「生物的な性としての男性の存在が必要ということではない」として、「家族神話の解体」を試みたり、いまだに「家族の失敗」をした人たちだけが社会保障の対象であることを不当としたりしているが、家族という制度は、人びとがやむを得ずに形成したに過ぎず、神話はそれを維持するために作られたものに過ぎない。だから、現在の家族に対する考え方を批判してもあまり意味がないと思う。むしろ、家族というものはそのようなものだと受け入れ、そのうえであるべき社会、性等を考えるべきだろう。

 その意味で、最後に、ヨーロッパから広がりつつある同性婚について、「家族の意味を更新すべき時代に、同性婚を求める主張によって、むしろ既存の家族制度を再び延命させるのではないかという懸念」があると述べていることには同感だ。男女間に生まれた子を、その当事者に養育を義務付けるために現代まで続いてきた婚姻制度やそれに付随した諸制度を絶対化し、同性間にも適用しろという要求は、安易な平等主義ではないだろうか。人間にはパートナーガ必要だとすれば、婚姻制度は廃止し、著者がここで述べている「民事連帯契約」や「同居」制度を採用すればいいのではないだろうか。

日本政府はアメリカの要請に屈せずパレスチナ国家を承認せよ

 

パレスチナのガザ地区に対するイスラエルの暴虐極まりない攻撃は、20世紀のナチによるユダヤ人虐殺に匹敵する民族浄化行為と言えるだろう。これに対し、世界は言わば黙認しているかのような状況であり、忸怩たる気持でいっぱいになる。

 なぜ、イスラエルのユダヤ人は自分たちにされたことを、パレスチナ人にしているとは思えないのだろう。なぜ、アメリカはこれをやめさせようともせず、支持するのだろう。

 このような状況があまりにも悲惨なため、わずかながら世界がようやく動きはじめた。それはフランスを皮切りにイギリスも、パレスチナを国家として承認する方針となり、国連常任理事国で承認するつもりがないのはアメリカのみとなり、G7の一員であるカナダも同様な方針を表明し、ドイツ、イタリアも前向きなようだ。今や、イスラエルにNOを言えないアメリカを孤立させ、危機感を持たせる好機となった。

 そのような動きでパレスチナ問題が解決できるわけではない。国境をどの範囲にするか、はたしてパレスチナの暫定自治政府が正式な国家として機能できるかなど、解決すべき課題は多いだろう。しかし、どんな形でも、これまでの固定的な状況が動き始めたことを大事にしなければならないのではないだろうか。

日本政府もこのような中で、パレスチナの国家承認の教義を始めたようだが、案の定、アメリカがこれを見送るよう要請したという。その理由は「和平実現を後退させる」という訳が分からないもので、アメリカがユダヤロビーや福音派に逆らえないからに過ぎないだろう。

アメリカはそのような要請を上記の国々にはしていないようだ。少なくともそのような報道はされていないと思う。そうだとすると、今更ながら、アメリカが日本を自国の意向を忖度する、扱いやすい国、もっと言えば属国のように捉えていることが改めて明確に表れている。このような関係のために日本が不利益を被るだけならまだしも(それだけでも国民は怒りを覚え、惨めな気持ちにさせられるが)、パレスチナを犠牲にしてアメリカの「いい子」から自立した判断をしないならば、もはや独立国ではない。また国際的にも許されない行為だ。

日本政府がこの件でアメリカの意向に屈することは、イスラエルによるガザ地区のホロコーストを容認することに他ならない。日本政府は奴隷根性から脱し、パレスチナを国家承認せよ。

書評 スピノザ 「変性の哲学者」の思想世界 著/加藤 節

 

スピノザについては、『エチカ』という著書を書いた哲学者として、その名前を知っている程度だったが、ユダヤ協会から破門にされたユダヤ人であることを知り、ユダヤ性から自由になろうとしたユダヤ人としては最初期に生きた人と言えそうなので、このスピノザの解説書から読んでみることにした。

 破門の理由は、「魂の不死性とユダヤ教の律法の真実性を否認し、「哲学的な」神しか存在しないと主張した」とのこと。これは彼が23歳のときで、「肺疾患という宿痾に長く苦しんだ末に44歳という若さでその一生を閉じた」という。

 その理由はともかく、スピノザは典型的なユダヤ人としての育てられたが、17歳から家業の貿易業を手伝うようになり、父親が亡くなったため22歳からその家業を引き継いだそうで、その経験が、「ユダヤ教以外の多様な信仰や思想を持つ「賢き商人」と呼ばれた教養ある人々との接触と、ユダヤ教徒のように律法に拘束されることなく、富や利益の蓄積によって社会的地位の向上を図る人間の赤裸々な姿の認識をもたらした」とのこと。ここから、スピノザが、ユダヤ教の世界観の相対性を自覚するようになり、キリスト教世界の学問や自然科学を研究するためラテン語学校に入学し、マキャヴェッリやホッブス、デカルト等の影響を受けるようになったことが破門に至った経過のようだ。

 スピノザは、破門を機に、「最高善」の獲得を目指す倫理学に向かい、そのための通路をどこまでも人間の「認識」を求め、その「倫理学に政治学を抱合させる方向を辿った」とのこと。

「認識」については、著者によれば、当時、自然科学が発展する中で、「認識対象としての自然の非人格的な実体への還元」には、「プロテスタンティズムとりわけカルヴィニズムが果たした被造物崇拝の徹底的な否定」が被造物を「即物的自然へ還元して科学的認識の客体を析出し」た一方、「造物主としての神の全能性を証明」しようとしたことの影響があったそうだが、「スピノザの倫理学を支える支点としての「認識」の対象は、自然科学が対象とする第一の自然ではなく、どこまでも、「精神」および「神」と合一した「全自然」以外のものではありえなかった」とのこと。

「近代哲学の父とも評されるデカルトの自然と精神とを二つの実体とみなす世界の二元論的構成」には、現在批判がされているが、スピノザの上記のような論理はその中でどのように位置づけられるのだろうか。

それはともかく、「倫理学としてのスピノザの哲学は、彼の有名な命題、「神即自然」に集約される汎神論の範疇に属するもの」だとのこと。

以下、スピノザの「意識」、「延長」、「思惟」、「感情」、「三種類の知(表象知、理性知、直観)」、「三つの「人間の条件(この中で、「協議し、傾聴し、討論する」ことを最重要視した)」などの概念が開設されているが、ここでは触れない。

今日の私たちが認識しておくべきことに絞るとすれば、「倫理学」の章においては、上記の「神即自然」だが、「政治学」の章においては、デカルトの「私は思惟する、ゆえに私は存在する」という命題を、スピノザは、「私は思惟しつつ存在する」という「単一命題」として理解し」ていたとし、これは「あきらかに一元論的思考様式」だという。それから、当時の哲学者(スコラ哲学者)へのスピノザの批判は、キリスト教による原罪観念などの神学的人間解釈を清算し、「人間の自然状態」を神学的非難から守ろうとする明確な意図があったとのことだ。

具体的な政治論は、伝統的な「三政体論(民主制、貴族制、君主制)」を踏襲していたが、「神政政治」や「王権神授説」に特に批判的で、彼の「社会契約説」は、「政治権力の支配の正当性根拠を人間の同意に求めるもの」で、「所与の政治共同体に倫理的生活を可能にする「変性」を目的として求める意味を蔵して」いたという。

「聖書批判の展開」の章においては、「「表象知」に依拠する「預言」は、それ自体においては何らの確実性も内に含むことができない」もの」だと批判し、「奇跡」とすることは「無知」だからだと指摘し、「真の宗教」論を提案するなど、大胆な主張をしたという。しかし、彼の主張も、「十七世紀のヨーロッパにおいて、時代の正統的なキリスト教信仰とされるものに抗して「信仰の新しい理念を宣言」し、「宗教の新しい形式を具体化しようとした」どの思想家の企図も、聖書解釈を通して「キリスト教の新しい表現を見いだそうとする努力」以外の形態をとりえなかった」ように、「政治的な最高権力への反逆を信仰者の義務として課するものではなかったとのことだ。

 そんな中でもスピノザは、「神の子」として神格化された「イエスキリスト」について、「「神の子」たるこの神的な「知性」は、「神の知恵」として人間イエスの「肉体」の中にではなく、神と「精神対精神」で交わったイエスキリストの「精神」の中に最も多く「表現」されている」としたほか、「聖書を「人間の言葉」で書かれた歴史的文献に還元したうえで、・・・聖書に疑うことが許されない「神の言葉」としての「真理の認識体系」を与える一切の立場を否定し、・・・「宗教を解釈し、宗教に関して判断する最高の権能は各人の下になければならない」と言ったそうだ。

 要するに、スピノザは、ドグマと化しているキリスト教の教えを相対化した先駆者だが、「真の宗教」論を唱え、自ら無神論者ではないと主張し、宗教否定にまでは行きつかなかった哲学者と言えるのではないだろうか。その彼にとって「神」とは何だったのだろうか。この著書には、スピノザの哲学的言説が詳しく述べられているが、その現代的な意味づけ、位置づけなどの解説が欲しいと思った。

書評 消費される階級 著/酒井順子

 

現在の社会の風潮と変遷、矛盾などを分かりやすく、鋭く解説する随筆集だ。私たちがなんとなく感じていることを明確に分析している。

多くの古くて新しいテーマが扱われているが、この中の「反ルッキズム時代の容姿磨き」を興味深く読んだ。著者は、現在の美を追求する活動が、「昭和時代よりずっと先鋭化している」とし、かつては、「自分が他人からどう見えるか気にしている」ことは、恥ずかしいこととされていたが、ネット上に自分の姿を晒すようになったせいで、その見栄えが問われるようになったために、美しく自分を見せる行為が当然とされるようになったからだと解説する。そして、美しい容姿を追求することが、「自分を高めるための努力を怠らない人」と肯定されるようになったと言う。そのため、「外見はどうであっても、内面が美しければそれでいいのです」とは言っていられなくなったと言う。

確かに、容姿に限らず、「インスタ映え」などと、見栄えを競う風潮が当然とされるようになっている。この変化見逃さずに捉えていることは鋭い。彼女の言う通り、ネット上に自分の姿を晒すようになったことはそのきっかけかもしれない。しかし、だからといって、なぜ見栄えを気にする愚かさを感じなくなったのだろう。それでは、化粧品や美容整形を含む美容産業は儲からないので、これらの産業から巧妙に仕向けられてからではないだろうか。その辺まで分析してほしくなるが、これは随筆であり、その分析まで求めることには無理があるかもしれない。

それから、「モテなくてもいいけど、出会いたい」というテーマでは、戦前の主流だった見合い結婚が1960年代末に恋愛結婚に逆転された歴史が語られている。それは結婚相手は自分で探すことになっただけで、恋愛と言っても、「自然の出会い」を成立させるために、様々な権謀術数や手練手管が使用されていたこと、「誰かと愛し合いたい」「パートナーが欲しい」という要求が、「モテたい」ということにしかならず、晩婚化、非婚化が進んだこと、それにも無理があるためマッチングアプリが生まれ、その存在感が高まっていると述べている。これも風潮を明確に認識している文章だと思うが、社会的な背景までは突っ込んでいない。やはりそういう不満にも無理があるかもしれない。

書評 西洋化の限界 著/ジョン・T・ダヴィダン 中嶋啓雄/監訳

 

註等を含めると400頁を超える大作で、魅惑的な表題の著書だが、得るところがほとんどなかった。

サブタイトルが、「アメリカと東アジアの知識人が近代性を創造する」、第二章のテーマが「一八九〇年代から一九一〇年代にかけてのアメリカ的思想における近代性の発展」とされていることに、違和感があったが、読み進めるうちに、この著者は日本や中国の思想家たちを表面的にしか捉えられないこと、プラグマティズムを礼賛している軽薄な学者であることが明確になっていった。

この著者は、一九世紀後半から始まった西欧近代思想への批判についての認識がなく、そこから派生したプラグマティズムに疑問を持たずに、日本や中国の知識人の思想を分析してこの論文を著している。だからそれらのあらさがしをすることにしかならない。そもそも知識人は社会のなかで特定の階層に属しているので、その思想分析をしただけでは、それぞれの国の文化や社会の構造は見えてこないのに、その主張さえ理解しようとしないのだから、アメリカ人から見た東アジアの知識人の主張の劣等性を指摘する言説に終始してしまうのだ。

彼は、第一次世界大戦の結果、「西洋の帝国は縮小し、アメリカを除く西洋は経済的に弱体化した。」、「ヨーロッパと太平洋における圧倒的な勝利は、アメリカ人たちが西洋化された近代性に大きな夢を持つことを可能にしたのである。」という文章が挿入されているが、ここには彼がアメリカの国勢と思想の優位性を混同していることが明確に表れている。

彼は、「中国は西洋化に失敗した。」と切り捨て、これに比して日本の西洋化を認めている。ここには日本人の欧米コンプレックスが大きく影響していることに無頓着で、中国人にはその影響がなかった原因等についての考察がないことは、このテーマを取り上げた言説においては致命的な欠陥だ。

結局、この著者は欧米人にわかりやすい福澤諭吉や丸山眞男はある程度評価しているが、竹内好や魯迅たちの思想を理解できずに済ましていた。まして、日本の思想家の転向などの問題には到底行きつかない。

「西洋化の取り組みは、帝国主義の古いイデオロギーや、西洋文明の優位性とされていたものとの関連性から、強力な反対に遭遇した。」と述べながら、その反省をしているわけでもなく、西谷啓治らの京都学派の学者が「近代」と「西洋化」を混同しているとしながら、それぞれの定義をしていないため、この著書において自らがそれらを混同しているなど、論理が極めてお粗末だ。

結びにおいて、「西洋化の限界」とはアメリカ人が想定したよりも彼ら(東アジアの思想家)は多様で、自らの伝統に関心があり、西洋を模倣することに関心が低かったと、思い違いを反省しているかと思うと、ロストウらの理論が「合衆国に後れをとっている非西洋諸国についての完全な説明とそれらの国々が追いつくことができる方法の処方箋として開花した」と述べ、それが短い間でしかの究極の理論だったという理由を検討しないで、「実際には諸国家をアメリカ式の近代性に迅速に変換することができなかった」と淡々と語るなど、この著者は読者に伝えようとしていることがあるとは思えない。「近代性の解放主義的傾向は、学者や一般の人々の間で劇的に拡大した。」、人間は未だ解放と合理的な問題解決の能力があり、この事実を受け入れるならば、私たちは近代性を救うことができる。」という言説は虚しく付け足しされている。

書評 プラグマティズム 著/W・ジェイムズ 訳/桝田啓三郎

 

プラグマティズムをアメリカに広めた哲学者の本だ。若い時から読んでみようと思いながら実際に読む気にならなかったのだが、ある学者が読むべき「古典」としていたので、今更ながら読んだ次第だ。

「プラグマティズム」とは、ウィキペディアによれば、「実用主義、道具主義、実際主義とも訳される・・・元々は、「経験不可能な事柄の真理を考えることはできない」という・・・イギリス経験論を引き継ぎ、概念や認識をそれがもたらす客観的な結果によって科学的に記述しようとする志向を持つ点で従来のヨーロッパの観念論的哲学と一線を画するアメリカ合衆国の哲学」とされている。ジェイムズはチャールズ・サンダース・バースからこの哲学を学んだとしているが、現在普及している「プラグマティズム」はこの本により普及した考え方のようだ。

ヨーロッパ近代哲学批判は19世紀後半から始まっているが、その流れの一つとして生まれたということになるだろう。しかし、「実体的なあるいは形而上学的な意味における「自我」とか「物質」などーそれらの思惟形式の支配を何人も脱するわけにはいかない。実際生活においては、常識的な思惟手段がつねに価値を利するのである。・・・・この自然な思惟の母国語に比べると、その後のより批判的な哲学などは単なる気まぐれな考えに過ぎない。」という言説などを読んでみると、新たな哲学などとは到底言えない、「哲学からの逃避」のように思える。

「世界はじつに鍛えられるものとして存在し、われわれ人間の手によって最後のタッチが加えられるのを待っているのである。天空の王国と同じように、世界は人間の暴力を悦んで受け容れる。人間が審理を産みつけるのである。」という主張には、トランプ米大統領が石油などを掘りまくると叫んでいることと同じ根っこを感じさせる。

読む気をなくさせるような言説の連続だったこの本を読み終えて思ったことは、現在のアメリカ人がとりつかれている思潮が突然現れたのではなく、伝統的なものであることがよく分かり、そのこと自体は収穫だったということだ。

私も近代西洋哲学には疑問を持っているが、プラグマティズムはそれを解く考え方には全くならず、心情的にはどちらかと言えば、前者のほうにシンパシーを感じる。

書評 フロイトのモーセ ヨセフ・ハイーム・イェルシャルミ/著 小森謙一郎/訳

  サイードが『フロイトと非-ヨーロッパ人』において、この本の著者が、フロイトといえどもユダヤ人の性格上の特徴を継承することは避けられないとしていることを引用していたので、その内容を詳しく知りたいと思っていた。

この著者は1932年生まれのユダヤ系アメリカ人のユダヤ史家だ。序章の「聴衆のための序奏」で、このテーマを研究するきっかけは、「反セム主義の精神分析的研究調査班」に参加することになったことだったと述べている。このメンバーはおそらくほとんどがユダヤ人の精神分析家なのだろうが、この研究を充実させるためにユダヤ人歴史家が必要ということになり、彼が選ばれたようだ。

読んでみると、予測していた通りのフロイト批判だった。 フロイトの『モーセと一神教』は、イェルシャルミの言う通り、歴史書でも小説でもないアナロジー的な著作だといえるだろう。しかし、この著書の意図は、反ユダヤ主義の原因となったヨーロッパでの伝統的なユダヤ人ぎらいの原因となっているユダヤ人の選民意識を解消しなければ危機的状況は避けられないという認識で、この意識の根拠となっている、旧約聖書の神話を崩そうとしたことにあり、サイードも上記の著書において、その意味でフロイトを評価している。そのこと自体を支持しないまでも、理解しなければ、単なるケチつけのような評論にならざるを得ない。

確かにフロイトの論理には飛躍や強引さがあることは認めざるを得ない。しかし、この弱点を指摘し歴史書としての批判をしても意味がないのだ。それにもかかわらず、イェルシャルミは執拗にフロイトの認識の矛盾を突いている。この著者はフロイトが、なぜ自己を含むユダヤ人のユダヤ性と苦闘していたのかということに少しも理解を示さず、フロイトの『モーセと一神教』と共に彼の精神分析論をシニカルに批判している。この姿勢には、フロイトの時代とは異なり、反ユダヤ主義と罵倒すれば世界中の言論をリードできるとして、いまや強者となったユダヤ人の驕りを感じる。このような姿勢にユダヤ人以外の人間の共感は生まれない。このような姿勢こそ、現在のイスラエルの残忍なガザ侵攻をもたらしているのではないだろうか。この著者はこの状況を知らずに没しているが、このような姿勢をユダヤ人が改めなければ、「新たな反ユダヤ主義」が生じることは避けられないだろう。

イェルシャルミのこの著書で参考になったのは、フロイトが生家において身に着けさせられたユダヤ的な慣習を明らかにしたことだ。割礼を含むユダヤ人の様々な慣習は少なくともフロイトが育った19世紀後期にも続いていて、おそらく現在も残っているのだと思われ、ユダヤ性の根強さはこの家族的慣習にあることを再認識した。

書評 動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 著・東 浩紀

 この本は2001年11月に発行されているので、もう時代遅れかもしれない。しかし、少なくとも20世紀末までの社会の分析ではあった。

 筆者は、「オタク」文化のアニメやゲームを紹介しながら、その分析をしていくが、私はそのアニメ等はなじみがないので正直言って、その辺はよくわからない。

しかし、この本はそれでは終わっていない。筆者の分析は、日本はもちろん世界の文化のポストモダン化にまで及んでいる。彼は、‘60年代からのポストモダニズムの起源を述べてから、「日本では八〇年代半ば、若い世代の流行思想として(大学ではなく)むしろ大学の外でもてはやされ、そして時代と共に忘れ去られた。」、「むしろ重要なのは、日本で、その難解な思想がジャーナリスティックに流行してしまったという事実である。」と述べる。さらに、「おそらくその流行は、当時すでに一部の批評家が指摘していたように、八〇年代の日本社会を満たしていたナルシシズムと関係している。」という。

当時のポストモダニストは、「ポストモダン化とは、近代の後に来るものを意味する。しかし日本はそもそも十分に近代化されていない。それはいままで欠点だとされていたが、世界史の段階が近代からポストモダンへ移行しつつある現在、むしろ利点に変わりつつある。十分に近代化されていないこの国は、逆に最も容易にポストモダン化されうるからだ。(中略)そのようにして二十一世紀の日本は、高い科学技術と爛熟した消費社会を享受する最先端の国家へと変貌を遂げるだろう。」というような主張を好んだという。

これについて著者は、「この単純な図式は、歴史的には、戦前の京都学派が唱えた「近代の超克」の反復だと言える。だが同時に、その発想はやはり当時の経済環境を色濃く反映している。八〇年代半ばの日本は・・・アメリカと対照的に、いつのまにか世界経済の頂点に立ち、バブルに至る短い繁栄期の入り口にさしかかっていた。」と分析し、批判する。おおむね妥当な言説だとは思うが、その頃の「ナルシシズム」な風潮に乗った軽薄極まりない論理は「近代の超克」とは較べられないのではないだろうか。

著者は、「近代は大きな物語で支配された時代」で、ポストモダンは、その「大きな物語」が機能不全となり、社会全体のまとまりが弱体化した時代であり、日本では七〇年代にそれが加速し、「オタク」が出現したのは、その空白を埋め合わせるためだという。

この後、著者はコジェーヴの、「ヘーゲル的な歴史が終わった後には」、アメリカ的な生活様式の追求=

「動物への回帰」か、日本的な「スノビズム」(=ジジェクの「シニニズム」)しか残されていないという言説を紹介する。前者は、戦後のアメリカは動物が食物さえあればいいように、「ニーズ」が満たされることしかない消費社会に過ぎないという意味だろう。資本主義に踊らされている度合いが強いほどこうなることは必然なのだろう。

一方「スノビズム」についてコジェーヴは例として「切腹」を挙げ、ジジェクは「シニニズム」の例として「スターリニズム」を挙げているそうだ。ジジェクは、『イデオロギーの崇高な対象』のなかで、「私たちはみな、舞台裏では荒々しい党派闘争が続いていることを知っている。にもかかわらず、党の統一という見かけは、どんな代償を払ってでも保たれなければならない。本当はだれも支配的なイデオロギーなど信じていない。・・・」とそれを分析しているとのことだ。言ってみれば、「たてまえ」しか認められていない状態のようだ。

著者は、ポストモダンは七〇年代以降の文化世界を指しているが、ポストモダン化の始まりは、第一次世界大戦が終わった二〇年代、三〇年代であり、冷戦が崩壊し、「共産主義という最後の大きな物語の亡霊さえなくなった八九年」にかけてゆるやかに行われたと捉えている。だから、二〇世紀とは「中途半端にポストモダンだった時代だった」という。その時代の人びとは、「大きな物語」と「小さな物語」を繋げるためにスノビズムが必要だったが、その後のポストモダンの人びとは、それらを繋げることなく、バラバラに共存させていて、「わかりやすく言えば、ある作品(小さな物語)に深く感情的に動かされたとしても、それを世界観(大きな物語)に結びつけないで生きていく、そういう術を学ぶのである。筆者は以下、そのような切断のかたちを精神医学の言葉を借りて「乖離的」と呼びたいと思う。」と述べているが、これは現在の世界の風潮を極めて鋭く的確に表していると感心した。

近代哲学や思想の根幹である、「動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要としている」という区別、「間主体的な構造」が消え、「動物的」だとコジェーヴが言ったアメリカ社会の論理は、いまや全世界を覆いつくしていると、著者は述べたが、最後の章は、「この章では、原理的な考察はもうやめて、ポストモダンとは表層的にはどのような世界で、そこで流通する作品はどのような美学で作られるのか」の思いつきの記述に入ってしまった。これはいただけない。上記のような危機的な状況になった原因を解析し、どのように脱するかまではいかなくても、対処の心構えぐらいは記してほしかったと思う。

書評 福岡伸一、西田哲学を読む 著・池田善昭、福岡伸一

  この本はこのようなタイトルだが、哲学者の池田と生物学者の福岡の対談が主に掲載されている。生物学者でありながら福岡はNHKの「日本人は何を考えてきたのか」という番組企画に参加し、近代日本思想史をたどる中で、「近代の超克」座談会を主にリードした京都学派の祖・西田幾多郎を「知る必要」があったという。

 一方、主に理系、文系など「二つに大きく分断されてしまっている人類の知恵をもういちど統合しようとする試み」である「統合学」をめざす集まりにも参加していた福岡は、この集まりの中で西田の研究者の池田と出会い、池田が、福岡の「動的平衡の生命論」は「西田がめざしていた生命に対する考え方と極めて密接な相同性をもつ」と指摘していたことから、この対談に至ったそうだ。

 対談は、西洋においては自然の中にある「ピュシス」が忘れられ、「ロゴス」の理念的世界の中に入ってしまい、ハイデガーにおいて、これは「存在の忘却」だと批判したが、西田はその前から「ピュシスに帰ろうとしていた」という、池田の解説から始まる。

 そして、池田は、西田の「自覚」、「純粋経験」などについて解説する中で、福岡の細胞膜についての内側でも外側でもない「あいだ」という概念が、西田の「絶対矛盾」と同じだという。ここから、池田は「包む・包まれる」、あるいは「包まれつつ包む」という独自の説明理論の説明に入り、樹木の年輪を例にして、環境との関係を、「普通の考えでは、環境が樹木を限定するはずなのに、樹木のほうが逆に環境を空間の中に限定してもいるわけです。そのことが「包まれつつ包む」、すなわち西田の「逆限定」と言われます。」と述べる。

 このことが納得できない福岡が質問を重ね、池田は、福岡が西田の理論を理解しているのにもかかわらず、この説明に納得しないことに戸惑いながら答えるというやりとりが繰り返され、ついに対談中にはそれが終わらず、その後メール交換をするという、対談記録としては珍しい展開となっていった。感心したのは、福岡が、自分が納得できなければ読者の多くも納得できないだろうと、半端な納得をしないように努めながら質問を繰り返していたことと共に、池田が福岡の姿勢を真摯に受けとめ、粘り強く、言葉を選びながら福岡に理解しやすく説明していたことだった。真理を求め、伝えるということはこういうことなのだと感動する思いだった。

 この結論は、福岡が、「包む・包まれる」という表現について、それぞれの主語は同じであることを理解せずに解釈していた間違いに気づいたということで解決した形になっていて、福岡は「生命は、合成を行うと同時に分解を行う。生命は、エントロピー増大のなかにありつつ、エントロピー減少につとめる。」という理論と同じで、「矛盾していることが同時に存立している状態、それが「逆限定」だということ」と、わかったということだった。

 この辺は西田哲学にも、福岡の生命理論にもなじんでいない私にとって理解困難だが、福岡が西田の理論のなかに自己の理論を見出すことができたのだろうと受け止めておいた。

 この後、対談は西田の『論理と生命』、『生命』という論文に取りかかり、池田は、ソクラテス、プラトン、カントたちは、「私たちの理性や論理で近づける範囲のみで姿かたちを理解したり構成したりという、いわゆる「主観性の原理」に基づいてい」るので、「真の実在に触れることはでき」ないと西洋哲学を批判し、その後も「ミンコフスキー(ならびにアインシュタインなど)は時間を「存在論的」に思考した」が、「西田や福岡さんは」、「実在論」的に思考した」と述べる。ここから、池田は生命をめぐって、「存在と実在との差異」、「一の多」、「他の一」、過去、現在、未来のとらえ方にふれ、福岡の「先回り」という概念が、西田の「未だ来たらざるものであるが現在において既に現れているもの」と理解でき、さらに「同時進行」と同じで、「福岡さんの「先回り」(動的均衡)と、(西田の)「絶対矛盾的自己同一」とが完全に重なる」と述べる。

 そして池田は、福岡が動的均衡の一回性について触れたことを取り上げ、「時空における「動的均衡」の「一回性」が永遠性を含む以上、日常生活において、よく「かけがえのない命」のように言われるわけですが、僕はこの状態の「かけがえのなさ」を、「大切な、無駄にできない尊さ」という倫理的な意味で表現したいと思っています。」、「一生を虚しく終わらせたくないのであれば、「現在」を過去・未来の同時性として生き抜く以外の生き方はあり得ないのです。その意味で二度と同じ状態をとらない「一回性」とは、「かけがえのないこと」と言えるのではないでしょうか。」と述べている。彼にとって哲学は単なる学問ではなく倫理であり、生き方そのものだったのだ。私もこの言葉を肝に銘じよう。そう、人間にとっては、過去に何をしたか、未来に何をするつもりかではなく、現在をどう生きるかということが全てだと。

 全般に難解な問題について考える対話の中で、生命をロゴス的にとらえる「機械論」の批判として、福岡が自ら患っている花粉症を例に揚げた話はとても分かりやすい。福岡は、治療薬として使われる抗ヒスタミン剤が「これまでと違う新しい平衡状態を作り出そうとする」ので、生命はさらなるヒスタミンを放出するというリベンジをするため、より激しい症状になるという。だから「動的均衡論」では「花粉症とは、騙し騙し付き合っていくしかない」と説くが、これでは製薬会社は儲からないので、「動的均衡論」は資本主義になじまないという。さらに「悲しいことに、資本主義社会では、どうしても生命というものを<モノ>の延長として考えざるを得ないという側面があることも否めません。」とも述べている。今度は、哲学が経済システムにまで影響していることが明らかになった。

 対談は、福岡の、「同時性」は、物事を因果関係で考えるこれまでの科学では扱えない、生物の行動の部分的達成は「自然選択」とはなりえないなどの、近代の常識となっている考え方の批判で終わり、後半は、福岡が西田哲学を取り入れた、「ピュシスの側から見た動的均衡」という理論編と、池田の「生命を「内から見ること」において統合される化学と哲学」というエピローグとなる。後者のなかで、池田の、デカルトが、「「われ思う故にわれ有り」のその「われ思う」とは、己の生命を外から「包む」ことはあっても、デカルト自身、よもやその生命に「包まれている」などとは思いもしなかったであろう。」、そして、西洋近代科学が、「客観性を「真理基準」としながら、結局のところ、どこまでも物を外から対象として見る限りにおいて認識主観における「主観性の原理」に過ぎなかったと言わざるを得ない。」という言は、これまでに述べてきた西洋哲学批判の分かりやすいまとめとなっていた。

 最後に池田は、今日のライフサイエンスは生命哲学と一つに統合されるであろうと述べ、「その先に、生命的な時間をもちえない今日の<AI>(外からのみ知る人工知能)を含めた、人類の未来の有り様がやがて徐(おもむろ)に示されてくるに違いない。われわれのこのたびの対談がその先駆けとならんことを、こころから祈らざるを得ないのである。」と熱を込めて結んでいる。なお、池田はこの著書発行の数年後に逝去している。このような倫理を哲学的に、哲学を倫理的に説く人がいたことを記憶に深く刻みこみたい。

書評 親米と反米 吉見俊哉・著

 

この本は2007年に発行され、その頃読んでいるが、この著者の『アメリカ・イン・ジャパン』を読んでから再読した。

 その著書と重なる部分はかなりあるが、この本は、2001年の「9.11」以降に高まった反米思潮の描写から始まっている。このため世界中ではアメリカの好感度が大きく下がったのに較べ、日本においてはあまり下がらなかったという。この特異な日本の親米意識は、戦勝国にも関わらず、日本の復興を暖かく支援してくれたからだけではないと、アメリカとの交流が始まった開国以来の歴史を述べながら探っている。

 強引な開国要求にも関わらず、「自由の国」アメリカというイメージはこのころから植えつけられ、内村鑑三のアメリカへの幻滅にもかかわらず、明治期をとおして、福澤諭吉などから広められていたという。

そして、大正期までには、浅草オペラなど、「より通俗的で感覚的な大衆文化にも影響を及ぼし始めてい」て、「今や「アメリカ的でない日本がどこにあるか」」とある評論家が述べていたほどであったそうだ。

 しかし、「第一次世界大戦後の日本におけるアメリカニズムは、すでに裏返しのナショナリズム、つまり西洋的なまなざしを内面化した「日本回帰」を内包していた。」という。

大正デモクラシーにもつながったアメリカニズムは、ウィルソン大統領の国際主義提唱を境に、吉野作造などの支持派と保守層の懐疑派に別れ、欧米の人種差別的な黄禍論などから反米意識も芽生えてきたとのこと。

この反米意識は日米関係が険悪化する1930年代に高まり、「鬼畜米英」を唱えるものの、「アメリカに対する日本人の関心の高さは、・・・姿を変えながら持続していたように見え」、「強く意識し、時にはアメリカを無意識に欲望し続けたようにすら見えるのである。」と述べる。

戦後の日本については、このような日本人の心理が、アメリカの巧妙な占領政策の狙い通りに操られてきた描写がなされていく。この辺は前著書と重なる部分が多いが、著者は、「戦後、天皇制を信奉するナショナリストが「反米」を主張しようとすると、論理的には「天皇」を信奉しつつも、「天皇」を非難するという自己矛盾に直面せざるを得なかった。」と、日本のナショナリズムの特殊性を指摘している。

戦後の「反米」は反安保闘争に表現されたが、ここには民族ナショナリズムが見られ、ベトナム反戦運動にはそこからの決別があったというが、「「アメリカと日本は、お互いに、戦争犯罪を隠すために協力」してきたのであり、・・・自己の加害性についての真摯な自覚がない」と鶴見俊輔の言説を引きながら、日本人がナショナリズムから自由になれない理由を述べている。

現在の日本人には、「内なる他者としての「アメリカ」の二つの次元が存在するという。一つは軍事基地として見える形で、もう一つは「見えざるまなざしとしての「アメリカ」」だと。後者は上記の「裏返しのナショナリズム」と同じことを指しているのだろう。それは天皇を焦点に位置づけた、日本独特の視覚を完成させ、「三種の神器」に象徴される「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」が日常生活に取り込まれながら形成され、「消費社会型のアメリカニズム=ナショナリズムが確立」したことにより、1970年代以降は、「「親米」と「反米」という対抗自体が、人びとの意識に浮上しなくなる。」という。

さらに、江藤淳の「この空気のように偏在するアメリカから逃れることはできない」という認識を引きながら、「この時点までに日本社会は、「アメリカ」を自己に取り込み、同時に「日本」自身を他者化」するという、いわばアイデンティティ喪失(錯誤)の状態に日本人が陥っていることを指摘し、「イラク戦争の失敗」後、衰退するアメリカを見据え、アジアにおいて進んでいる、「日米の「抱擁」が隠蔽してきた諸問題を受け止め、「「親米」と「反米」という二項対立を内破して問い直し、アジアとの、歴史との、そして多様な複数的な自己との、真に反省的な再会を果たしていく必要がある」という結びに大いに同感する。

書評 アメリカ・イン・ジャパン 著・吉見俊哉

 

アメリカが先住民族を排除しながらどのように建国してきたか、そのアメリカが「ペリー提督の大遠征」以来、日本人にとってアメリカがどのような存在であったか歴史資料としてとても参考になる書籍であり、日本人の無批判のアメリカの受容についても改めて気づかせてくれる。この著者の『親米と反米』と重なる部分はあるが、この著書では明治維新前後のアメリカの宣教師の活動や留学した日本人について詳しく述べられ、アメリカが日本に戦前から強い影響があったことをわからせてくれる著書だ

アメリカは、戦後の占領期から日本人から反米感情を抱かないように、検閲を含む巧みな心理操作をしてきたという。具体的には、「検閲の事実自体を検閲し、占領軍の姿を見えなくすることで、戦後日本には、あたかも自分たちだけで自足しているような表象空間が作り上げられ」、これは、マッカーサーが、昭和天皇が「従順なのを確認すると、自身は舞台裏に隠れ、「人間宣言」した天皇を舞台の前面に立たせる戦略を選」んで以降、マッカーサー元帥ではなく、昭和天皇が、あたかもいまだ日本の中心にいるかのような存在として部隊の前面に躍り出ていった」ことに表れていると述べている。

日本での原発普及の経過にも触れている。「アメリカの国家安全保障会議の作戦調整員会は、日本に実験用原子炉を建設して原子力の非軍事的利用に強力な攻勢をかけるべきことを勧告し」、その委員の一人は、「広島・長崎の原爆投下を経験した日本に原子力施設を建設することは、両都市での「惨劇の記憶から我々を解き放つ劇的でキリスト教的な身振り」となるだろうと主張し」たとのことで、さらに山崎正勝を引用し、国防長官補佐官が、(第五福竜丸)「事件後の日本での反米的な動きを牽制するため、日本に原子炉を建設する」ことが、「予想される共産主義勢力の行動に対抗し、「日本ですでに生じている被害を最小化する」方法だと国家安全保障会議に助言した」という。

このようなアメリカの狙いに乗せられ、建設された敦賀原発に設置された一号機は、2011年に大事故を起こした福島第一原発の一号機と同じGEで、美浜原発建設の責任企業は、やはりアメリカのウェスティングハウスであるように、このころすでに原発はアメリカの原子力産業の重要な輸出品となっていて、日本は真っ先にそれらを購入するお得意さんになり、原発が推進されたようだ。

1950年代以降も、「アメリカは日本本土の反米感情を和らげるために、米軍基地の多くを沖縄に移転し、本土の非軍事化と沖縄の要塞化を表裏一体に展開」した、とも述べていて、沖縄を犠牲にしてもほとんど気に留めないような日本人の心性までアメリカは見据えているようで、アメリカに対しても、本土の日本人に対しても怒りを覚えるとともに絶望的な気持ちにもなる。

このようにアメリカの心理操作でアメリカを客観視できない日本人の心性は、日本国内各所に自由の女神像が政治的、理念的な意味なしにファンタジーとして建設されていることに表れていて、さらに1983年にディズニーランドが建設されてから、ここに「19世紀以来という意味での「アメリカ」の完璧な再演」がなされているいい、著者はここで、ディズニーランドには「ペリー提督の大遠征」というもうひとつのアトラクションが加えられるべきで、「そこではまだ「文明化以前」の滑稽な様子が、現代のアメリカ人のまなざしに同化した日本人の前で演じられていくことになるでしょう。」という強烈な皮肉を述べている。著者も怒りを込めながらこの著書を表していることを痛切に感じる。

書評 人間モーセと一神教 フロイト(フロイド)著 土井正徳・吉田正己訳  日本教文社 改訂版フロイド選集8宗教論より

  私はフロイト(この本ではフロイドとしているが、ここでは一般的な日本語読み表記とする)自身の出自であるユダヤ人についてどう考えていたのかをかねてから知りたいと思っていた。最近、早尾貴紀の著書で、サイードの『フロイトと非-ヨーロッパ人』という著書に、フロイトの『モーセと一神教』(モーセはモーゼとも読まれている)という論考についての論評があることを知り、その両方を読もうと思った。先に前者を読むことになったが、ふと考えると、後者は50年ほど前に買いそろえていた、日本教文社の『フロイド選集』に入っているかもしれないと気が付いた。そしたら案の定、この第8巻に収録されていた。

読み始めて驚いたのは、昭和45年の初版(私が読んだのは翌年発行の第4版、改訂前の版は昭和29年頃の発行らしい)だが、旧漢字のオンパレードで、仮名遣いも、吃音の「つ」が小文字になっていなかったことなどだ。旧漢字はほとんど読めたので、それほど苦にならなかいことは幸いだったが、このころの出版物の状況を再認識した。

『モーセと一神教』(この選集では『人間モーセと一神教』)は、最後に書かれた「モーセとその民および一神教」の前書きに説明されているが、別々の時期に書かかれた3つの論文がそのまま整理されずに掲載されていて、読みにくい論考だった。

さて本題に入ろう。先に上記で述べたようにサイードの論評を読んでいたため、フロイトが述べたい趣旨はある程度想像できていた。サイードが引用していた、「ある民族が同胞のうちでもっとも偉大な人物として誇っている人間に妄評を加えて片づけてしまおうということは・・・」という有名な一節は冒頭に述べられていて、改めてフロイトがこの論考に臨んだ決意の重さを実感する。

フロイトのこの著書は「モーセはおそらく高貴なエジプト人であって、伝説によってユダヤ人にされているものにちがいない。」と結論されていて、サイードは、フロイトがこう断定することにより、ユダヤ人の独善的なアイデンティティに異議を挟んだことを評価しているが、この前後には、この説の根拠の説明が続いていて、サイードが、「そうした観察や引証は、ときには途轍もなくうんざりするような繰り返しさえ帯びておりました。」と述べているとおりで、あまり興味を惹く内容ではなかった。

そしてフロイトは専門の精神分析理論をユダヤ教に適用し、その父殺しの理論でユダヤ教の始祖としたモーセをユダヤ人が殺したことにより原罪を背負うことになったとしているなどの主張を随処で展開しているが、それにも少々うんざりした。

私が注目したのは、反ユダヤ主義の原因となったヨーロッパでの伝統的なユダヤ人ぎらいをユダヤ人側の姿勢にあるという指摘をしていることだ。最初に、ユダヤ人が集団として暮らすという風習を指摘している。これは、私もかねてからそう思っていたことであり、これを当のユダヤ人フロイトが語ったということで確信を持つことができた。そして、「集団の共同感情は、それを充足するために、外部の少数者に対して敵意をさしむけることが必要」だからユダヤ人迫害が始まったとしている。

それから注目した点は、ユダヤ教とキリスト教の関係を述べている部分だ。フロイトによれば、ユダヤ教は原父の宗教であり、潜伏していた原父が回帰したことが、ユダヤ教を進歩させただけにとどまらず、キリスト教を誕生させてしまったという。モーセ殺害という悲劇に関するような部分も回帰し、増大しつつあった罪意識がユダヤ民族を含む全文化世界を覆ってしまったとのこと。モーセの虐殺に関する悔恨によって、この民に救済と約束された世界支配をもたらす救世主が再来する願望的空想もあって、この中で生まれて処刑されたユダヤ民族のキリストがその後継者となったという。ローマ系ユダヤ人パウロは、このような背景を基にして、ユダヤ教から選民意識や割礼の風習を廃止したためにこの新宗教(キリスト教)が普遍性をもった世界宗教となりえたとも述べている。この辺の論旨を私なりに解釈すると、キリスト教はユダヤ教を改革して生まれた、いわば「新ユダヤ教」だと言っているように感じるのだが飛躍しすぎだろうか。

それは、「新たな教えを受けいれたのはユダヤ民族のごく一部だけであった。この教えを拒否した人たちは、今日でもなおユダヤ人と呼ばれている。彼らはこの分離によって、以前にも増してますますはっきりと他のものたちから区別されている。彼らは・・・新たな宗教共同体から、彼らこそ神を殺害したのだという非難を聞かねばならなかった。」という指摘にも表れていて、ユダヤ教が新・旧に分裂したと言っているように感じる。

そして逆にキリスト教信者となったヨーロッパ人は、神はまたもや救世主をユダヤ人の中から選んだとして、「つまり本当に彼らは正しかったのだ、彼らこそ神の選んだ民族である、と。」と、ユダヤ人の不遜を是認せざるを得ないような心理になり、「そのかわりに生じたことは、イエスキリストによる救済が単に彼らのユダヤ人ぎらいを強化したにすぎなかった」という。それは、今日でもまだ克服されていないとし、さらに、ユダヤ人の割礼の風習はいまわしい、無気味な印象を与えるものだとして、それまでのユダヤ人ぎらいが新たな局面を迎えたことを指摘する。ヨーロッパの反ユダヤ主義のもととなった、キリスト教徒の心理を分析したこの指摘は鋭く、さすがフロイトだと感心する。

それからフロイトは「ユダヤ人たちはとくに自己に対する強い信念を持ち、自分たちがすぐれて高貴であり、他民族にまさったものだと考えていることは疑う余地もない。(中略)彼らは実際に自分たちが神から選ばれた民であると自認し、神のそばに立っていると信じている。」と述べ、このような選民意識についての分析も行っている。  

曰く、ユダヤ教の神の像を作ることの禁止は、「抽象的と呼ばれる観念に対して感覚的知覚が無視されていることを意味する。すなわち感性に対する精神性の勝利、厳密に言うならば、心理学的に必然的な結果をともなった衝動放棄を意味するものである。」効果をもったとして、モーセ信仰の禁止によって「神は精神性の高度の段階にまで高められ、神=観念のその後の変更のために道が開かれたのであるが」、この禁止はもう一つの別の作用として、「精神性におけるこうした進歩はすべて、個人の自尊心を高め、個人に誇りをもたせて感性の束縛のなかにとどまっている他の人たちに対して優越を抱かせるようになるという結果を生ずる。」、「外的要求にもとづく行動放棄はただ不快であるにすぎないが、内的理由、つまり超自我への服従にもとづく衝動放棄は・・・自我にたいして快感利得というものを、いわば代償満足にひとしいものを得させることになる。自我を高められたと感じ衝動放棄を価値ある行為であるかのように誇るであろう。」とのことで、《思考の全能》という心理効果の説明を含めて、明快な分析であると思える一方で、このような記述はフロイト自身を含めたユダヤ人を賛美しているようにも感じさせる。このような一面は、イェルシャルミが、「「フロイト・・・といえども、かかるユダヤ人の性格上の特徴を継承し共有することは避けられない」と信じていたらしい」(サイード『フロイトと非-ヨーロッパ人』より)と述べていたことを裏付けているような気がする。

また、ユダヤ教から生まれた「イスラム教の発展が停頓するにいたったのは、ユダヤ人の場合の教祖の虐殺が引き起こした変化が欠けていたからだ。」として、「東洋の宗教(どの宗教を指しているか不明だがおそらくイスラム教を含んだ)は合理主義的に見えるが、祖先崇拝であり、停頓する」という指摘や、東洋の宗教を未開民族の宗教と同一視し、神経症と関連させる言説があり、サイードはこれに直接触れていないが、『フロイトと非-ヨーロッパ人』で語っている、フロイトのヨーロッパ人としての限界がここにも表れていると感じる。

そんな疑問点もある著書だったが、「ユダヤ性」についてユダヤ人自身がどのように捉えているのかを知るためには欠かせない、貴重な著書だと思う。

書評 極限の思想 ニーチェ 道徳批判の哲学 城戸 淳(著)

 

 私はニーチェの著書に何度も挑戦しているが読み通したことがない。箴言の連続で読者にわかりやすい解説がないためだ。だからといって、そのような著書を読まずに解説本を先に読むことにも抵抗があったため、魅力を感じながら遠い存在だった。しかしどうしても彼が考えていることを知りたいと思い、この解説本を購入した。 結論から言うと、購入して正解だった。ニーチェの言説を鋭く、しかもわかりやすく解説している。なんとなくイメージしていたニーチェの道徳批判の意義を明確にできたと感じている。 あわせて感心したのは、ありがちなニーチェ崇拝にならず、ニーチェの言説の問題点等を指摘していることだ。曰く、「ニーチェには、批判的観察によって原理を発見すると、その原理を絶対化して、その貫徹を要求しだすという、いわば過剰解釈のねじれた論理がある。力への意思も、もともとは虚栄心やルサンチマンを分析するための心理的概念装置だったものが、いつのまにか積極的に崇拝され、ディオニソス的宇宙像の形而上学装置になってしまった。」

 また、次のようなニーチェの道徳批判のポイント、「(道徳的価値観が世界を覆いつくしている)この二千年の出発点にあるのはキリスト教である。キリスト教こそは、「まさにユダヤ的な価値への誘惑にして迂回路」であり、「復讐の真に多いなる政治の秘めた黒魔術」であるとニーチェはいう。」、「いかなる返済の努力も決して届きえないような無限の債務など、はたしてありうるだろうか。この問いに「逆説的で恐るべき窮余の策によって答えたのが、「キリスト教の天才的悪戯」であった。原始キリスト教団、あるいは『アンチクリスト』によればその首謀者であるパウロは、イエスの十字架での刑死という不慮の出来事に意味を与えるべく、神が人間の罪を贖うために身代わりで死んだと再解釈したのである。」、などの指摘は明快だ。

 著者がニーチェを「戦慄すべき道徳性の分析家」として評価しながら客観的に批判できるのは、あとがきに卒論でニーチェに取り組んだのちにカントを研究したときに、「ニーチェのある側面は、カントの前で色褪せて見えるようになった。」ということにあるようだ。そして次第に彼は、「ニーチェの方法論の核心にはカント的な超越論哲学の伝統があるはずだ」という予感は確信になっていたという。このような研究経緯を率直に述べていることに好感を持った。

書評 「最小の結婚」 エリザベス・ブレイク(著)  久保田 裕之他(訳)

 

私は男性だが、母の卑屈な生き方を見ながら育ち、その原因が女性の社会的立場が弱いことであることを認識するようになり、その後も女性差別の問題を考えてきたため、この本のテーマはとても興味深かった。人間関係を男女という性別に左右されずに、また伝統的なモラルから自由にしたい彼女のリベラリズムには基本的に賛成する。

著者のエリザベス・ブレイクの現在の結婚制度に対する批判は、私の考えてきたこととほとんど一致していた。

彼女はアメリカ人で、主にアメリカの状況について述べているが、意外にも女性の社会的立場の弱さ等については日本と大差ない状況だと思った(それだから一致したのだが・・・また西欧はもう少し違っていると思うが)。

ただ、彼女は社会学者ではなく哲学者であるため、「結婚の際の愛の誓い」の問題等について滔々と分析し述べているのだが、これには閉口した。これにはアメリカもクリスチャンの伝統が強い国であるためで、日本人で無宗教の私にはこんなことは当たり前であり、このようにこの問題にこだわることに違和感が強かった。

私は現在の結婚制度は、性行為により子を産んだ男女にその養育責任を負わせる社会的機能を法律制度にした歴史から考えて、最近日本でも同性婚を認めることが先進的なような風潮になってきていることに疑問を持っていたが、このことへの批判がこの本にも述べられていて自信を持った。

「最小の結婚」は子供の養育責任を切り離すことが重要なポイントとしている。これについても私は同意見だが、彼女は社会に責任を持たせるべきといいながら、一夫一妻以外の関係者による養育などをその例にしている。そのような関係の養育者がいない場合もあるのだから、子供の全生活についてケアをする現在の児童養護施設を一般化の児童を対象にするようなことが必要だろう。このような具体的な言及がないことに哲学者の限界を感じた。

最後に「最小の結婚」の意味については疑問符がある。 

著者はケアを提供する関係を、埋葬の権利等の承認権と在留資格などの支援する権利等があるだけの結婚という制度にすることを提唱しているが、はたしてこれに意味があるのかは保留としたい。この意義を述べている論理はあまり説得力がない。彼女も結婚制度廃止論者ともっと論議する必要があると思う。

そして、この結婚は一夫多妻、一妻多夫、同性愛関係、ポリアモリー等すべての成人間の関係を含むということなので、網のような形の関係図が社会にもたらされ、その中に孤立した人間がポツポツと存在するというイメージになるのだろうか。そして、個々の人に直接関係を結んでいる人の同心円とその中の人同士の関係が一つの家族になるのだろうか。

書評 フロイトと非-ヨーロッパ人 エドワード・サイード著 長原 豊訳

 

 この本のことを早尾貴紀の『ユダヤとイスラエルのあいだ』で知り、読まなくてはと思った。そこではサイードはフロイトを評価しながら、疑問を一部に述べていたことが紹介されていたが、表題の本を読み始めると、いきなりフロイトを批判する言説の連続で、サイードはなぜこんなにフロイトを責めなくてはならないのかというのが第一印象だった。

 曰く。「ヨーロッパという制約を超えた他の文化へのフロイトの配慮には屈曲したものがあった」、「彼は、例えばインドや中国の文化に言及しておりますが、(中略)関連する主題を専門とするヨーロッパの研究者たちがおこなう比較考証にとって興味を惹く限りで、なされたにすぎません。」、「ひとたび文化という視点から見ると、フロイトが非-ヨーロッパ的な人びとや物語にたいする魅惑された程度は、古代ギリシャ、ローマまたイスラエルの人びとや物語にたいする彼の好奇心を超え出るものではなかったのです。」等等。

 しかしサイードは、「フロイトが、結果的にですが、非-ヨーロッパ的原始とヨーロッパ的文明を分断する障壁を乗り越え不能なものとして打ち立てるのではなく、明示的とは言えませんが、それを拒絶している」、フロイトが『一民族が同胞中の最大の存在として讃えている人物の出自がその民族にはない、とそのつながりを否認する』という「真理のためにそうした離れ業に打って出るのであり」、「またそれが『国民的利益と見做されていること』より重要なのだとも考えていた」、「「全民族の利害を、同じ考えを持つ信仰者たちの共同体や歴史の内部における固有の場から宗教の起源を外して考えてみるといった、もっと重要な事柄のもとに従属させる意欲の発露なのです。」等と述べていて、読み進むうちにサイードは、ユダヤ人でありながらそのアイデンティティを問い続けたフロイトを評価するからこそ、批判せざるを得なかったのだろうと思うようになった。そして、フロイトでさえ超えられなかった限界が、現代のパレスチナの状況を招いていることに無関係ではないことを、当事者として痛切に感じるからこそ、このように述べざるを得なかったのだろうとも思った。

 それにしてもユダヤ教が改めて根強いことを痛感するとともに、それを否定してもなお残るとイェルシャルミが言う「ユダヤ人的精神構造」、ドイッチャーの言う「非-ユダヤ人的ユダヤ人(スピノザ、マルクス、ハイネ、フロイト)」らが、「「ユダヤ人として、「ユダヤ人や非-ユダヤ人の伝統主義やナショナリズムから自由になったユダヤ人ほど、等しき者たちのインターナショナルな社会」を(説く資格のある者はほかにないと)主張したことがあったにせよ、彼らは「究極的な人間の連帯を確信していた」と述べ」ていることに表れている「ユダヤ人だけの特徴」という主張には絶望してしまいそうだ。しかし、サイードは、「こうしたことがユダヤ人だけの特徴だという必要はない」、「膨大な人口移動、避難民、亡命者、国籍離脱者と移民が氾濫するこの時代において、自分の共同体の内と外の両側に同時に生きる人びとの、ディアスポラの流浪とコスモポリタンな意識にもまた、そうしたことが探し出せるはずです。」と述べ、「アイデンティティについてのフロイトの未決感が非常に実り多い事例であるのと同様、彼がそのためにかくも骨を折った条件が、現実には、彼がうすうす感じ取っていた以上に、非-ヨーロッパ世界では一般的だからです。」と締めくくっている。

 思うに、ヨーロッパでは、ユダヤ教やキリスト教の伝統が根強いために、「神」や神的なものから自由になりにくいのだろう。振り返って、日本などの信仰心が薄い国が、サイードが言うような条件に当てはまるのかと考えると、決してそうは言えないのはなぜだろうか。


書評 パレスチナ/イスラエル論 早尾貴紀著

 

この著者の『ユダヤとイスラエルのあいだ』に続いて購読した。第Ⅰ部は前著で触れていた「ディアスポラ」について深堀している。この中で、早尾は、この言葉は「国民国家という一体性からの「逸脱」であることを指し示す。」として、ヘーゲル左派、アーレントらの民族論や国家論を批判的に解説している。

そして、早尾が評価している、イラン・パぺというユダヤ人で反シオニストの歴史家が、シオニストがパレスチナのアラブ人を殺害・追放する行為を「エスニック・クレンジング」だとして批判していることを紹介し、イスラエル建国後、3割程度しかいなかったユダヤ人の割合(現在は約8割)を極大化するために、ユダヤ教徒のアラブ人の中東から移民を導入したにもかかわらず、シオニストが彼らを「人種としてのユダヤ人」だという主張をしたことを批判している。

そう言いながら、イスラエルでは、ヨーロッパ系移民が「アシュケナジーム」として国内の主導権を握っている中で、中東から移民した人たちは「ミズラヒーム」と呼ばれて下層におかれ、イスラエル国内に人種格差があるとのことで、二枚舌的なシオニストの現状にも目を開かされる。

また、イスラエル建国後のパレスチナの惨状に触れ、「皮肉なことに、かつてはもっぱらユダヤ人の離散状況について語られてきた「ディアスポラ」は、現在、パレスチナ人の措かれている状況を概念化するのにひじょうに適している」と、ここでも「ディアスポラ」の概念がユダヤ人の専売特許ではないという皮肉を述べている。

さらに、建国前からアーレントらが唱えていた、「バイナショナリズム」のオスロ合意による変遷、サイードのバイナショナリズムとディアスポラにかかる引用しながら、「ディアスポラ的思考は、(ジャン・)ジュネとサイードを媒介としながら、「アイデンティティの根源的な他者性」にまで至りつく」としている。

第Ⅱ部では、ユダヤ人やアラブ人の映像作品等を紹介しながら、シオニズム等の批判、反シオニズムの評価が述べられている。

第Ⅲ部では、パレスチナの一般に知れていない、これまでの経過や現状が詳しく述べられている。一例をあげる。ユダヤ系アメリカ人、サラ・ロイの著書の引用によると、1995年に結ばれた暫定自治協定=「オスロⅡ」の内容は、ガザ地区やヨルダン川西岸地区はパレスチナ人の地域とされていても、行政権と自治権がともにパレスチナ側にあるA地区、行政権のみのB地区、どちらもイスラエルが握るC地区という区分分けがされていて、BC地区は合計83%を占めているとのことだ。現在のガザ地区への軍事侵攻を考えると、ほとんどの地域がイスラエルの管理下に置かれることになりそうだ。一昨年のハマス(早尾は「ハマース」としている)の越境攻撃以前から頻繁に起こされていたイスラエルのパレスチナ人への迫害・虐殺も詳しく述べられていて、パレスチナの人びとの切迫感、絶望感がひしひしと伝わってくる。

日本ではあまり報じられていないことだが、2006年のパレスチナ総選挙でハマスが政権を取っても、イスラエルと日本を含む欧米諸国はその内閣を承認せず、ファタハを支援したため、ハマスはファタハとの連立内閣を組んだのに、イスラエルはファタハに銃や弾丸を大量に供与して内戦を促して、ファタハにヨルダン川西岸地区を容易に制圧させたことから、パレスチナはヨルダン川西岸地区とガザ地区に分断され、そのガザ地区に対し、イスラエルは経済活動等を不当に制限する「反開発」政策を進めているそうだ。このようなイスラエルのガザ地区への締め付けがあったことも、上記の越境攻撃の原因として認識しなければならないことだろう。それにしても、自国のために、同じ民族を分断し対立させるという卑劣な行為をしたイスラエルという国は、恐ろしいほど非情な国だろう。

このような状況に対し、早尾は(ロイ以外の)「多くの研究者たちは分析能力に欠けるのか倫理に欠けるのか、あるいは政治的になることを避けているのか(沈黙によってイスラエルの占領を容認することも充分に政治的だと思うが)。ともあれ、ロイが、事後的にしたり顔で解説を加えたり、慌てふためくような研究者などとは一線を画して、リスクを冒しても然るべきタイミングで踏み込んだ発言をしていることが確認できる。」と述べていて、彼の苛立ちやロイを擁護したくなる気持ちがひしひしと伝わってくる。

早尾は、このような状況を述べながら、日本の思想状況についても批判していて、「イスラエルであれ日本であれ、それぞれユダヤ人中心主義と日本人中心主義を解体するには、徹底した歴史認識から出発するほかない。イラン・パぺから私たちが学ぶべき教訓はここにある。」と、この著書を結んでいる。

書評 ユダヤとイスラエルのあいだ 早尾貴紀著

 

この本を「再読」した。本箱の中で眠っていた本で、2008年の初版なのでその頃読んだ

らしい。アーレントの「世界喪失こそ、ユダヤ民族が離散において被ったものです。(中

略)あらゆる社会的な結びつきの外に立っているというこのこと、一切の先入観から離れて

いるというこのことはとても美しいものだったのです。」という言説等を書き抜いていた

が、かすかな記憶しかないので読み直し、この著作が現在でも時代遅れになっていないので

驚いた。何より評価できることは、アーレントの言説を極めて客観的に分析し批判的に捉え

ていることだ。アーレントはアイヒマン論争の際、「ユダヤ人への愛」など感じたことはな

い、私がユダヤ人であるからこそ「ユダヤ人への愛」は疑わしいものに見える等と宣言した

ことは有名で、出自に客観的だと一般には評価されているが、私はマルクスやフロイトに比

べればユダヤ人であることから自由だとは言えないと思っていた。この著者は、アーレント

が同化主義者もシオニストも反ユダヤ主義と闘うことをやらずにすませたと批判している

が、反ユダヤ主義を批判するなら、ヨーロッパなどでその活動はなされるべきだとして、パ

レスチナへの移民運動を支援した彼女はシオニストであると言わざるをえないと述べてい

る。

それから、最初に述べたアーレントの「世界喪失」や「離散」等の言説に似た、ボヤーリン

兄弟がユダヤ教文化の神髄は「ディアスポラ」にあり、国家なき離散状態で育んできた思想

文化にあるという言説、バーリンが、ユダヤ人が察知されないうちに、ものごとの傾向性を

見抜く等の能力、洞察力、未来までも分析する眼力を、自らが置かれてきた状況のために獲

得せざるをえなかったという歴史的特性を持っているという言説などが紹介されている。

れらの本来のユダヤ性はシオニズムとは異なるという言説だ。しかし、これらは、人間性は

属する国家がない状態で目覚めるという普遍性ではなく、ユダヤ人ならではの能力、という

かたちで語られており、ユダヤ人はやはり他の民族や人種とは異なる民族だという思想、選

民という意識から生じたものであろう。この「ディアスポラ」については、サイードが、ユ

ダヤ人の特徴としてのみ見る必要はない。」と語ったことや、「ディアスポラ」自体、近代

シオニズム思想においてギリシャ語から翻訳されたという説が紹介されているが、著者自身

がこのことをどう捉えているのかを述べて欲しかった。

このほか、フロイトがモーセはエジプト人だったという仮説でユダヤ性を分析しようとした

こと、ガンジーがパレスチナは地理的な領域ではなく、ユダヤ人の心の中にあると語ったこ

とや、サイードがユダヤ性は差異のイデオロギーだと批判したことの紹介、さらにハマスの

姿勢の説明などもあり、2008年当時の著書だが、最近のパレスチナ問題を考えるうえで

充分参考になる。

ユダヤ人が「選民」の呪縛から自由になれば反ユダヤ主義はなくなる ~パレスチナ問題の根本的解決のためになされなければならないこと

 ハマスのミサイル攻撃や人質拘束への報復として行われているイスラエルのガザ侵攻は常軌を逸している。ユダヤロビーに操られているアメリカやホロコーストへの罪責意識に囚われているドイツなどがイスラエル支持をやめられないのをいいことに、イスラエルは報復どころか、金輪際パレスチナからの攻撃がなされないようにするための仕上げを着々と進めている。

この非情さ、苛烈さに世界中から非難の声が上がっていることに対し、イスラエル等のユダヤ人から「反ユダヤ主義」という非難が返されている。こんなことをする国はナチのホロコーストを非難することはできないはずなのに、ホロコーストにつながった「反ユダヤ主義」を、いまだにタブーとして利用し反論する態度は陳腐になりつつあり、そのタブー意識はヨーロッパにおいても、若い世代ほど持ち合わせていないので、このままでは、かつてとは異なった形での「反ユダヤ主義」が起こることになりそうだ。

そもそもパレスチナの問題は、1948年のイスラエル建国に至るシオニズムから始まっている。ガンジーは「聖書の概念でのパレスチナは地理的な領域ではまったくありません。パレスチナはユダヤ人の心に中にあるのです。」とある書簡で語っているが、何千年も前に無くなった国の民が、現実にそこに住んでいる人々を排除して、その民族の国家を再興しようとし、それを支援する国家が存在したということは二十世紀の最大級の汚点だろう。

このような国は全世界から制裁されるべきではないのか。また上記のような支援国家も制裁されるべきではないのか。アメリカやドイツの支援をやめさせるために、両国との経済関係を完全に断つことは困難でも、一部の関係を断つことは検討されるべきではないのだろうか。しかし、そのような動きは全く見られない。

この状況を憂いたイスラエル内外のユダヤ人から、現在のイスラエルを産んだシオニズムは、ユダヤ教に反しているというような言説が述べられている。ユダヤ教は暴力を嫌っており、シオニズムは間違っているというわけだが、この論理だけでは、ユダヤ人すべてが政府の政策を支持しているわけではないという言い訳にしかならず、シオニズムが起こる前の、ヨーロッパの伝統的なユダヤ人迫害や差別などの反ユダヤ主義が起きた理由については問題外になってしまう。そこで、ここでは、これまでの「反ユダヤ主義」等を産んだ、ユダヤ人の「選民意識」について考えてみよう。

始めに断っておくが、ここではユダヤ人と言われるすべての人について述べているわけではない。私は人間を属性で判断することは間違いだと思っている。人間はそれぞれ個性を持って生きている。だから複数の人に属性をこじつけ、その属性で個々の人の判断をすることは間違いである。現に、後で述べるように、ユダヤ的でないユダヤ人が少なくないことを知っている。ここで「ユダヤ人」としているのは、自らユダヤ人という集団意識を持ちながら生きてきた(生きている)ユダヤ人のことであり、いわば、人間ではなく「ユダヤ人」という概念について述べているわけだ。

さて、そもそも何千年前に流浪の民となっても連帯感を持ち続け、行き着いた地域の人々になじまず、ユダヤ教信者でなくても「ユダヤ人」としてのアイデンティティを保とうとすれば、その地域の人々からうさん臭く感じられそうだということを理解せず、その相手を悪者にし、自分たちは善良な被害者、受難者という立場になり、マゾヒスティックに選民意識を抱いているから反ユダヤ主義が生まれるのではないだろうか。こんなことを述べると、私が「反ユダヤ主義者」、差別者などと非難されそうだが、このことはタブーにされているだけで、そのような状況では、そのように感じる人がほとんどではないだろうか。

私はそれが当然だとは言わない。自分たちとは異なる慣習を守る人やその集団を、単になじめないからと、うさん臭い目で見ることは愚かなことだ。しかし、だからといってその相手を単に悪者とすることも愚かなのではないだろうか。不当な行為を受けたと感じた時、なぜそのような行為をするのかを相手に尋ねれば、自らの行為の相手にとっての受け止め方を理解することができるだろうし、自分の行為の説明をすればわかり合うことも可能なはずだ。そのような基本的なコミュニケーションを阻むのが選民意識ではないのだろうか。人間は弱く、人見知りになりがちで、上記のような現象が起こりがちであるということをお互いに認め合えばいいのに、「選民意識」が強いと、自分たちこそ正当だと思い込むから差別や紛争になったりする。

シオニズムを批判している著名なユダヤ人たちの中に、「ディアスポラこそユダヤ人の特性」という類の言説を述べる人たちがいる。このようなユダヤ人も、ユダヤ人がディアスポラを経験して普遍的な思想を生み出す能力を身に着けられたことを、「ユダヤ人ならでは」、とその経過を特権化している。それも選民意識であり選民的意識から脱していない。

ディアスポラがもたらしたものについては、パレスチナ人思想家のエドワード・サイードが、「ユダヤ人だけの特徴だと言う必要はない」、「膨大な人口、避難民、亡命者、国籍離脱者と移民が氾濫するこの時代において、自分の共同体の内と外の両側に同時に生きる人びとの、ディアスポラな放浪と未決のコスモポリタンな意識にもまた、そうしたことが探し出せるはず」と述べているように、ユダヤ人のディアスポラも歴史の中で生じた現象に過ぎない。

そもそも、人類に「選ばれた民」など存在しない。「選民」という観念は、厳めしそうだが、その起こりは極めて幼稚な妄想なのではないだろうか。「選民」とは、「実存」の感覚を自分の殻に閉じ込め、自分は特別な存在(人間)であるかのように思う自己幻想が、伝統、慣習、宗教等が同じ民族に広がった原始的な共同幻想なのではないだろうか。

優性思想や選民的意識はアングロサクソン系アメリカ人、中華思想の漢民族、ナチスドイツのアーリア系民族など各地にみられ、日本にも太平洋戦争以前には神国思想などが興隆した。しかしユダヤ人以外の民族は、その民族に勢いがあるときに限られている。そして、ユダヤ人以外の民族は、出身国から離れると自己の民族性を徐々に失っていくが、アメリカにおけるユダヤ(イスラエル)・ロビーの活動は活発で、ガザ侵攻問題の解決を困難にしているばかりか、アメリカが軍事支援をやめないように圧力をかけ、ヨーロッパにおいても様々な自民族援助が行われているように、ユダヤ人の選民意識による結束力は特別だ。ユダヤ人がこのような意識から脱することは不可能に見えてしまう。

しかし、ユダヤ人のなかには、選民意識やユダヤ性を感じさせないマルクス、フロイトなど、いまだに世界中に強い影響力を持っている人物がいることは有名で、先に述べたような普遍的な思想を生み出す能力を身に着けられた例とされている。フロイトは自らのユダヤ性を認めているが、それに縛られた言説は自制されていると言えるだろう。

私は、私自身も影響を受けた、このような人物がユダヤ人から輩出されたことを、かねてから不思議に思っていた。ユダヤ人が特別、優秀な民族だからだという答えは「ユダヤ人選民論」に逆戻りになる。それを排除して考えると、このような結論になる。

ユダヤ人の選民意識は特別根強いから、これを客観化し、脱するという困難を克服するためには、人間という存在の意味を特別深く考え理解しなければならなかった。そのために彼らは、民族等の属性などを始めとするあらゆる既成概念を相対化しなければならなかった。それを実践した彼らは民族等を超えた思想や理論を獲得することができ、その思想や理論は広く普及し、現代に至っている。

このように言うと、「そのような特別な人しかユダヤ性を克服できないのではないか」と思われがちだが、そんなことはない。彼らはそういうことができるという範を示してくれたのだから、それに倣えばいいのだ。先駆者としてそれを実践することは大変なことだが、後の人はそれをはじめから経験する必要はなく、いわば模倣すればいいのだから誰にでもできる。要するに「選民」という意識は思い込みに過ぎないということが理解されればいいのだ。

ヨーロッパにおいて、ユダヤ人以外の社会に同化したユダヤ人は多いようだ。ユダヤ人性に客観的と言われていても、そこから逃れられていないアーレントは、同化主義者をシオニストと同様に、「反ユダヤ主義の教義に逃れた」と批判したようだが、必ずしもそのような消極的動機ではなく、ユダヤ人という出自にこだわらず、素直な気持ちで同化した人は少なくないのではないだろうか。むしろそのような同化こそ進むべきだったのではないだろうか。

民族、人種、国籍、性別等の違いなど、生まれながらの属性は、たまたま備わってしまったのであり、それに意味はない。属性を恥じたり、誇ったりするのは愚かな心理でしかない。この理解が広がり、みな等しく「人間」であり、そのことに比べたら属性は些細な事だということが認められなければならない。

「自民族性から自由に」、ということは人類共通の課題だが、「選民」という観念に縛りつかれているために現在最も苦しんでいるユダヤ人が、まず取り組む必要があるのではないだろうか。ユダヤ人が自身のために「選民」の呪縛から自由になれば「反ユダヤ主義」はなくなるだろう。ユダヤ人が真っ先に選民意識や民族性から脱し、他の民族にそれが広がれば、人類は国家という共同幻想からも脱し、世界の分断がなくなる未来が開けるだろう。